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zoom RSS 箕輪初心★源頼朝21【正妻:北条政子】結婚〜恐妻〜尼将軍

<<   作成日時 : 2015/02/04 06:48   >>

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北条政子は伊豆国の豪族:北条時政の長女である。21歳で伊豆の
流人源頼朝の妻=正妻となった。鎌倉幕府では御台所と呼ばれた。
北条政子の嫉妬深さは一夫多妻が当然だった当時の女性としては
異例であった。源氏の棟梁であった頼朝は多くの女性の家に通う
のは義務であり、社会通念上、一族を増やすのが当然の行為であ
った。源頼朝は生涯に多くの女性と通じたが、北条政子を恐れて
隠れるように通った。北条政子は夫の行動を容認できなかった。
北条政子は嫉妬深さだけではなく、地方豪族の娘:北条政子は
貴族である源頼朝の正室としての地位を確保したかったのではな
いだろうか。
夫:源頼朝の死後に尼御台=安養院(あんにょうい
ん)尼将軍として征夷大将軍:嫡男:頼家→次男:実朝→傀儡将
軍:藤原頼経の後見人となって鎌倉幕政の実権を握った。建保6
年(1218)朝廷から従三位に叙された際に、父:北条時政の名から
一字をもらって「北条政子」となった。
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(★北条政子の産湯)



〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
箕輪初心★源頼朝@伊豆「伊東→蛭ヶ小島へ」
http://53922401.at.webry.info/201412/article_19.html

箕輪初心★源頼朝B【蛭ヶ小島3年北条政子との結婚】
http://53922401.at.webry.info/201412/article_24.html

箕輪初心▲源頼朝18【治承3年の政変〜以仁王&源頼政の
思惑〜源頼朝の挙兵】
http://53922401.at.webry.info/201502/article_1.html

箕輪初心★源頼朝19【北条時政の思惑@】&伊豆長岡【北条館】
http://53922401.at.webry.info/201502/article_2.html

箕輪初心▲源頼朝20【北条時政の思惑A】&伊豆【願成就院】
http://53922401.at.webry.info/201502/article_3.html

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜



【0】北条時政の妻&子ども
妻@:伊東入道の娘
男子:北条宗時(?〜1180)
女子:阿波局(?〜1227)・・・阿野全成の妻
男子:北条義時(1163〜1224)

妻A:足立遠元の娘
女子:稲毛重成の妻(子は綾小路師季妻)
男子:北条時房(1175〜1240)

妻B:大岡庄:牧宗親の娘:牧の方
女子:平賀朝雅の妻→源国通の妻
女子:滋野井実宣の妻(?〜1216)
女子:宇都宮頼綱の妻
男子:北条政範(1189〜1204)

妻C・生母不明
女子:政子(1157〜1225)・・源頼朝の妻
女子:時子(?〜1196)・・・・足利義兼の妻
女子:畠山重忠の妻(子:畠山重保)→足利義純の妻
女子:坊門忠清の妻
女子:河野通信の妻
女子:大岡時親の妻

【0】北条政子&源頼朝の子ども
長女:大姫
長男:源頼家
次男:源実朝
3男:三幡



〜〜〜北条政子のゆかりの地〜〜〜〜〜〜〜〜〜

【1】北条時政館
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【2】北条政子の産湯
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【3】蛭が小島・・・源頼朝の「蛭が島」と決めた場所
○銅像
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※伊豆の国市の木・・・梛の木である。

【4】伊豆山神社
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○治承元年(1177)〜 源頼朝とのデートスポット
・腰掛け石
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・「梛の木」(なぎのき)・・・・縁結びの木。
 「鏡の裏側に梛の葉を入れて御守りにすると結ばれる。」
 と信じられてきた。★ロマンチックですよね。
○治承4年(1180) 源頼朝の挙兵時の北条政子の隠れ場


【5】鎌倉の源頼朝の大蔵御所
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 (★鶴ヶ岡八幡宮)

【6】鎌倉の寿福寺
○源義朝の館→
○北条政子建立の寿福寺
○墓所・・・源実朝の胴墓の隣にある。
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【7】鎌倉の安養院=鎌倉時代〜現在まで坂東2番札所
○坂東の札所2番
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【8】伊豆の成福寺・・北条政子の供養塔
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◆◆ 北条政子の生涯 ◆◆

保元2年(1157)〜嘉禄元年(1225) 7月11日(8月16日)

・保元2年(1157) 北条政子は伊豆国の豪族:北条時政の
   長女として生まれた。
●北条館=北条時政の館=伝:堀越公方館

●北条政子の産湯の井戸


・平治元年(1159) 平治の乱
父:源義朝が尾張で戦死。
源頼朝は尾張の熱田神宮で平清盛の配下に捕えられた。
源頼朝は京の六波羅へ送られた。
  処罰は死刑が当然視されていた。・・・
 

・平治2年・ 永暦元年(1160) 2月9日
平清盛の継母:池の禅尼の命乞いで、死一等を減ぜられて
  伊豆に流刑となり、助けられた。
 3月11日 伊豆国の蛭ヶ小島へと流された。
  大炊御門経宗・葉室惟方・源希義も伊豆流刑になった。
  
 ※源頼朝が伊豆国へ流罪となった。
 伊豆国に配流とのみ伝わっているので、本当に蛭ヶ小
   島に流されたのかどうかは不明である。
源頼朝が平清盛により最初に流されたのは、
  現在の伊東市の基を作った伊東祐親の管理下であった。
(★曽我物語)

【1】源頼朝の伊豆伊東時代 13歳頃
源頼朝は伊東祐親に預けられ、伊東祐親の管理下に置かれた。
★おそらくは、流人とはいえ、母の弟:伊東祐範や源頼朝の乳母:
比企尼&夫:比企遠宗や娘夫婦から援助を受け、狩りを楽しむな
ど比較的安定した自由な生活をしていたと思われる。身の回りの
世話・食料調達をしてもらったのであろう。ある程度自由であっ
たが、謹慎の身の上、源氏一族の冥福を祈った。走湯権現(伊豆
山神社)や箱根権現にも参詣した。深く帰依して読経をおこたら
なかった。また、祈祷師を招いて法事も行った。地方武士として
敬虔な日々を送っていた。この敬虔な態度が平氏方の伊東氏や北条
氏の信用を得ていった。
比企尼の3人娘達
@長女:安達盛長の妻・・函南の桑原・大竹地区・本領武蔵
比企尼の婿である安達盛長が側近として仕えた。
A次女:河越重頼の妻・・武蔵
B3女:伊東祐親の次男:祐清の妻
C比企尼の養子・・・比企能員
D伊東祐親の長男:祐泰は妻は狩野茂光の娘
E比企朝宗の娘:北条義時の妻

〇源氏方に従ったため所領を失って放浪中の近江源氏佐々木定綱
四兄弟が従者として奉仕した。
〇京にいる乳母の甥:三善康信から定期的に京都の情報を得ていた。

・仁安2年(1167)
 源頼朝は伊東祐親の下に在った。ここでは後に家人となる土肥
 実平、天野遠景、大庭景義などが集まり狩や相撲が催されて
 た。
(★曽我物語)


ところが、成長していく間に恋をした。
伊東祐親が大番役・・交代で京で朝廷や貴族の警備をする役
の遠征に出ている間に、
・・・伊東祐親の娘:八重姫(伊東祐清の兄妹)
との間に男子をもうけてしまった。
伊東祐親が2年の任期を終え、帰国した。
伊東祐親は
「ビックリした。平家から源頼朝の監視を頼まれたのに
 源頼朝のためにあらぬ疑いをかけられては困る。」
 と考えた。
源頼朝&娘:八重姫の子:千鶴丸を松川の上流で川に沈めた。
そして、八重姫を江間小四郎=北条泰時に嫁がせた。
八重姫は狩野川に入水自殺をしてしまった(伝)。

源頼朝は伊豆山神社に逃げ込んだ。
そして、狩野茂光や加藤景員に相談した。
狩野茂光から伊東祐親に
「北条時政の所で預かってもらおう。」
と言ったのであろう。


【2】源頼朝の蛭ヶ小島時代 29歳〜31歳
・治承元年(1177) 頃?
源頼朝は韮山の北条館に行った。
★おそらくは北条時政から
「狩野川の中洲にある蛭ヶ島に行ってね。」
と言われたのであろう。
源頼朝は29歳であった。

●蛭ヶ小島(静岡県伊豆の国市四日町)
伊豆国での流人生活は史料としてはほとんど残っていない。
「蛭ヶ小島」は静岡県伊豆の国市にある。源頼朝の流刑地と
して知られている。しかし、歴史的には「伊豆国に配流」と
記録されるのみである。『吾妻鏡』では源頼朝の流刑地につ
いて「蛭島」と記してあるだけである。江戸時代に秋山富
南が「頼朝が配流となった蛭ヶ島はこの付近にあった。」と
推定し、寛政2年(1790)に「蛭島碑記」が建てられた。
長岡温泉の旅館の人の話だと「土地を寄付してくれた人が
いたから。」だという。従って、「蛭ヶ島」の正しい場所は
不明であり、当地が比定地としただけである。発掘調査で
は弥生・古墳時代の遺構・遺物のみである。しかし、これ
が伊豆の国市指定有形文化財となっている。
●「蛭ヶ小島公園」の源頼朝&政子夫妻の像


「伊東祐清の推挙で安達盛長&佐々木成綱は北条郷で
 源頼朝に近侍するようになった。」
(★『曽我物語』)
※隣村の函南の桑原・大竹地区は安達盛長の所領であった。
 ここに、比企尼&安達盛長&丹後内侍&後の丹後局
 が住んでいた。
ここでも、安達盛長の庇護を受けた。


・北条時政は伊豆の在庁官人であった。
 源頼朝の監視役であった。
 

〜〜〜北条政子との出会い〜〜〜〜〜〜〜
●北条時政の子供
@先妻:伊東入道の娘(伝)
・北条三郎宗時
・北条四郎義時=江間小四郎
・北条政子
A後妻:大岡庄:牧宗親の娘:牧の方
  ・女
・女

※北条時政の娘
@長女:北条政子21歳・・・一番美人
A次女:19歳・・・・やや不器量。源頼朝は恋文を書いた。
B3女:17歳・・・・やや不器量。
〇長男:北条泰時=江間小四郎

源頼朝は、北条時政の娘の北条政子と結ばれた。
 2人を結び付けたのが、安達盛長であった。
『女性問題に懲りない源頼朝が北条時政には娘が3人
 いることを知った。その3人は北条時政の先妻の娘
 の政子と、後妻」牧ノ方が産んだ娘の2人であるこ
 とを調べた。
 もちろん、調べたの安達盛長である。
 長女:北条政子は美女であったが、後妻の娘2人は容姿
 が醜くぶさいくであった。
(★『曽我物語』)

次女:19歳に源頼朝は恋文を書いた。しかし、文使いの
安達盛長は、
「北条時政の長女:政子の方がいいであろう。ごたごたがあ
った時、器量がいい方が飽きが来ないであろう。」
と勝手に源頼朝と北条政子の間を取り持ったとされる。
 (★『曽我物語』)
北条政子は時政の先妻の子であった。20歳過ぎても嫁に
行かず、さびしい思いをしていたのであろう。


●『曽我物語』の「夢買い」エピソード
二人の馴れ初めは北条政子の妹(後に頼朝の弟:阿野全成の妻となる
阿波局)が日月を掌につかむ奇妙な夢を見た。妹が夢について政子に
話すと、北条政子は
「それは禍をもたらす夢であるので、自分に売るように・・・」
と勧めた。
妹は姉:政子に夢を売り、北条政子は代に小袖を与えた。
北条政子は吉夢と知って妹の夢を買ったのである。
吉夢の通りに政子は後に天下を治める頼朝と結ばれたとする」
説がある。

北条時政は大番役で京へ行っていた。
留守中に、2人は逢瀬を重ねた。
2人の大恋愛は注目の的であった。
都人の源頼朝は伊豆の娘たちの理想でもあった。
北条政子が伊豆の流人であった源頼朝
 の妻となった。


●伊豆山神社・・デートスポット
源頼朝と北条政子との逢瀬の場として使われていた縁結び
の神社として注目されている。
※腰掛け石・・・境内に2人が座ったとされる石がある。
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 こうして、源頼朝と北条政子の恋は始まった。
2人はすぐに結ばれた。

逢引き=デートは間もなく、北条時政の後妻:牧ノ方
の知るところとなった。
父:大岡庄:牧三郎宗親
牧ノ方→父:大岡庄:牧三郎宗親→京の北条時政
と知らせが伝えられた。
※父:大岡庄:牧三郎宗親は池ノ禅尼の子:平頼盛の家人で
あり、源頼朝の監視&保護の役を負っていた。

北条時政が大番役のため在京中の間に北条政子は源頼朝と
 恋仲になってしまった。

・治承2年(1178)頃
※源頼朝は蛭ヶ小島からいろいろな場所を訪ねたであろう
@三島神社
A函南・・・安達盛長邸・仁田忠行邸・肥田邸
B韮山・・・北条時政館・江間館・江川(宇野源氏)邸
C修善寺
D加藤景廉邸・工藤系狩野茂光邸
E白浜神社
F松崎・・・円通寺
※安達邸は蛭が小島から北に(仁田館の先)5〜6kmに
ある。

源頼朝は北条時政の長女:政子と婚姻関係を結び、
長女:大姫をもうけた。
北条政子&源頼朝の子:大姫ができちゃったのだ。


〜〜〜〜年代が合わない【曽我物語】ではあるが〜〜〜〜〜〜
・治承3年(1779) 32歳
正月 北条時政は帰郷した。
同じころ、平兼隆が伊豆の判官として任用された。
平兼隆は元々は流人だったが平時忠と懇意であった
 ために目代となった。
平氏政権の成立・・・目代:平兼隆は伊豆(韮山城&江田邸の東
300m)で平氏の代官となっていた。
 ★実際は、治承4年(1180)5月であるが、それ以前に目代:
山木(平)兼隆が目代になっているからなので、変である。
・・・が、実は北条時政は山木平兼隆に
「娘:政子を嫁にやる。」
と約束した。
北条時政は山木兼隆に嫁がせるべく、娘:政子を山木兼隆の
下に送った。
山木(平)兼隆&北条政子が祝言を挙げた。
その日、北条政子は山木平兼隆邸から逃げ出した。
●伝説?・・・治承2年の夏に北条政子は山木兼隆との縁談を嫌って
  婚礼の夜、宴席を抜け出し約七里の道のりを伊豆山の頼朝の元へ
 頑張って歩いて来た。
源頼朝は北条政子を逢初橋(あいぞめばし)=国道135号の上で
 出迎えた。
2人は伊豆山権現(伊豆山神社)に匿われた。
北条政子が21歳の時である。
伊豆山は僧兵の力が強く目代:山木兼隆も手を出せなかった。
3800人もの僧兵がいたという。
★源頼朝&北条政子もワイルドな人生を歩んでいた。
源頼朝のいる伊豆山神社に逃げ込んだ。
ドタキャン・・駆け落ち。
伊豆山神社で待ち合わせた源頼朝と結婚した。
本当か嘘か真偽の程は不明・・・。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

・治承4年(1180)
源頼朝は文覚上人(遠藤盛遠)から挙兵を促されていた。
 文覚上人のいた場所
説@伊豆国の奈古屋説・・★こっちかな?
説A松崎の円通寺説
 「源頼朝が挙兵した場合、旧知行国主系豪族の協力が見込ま
  れることが予想できる。」
  と密かに心構えを説いた。

8月17日 源頼朝の挙兵
 北条政子はこの日の前に、伊豆山神社に隠れた。

流人:源頼朝は伊豆山権現の住僧:覚渕に学んだ。
 伊東祐親の娘:八重姫とできちゃった時に逃げこんだ神社で
 あった。
 ※源頼朝と北条政子と劇的な出会いを果たした場所でもあった。
伝説・・・治承2年の夏に北条政子は山木兼隆との縁談を嫌って
  婚礼の夜、宴席を抜け出し約七里の道のりを伊豆山の頼朝の元へ
 頑張って歩いて来た。
 源頼朝は北条政子を逢初橋(あいぞめばし)=国道135号の上で
 出迎えた。
8月23日 石橋山の戦い・・・源頼朝の大敗

8月28日 岩から安房に出航
土肥実平は嫡男:遠平を北条政子の元に送った。
「今の所、無事である。これから安房に向かう。」
   ということを伝えるために・・・

8月30日?  
 後、北条政子は秋戸郷に移った。

※伊豆山神社は源頼朝が鎌倉幕府を開いた後も、源頼朝と
 北条政子に崇拝された。絶大な勢力を誇った。

10月6日 源頼朝は「凡そ扈従の軍士幾千万を知らず」
  という大軍を率いて、鎌倉に入った。

  源頼朝は鎌倉に入った。
源頼朝はかつて父:源義朝と兄:義平の住んだ
  鎌倉であった。
  
  大倉の地に大倉御所をかまえて鎌倉の政治の拠点とした。
  また、先祖の源頼義が京都石清水八幡宮を勧請した鶴岡
  八幡宮を移した。
  父:源義朝の菩提を弔うための勝長寿院の建立を行った。

北条政子にも行き会えた。

・治承5年(1181)

・養和2年(1182)
3月 北条政子は2人目の子を懐妊した。
 源頼朝は三浦義澄の願いにより北条政子の安産祈願として、平氏方
 伊東祐親の恩赦を命じた。・・・・・
 源頼朝は北条政子と結ばれる以前に伊東祐親の娘:八重姫と恋仲に
 なり男子:千鶴摩利までなした。平氏の怒りを恐れた伊東祐親は
 千鶴丸を川に遺棄し殺した。源頼朝と八重姫の仲を裂き、北条泰時
 と強引に結婚させてしまったのだった。八重姫は自害した。
 伊東祐親は赦免を恥じとして自害してしまった。


 6月1日 源頼朝は伊豆国にいたときからの愛人:亀の前を鎌倉に
    呼び寄せ、小坪の小中太光家の屋敷に住まわせた。
   
   小坪(逗子市)は由比ヶ浜に「みそぎ」に行くといって出かけ
    るのに都合がよかったのだ。

  亀の前は、器量よし(★お多福系)で、心の柔和な女性だった
  ので、源頼朝の寵愛が激しさを増していった。

  その後、飯島の伏見広綱の屋敷に亀の前を移した。


7月 源頼朝は兄:源義平の未亡人で源氏一族:新田義重の娘:祥寿
    姫を妻に迎えようとした。
    北条政子の怒りを恐れた新田義重が娘を他家に嫁がせたため
    実現しなかった。

★現実には、新田義重は源頼朝からさらに嫌われた。

  源頼朝は「亀の前」にターゲットを絞った。
  北条政子の妊娠中に源頼朝は「亀の前」を寵愛するように
  なった。
  北条政子は父:北条時政の後妻:牧の方から情事を知らされた
  北条政子は嫉妬にかられて激怒した。
  伊豆山神社での思いを伝えた。


8月 北条政子は万寿を出産・・・後の2代将軍:源頼家である。

10月17日 北条政子と赤ちゃん:頼家が産所の比企ヶ谷から御所に
     戻ってきた。

 すると、牧の方(北条時政の後妻・北条政子の継母)が
  源頼朝の浮気を北条政子に話していた。
  激怒した北条政子は、牧の方の父:牧宗親に広綱の屋敷を破壊
  するよう命じた。

  源頼朝は良橋太郎入道の娘:亀ノ前とできちゃった。
   →また、ひと悶着あった。

11月10日 沼津の牧の方の父:牧宗親は亀の前が住んでいた伏見
   広綱の邸を壊した。
   広綱は、亀の前を伴って鐙摺の大多和義久邸に逃げ込んだ。
    
北条政子は嫉妬深く気性の激しい奸婦のイメージを持たれた。

11月12日 源頼朝は、牧宗親を引き連れて大多和義久邸を訪れ、
  伏見広綱に事情を尋ねた上で化牧宗親を詰問した。

 牧宗親は弁明できず陳謝した。
源頼朝は激怒して牧宗親の髻(もとどり)を切り落とした。
 
 そして、源頼朝は亀の前の所に泊まった。
  
 北条時政が源頼朝に怒り、一族を連れて伊豆へ引き揚げた。
   
 北条政子は伏見広綱を遠江国へ流罪にさせた。

 武士にとって髻を切られるということは最大の恥辱で
 あった。

 

・寿永2年(1183) 源頼朝は源義仲と和睦した。
  条件として義仲の嫡子:義高&源頼朝と北条政子の長女:大姫
  の婚約が成立した。
  木曾義高は大姫の婿という名目の人質として鎌倉へ下った。
  木曾義高は11歳、大姫は6歳前後である。
  大姫は木曾義高を慕うようになった。

  木曾義仲は平氏を破り、入京したが、木曾義仲は京の統治に
  失敗した。
  平氏や後白河法皇とも対立した。

・元暦元年(1184)宇治川の合戦
   源頼朝は弟:源範頼、源義経を派遣して木曾義仲を滅ぼした。
★木曾義仲の墓…滋賀県大津の義仲寺

  源頼朝は木曾義高の殺害を決めるが、侍女達から聞いた大姫が
  木曾義高を鎌倉から脱出させた。
  源頼朝の命により堀親家が木曾義高を追い、武蔵の所沢?で
  木曾義高は堀親家の郎党:藤内光澄の手によって斬られた。
  大姫は悲嘆の余り病の床につく。

  北条政子は
  「木曾義高を討ったためにに大姫が病になった。」
  と怒った。
  源頼朝はしかたなく藤内光澄を晒し首にした。

一ノ谷の戦い
  源範頼と源義経はで平氏に大勝した。
  
  源頼朝は東国の経営を進めた。
  北条政子も参詣祈願や、寺社の造営式などに同席した。


・元暦2年(1185) 壇ノ浦の戦い
源義経は平氏を滅ぼした。

  平氏滅亡後、頼朝と義経は対立した。
  源義経は郎党や妻妾を連れて都を落ち。平泉に向かった。

・文治2年(1186) 源義経の愛妾:静御前が捕らえられた。
  北条政子は白拍子の名手である静に舞を所望した。
  静は鶴岡八幡宮で白拍子の舞いを披露した。
  源頼朝の目の前で
  「吉野山 峯の白雪 ふみ分て 入りにし人の 跡ぞ恋しき 」
  「しづやしづ しずのをたまきを くり返し 昔を今に 
   なすよしもがな 」
  と源義経を慕う歌を詠った。

  源頼朝は激怒した。
  北条政子は
「流人であった貴方との馴れ初め・・・・暗夜をさ迷い、雨をしのい
で貴方の所にまいりました・・貴方の挙兵の時の不安の日々・・・
私のあの時の愁いは今の静の心と同じです。」
ととりなした。
北条政子の言葉に源頼朝は怒りを鎮めて静に褒美を与えたという。

静御前は男子を生んだ。
北条政子は子の助命を頼朝に願うが許されず、子は由比ヶ浜に
遺棄された。

・文治5年(1189)4月、源義経は藤原泰衡に攻められ自害した。
  頼朝は奥州征伐のため出陣した。
  北条政子は鶴岡八幡宮にお百度参りして戦勝を祈願した。
  源頼朝は奥州藤原氏を滅ぼして、鎌倉に凱旋する。

・建久元年(1190)源頼朝は大軍を率いて入京。
  後白河法皇に拝謁して右近衛大将に任じられた。

・建久2年(1191)
源頼朝は「大進局」のもとへ通った。
   大進局は源頼朝の子」貞暁を産んだ。
   大進局は北条政子の嫉妬を恐れて身を隠した。
   (7歳時、出家させるため京の仁和寺へ送られた。)

・建久3年(1192) 源頼朝は鎌倉幕府を開いた。
源頼朝は征夷大将軍に任じられた。
 北条政子は千幡(後の3代将軍:源実朝)を生んだ。

・建久4年(1193) 富士の巻狩りを催した。
三原→那須→富士・・・
★源頼朝は軍事訓練の一貫として、各地区の武士団の
 状況を把握しようとしたのであろう。
源頼家が鹿を獲った。
 
●曾我兄弟の仇討ち
  富士の巻狩りの最後の夜に曾我兄弟が父の仇の工藤祐経を討つ
  事件が起きた。
  鎌倉では源頼朝が殺されたとの流言があり、北条政子は心配
  した。
  鎌倉に残っていた源範頼が
  「源氏には私がおりますから御安心ください。」
   と政子を慰めた。
  源頼朝は鎌倉に帰った時、源頼朝が政子から
  源範頼の言葉を聞いて猜疑心を起こした。
土肥実平に源範頼は伊豆修善寺に送らせた。
管理は狩野茂光が行った。
  源範頼は修善寺に幽閉されて殺された。


・建久6年(1195) 源頼朝と北条政子は上洛した。
  宣陽門院の生母:丹後局と会って、大姫の後鳥羽天皇への入内を
  協議した。

・建久8年(1197) 大姫は20歳の若さで死去した。
源頼朝は次女:三幡を入内させようと図った。
  朝廷の土御門通親に阻まれた。

・建久10年(1199) 1月 源頼朝が落馬が元で急死した。


〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
長男:源頼家が家督を継いだ。
 北条政子は出家して尼になり尼御台と呼ばれた。

 6月 三幡が僅か14歳で死去した。

  源頼家の独裁性の強い専制政治を抑制すべくに御家人たちの
  反発が起きた。

・正治2年(1200) 大江広元、梶原景時、比企能員、北条時政、北条
  義時ら老臣による13人の合議制が定められた。
  長は安達盛長が務めた。

源義家 VS 老臣
 @源頼家が安達景盛(安達盛長の子)の愛妾を奪う不祥事が起きた。
  源頼家は安達景盛が怨んでいると知らされた。
  源頼家は兵を発して討とうとした。
  北条政子は調停のため、安達景盛の邸に入り、使者を送って頼家を
  強く諌めた。
 「安達景盛を討つならば、まず、私に矢を射ろ。」
  と申し送った。
  北条政子は双方の騒ぎを収めさせた。

A梶原景時の変
  源頼家は梶原景時を失脚させて滅ぼした。
  
  源頼家は遊興・・・蹴鞠を好んだ。

・建仁3年(1203)
B比企能員の変
  源頼家は乳母の夫:比企能員を重用した。
  比企能員の娘は源頼家の長子:一幡を生んで、
  外戚として権勢を誇っていた。
  比企氏の台頭は北条氏にとって脅威であった。

源頼家が危篤に陥った。
  
  北条政子と父:北条時政は一幡と実朝で日本を分割することを決め
  た。
  比企能員は病床の源頼家に北条氏の専断を訴えた。
  源頼家は北条氏討伐を命じた。

  北条政子は、使者を父:北条時政に送った。
  時政は策を講じて比企能員と一幡も比企氏とともに殺した。

  源頼家は回復したが、主導権は北条氏に完全に握られていた。

  源頼家は母:北条政子の命で出家させられて将軍職を奪われた。
  伊豆の修善寺に幽閉されてしまった
  源頼家は後に暗殺された。

  3代将軍に源実朝がなった。
   父の北条時政が初代執権に就任した。
   北条時政と妻:牧の方は政権を独占しようと図った。

・元久2年(1205) 牧氏事件
  北条時政と牧の方は源実朝を廃して女婿の
  平賀朝雅を将軍に擁立しようと画策した。
  北条政子と北条義時は陰謀を阻止して、北条時政を出家させて
  伊豆へ追放した。代って、北条義時が執権となった。

  源実朝は公家政権との融和を図った。
  後鳥羽上皇も源実朝を優遇して昇進を重ねさせた。
   公家政権 VS 御家人


北条政子は源頼家の子ども達を仏門に入れた。
  その中に鶴岡八幡宮別当となった公暁もいる。

・建保6年(1218) 北条政子は源実朝の平癒を願って熊野に参詣した。
  後鳥羽上皇の乳母:藤原兼子の推薦で従二位に叙された。
  源実朝の右大臣になった。

・建保7年(1219) 源実朝は甥:公暁に暗殺された。

鶴岡八幡宮での右大臣拝賀の式でに入った実朝は公暁に
  暗殺された。

  源実朝の葬儀が終わると、北条政子は鎌倉殿としての任務を
  代行する形で後鳥羽上皇の皇子を将軍に迎えることを願った。

  北条義時は皇族将軍を諦めて摂関家から三寅(藤原頼経)を
  迎えることにした。
  北条時房は三寅を連れて鎌倉へ帰還した。
  2歳の三寅なので、北条政子が三寅を後見して将軍の代行を
  することになった。
  「尼将軍」と呼ばれるようになった。

・承久3年(1221) 承久の乱
   後鳥羽上皇 VS 鎌倉幕府
   後鳥羽上皇は京都守護:伊賀光季を攻め殺して挙兵した。
   後鳥羽上皇は北条義時追討の院宣を諸国の守護と地頭に
   下した。

  上皇挙兵の報を聞いて鎌倉の御家人達は動揺した。

  北条政子は御家人達を前に演説したという。

  幕府軍は出撃した。
  幕府軍は19万騎の大軍に膨れ上がった。

  後鳥羽上皇は幕府軍の出撃を予想しておらず狼狽した。

  幕府の大軍の前に各地で敗退しした。
  幕府軍は京を占領。
  後鳥羽上皇は北条義時追討の院宣を取り下げて降伏した。
  隠岐島へ流された。

・貞応3年(1224) 北条義時が急死した。
  伊賀氏の変・・・北条義時の後継者争い
  長男:北条泰時 VS 北条義時の後室:伊賀の方

  伊賀の方は実子:北条政村の執権擁立を画策した。
  有力御家人の三浦義村と結ぼうとした。
  北条政子は三浦義村の邸を訪ねて三浦義村に北条泰時への忠誠を
  誓せた。
  伊賀の方は伊豆へ追放された。

  北条泰時は父:北条義時の遺領配分を北条政子と相談し、
  自分が格段に少ない所領案を提示した。

・嘉禄元年(1225) 北条政子が死去した。享年69。
   戒名・・・安養院殿如実妙観大禅定尼。
   墓所・・・鎌倉市の寿福寺。源実朝の胴墓の隣にある。



★北条泰時かな?

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