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zoom RSS 箕輪初心◆源頼朝12:『治承4年(1180)8月29日房総〜関東平定』

<<   作成日時 : 2015/01/24 05:14   >>

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・治承4年(1180)8月17日に源頼朝は挙兵した。8月23日石橋
山の合戦で平家との戦いに敗れ、箱根山中を逃げ回り、土肥郷真鶴
(現真鶴町岩)から小船で安房国へ逃れた。源頼朝は千葉介常胤
・上総介広常など房総の武将の加勢を得て、安房・上総・下総と
次々と支配下にした。源頼朝は、源氏再興を目指し再び平氏討伐
にのり出した。
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(★源頼朝のいた真鶴の岩戸)
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8月27日 
 三浦義澄達は安房の国に逃げることができた。
 北条時政、岡崎四郎義実、近藤七国平等も土肥の郷岩浦より
 舟に乗って、三浦氏と同じく房州目指した。
 偶然にも海上で舟を並べ互いの無事を喜びあった。
 
 大庭景親は数千騎を率いて三浦に攻めたが、すでに三浦義明
 達が逃げてしまったあとなので帰ってしまった。


8月28日
 源頼朝は土肥の真鶴岩より舟で安房国を目指すこととなった。
 土肥実平は、貞恒という者に船を用意させた。
 真鶴より嫡男:土肥弥太郎遠平を北条政子の元につかわした。
 頼朝公が無事であることを伝えさせた。

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箕輪初心●群馬【蒼海(おうみ)城 】千葉氏→長尾氏→諏訪氏
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箕輪初心★千葉旅行17回一覧
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箕輪初心●千葉【関宿城】=疑似天守の博物館
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8月29日 
 源頼朝は安房国の平北郡猟島(現勝山竜島付近)へ上陸した。
 安房国の頼朝の上陸した地点については『吾妻鏡』の
「武衛相具実平、棹扁舟令着于安房国平北郡猟島給」
(頼朝、土肥実平を相具して、扁舟棹さして、安房国猟ヶ島に
着かしめ給う)
という記述などから現在の竜島付近が上陸地点として認定された。
(★某Hpより)
北条時政・和田義盛・三浦義澄らの出迎えを受けた。
無事を喜びあった。
 
※場所については諸説ある。
 頼朝上陸の伝説が残る州崎近くの入り江
 ★州崎神社の前を通ったがよらなかった。残念。
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箕輪初心▼D138千葉:西川名ダイビング
http://53922401.at.webry.info/201209/article_10.html
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9月1日
源頼朝は、北条達に
「上総介広常が早く参じるように申しつけろ。」
と命じた。房総に勢力を持つ上総広常と千葉常胤に加勢を要請
すべく使者を派遣した。
 源頼朝は江戸湾に沿って南下し洲崎明神に参詣した。

また,安房国の住人:安西三郎景益に対しても
「安房の役人どもを頼朝に服従させ、逆らう者は捕らえよ。」
と手紙を出した。
※嘗て父:源義朝の後見をしていた。

※安西氏と上総介・三浦・千葉三氏との関係は陸路は武蔵国、海路は
江戸湾を挟んでかなり隔たっているにも関わらず、意外に緊密であっ
た。特に三浦氏と安西氏との関係は、三浦義継の代に安西氏に入婿が
想定される。源頼朝の祖父:源為義が安房の丸御厨を伝領していた。
源義朝は「上総御曹司」と呼ばれていた。源義朝が少年期上総介に
預けられたからである 三浦ー安西ー上総介の連携の下に源義朝は
安房から上総に移り、上総介広常の後見を受けるようになったもの
と思われるのである。源義朝は三浦義明の娘を妻とし、長男:源義平
を設けた。
 「頼朝とは幼少より昵懇の安房国住人安西景益」
  (★『吾妻鏡』)
 ★保元・平治の乱以前から源氏の家人であったと推察される。
 安西・・・安房国府周辺の群房庄を含んだ安房郡の西部地域にいた
 豪族で安房国衙の在庁官人であった。
 ※安西景益は平松城(現南房総市三芳地池ノ内)城主だった。


9月2日
北条政子は伊豆の山中から秋戸郷にやってきた。
真鶴よりつかわされた土肥弥太郎遠平と会えた。
「頼朝公の無事でございます。しかし、安房へ向いその先の消息は
わかりません。」
と告げられたので、喜びと悲しみとで複雑な気持ちになった。

「治承4年(1180)に伊豆で敗れた源頼朝が安房へ逃れたときには那含
  の観音と鶴谷の八幡神が現れて頼朝に加勢のあることを告げた。
 加護を得た頼朝は鎌倉に入って武家の棟梁になることができた。」
 そこで衰えていた那古寺を氏寺にして七堂を建立した。」
(★那古寺の由緒書:『補陀洛山那古寺縁起』(文化2年の写)
 後、源頼朝の篤板東三十三所観音巡礼に那古寺がなった。
 源頼朝の戦勝祈願を成就した寺院であった。


9月3日 源頼朝は勝山から使者を送り、味方の参陣を待つこと
  にした。
  上総介広常の元には和田義盛が派遣された。  
  千葉介常胤の元には安達盛長が派遣された。

 源頼朝は大庭景親の軍勢に加わらなかった小山四郎朝政、
 下河辺庄司行平、豊嶋権守清元、葛西三郎清重等にも
 下野・下総・武蔵の有力豪族にも手紙を持った使いを送った。
  
 甲斐・信濃の豪族にも北条時政を派遣した。

 途中に敵である江戸、河越の領地があるため、海路を使うようにとの
 指示もあった。

9月3日同日 源頼朝は父の郎党であった坂東武者に手紙を送った。
 上総国の上総権介広常・千葉介常胤・・・
 下野国の小山朝政・宇都宮・・・
 下総国の下河辺行平・・・・・
 武蔵国の豊島権守清元・葛西三郎清重
 特に葛西清重は「源家において忠節を抽んづる者なり」と
 源頼朝は葛西清重には扱いが丁寧であった。
 「葛西庄は平家に荷担する秩父一族と隣接していたため進退が難し
  かろうから、海路を伝って来るように・・・。」
 と申し伝えた。
 源頼朝は大番役で上洛していた豊島右馬允朝経の妻には綿衣を調進
 するよう命じた。豊島朝経は葛西清重の兄:有経の子であった。

 夜半、平家に心を寄せる上総の住人:長狭六郎常伴が宿舎を襲うとの
 うわさがあった。逆に、三浦次郎義澄が先手を討って長狭常伴を討ち
 取った。


9月4日
 「安西景益、頼朝の御書を受けて一族と在庁両三輩を引きつれ、頼朝の
 旅亭へ参上する。」

 安房の役人:安西三郎景益は源頼朝の書状を読んで、
 安西一族ならびに高位の役人を引き連れて頼朝のところへ参上した。

 「また景益が直接広常のもとへ行く危険を説くため、頼朝は路次より
 駕脇廻して景益の館に入る。頼朝、和田義盛を上総権介広常のもとへ 
 遣わし、安達盛長を千葉介常胤のもとへ遣わして迎えを依頼する。」

 安西景益がいうには
 「安易に上総に入れば、長狭の六郎のような頼朝公の命を狙う者が
 うろうろしていますので、まずは使者を出して『迎えのために参上
 せよ』と命じなさい、」
 と進言した。
 源頼朝はひとまず安西景益の屋敷に行くことになった。
 
 そして、和田義盛を上総の介広常への使者とした。
 また、安達盛長を千葉亮常胤への使者とした。
 急いで各々の目的地を目指した。

9月5日
 源頼朝は洲崎明神に参り
 「使者に出した者達が無事帰ってきたならば,明神に功田を寄付
 する。」
 との御願書を奉じた。

9月6日
 夜になって和田義盛が帰ってきた。
 「上総介広常は千葉介常胤と相談して
 から態度を決める。」
 との返答があったことを伝えた。

9月7日
 木曽の源義仲が源頼朝が石橋山において戦ったことを聞き、
 木曽(長野)で兵を挙げた。

9月8日
 使者として甲斐の国に進発した北条時政は甲斐の源氏等を伴い、
 信濃(長野)の国に到着した。
 源頼朝軍に
 「参加する者はこれを味方に入れ、逆らう者はことごとく討て。」
 と命じた。

9月9日  千葉介常胤から
  「先祖以来の故地で、要害の地鎌倉にお入りを」
  という使者が来た。
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箕輪初心●千葉:猪鼻城→千葉城
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※千葉常胤の妻
    正室:秩父重弘の娘

※千葉介常胤の子
 長男:千葉胤正→千葉成胤
 次男:千葉(相馬)師常
 3男:千葉(武石)胤盛
 4男:千葉(大須賀)胤信
 5男:千葉(国分)胤通
 6男:千葉(東)胤頼
 7男:日胤

 安達盛長は千葉介常胤の屋敷に着くとすぐに部屋に案内された。
 部屋には息子:胤正&胤頼を両脇に従え、千葉介常胤が座っていた。
 千葉介常胤常胤は安達盛長の話を聞いていたがしばらく言葉を出さ
 なかった。
  まず、2人の息子が
 「源頼朝公が危機を脱し安房に来たことを喜び申す。源頼朝公に
 参軍することを待っていました。」
 ですから、早く命令書を出してほしい。」
 と安達盛長に伝えた。

 その後、千葉介常胤が
 「源氏が絶えて後、再び頼朝公が源氏を再興することを聞き及び、
 嬉しくて涙が止まらない。」
 とはじめて口を開いた。
 その後、祝いの酒をのみ、
 「ここは頼朝公にとって決して安心できる土地ではありません。
  早く相模の鎌倉に行かれなさい。」
  と伝える旨を盛長に申し付けた。


別の話もある。 
『安房国の頼朝のもとから派遣された藤九郎盛長が千葉屋敷を
 訪れ、常胤と面会した。常胤は頼朝の書状と院宣の写しを見せられ、
「この常胤をそれほど期待しておられるのか。」
 と感激する一方で、
「上総介とあいはかって返答申し上げる。」
と答えて、安達盛長を帰した。
 安達盛長は返答を持って安房へ戻る途中、馬を走らせていた千葉常胤
 の嫡孫・千葉成胤とたまたま出会い、これまでの事の次第を告げた。
 子細を聞いた千葉成胤は安達盛長を伴って館へ戻ると、常胤に
 「我々は上総介の家来にあらず、彼の下知に従うことはない。」
 と詰め寄り、千葉常胤は頼朝のもとに参ずることを承知した。』
  

 そして、すぐに軍勢を整えて頼朝公のところへ馳せ参じることを
 約束した。

 安達盛長が千葉より帰って報告した。


9月10日 結城浜の戦い
  千葉常胤は直ちにお迎えするとの返事をよこした。


9月11日
 源頼朝は丸五郎信俊を案内者にして安房国丸御厨を巡見した。
 「当所は、始祖源頼義が東夷を平らげたむかしの、最初の朝恩
  である。義朝が為義に講うて譲与をうけた最初の土地でもあ
 る。頼朝が昇進を祈願して、平治元年六月一日にこの土地を伊勢
  大神宮に寄進した結果、二八日に蔵人になった。」
 という由緒がある。
 源頼朝、宿望を達したあかつきに、安房国で伊勢大神宮に新御厨を
 寄進する旨の願書をしたためた。

9月12日
源頼朝は洲崎神社に神田の寄進状を送っった。

 千葉常胤は源頼朝を迎えに上総へ向かおうとするが、下総目代が
 平家方であった。

「我等が一族、尽く境を出でて源家に参らば、定めて兇害を挿むべし、
先づこれを誅す可か。」
と、6男:千葉胤頼が進言したため、千葉常胤は胤頼と成胤(嫡孫)
に目代の追討を命じた。

●千葉庄攻撃
   千葉氏 VS 藤原親正

 千葉胤頼と千葉成胤は早速手勢を集めて街道を西へ向かった。

9月13日 国府(市川市国府台)の目代館を取り囲んだ。
  しかし、目代はすでに守りを固めていた。
  千葉胤頼は夜陰にまぎれて目代館の裏手に火を放った。 
  目代館は混乱し、千葉胤頼は目代館で目代の首を挙げた。
 
  国府周辺は完全に千葉氏の支配下に入った。
 千葉常胤は成胤を千葉庄の守備に残した。
 
 千葉常胤は胤正・常秀(成胤弟)らと上総国へ向かった。
 

9月13日 源頼朝は300騎を率いて安房国を出て上総国に向かった。
  大きな勢力を有する上総広常には不安があった。


9月14日 藤原親正は千葉庄を攻撃してきた。
   千葉成胤と合戦となった。
  千葉成胤は次第に南に追い立てられいった。

 上総国府で源頼朝と千葉常胤が会っていた
  急使が到着した。
  千葉常胤は300騎で千葉に戻り、千葉成胤勢と合流して
  藤原親正を生け捕った。

9月17日 源頼朝は総国府(市川市国府台)に参着した。
「千葉介は子息太郎胤正、次郎師常、三郎胤盛、四郎胤信、五郎胤通、
 六郎大夫胤頼、嫡孫小太郎成胤等を相具して下総の国府に参会す。
 従軍三百余騎に及ぶなり。常胤先づ囚人千田判官代親政召覧せしめ、
 次に駄餉を献ず。武衛、常胤を座右に招かしめたまひ、すべからく
 司馬をもって父と為すべきの由仰せらる。」
 (★吾妻鏡)

 源頼朝は下総国府で千葉介常胤と合流した。
 千葉常胤が一族を率いてこれを迎えた。
 千葉常胤は子息6人(胤正・師常・胤盛・胤信・胤通・胤頼)と
 千葉成胤に郎党三百余騎を具して出迎えた。
 源頼朝は出迎えに感動し、千葉常胤に
 「須らく司馬(介)をもって父と為す」
  と言った。

 千葉氏の300騎を加え、600騎となった。

 千葉常胤は酒宴の席で、生け捕った藤原親正を源頼朝の面前に
  引き立てた。
 千葉常胤ははじめて勝利を手にしたのだ。

9月18日 千葉寺の戦勝祈願した。
  千葉常胤は源頼朝を誘い。
  「仏の御加護がなければ、利はないであろう。」
  と千葉寺に参詣し、武運を祈った。
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箕輪初心▲千葉寺:坂東33観音第29番札所=千葉氏の祈願所
http://53922401.at.webry.info/201404/article_11.html
 ・建久3年(1192) 鎌倉幕府の成立。
  源頼朝は原常胤に命じて千葉寺再建の工事を開始した。
  源頼朝は落成の時、仏師:運慶の愛染明王像を寄進した。
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  房総半島を進軍して武蔵国へ入った。
 平氏方の目代に圧迫されていた千葉氏、上総氏などの東国武士
 が平氏方目代や平氏方豪族を打ち破りながら続々と参集した。

 江戸重長が下総で源頼朝軍を足止めしようとした。
 しかし、源頼朝は武蔵に入った。

9月19日 源頼朝軍が隅田川畔で陣を張っていた。
  上総権介広常が上総国周西・周東・伊北・伊南・庁南・庁北郡の
 武士団2万余騎を引き連れて参陣した。

上総(千葉)広常は
「頼朝殿にとりつげい。広常が2万騎率いて参上した。」
 源頼朝は上総広常と会見した
しかし、源頼朝は上総広常の遅参を厳しく責めた。
馬からも降りなかった。
 (★集英社)
 源頼朝の「許容の気無し」の態度に、
 上総広常は「害心を変じ、和順」
(日和見を改め、頼朝に服属)した。
源頼朝は広常の遅参を叱責した。上総介広常は面食らって遅参を
 詫びると同時に頼朝を頼むに足る大将とみとめたとされる。
 (★ 『吾妻鏡』)
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●大寺城・・・・余湖さんのHp
www.geocities.co.jp/SilkRoad/1577/ooharamati.htm
 大原町教育委員会の立てた「上総権之介広常居館址」碑がある
※上総広常の館跡の正確な位置は不明である。
 千葉県夷隅郡大原町(現いすみ市)や御宿町一帯で中世城館址の
 調査が行なわれている。
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9月20日
 安房・上総・下総をはじめ上野・下野・武蔵の兵が参向したことから、
 源頼朝は
 「平氏を迎え討つため黄瀬川へ発向するよう。」
 と甲斐の武田信義に命じた。


9月29日 源頼朝は中原四郎惟重を葛西清重の許に派遣した。
 「大井(太日、大江)の要害を見るべき由」
 と偽って、未だ帰参しない江戸重長をおびき出し、暗殺するよう指示
 を出した。
 江戸重長は太日川(隅田川)河口周辺に大きな勢力を持っていた。
  厳密には、現大手町に居城していた。
 しかも、平家方に属していた。秩父一族の畠山重忠・河越重頼・
江戸重長は三浦義澄を討った人物であった。

  秩父一族:葛西清重を源頼朝は信頼していた。
 しかし、葛西清重は江戸重長の暗殺をしなかった。

 諸国の兵が2万5000余騎に膨れ上がっていた。 


9月30日? 源頼朝は「鷺沼」に逗留した。
 「鷺沼」は千葉県習志野市鷺沼?
  葛西清重の勢力下:東京都葛飾区新宿ともいわれている

10月1日 源頼朝は鷺沼で異母弟:醍醐悪禅師:阿野全成とあった。
 阿野全成は佐々木兄弟に助けられ、渋谷重国の館から会いにきた。
 阿野全成(義経の実兄。幼名は今若)は
 「泣いてその志に感じせしめ給う」
 と対面をすませた。


10月2日 源頼朝は上総権介広常・千葉介常胤が造った「舟橋」を
  渡って太井川・隅田川の両河を渡った。
  源頼朝は武蔵国に入った。
  豊嶋権守清元・葛西清重父子が真っ先に参陣した。
  その後、葛西清重の従兄弟:足立右馬允遠元が参陣した。

  源頼朝は江戸重長に味方に付くように誘いかけた。

 
10月3日   
 上総国で叛乱を起こした伊北庄司常仲(上総権介広常の甥)を討つ
 ため、源頼朝の命を受けた千葉介常胤が子息:千葉太郎胤正をはじめ、
 子息・郎従を上総国に派遣した。
 葛西清重も参戦して、大いに活躍をした。
 (★文治6年(1190)正月13日の胤正の上申)
「葛西三郎清重者、殊勇士也先年上総国合戦之時、相共遂合戦」
 とある。

 
10月4日 秩父平氏一族:畠山重忠・河越重頼・江戸
 重長らは、長井渡まで出掛けて源頼朝に服従を誓った。
 畠山重忠は17歳の若者であった。
 源頼朝は三浦義澄の敵:畠山重忠の参陣を許した。
 一度は敵対した秩父平氏系:畠山重忠・河越重頼・
  江戸重長らも従えることになった。
  →源頼朝の側近=鎌倉幕府の有力御家人となった。
    
10月5日 源頼朝の軍は数万騎の大軍に膨れ上がった。
  何らの抵抗を受けることなく、進軍した。

10月6日 源頼朝は「凡そ扈従の軍士幾千万を知らず」
  という大軍を率いて、鎌倉に入った。

  源頼朝は鎌倉に入った。
  ※源頼朝はかつて父:源義朝と兄:義平の住んだ
   鎌倉屋敷は淨福寺であった。
  
  大倉の地に大倉御所をかまえて鎌倉の政治の拠点とした。
  また、先祖の源頼義が京都石清水八幡宮を勧請した鶴岡
  八幡宮を移した。
  父:源義朝の菩提を弔うための勝長寿院の建立を行った。

  北条政子にも行き会えた。

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9月1日 大庭景親より頼朝挙兵の報は福原へもたらされた。

9月5日  平清盛は追討軍を関東へ派遣することを決定した。

9月22日 平維盛、忠度、知度らによる追討軍が福原を出立した

9月29日 京を発したのが遅くなってしまった。
7万騎の大軍となった。
 (★『平家物語』)
 しかし、所詮は寄せ集めであり士気は非常に低かった。

10月13日 平家軍は駿河国へ入った。
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・治承4年(1180)
●甲斐国では甲斐源氏が挙兵した
8月?日 武田信義、安田義定、一条忠頼ら甲斐源氏が挙兵し
甲斐国を制圧した。
(『山槐記』)
 

8月25日波志田山合戦
 大庭景親の弟:俣野景久 VS 駿河国目代:安田義定
   (『吾妻鏡』)。
 
10月14日 鉢田の戦い
  富士山の麓で目代:橘遠茂の3000余騎を撃破した
   (★『吾妻鏡』)。
 

 ●信濃国では源義仲が挙兵した。

 

10月16日 源頼朝は鎌倉を発した。
  源頼朝の軍勢は20万騎にのぼったという。
(★ 『吾妻鏡』)

10月17日 武田信義は平維盛に挑戦状を送りつけた。
  平維盛の追討軍の目的は源頼朝ではなく、甲斐源氏であった
   という見方もできる。

 
10月18日 甲斐源氏の軍勢2万余騎は黄瀬川沿いに陣する
  源頼朝の軍と合流した。
  源頼朝は10月24日に矢合わせとすると決めた。

10月18日 大庭景親は1000騎を率いて駿河の平維盛の軍
  に合流しようとするが、源頼朝&甲斐源氏に行く手を
 阻まれ、相模国に留まった。後軍を解散し逃亡した。
 大庭景親は後に源頼朝に降参するが許されず、斬られた。

10月19日 伊豆から船を出して平ら維盛と合流しようと図った
  伊東祐親・祐清父子が捕らえられた。

10月20日 富士川の戦い
  源頼朝+武田信義ら VS 京 平維盛軍
 源頼朝は平氏勢を撃破した。


  甲斐源氏の兵は富士川の左岸に進んだ。
  頼朝は駿河国賀島に進んだとある
(★『吾妻鏡』)
  
   平家方は右岸に布陣した。
   平家方は兵糧の欠乏により士気は低下し、戦える状態では
   なかった。
   平家方は4000余騎でかなり劣勢であった。
   さらに脱走者が相次いででて2000騎ほどに減ってしまう
   有様だった。
   (★『吾妻鏡』)

●逸話「斉藤実盛の坂東武者は強い。」・・・平維盛がびびった。
(★平家物語)

両軍が対峙した夜、平氏軍は突如撤退した。
  
●逸話「水鳥エピソード」
  その夜、武田信義の部隊が平家の後背を衝かんと富士川の
  浅瀬に馬を乗り入れる。それに富士沼の水鳥が反応し、大
  群が一斉に飛び立った。
  「その羽音はひとえに軍勢の如く」
  驚いた平家方は大混乱に陥った。
  (★『吾妻鏡』)
 「兵たちは弓矢、甲冑、諸道具を忘れて逃げまどい、他人の馬
  にまたがる者、杭につないだままの馬に乗ってぐるぐる回る
  者、集められていた遊女たちは哀れにも馬に踏み潰された。」
(★『平家物語』)
  総大将:平維盛は撤退をした。平家方は総崩れになって逃げ
  出した。
  遠江国まで退却するが、全軍散り散りになり、平維盛が京へ
  逃げ戻った時にはわずか10騎になっていた。
上総一族の大番役として京都にいた印東常茂は平家の先陣押領使
  として加わっていたが、上総広常は印東常茂を討った。
  上総介広常は名実とともに上総氏の当主になった。


 大規模な戦闘が行なわれないまま富士川の戦いは終結した。

源頼朝は
「一気に京へ攻め入ろう。」
と拳を上げて叫んだ。
「上洛していっきに平家を討て。」
と命じた。

しかし千葉介常胤、三浦義澄、上総介広常らはこれに反対した。
まだ源氏に服属しない常陸の佐竹義政・秀義らが背後にいた。
「東国を固めることが先決です。」
と主張した?と諫めた?

源頼朝はこれに従わざるをえなかった。
上総介広常のみが言ったという説もある。・・
「京をせめるより、関東を制圧する方が先です。」

源頼朝は佐竹、志田を攻撃することにした。
そして、引き返した。


10月21日 源義経が平泉から駆けつけてきて、兄源頼朝と
  劇的な再会をした。
●黄瀬川八幡神社の対面石
【1】頼朝と義経が対面し平家打倒を誓ったとされる
 現黄瀬川駅付近で 若い武者が源頼朝との対面を願い出た。
「弱冠一人」、
 (『吾妻鏡』)
若者20余騎を率いていた。源頼朝の挙兵を聞いて奥州平泉
 から駆けつけた弟の九郎義経であった。
 土肥実平、岡崎義実、土屋宗遠は怪しんで取り次ごうとしなかった
  が、騒ぎを聞きつけた源頼朝は
  「その者の歳の頃を聞くに、陸奥にいる九郎であろう。会おう。」
  と言い、対面がかなった。
  源義経の手を取って涙を流した。
  (★『源平盛衰記』)
一人の若者が黄瀬川の陣を訪れて鎌倉殿にお会いしたいと申し出た。
しかし土肥実平・土屋宗遠・岡崎義実らは怪しみ取りつがなかった。
頼朝はこの事を聞いて
「年のころを思えば奥州の九郎ではないか。会おう。」
と仰ったので、実平が案内したところ果たして義経であった。
義経は頼朝の御前に進み、互いに昔を語り合って涙を流した。
頼朝は「白河院の御代、曽祖父の陸奥守八幡太郎義家殿が後三年の
役で戦われた時、新羅三郎義光殿が兄の苦戦を伝え聞き、官職を投
げうって密かに奥州に下り、兄を助けてたちまち敵を滅ぼされた。
この度、九郎がやってきたのはこの先祖の吉例と同じである。」
と大そうお喜びになった。

★6冊中・・・5冊はこの説であった。

【2】普通は「弟よ」・「兄さん」と言って感激の対面を期待し
 たでしょうが・・。しかし、源頼朝は源義経を馬から降ろし、
 片膝ついて座ることを命じた。
 そして、馬上から源義経の肩に土足を置いた姿を、多くの
 従者に見せた(伝)。 
 源義経はこのことを恨んで、後に兄:源頼朝に背くことに
 なった(伝)。・・・こんな説も読んだ。
 まるで、忍城の???と上杉謙信みたい。
 ★歴史好きの方の中に「源頼朝が嫌い&憎い」という方が
 多いと思う。・・・実は私も嫌いで、ブログ取り上げるのに
 3年もかかった。
 源頼朝の再会場面は、徳川家康が「武士の世で、主人は1人」
 ということを宣言した現れである。徳川&松平の関係のように
 兄弟であれ、「自分が一番。」と例外なく伝えたかった。
 為政者って我が儘ですね。・・・何をか言わんや・・・・。

源頼朝と源義経が対面したのは頼朝勢が鎌倉から足柄・箱根を越え
黄瀬川に向かう途上の大庭野(神奈川県藤沢市大庭)となっている。
  (★『平治物語』)


※この後、佐竹秀義、志田義広、足利忠綱などの源頼朝に従わぬ豪
 族達との対立を制して、源頼朝は坂東での覇権を徐々に確立して
 いくことになる。

10月23日 源頼朝は相模国府に到着した
 源頼朝は、北条時政以下の諸将に論功行賞をおこなった。

10月26日 上総介広常に預けられていた宿敵の大庭三郎景親らを
  片瀬川で処刑した。

10月27日 源頼朝は佐竹氏討伐のために常陸国へ出立した。

11月4日 源頼朝は常陸国府に入った。
 上総権介広常・千葉介常胤・三浦介義澄・土肥次郎実平らを
  召集した。
  佐竹氏の縁者:上総権介広常に佐竹太郎義政を誘殺した。

 11月?日
金砂城攻撃
  佐竹一族:佐竹蔵人義季を味方に引き込んで攻めた。
  佐竹秀義は叔母夫の藤原秀衡を頼って平泉へ落ち延びた。

11月10日
 源頼朝は佐竹秀義を追い落として、常陸国府から鎌倉へ向かった。
 鎌倉の葛西清重の屋敷へ赴いて一泊した。
 葛西清重は妻を「青女(未婚の女性)」と偽って源頼朝の伽に
 差し出した。
 その後、葛西清重は佐竹攻めの戦功によって武蔵国丸子庄を下賜
 された。


11月17日、頼朝は鎌倉へ帰着した。


12月?日  新田義重はやっと味方になった。

・治承5年(1181) 正月1日 源頼朝は鶴岡若宮を参詣した。
 三浦介義澄、畠山次郎重忠、大庭景義が辻を警護した。
  源頼朝は騎馬で到着した。 
  宇佐美三郎祐茂、仁田四郎忠常が神馬一疋を曳いて奉納した。
  源頼朝は法華経供養と説教を聞いた後、屋敷へ帰還した。

  ※その後、正月の行事が次第に固まっていった。
   元旦をもって奉幣の日と定められた。 


★これから、戸隠スキー&妙高泊→妙高スキーだ。
明日は未定

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箕輪初心◆源頼朝12:『治承4年(1180)8月29日房総〜関東平定』 城・陶芸・ハイキング・ダイビング・スキー・旅行/BIGLOBEウェブリブログ
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