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zoom RSS 箕輪初心★源頼朝19【北条時政の思惑@】&伊豆長岡【北条館】

<<   作成日時 : 2015/02/02 07:30   >>

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坂東八平氏は@上総、A千葉、B秩父、C三浦、D土肥、E大庭、
F梶原、G長尾なとが有力平氏の末裔であった。北条時方(時兼?)
の子:北条時政は平氏系の伊豆国の在地小豪族であった。・治承元
年(1177) 頃? 29歳の源頼朝は韮山の北条館に行った。★おそら
くは北条時政から「蛭ヶ島に行ってね。」と言われたのであろう。
しかし、娘の政子が源頼朝の娘:大姫を生んでいた。北条時政は
伊東祐親の娘:八重姫のようには対応できなかった。実際には
北条時政は2人の結婚をすぐに認めた。源頼朝の外戚になると
いう考えがひらめいたのではないだろうか?京都では平清盛と
後白河法皇の間に対立の兆しが見え始めた。北条時政は中央
の情勢を見て、平氏政権が長続きしないことを見越して源頼朝を
婿としたのかもしれない。むしろ、娘:北条政子が源頼朝の正室に
なったことで、平氏から源氏の政権交代かけたのであろう。 一種
の大博打に出たとも考えられる。
治承4年(1180)源頼朝の挙兵では
北条時政は大いに貢献した。道が開けた。そして、鎌倉幕府の
初代執権となった。
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【1】北条時政の館 ・・2回
 北条館=北条時政の館=含む伝:堀越公方館・
守山の北西〜北の伝:堀越公方館にかけての一帯。
@1回目
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・守山城への道
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A2回目
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【2】北条政子の産湯・・2回
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【3】八幡神社・・・・・1回
 ★私はここに源頼朝館はあったと
考えている。

【4】願成就院・・・・・1回
静岡県伊豆の国市寺家83-1
国道136号線から、看板の所を曲がって直進する事約100m。
願成就院の山門があった。

@車を駐車場に停めた。
大御堂・宝物館の拝観料300円。
御堂・宝物館内の写真撮影は不可。水曜日休館・・・。
朝7時、開いているはずはない。

A案内看板
「創建当時の願成就院は七堂伽藍に池を配した壮大な寺院だった。
 駐車場のあるここは『南塔』の跡地ではないかと推定されている。

B寺のパンフレット
『当山は天守君山願成就院と称し、高野山真言宗に属す。(略)寺の
 創建は、寺伝によると奈良時代聖武天皇の天平元年(729年)5月
 15日に創立されたと伝えられるが、明らかなことは、鎌倉幕府の
 事跡を伝える「吾妻鏡」の記録から、文治5年(1189年)源頼
 朝公夫人、尼将軍北条政子の父で鎌倉幕府初代執権北条時政公が、
 頼朝の奥州藤原氏討伐の戦勝を祈願して建立したもので、その後
 は鎌倉幕府に並ぶ者なき勢力を振った北条氏の寺として、2代執
 権北条義時公・3代執権北条泰時公の3代にわたり、約半世紀の
 歳月を費やして次々に堂塔が建立され繁栄を極めた。
  その伽藍構成は、奥州平泉に藤原3代の偉業として伝えられる
 中尊寺・毛越寺・無量光院3寺院の中の毛越寺を模したもので、
 山門を入ると大きな池があり、その池の中島に掛けられた橋を渡
 って参詣するというもので藤原時代特有の寺院様式であった。」

・文治2年(1186) 北条時政が願成就院を創建? 
  北条時政の招きで運慶が伊豆に運慶を招いて
 仏像を造らせた。
運慶は阿弥陀三尊(中尊・阿弥陀如来座像のみ現存)、
 毘沙門天立像、
 不動明王立像とその2脇侍であるコンガラ&セイタカ童子を
 作った。

※運慶作の仏像
(★仏像の胎内から発見された銘札)
 北条時政が源頼朝の奥州攻撃を祈願してにより建立した
 とされ、諸像が作られた。

・文治5年(1189) 願成就院は建立されたと言う。
奥州藤原氏打倒を祈願する意味で建立された説

・現在 
 「運慶様式」=鎌倉彫刻様式として国宝に格上げされた。
 運慶は彫刻史を代表する仏師である。
 東大寺の「金剛力士像(国宝)」が有名である。

・建久3年(1192) 7月12日 (8月21日) 鎌倉幕府
「いいくに(1192)つくろう鎌倉幕府」

・その後、北条氏は執権に収まることになる。
 大願は成就されたのである。

【3】最明寺・・・・3回
伊豆長岡温泉:華の湯に入ったり、2回泊まったりした。
華の湯から徒歩1分なのだ。
●北条時政の墓
北条時政67歳は鎌倉より最明寺に隠世し仏塔を建立した。
敵味方、犠牲将士の冥福と滅罪の浄業を達成し墳墓をきざんだ.。
享年78歳。




〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
【1】北条家の出自
@北条氏は桓武平氏高望流の平直方の子孫と称している。
  家系は桓武平氏平直方流を称する北条氏であるが。

直方流は仮冒で伊豆国の土豪出身という説もある。
A北条時政以前の系譜は系図により全て異なる。
 桓武平氏の流れの否定説。
 桓武平氏の流れの肯定説・・・熊谷直実と同族であった。
B祖父:北条時家→父:北条時方または時兼→北条時政
  諸系図とも一致している。
 伊豆国田方郡北条(静岡県伊豆の国市)を拠点としていた。


・北条時家・・・・『尊卑分脈』に「伊豆介」とある。
・北条時方・・・・「伊豆介」
  ・北条時方の弟:北条時兼・・・「北条介」
※北条氏の本拠は国府:三島や狩野川流域に近接して、
軍事・交通の要衝といえる位置にあった。
国衙と無関係とするのは考えがたいとする見解もある。
・北条時政・・・「介」の称号はない。
(★『吾妻鏡』)
   しかし、北条時政が在庁官人でなかったとは断定でき
   ない。


【2】北条時政の生涯
※北条時政の生まれ〜少年時代〜治承4年(1180)ついては
 謎に包まれている。

・???? 北条時政が生まれた。
  父・・・北条時方(または時兼)
  母・・・伊豆権守=伊豆掾:伴為房の娘


・???? 北条時政の元服
烏帽子親は蒲田権守:通清であった。
(★山内首藤系図)

●北条時政の子供
@先妻:伊東入道の娘(伝)
・北条三郎宗時
・北条四郎義時=江間小四郎
・北条政子
A後妻:大岡庄:牧宗親の娘:牧の方
  ・女
・女

・平治元年(1159) 平治の乱
父:源義朝が尾張で戦死。
※蒲田権守:通清は源頼朝の家臣として死んだ。
源頼朝は尾張の熱田神宮で平清盛の配下に捕えられた。
源頼朝は京の六波羅へ送られた。
  処罰は死刑が当然視されていた。・・・
 

・平治2年・ 永暦元年(1160) 2月9日
平清盛の継母:池の禅尼の命乞いで、死一等を減ぜられて
  伊豆に流刑となり、助けられた。
 3月11日 伊豆国の蛭ヶ小島へと流された。
  大炊御門経宗・葉室惟方・源希義も伊豆流刑になった。
  
 ※源頼朝が伊豆国へ流罪となった。
 伊豆国に配流とのみ伝わっているので、本当に蛭ヶ小
   島に流されたのかどうかは不明である。
源頼朝が平清盛により最初に流されたのは、
  現在の伊東市の基を作った伊東祐親の管理下であった。
(★曽我物語)

●源頼朝の伊豆伊東時代 13歳頃
源頼朝は伊東祐親に預けられ、伊東祐親の管理下に置かれた。
★おそらくは、流人とはいえ、母の弟:伊東祐範や源頼朝の乳母:
比企尼&夫:比企遠宗や娘夫婦から援助を受け、狩りを楽しむな
ど比較的安定した自由な生活をしていたと思われる。身の回りの
世話・食料調達をしてもらったのであろう。ある程度自由であっ
たが、謹慎の身の上、源氏一族の冥福を祈った。走湯権現(伊豆
山神社)や箱根権現にも参詣した。深く帰依して読経をおこたら
なかった。また、祈祷師を招いて法事も行った。地方武士として
敬虔な日々を送っていた。この敬虔な態度が平氏方の伊東祐範や
北条時政の信用を得ていった。

比企尼の3人娘達
@長女:安達盛長の妻・・函南の桑原・大竹地区・本領武蔵
比企尼の婿である安達盛長が側近として仕えた。
A次女:河越重頼の妻・・武蔵
B3女:伊東祐親の次男:祐清の妻
C比企尼の養子・・・比企能員
D伊東祐親の長男:祐泰は妻は狩野茂光の娘
E比企朝宗の娘:北条義時の妻

〇源氏方に従ったため所領を失って放浪中の近江源氏佐々木定綱
四兄弟が従者として奉仕した。
〇京にいる乳母の甥:三善康信から定期的に京都の情報を得ていた。

・仁安2年(1167) 21
 源頼朝は伊東祐親の下に在った。ここでは後に家人となる土肥
 実平、天野遠景、大庭景義などが集まり狩や相撲が催されて
 た。
(★曽我物語)


ところが、成長していく間に恋をした。
伊東祐親が大番役・・交代で京で朝廷や貴族の警備をする役
の遠征に出ている間に、
・・・伊東祐親の娘:八重姫(伊東祐清の兄妹)
との間に男子をもうけてしまった。
※二人が愛を語らった場所は伊東市の「ひぐらしの森」
 「音無の森」である。
伊東祐親が2年の任期を終え、帰国した。
伊東祐親はビックリした。
 「平家から源頼朝の監視を頼まれたのに
 源頼朝のためにあらぬ疑いをかけられては困る。」
 と考えた。
源頼朝&娘:八重姫の子:千鶴丸を松川の上流で川に沈めた。
そして、八重姫を江間小四郎=北条泰時に嫁がせた。
八重姫は狩野川に入水自殺をしてしまった(伝)。
 ※寺は真◆寺・・・願成就院に南100m

源頼朝は伊豆山神社に逃げ込んだ。
そして、狩野茂光や加藤景員に相談した。
狩野茂光から伊東祐親に
「北条時政の所で預かってもらおう。」
と言ったのであろう。
※『曽我物語』には次のような記載がある。
「仁安2年(1167)頃、21歳の頼朝は伊東祐親の下に在っ
た。ここでは後に家人となる土肥実平、天野遠景、大庭景義
などが集まり狩や相撲が催されている。祐親が在京の間に
頼朝がその三女:八重姫と通じて子:千鶴丸を成すと、祐親
は激怒し平氏への聞こえを恐れて千鶴丸を伊東の轟ヶ淵に投
げ捨て、八重姫を江間小四郎(北条義時)に嫁がせる一方で
頼朝を討たんと企てた。祐親の次男:伊東祐清からそれを聞
いた頼朝は走湯権現に逃れて一命を取り留めた。頼朝29歳
頃の事件であった。」


【2】源頼朝の蛭ヶ小島時代 29歳〜31歳
・治承元年(1177) 頃? 29歳
源頼朝は韮山の北条館に行った。
★おそらくは北条時政から
「狩野川の中洲にある蛭ヶ島に行ってね。」
と言われたのであろう。
源頼朝は29歳であった。

蛭ヶ小島(静岡県伊豆の国市四日町)
伊豆国での流人生活は史料としてはほとんど残っていない。
「蛭ヶ小島」は静岡県伊豆の国市にある。源頼朝の流刑地と
して知られている。しかし、歴史的には「伊豆国に配流」と
記録されるのみである。『吾妻鏡』では源頼朝の流刑地につ
いて「蛭島」と記してあるだけである。江戸時代に秋山富
南が「頼朝が配流となった蛭ヶ島はこの付近にあった。」と
推定し、寛政2年(1790)に「蛭島碑記」が建てられた。
長岡温泉の旅館の人の話だと「土地を寄付してくれた人が
いたから。」だという。従って、「蛭ヶ島」の正しい場所は
不明であり、当地が比定地としただけである。発掘調査で
は弥生・古墳時代の遺構・遺物のみである。しかし、これ
が伊豆の国市指定有形文化財となっている。


隣村の函南の桑原・大竹地区は安達盛長の所領であった。
ここでも、安達盛長の庇護を受けた。

●北条館=北条時政の館=伝:堀越公方館

●北条政子の産湯の井戸

・治承2年(1178)頃 30歳
※源頼朝は蛭ヶ小島からいろいろな場所を訪ねたであろう
@三島神社
A函南・・・安達盛長邸・仁田忠行邸・肥田邸
B韮山・・・北条時政館・江間館・江川(宇野源氏)邸
C修善寺
D加藤景廉邸・工藤系狩野茂光邸
E白浜神社
F松崎・・・円通寺

良橋太郎入道の娘:亀ノ前とできちゃった。
→また、ひと悶着あった。



〜〜〜北条政子との出会い〜〜〜〜〜〜〜
※北条時政の娘
@長女:北条政子21歳・・・一番美人
母は???
A次女:19歳・・・・やや不器量。源頼朝は恋文を書いた。
母は牧の方
B3女:17歳・・・・やや不器量。
母は牧の方
〇長男:北条泰時=江間小四郎
    母は牧の方
北条時政は源義朝の嫡男・頼朝の監視役となっていた。
妻・牧の方の実家は平頼盛の家人として駿河国大岡牧(沼津)
を知行していた。

●「蛭ヶ小島公園」の源頼朝&政子夫妻の像
源頼朝31歳
北条政子21歳
※次女:19歳に源頼朝は恋文を書いた。しかし、文使いの
安達盛長は、
「北条時政の長女:政子の方がいいであろう。ごたごたがあ
った時、器量がいい方が飽きが来ないであろう。」
北条政子は時政の先妻の子であった。20歳過ぎても嫁に
行かず、さびしい思いをしていたのであろう。

北条時政は大番役で京へ行っていた。
留守中に、2人は逢瀬を重ねた。
2人の大恋愛は注目の的であった。
都人の源頼朝は伊豆の娘たちの理想でもあった。

逢引き=デートは間もなく、北条時政の後妻:牧ノ方
の知るところとなった。
父:大岡庄:牧三郎宗親
牧ノ方→父:大岡庄:牧三郎宗親→京の北条時政
と知らせが伝えられた。
※父:大岡庄:牧三郎宗親は池ノ禅尼の子:平頼盛の家人で
あり、源頼朝の監視&保護の役を負っていた。

・治承3年(1779) 32歳
正月 北条時政は帰郷した。
同じころ、平兼隆が伊豆の判官として任用された。
平兼隆は元々は流人だったが平時忠と懇意であった
 ために目代となった。
が、実は北条時政は平兼隆に
「娘:政子を嫁にやる。」
と約束した。
北条時政は山木兼隆に嫁がせるべく、娘:政子を山木兼隆の
下に送った。



山木(平)兼隆&北条政子が祝言を挙げた。
その日、北条政子は山木の平兼隆邸から逃げ出し、
伊豆山神社に逃げ込んだ。
ドタキャン・・駆け落ち・・・
源頼朝&北条政子もワイルドな人生を歩んでいた。
 伊豆山神社で待ち合わせた。源頼朝と結婚した。
でも、これは年代が合わないので、「曽我物語」の虚構
であろう。


源頼朝は北条時政の長女:政子と婚姻関係を結び、
長女:大姫をもうけた。

治承3年の政変に伴う知行国主の変更により、坂東各地では
新知行国主に近い存在となった平氏家人や平氏方目代により
旧知行国主系の豪族達が圧迫されていった。

 

源頼朝は文覚上人(遠藤盛遠)から挙兵を促されていた。
 文覚上人のいた場所
説@伊豆国の奈古屋説・・★こっちかな?
説A松崎の円通寺説
 「源頼朝が挙兵した場合、旧知行国主系豪族の協力が見込ま
  れることが予想できる。」
 と密かに心構えを説いた。
 
北条時政は次第に北条政子&源頼朝を許す考えになって
 いった。




★明日も北条時政A・・・

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