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zoom RSS 箕輪初心★源頼朝21【義弟:北条義時】:武家政権確立&伊豆『北条寺』

<<   作成日時 : 2015/02/05 05:58   >>

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2代執権:北条義時(1163〜1224)は初代執権:北条時政の息
子で、源頼朝の正妻:北条政子の弟である。北条義時は北条時
政の次男として生まれた。江間小四郎=北条義時は幼年時代に
源頼朝&伊東祐親娘:八重姫との間に千鶴丸ができちゃったの
で、伊東祐親は無理矢理八重姫の婿とされた。八重姫は自殺した。
しかし、北条義時の15〜6歳の頃に姉の北条政子が伊豆の流人
であった源頼朝の妻となった。治承4年(1180)8月17日、北条
義時は父:北条時政、兄:北条宗時と共に源頼朝の挙兵に従った。
しかし、8月24日石橋山の戦いで大庭景親に敗北して、兄:北
条宗時が戦死した。源頼朝は土肥実平の案内で箱根山から箱根神
社、そして、真鶴半島へ逃れた。8月28日、源頼朝は現神奈川
県真鶴町岩から出航して安房国に脱出した。父:北条時政&北条義
時も三浦一族の手引きで前日に安房に脱出し、源頼朝と合流した。
★17歳の北条義時は父の思惑などは分からなかったであろう。
最終的には、北条義時は父を追いやって鎌倉幕府の第2代執権とな
った。北条氏の嫡流得宗家:北条義時は和田義盛を滅ぼして執権
の権力を拡大した。やがて3代将軍:源実朝が暗殺された。・承久
3年(1221) 承久の乱では、後鳥羽上皇を敵に回した。天皇家は神
様のような存在であった。しかし、後鳥羽上皇に勝ち、武家政権が
確立した。
画像

 



【1】江間館=北条義時館
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 (★江間の地遠望)
北条義時館・・・南江間グラウンドの地震動の擦痕の場所





【2】鎌倉の法華堂:北条義時の墓所
  神奈川県鎌倉市頼朝:法華堂・・東の山
 鎌倉市内から高速のICに向かって行くと、鎌倉霊園がある。
  その先の峠の中央上部に櫓が見える。
  北条義時の遺言どおり「源頼朝公の墓の東にある山」にひっそり
  と葬られた。・・そうである
(★『吾妻鏡』)
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  (★初詣で入れなかった鎌倉市内)



【3】伊豆の国市の北条寺・・・菩提寺:北条義時の墓所
  静岡県伊豆の国市南江間・・・北条寺
○看板
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「巨徳山北条寺
   宗旨 臨済宗建長寺派
   伊豆の国八十八ヶ所霊場十三番札所

     道三十三ヶ所霊場八番札所

  観世音菩薩像 県指定文化財
  北条寺本尊にして千二百年以前に日本に渡られ江間村に安座
  され寺号を観音院と名付けられた。北条時政は深く尊崇し、寺
  号を万徳山北条寺と改め以来代々寺を建立し、寺領も寄進された
  
  阿弥陀如来像 国指定重要美術品、県指定文化財
  鎌倉時代の仏師、運慶の作と伝えられている。江間小四郎北条義
  時の嫡子安千代が領内の大池で大蛇に襲われて命を失った時、義
  時は北条寺を墓所としその供養のため七堂伽藍を建立し、仏殿本尊
  を運慶に作らせた。日本無類の尊像で、これ以後運慶の作物はない
  ため、伊豆の無阿弥陀仏と呼ばれている。

  牡丹鳥文繍帳(ぼたんちょうぶんしゅうちょう)(つづれ錦) 
   県指定文化財
   源頼朝夫人政子の寄進したものと伝えられている。三帳一組の大
   作で色鮮やかな牡丹の花、果樹、草木の中に鹿、孔雀などの鳥獣が
   美しく刺繍された戸帳である。

  観音堂 北条寺の草創をしのばせる古い建築様式であるが、
   建築年不詳

  北条義時夫妻の墓 
   墓所に解説がある
  
  六地蔵石仏 
   屋根は古い石瓦でふかれている

  北条寺文書 
   足利将軍家、後北条氏等の寺領寄進状や朱印状など多くの古
   文書がある                            」

 ○本堂
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 ○本堂の左手奥・・・小高い丘
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画像


 ○北条義時の墓地
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   2代目執権北条義時夫妻の墓
 北条義時&奥様の墓と並んでいる。


○立て札「北条義時夫妻の墓」
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 「北条義時は時政の次子で、源頼朝夫人政子はその姉である。
  幼少より江間の 館に育ち、江間小四郎と称した。頼朝の旗挙げ
  以来父時政、兄宗時とともに従い大功があった。
  鎌倉三代将軍実朝の不慮の死により、源氏の正統が絶えると京都
  より頼朝の姉の曾孫に当たる藤原頼経を迎えて自らは執権となり
  勢威を極めた。後鳥羽上皇はその専横を憤り、承久3年(1221)
院宣を下して義時を討とうとされた。義時はその子泰時、弟時房
に大軍を率いて京都に攻め上がらせ、官軍を大いに破り、帝を廃
し、後鳥羽、順徳、土御門の三上皇を配流した。
これが世にいう承久の変である。
義時は承久の変後3年、元仁元年6月13日急死した。時に62才
であった。
長子泰時らは北条発祥の地にあるこの寺に墓を建て追善の碑とした。
なおこの墓は向かって右が義時、左が從妻佐伯氏娘の墓である。」

★「承久の変で、上皇を3人も島流しにした北条義時の墓か?」
と、静かに眠っている武将夫妻の墓に合掌し、いつも通り写真を
 撮った。

「佐伯氏の娘って誰だ?・・まあ、いいか?」




◆◆ 北条義時の生涯 ◆◆
・長寛元年(1163)〜元仁元年(1224)6月13日(7月1日)
●北条時政の子ども
妻@:伊東入道の娘
男子:北条宗時(?〜1180)
女子:阿波局(?〜1227)・・・阿野全成の妻
男子:北条義時(1163〜1224)
   ※「系図には「伊東入道の娘」とある。



妻A:足立遠元の娘
女子:稲毛重成の妻(子は綾小路師季妻)
男子:北条時房(1175〜1240)

妻B:大岡庄:牧宗親の娘:牧の方
女子:平賀朝雅の妻→源国通の妻
女子:滋野井実宣の妻(?〜1216)
女子:宇都宮頼綱の妻
男子:北条政範(1189〜1204)

妻C・生母不明
女子:政子(1157〜1225)・・源頼朝の妻
女子:時子(?〜1196)・・・・足利義兼の妻
女子:畠山重忠の妻(子:畠山重保)→足利義純の妻
女子:坊門忠清の妻
女子:河野通信の妻
女子:大岡時親の妻



・長寛元年(1163)
  北条時政の次男として生まれた。
  江間小四郎と称した。
  系図には「伊東入道の娘」とある。

・【1】源頼朝の伊豆伊東時代 13歳頃
源頼朝は伊東祐親に預けられ、伊東祐親の管理下に置かれた。
監視役と言っても、源頼朝を客人として扱っていた。源頼朝のい
た場所を小御所と呼んでいたそうである。源氏が伊東家の主人に
当たるからである。
★おそらくは、流人とはいえ、母の弟:伊東祐範や源頼朝の乳母:
比企尼&夫:比企遠宗や娘夫婦から援助を受け、狩りを楽しむな
ど比較的安定した自由な生活をしていたと思われる。身の回りの
世話・食料調達をしてもらったのであろう。ある程度自由であっ
たが、謹慎の身の上、源氏一族の冥福を祈った。走湯権現(伊豆
山神社)や箱根権現にも参詣した。深く帰依して読経をおこたら
なかった。また、祈祷師を招いて法事も行った。地方武士として
敬虔な日々を送っていた。この敬虔な態度が平氏方の伊東氏や
北条氏の信用を得ていった。



比企尼の3人娘達
@長女:安達盛長の妻・・函南の桑原・大竹地区・本領武蔵
比企尼の婿である安達盛長が側近として仕えた。
A次女:河越重頼の妻・・武蔵
B3女:伊東祐親の次男:祐清の妻
C比企尼の養子・・・比企能員
D伊東祐親の長男:祐泰は妻は狩野茂光の娘
E比企朝宗の娘:北条義時の妻

〇源氏方に従ったため所領を失って放浪中の近江源氏佐々木定綱
四兄弟が従者として奉仕した。
〇京にいる乳母の甥:三善康信から定期的に京都の情報を得ていた。

・仁安2年(1167) @相撲大会
 源頼朝は伊東祐親の監視下に在った。
 土肥実平、天野遠景、大庭景義などが集まって
 狩や相撲が催されてた。
(★曽我物語)

・仁安2年(1167)A源頼朝の初恋&八重姫・・・
※『曽我物語』には次のような記載がある。
「仁安2年(1167)頃、21歳の頼朝は伊東祐親の下に在っ
た。ここでは後に家人となる土肥実平、天野遠景、大庭景義
などが集まり狩や相撲が催されている。祐親が在京の間に
頼朝がその三女:八重姫と通じて子:千鶴丸を成すと、祐親
は激怒し平氏への聞こえを恐れて千鶴丸を伊東の轟ヶ淵に投
げ捨て、八重姫を江間小四郎(北条義時)に嫁がせる一方で
頼朝を討たんと企てた。祐親の次男:伊東祐清からそれを聞
いた頼朝は走湯権現に逃れて一命を取り留めた。頼朝29歳
頃の事件であった。」 

ところが、成長していく間に恋をした。
伊東祐親が大番役・・交代で京で朝廷や貴族の警備をする役
の遠征に出ている間に、
・・・伊東祐親の娘:八重姫(伊東祐清の兄妹)
との間に男子をもうけてしまった。
※二人が愛を語らった場所
 伊東市の「ひぐらしの森」「音無の森」である。

伊東祐親が2年の任期を終え、帰国した。
伊東祐親はビックリした。
「平家から源頼朝の監視を頼まれたのに
 源頼朝のためにあらぬ疑いをかけられては困る。」
 と考えた。

そして、八重姫を江間小四郎=北条泰時に嫁がせた。
その後、八重姫は狩野川に入水自殺をしてしまった(伝)。

源頼朝は伊豆山神社に逃げ込んだ。
@伊東祐親の次男:祐清から、
父:祐親の源頼朝の殺害計画&伊豆山神社への逃亡&
北条時政に頼ることのアドバイスを聞いた説

A狩野茂光や加藤景員に相談したら、狩野茂光から伊東
 祐親に
「北条時政の所で預かってもらおう。」
と言った説・・・
源頼朝&娘:八重姫の子:千鶴丸を松川の上流に沈めた。

B完全に千鶴丸は死んだことにし、生き延びさせようと
した説。・・・伊東祐親が知恵を働かせたのでは?
島津家の系譜は鎌倉幕府に提出された正式なものだった。


「川に子供を流す」というのは、生き残る可能性がある
ばかりでなく、証拠としては何も残らない方法である。
親としては、「千鶴丸が死んだ」という噂だけ流れれば
十分だった。
と、某Hpにあった。
※『曽我物語』
「仁安2年(1167)頃、21歳の頼朝は伊東祐親の下に在っ
た。ここでは後に家人となる土肥実平、天野遠景、大庭景義
などが集まり狩や相撲が催されている。祐親が在京の間に
頼朝がその三女:八重姫と通じて子:千鶴丸を成すと、祐親
は激怒し平氏への聞こえを恐れて千鶴丸を伊東の轟ヶ淵に投
げ捨て、八重姫を江間小四郎(北条義時)に嫁がせる一方で
頼朝を討たんと企てた。祐親の次男:伊東祐清からそれを聞
いた頼朝は走湯権現に逃れて一命を取り留めた。頼朝29歳
頃の事件であった。」
 
・でも、八重姫は自殺してしまった。



・治承元年(1177) 姉:北条政子が伊豆の流人であった源頼朝
 の妻となった。

・治承2年(1178) 姉:北条政子&源頼朝の子:大姫ができた。


治承4年(1180)
●中世始まり説@
8月17日 北条義時が15〜6歳の頃
 北条義時は父:北条時政、兄:北条宗時と共に頼朝の挙兵に
 従った。

8月23日 石橋山の戦い
  大庭景親に敗北した
  兄:北条宗時が戦死した。

  源頼朝、土肥実平らは箱根山から真鶴半島へ逃れた。

8月28日 真鶴岬(神奈川県真鶴町岩)から出航した
   安房国に脱出した。
 父:北条時政&北条義時も三浦で前日に安房に脱出した。
三浦義明の舟に乗って、再会した。

8月29日 源頼朝と合流した。

9月8日 北条時政は甲斐源氏を味方に引き入れる密命を受けて
 北条義時と共に甲斐に赴いた。

9月15日 武田信義・一条忠頼のいる逸見山に到着した。
 「頼朝の仰せの趣」を伝えた。

10月13日 甲斐源氏:武田信義・一条忠頼・安田義定
 は北条時政・義時と共に駿河に進攻した。
 甲斐源氏との連携を成し遂げた北条時政は頼朝から報償を与
 えられた。


12月12日 源頼朝は新造の鎌倉大倉亭に移徙の儀を行った
  北条時政や北条義時の御家人と共に参列した。


・養和元年(1181)
北条義時は頼朝の寝所を警護する11名の内に選ばれた。
  (★『吾妻鏡』養和元年4月7日条)

 ※源頼朝の親衛隊は「家子」と呼ばれて門葉=源氏血縁者と
 一般御家人の中間に位置づけられた。
 北条義時は「家子の専一」とされた。
 (★『吾妻鏡』宝治2年閏12月28日条)


・寿永元年(1182)11月
源頼朝は愛妾:亀の前を伏見広綱の宅に置いて寵愛していた。
 北条時政の後妻である継母:牧の方から知らされた北条政子
 は激怒し、牧の方の父・牧宗親に命じて伏見広綱宅を攻撃
 した。
 源頼朝は牧宗親を呼び出して叱責し、牧宗親の髻(まげ)を
 切って辱めた。

 北条時政は舅の宗親への仕打ちに怒り、北条一族を率いて伊豆
 へ立ち退いた。
 しかし、北条義時は父に従わず鎌倉に残った。


・元暦元年(1184) 21歳
北条義時は長男:北条泰時をもうけた。
  庶子であったが、後に3代執権になった。


・元暦2年(1185)葦屋浦の戦い
源範頼率の平氏追討軍に属して武功を立てた。


・元暦3年(1186) 壇ノ浦の戦い
●文治の勅許での中世説A
 源義経・源行家が源頼朝政権の内規に違反したことを契機に、源頼朝
 は両者追討の院宣を後白河法皇から獲得するとともに、両者の追捕を
 名目に、守護・地頭の任免権を承認させた。
 源頼朝は、全国の軍事権・警察権を掌握したため、
 鎌倉幕府成立とする説が有力とされている。
 守護&地頭に、兵糧米の徴収権、在庁官人の支配権などが与えられた。
 源頼朝政権が全国的に在地支配を拡大する契機となった。
 

・文治5年(1189) 7月 奥州合戦に従軍。


・建久元年(1190) 11月 源頼朝上洛に随行。
  

・建久3年(1192) 「1192作ろう鎌倉幕府」
 ●かつての中世説Bの始まりである


9月25日 北条義時の結婚
  源頼朝の仲介で比企朝宗:娘「姫の前」を正室に迎えた。
 


・建久4年(1193)  北条義時は嫡男:北条朝時を儲けた。


・正治元年(1199)1月 源頼朝の死。

 2代将軍:源頼家の独裁を押さえるための13人の合議制に
  加わった。北条義時は37歳であった。
 長は安達盛長であった。


・正治元年(1199) 10月25日〜正治2年(1120) 1月20日
- 初代将軍:源頼朝の死後、梶原景時が御家人66名による連判状に
 よって幕府から追放された。
 源頼朝の腹心:梶原景時が失脚した。
 北条義時の母の姉妹:阿波局が関わっていた。

・建仁3年(1203)  
8月 源頼家が重病に陥った。
    

9月2日 比企能員の変
  比企能員は招きに応じて、北条時政の館に入った。玄関を通って
  北の客間に向う所を襖の陰に隠れていた加藤景廉と仁田忠常が左右
  の腕を捉え横の竹薮に引き据えて刺し殺した。
  北条時政は縁先に出てこれを眺めた。
  【★吾妻鏡】 
北条時政の命令で北条時政は天野遠景と仁田忠常と謀り、
  源頼家の外戚:比企能員を討ち取ったのだ。
北条時政は源頼家の乳母父:比企尼の養子舅:比企能員を
  謀殺したのだ。
 
9月?日
  源頼家が病気から回復した。
源頼家は、妻子と共に外戚:比企能員が北条時政によって殺された
  されたことを知った。源頼家は激怒した。
 
  
  源頼家は北条時政の追討の命令(御教書)を発した。
  御教書は仁田忠常の元にも届いた。
  源頼家からの信任も厚かったことが逆に災いした。
  仁田忠常は源頼家の命令に従うべきか、北条時政に
  就くべきか悩んだ。・・
仁田忠常は源頼家から北条討伐を命ぜられ、板挟みとなった。

9月6日   
  北条時政は比企能員追討の恩賞を与えるため、仁田忠常を名越邸
 に呼んだ。
 仁田忠常が夕刻に入ったまま夜になっても出て来なかった。
 仁田の舎人が不審に思い馬を引いて屋敷に戻り、弟の五郎と六郎に
 報告した。
 比企能員を殺した恩賞のために、北条時政の名越邸に入った仁田忠常
 の退出が遅いため怪しんだ郎党が屋敷に戻ってそれを報告した。
(★吾妻鏡)

 弟:仁田五郎と仁田六郎の2人は比企能員追討の前に将軍:頼家が
 北条時政追討を命じたのが漏れ疑われて罪に問われたと勘違いし
 たのだ。
 弟:仁田五郎忠正と仁田六郎忠時の2人は北条義時邸に駆け付け戦
 って討ち取られた。
 仁田忠常は北条時政の名越邸を出て、帰宅の途中で事件を知った。
 「こうなっては命を捨てるしかない。」
 と御所に参上し加藤景廉に討ち取られた。

★仁田は意外にも短い一生だった。
比企能員謀殺の4日後、些細な行き違いから加藤景廉に殺された
  のだ。もしかしたら北条時政の謀略か?


 比企の乱直後の混乱の中で
  堀親家も加藤景廉と工藤行光に討たれた。


 源頼家の将軍位を廃して伊豆国修善寺へ追放した。
 北条時政は源頼家の弟:実朝(娘:阿波局が乳母)
 ・・・12歳の実朝を3代将軍に擁立した。

 10月9日 北条時政&大江広元は政所別当に就任して
  実権を握った。


・元久元年(1204) 3月 北条義時は相模守に任じられた。
北条本家の後継者:政範が急死した。
 北条時政&牧の方・・娘婿:平賀朝雅を将軍に
 VS
北条義時&北条政子・・・

  閏7月19日 鎌倉幕府第2代執権就任した。





・元久2年(1205) 五男:北条政村をもうけた。
 
●畠山重忠の乱
 北条時政が後妻の牧の方の讒言により畠山重忠を謀殺した。
 結果・・・御家人達の反感を買った。
 
 閏7月 北条義時は姉:北条政子と協力して有力御家人:三浦
  義村(母方の従兄弟)の協力を得て、
 父:北条時政を伊豆国に追放した。
 平賀朝雅を誅殺した。

 
 北条義時は、父に代わって政所別当の地位に就いた。
 
 武蔵国は有力者の畠山重忠・平賀朝雅の排除によって、
 北条義時の弟:北条時房が同国の守護・国司とした。

 御家人首座にあった平賀氏(大内惟義)がいなくなり、
 北条義時が儀式の第一位を占めるようになった。
 北条義時は常に姉:北条政子と義理の子:源実朝を表面に立てた。
 北条義時は政所別当:大江広元、近臣:安達景盛らと連携しながら、
 鎌倉の幕府の最高責任者として実権を握った。



・承元3年(1209) 北条義時の執権
  次第に独裁的政治=執権政治の基礎を築いていった。


・建保元年(1213) 2月 和田義盛の乱
  和田合戦において和田義盛を滅ぼした。
  2月27日 北条義時は正五位下に昇叙し、相模守如元となった。

  北条義時は和田義盛に代わって侍所別当となった。
  政所別当と合わせて鎌倉幕府の最も枢要な職を独占した。
 


・建保4年(1216) 1月 北条義時は従四位下に叙した。

・建保5年(1217)
5月 北条義時は右京大夫となった。
12月 北条義時は陸奥守を兼ねた。

・承久元年(1219) 正月27日 将軍:源実朝の暗殺
  鶴岡八幡宮での右大臣拝賀の際に、将軍:源実朝が公暁によって
  暗殺された。
  源氏の正統が断絶した。
  北条義時はその日の拝賀式で、源実朝の脇で太刀持ち
  をする予定だった。
  
  源実朝死後の半年にわたる将軍後継者問題・・・
  後鳥羽院政 VS 鎌倉幕府


・承久2年(1220) 2月
北条義時は義兄:伊賀光季を京都守護として派遣した。
  娘婿:大江親広も京都守護として上洛させた。

・承久3年(1221)  承久の変
5月14日 後鳥羽上皇は伊賀光季を殺害し、倒幕の兵を挙げた。

5月15日 北条義時への追討の宣旨が全国に発布された。
      北条義時は生涯最大の難局に直面した。

 
 尼将軍政子が名演説で団結させた。
 大江広元が
 「防御では東国御家人の動揺を招く。」
 という助言により、京への出撃が決定した。
 北条義時は嫡男:北条泰時を総大将として東海道から京都へ向けて
 軍勢を送った。
 北条義時は次男:北条朝時&弟:北条時房を大将軍として北陸&
 東山の三道から京へ上らせた。
 
 東国武士たちが続々と動員令に応じて、総勢19万の大軍となって都へ
 攻め上った。


5月21日 鎌倉幕府軍は木曽川、宇治川の京都防衛線を突破した。

6月15日 京を鎌倉幕府軍は都を制圧した。
  後鳥羽上皇は隠岐島に配流された。
  順徳上皇は佐渡島に配流された。
  土御門上皇は自ら望んで土佐国へ配流された。
  後鳥羽上皇の皇子:雅成親王は但馬国へ配流された。
  後鳥羽上皇の皇子:頼仁親王は備前国へ配流された。

 後堀河天皇が立てられ、親幕府派の公家:西園寺公経らを中心と
 して朝廷の再編成が行われた。
 後鳥羽上皇の莫大な荘園は没収され、最終的支配権は幕府が握っ 
 ていた。

 公家政権の監視にあたる出先機関:六波羅探題が京都に設置された。
 後鳥羽上皇の貴族・武士たちの所領30,000ヵ所はすべて鎌倉幕府に
 没収された。新しく東国武士の恩賞として地頭に任命された。

 執権:北条義時は最高権力者たる地位が確定した。
 北条義時の武家政権が確立した。

 
・元仁元年(1224)6月13日(7月1日)
  北条義時死亡。享年62


【0】北条義時

正室:比企朝宗の娘:姫の前
継室:伊賀の方
側室:阿波局
側室:伊佐朝政の娘
側室:??


長男:泰時・・・母は阿波局
次男:朝時
3男:重時・・・母は姫の前
4男:有時
5男:政村
6男:実泰
7男:時尚
8男:竹殿
娘・・・・一条実雅室




◆参考資料
 伊豆武将物語:小野眞一著
 北条寺 


◆参考サイト
 ウィキペディア等


〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
【1】源氏系図
箕輪初心★久保田順一先生20141129『河内源氏&上野国
:八幡荘』前編
http://53922401.at.webry.info/201412/article_11.html

河内源氏は@源頼信→A源頼義→B源義家→C源義国→新田氏の始祖
:新田義重と続く。

A源頼義
長男:義家
次男:義綱
3男:義光・・長男:佐竹義業
次男:義清→清光→次男:武田信義・・一条忠頼
3男:安田義定
※清和源氏流・河内源氏の一門:源義光を始祖とする甲斐源氏
の宗家である。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
B源義家→義親→長男:為義&次男:義国
 長男:為義系・・・
長男:源義朝・・・義平・○・頼朝・○・○・範頼・○・義経
次男:源義賢・・・木曾義仲・・義高
3男:志田義広

 次男:義国系・・・・
 長男:新田義重・・・里見義成・新田義兼・山名範頼など
  次男・足利義康・・・足利義兼
 ★当時・・誰が嫡流かは明確になっていない。

箕輪初心★源義朝(源頼朝の父)の生涯
http://53922401.at.webry.info/201501/article_22.html

箕輪初心★平治の乱『源義朝&鎌田政清の最後』
=長田忠致の裏切り
https://bblog.sso.biglobe.ne.jp/ap/tool/newscaredisplay.do



〜〜〜源頼朝&伊豆シリーズ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
箕輪初心★源頼朝@伊豆「伊東→蛭ヶ小島へ」
http://53922401.at.webry.info/201412/article_19.html

箕輪初心▼伊東ダイビング2回
http://53922401.at.webry.info/201307/article_29.html

箕輪初心★源頼朝A伊東祐親の娘:八重姫の悲話&
『伊東祐親の生涯』
http://53922401.at.webry.info/201412/article_20.html

箕輪初心★源頼朝B【蛭ヶ小島3年北条政子との結婚】
http://53922401.at.webry.info/201412/article_24.html

箕輪初心★源頼朝C「治承4年(1180)8月17日の挙兵
〜19日石橋山の合戦前」
http://53922401.at.webry.info/201412/article_25.html

神奈川▲源頼朝D【治承4年(1180)8月19日〜22日土肥館】&
土肥実平の生涯
http://53922401.at.webry.info/201412/article_26.html

箕輪初心▲源頼朝E【治承4年(1180)8月23日石橋山の戦い
&佐那田神社】
http://53922401.at.webry.info/201412/article_27.html

箕輪初心▲源頼朝F治承4年(1180) 8月24日逃亡〜梶原景時
〜土肥城〜箱根神社
http://53922401.at.webry.info/201412/article_28.html

箕輪初心▲源頼朝G治承4年(1180)8月27日【荒井城】&
【詠い坂】
http://53922401.at.webry.info/201412/article_29.html

箕輪初心▲源頼朝H【治承4年(1180)8月28日:岩からの源氏
再興の舟出】
http://53922401.at.webry.info/201412/article_30.html

箕輪初心▲源頼朝10:埼玉【阿保氏館跡】&「阿保氏の歴史」
http://53922401.at.webry.info/201501/article_6.html

箕輪初心★源義朝(源頼朝の父)の生涯
http://53922401.at.webry.info/201501/article_22.html

箕輪初心★平治の乱『源義朝&鎌田政清の最後』=長田忠致の
裏切り
http://53922401.at.webry.info/201501/article_23.html

箕輪初心◆源頼朝12:『治承4年(1180)8月29日房総
〜関東平定』
https://bblog.sso.biglobe.ne.jp/ap/tool/newscaredisplay.do

箕輪初心▲源頼朝13【挙兵〜関東平定&坂東武者の思惑】
素案
https://bblog.sso.biglobe.ne.jp/ap/tool/newscaredisplay.do

箕輪初心★源頼朝14【乳母:比企尼(ひきのあま)】
http://53922401.at.webry.info/201501/article_29.html

箕輪初心★源頼朝15【愛のキューピッド:安達盛長】
:鴻巣放光寺→伊豆→甘縄→高崎八幡
http://53922401.at.webry.info/201501/article_30.html

箕輪初心▲源頼朝16【仁田忠常】&伊豆函南【仁田館】
http://53922401.at.webry.info/201501/article_31.html

箕輪初心▲源頼朝17【肥田宗直】&伊豆函南「肥田館」
http://53922401.at.webry.info/201501/article_32.html

箕輪初心▲源頼朝18【治承3年の政変〜以仁王&源頼政の
思惑〜源頼朝の挙兵】
http://53922401.at.webry.info/201502/article_1.html

箕輪初心★源頼朝19【北条時政の思惑@】&伊豆長岡【北条館】
http://53922401.at.webry.info/201502/article_2.html

箕輪初心▲源頼朝20【北条時政の思惑A】&伊豆【願成就院】
http://53922401.at.webry.info/201502/article_3.html

箕輪初心★源頼朝21【正妻:北条政子】結婚〜恐妻〜尼将軍
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★明日は・・北条泰時おまけかな?

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