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zoom RSS 箕輪初心★源義朝(源頼朝の父)の生涯

<<   作成日時 : 2015/01/22 06:59   >>

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源義家の死後、河内源氏は内紛によって都での地位を凋落させていた。
都から東国へ下向した源義朝は、在地豪族を組織して勢力を伸ばした。
再び都へ戻って下野守に任じられた。東国武士団を率いて保元の乱で
戦功を挙げ、左馬頭に任じられた。しかし、3年後の平治の乱で藤
原信頼方に味方して敗北し、都を落ち延びる途中、尾張国で家人:長
田忠致に裏切られて謀殺された。
画像

 (★熱田神宮)
源頼朝は尾張の熱田神宮で平清盛の配下に捕えられた。





【0】源氏系図
河内源氏は@源頼信→A源頼義→B源義家→C源義国→新田氏の始祖
:新田義重と続く。

B源義家→義親→長男:為義&次男:義国

●長男:為義系・・・
長男:源義朝・・・義平・○・頼朝・○・○・範頼・○・義経
次男:源義賢・・・木曾義仲・・義高
3男:志田義広

●次男:義国系・・・・
長男:新田義重・・・里見義成・新田義兼・山名範頼など
次男・足利義康・・・足利義兼

当時・・誰が嫡流かは明確になっていない

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箕輪初心★久保田順一先生20141129『河内源氏の上野国:八幡荘』後編
http://53922401.at.webry.info/201412/article_12.html
・長保元年(999) 9月2日 源頼信が上野介に任官した。この時から、
上野国の交通の要所=八幡荘は河内源氏が継続して支配した。4代
目:源義国は八幡荘から、足利荘→やがて新田荘を開拓した。長男
:新田義重は源頼信→頼義→義家→義国と伝領した摂関家領上野:
八幡荘を継承した。次男:足利義康は父:源義国が開墾した下野国
足利荘を継承した。子どもは里見義俊、山名義範、新田義兼、世良
田(得川〜義季、額戸経義、祥寿姫、足利義清室、武田信光室、那
須与一室?、得河義秀?である。新田義重は現高崎市寺尾、長男:
里見義俊は現高崎市旧榛名町室田、次男:山名義範は現高崎市山名
を本拠地とした。

●【0】河内源氏@源頼信→A源頼義→B源義家→C源義国→
D新田義重
箕輪初心★久保田順一先生20141129『河内源氏&上野国:八幡荘』
http://53922401.at.webry.info/201412/article_11.html

●【1】新田義重の関係〜〜〜〜〜〜
箕輪初心★高崎:新田義重&茶臼山城
http://53922401.at.webry.info/201309/article_27.html
http://s.webry.info/sp/53922401.at.webry.info/201309/article_27.html

●【2】里見氏関係:里見義俊〜


●【3】山名氏関係:山名義範〜
箕輪初心●群馬:高崎「山名義範館」=子孫は山名宗全
http://53922401.at.webry.info/201102/article_31.html

箕輪初心★「上野国:山名義範〜応仁の乱:山名宗全」
http://53922401.at.webry.info/201309/article_26.html
http://s.webry.info/sp/53922401.at.webry.info/201309/article_26.html

箕輪初心●兵庫『出石:有子山城』=山名一族の古城
http://53922401.at.webry.info/201304/article_20.html

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【1】平安時代・・荘園の発達
開拓が進み、原野は田畑になっていった。
はじめは大きな力と財力を持つ東大寺や興福寺、春日大社や伊勢神宮
藤原氏など貴族が行った。「荘園」といわれた。

やがて,地方の豪族たちも農地を広げた
  坂東は利根川や多摩川,相模川などの大きな河川が多く、平野や
  湿地帯は田畑に変わっていった。
 しかし、度々豪族の領地争いや、中央からきた国司や目代に
 領地をおびやかされた

【2】「武士のおこり」→武士の棟梁
農民はやがて武装化した。
 親戚や一族で結束を強め土地を守るために武装したのだ。
 武士の始まりであり、武士団の形成となった。
 
さらに武士団同士が結びつくとには身分の高い人物=武士の棟梁 
とリーダーに選んだ。それらが源氏や平氏である。



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【3】源義朝
父:源為義
 兄弟・・・義朝、義賢、義憲、頼賢、頼仲、為宗
   為成、為朝、為仲、行家、鳥居禅尼、他


・保安4年(1123) 源義朝は源為義の長男として生まれた。
  母は白河院の近臣:藤原淡路守忠清の娘であった。
  
 河内源氏の為義は白河院の信頼を失い、伊豆大島に流された。
討ったのは伊豆の狩野茂光を大将に北条時政・加藤景員・
景廉らであった。
 
・????年 少年時代
 源義朝東国に下向し、安西氏・三浦氏・上総氏と
 後見を受けるようになった。
 特に上総氏の庇護を受けて成長した。
 父:為義が安房国の丸御厨を伝領していたことからである。 

・青年時代
 源義朝は高祖父:源頼義ゆかりの鎌倉の亀ヶ谷に館を構えた。
 鎌倉を根拠地に独自に勢力を伸ばした。
  源義朝は河内源氏の基盤が東国として勢力を伸ばした。
  

 相馬御厨・大庭御厨などの支配権をめぐって在地豪族間の
 争いに介入していった。


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★久保田順一先生によると、高校時代にならったけれど
1)「守」の位を豪族も官位を欲しがった。任期は4年。
 田畑の税金が免除されるからである。
2)地方豪族は「在庁官人」の位を欲しがった。
  は権力を持つことができるので、坂東
 は新しく開拓された荘園の境界争いや跡継ぎの問題が多かった
 在庁官人になるかならないかは豪族にとって大きな死活問題
 であった。
 在庁官人・・国衙=天皇領行政の実務する地方官僚である。
  中央派遣の国司が現地で採用する実務官僚である。
  在庁官人は郡司を輩出していた地方豪族や昇進の見込みが
  なくなった国司の子孫が多かった。武士化していた。

 目代・・京都在住の遥任国司が現地に行かないで私的に代官を
  派遣した家人など。目代は国司の家礼が任命されることが
  多かった。
遙任国司・・任命されたが現地に赴任せず京都にいる国司。
 例・・・目代:山木判官平兼隆

※群馬の石上(いそのかみ)=長野氏の例にとると
■天喜2年(1054)「上野権介正六位石上朝臣兼親」
   (★除目大成抄→★峰岸純夫先生) 
■建久3年(1190) 12月「上野国留守所下文」・・・
「目代左衞門尉藤原」
「惣検校石上」
「散位石上」・・・らが、榛名寺領への健児(こんでい)
 ・検非違使(けびいし)の入部を止める。」
 (★榛名神社文書)
*近藤義雄先生・・・藤原某の所領で・・・
  現地に、bQの石上&bRの石上が来た。
目代(もくだい:国司代理人)は藤原であった。
※在原業平の子孫である奈良の石上氏
(後の箕輪城・鷹留城・厩橋城=前橋城の長野氏先祖)が
 在地国司の惣検校(国の社寺点検)・散位(上級役人)として
 2名の石上(いそのかみ)の名と花押があった。
しかし、2年後の鎌倉幕府の成立に伴い、石上は無用の長物に
なった。(★近藤義雄先生)

★★★久保田先生の新説
@八幡庄・・・・・新田一族の私領=荘園
久保田順一先生20141129『河内源氏の上野国:八幡荘』
『源頼信→源頼義→源義家→源義国→新田義重→里見義俊&義成
&山名義範』・・・・・・・
源頼信が上野介任官時に摂関家領として「八幡荘」が立券された。
源頼義→源義家→源義国→源義重が相続した。
新田荘とともに新田氏の根拠地となった。
新田氏一族の里見氏、山名氏は八幡荘内の里見郷、山名郷より
それぞれ発祥した。・・・
 (新田義重→新田義兼・里見義俊・山名義範・豊岡??)
A長野郷・・摂関家:藤原氏の荘園で上野国最大の公領
 高崎の浜川・烏川の左岸〜倉渕〜榛名神社〜榛名山南部
〜箕郷町〜・・・
※「惣検校石上」・「散位石上」・・石上=長野氏は現地で年貢を
   徴収する役人だった。     
 
@守「かみ)」・・・国司。都から派遣された貴族や皇族であった。
上野国守 阿保親王
   承和元年834年月21日〜〔日本後紀〕
(★長野氏の先祖と考えられている。)
平安初期に上総、常陸、上野に限って、国司の長官には親王
  しかなれないという決まりができた。
  源義朝・・・下野守

A介「すけ」・・・国司を補佐する次官。助役クラス
源上野介頼信(源頼朝の6代前の河内源氏)
長保元年999年9月2日〜長保3年(1001)2月。従四位下
三浦介義澄・千葉介常胤・上総介広常

B掾「じょう」・・裁決する権限を持つ。部長クラス
上野掾源満頼(源経基の子)

C目「さかん」・・地域をまとめる権限を持つ。課長クラス 


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@相馬御厨は現在の茨城県取手市・守谷市・千葉県柏市
 流山市、我孫子市にあった寄進型荘園である。
 「御厨(みくりや)」は皇室や伊勢神宮や下鴨神社の領地を意味
  している。相馬御厨は伊勢神宮の荘園であった。千葉常重が
  寄進した。 

・康治2年(1143) 源義朝が介入した。
  源義朝は上総国の上総常澄のところにいた。
  上総常澄は父:平常晴と折り合いが悪かった。
  そのため、上総常澄は千葉常重が養子になった。
  相馬郡を譲られた。
  源義朝は千葉常重から相馬郡の圧状を責め取った。

・天養2年(1145) 源義朝は相馬郷を避状(さがりじょう)=下文
  を提出した。つまり、伊勢神宮に寄進した。
  子:千葉常胤は必死で取り戻そうとした。


Aそして、「大庭御厨の濫妨」・・・・
 大庭の御厨は鎌倉権五朗景政が現藤沢市〜茅ヶ崎市にかけて開発
 した農地であった。13の村があったという。

・永久4年(1116) 鎌倉権五朗景正が立荘したものを、一族が下司
 を継承した。大庭氏を称する。
 鎌倉景正→鎌倉 景経 →大庭景忠
 (★『尊卑分脈』)
 景村(景正の叔父) →景明 →大庭景宗
  (★『桓武平氏諸流系図』)
 源頼義が平直方の娘婿となって鎌倉に移住した。
 鎌倉景通、景正らは源頼義、子:八幡太郎義家の郎等となった。

・永久5年(1117) 鎌倉景正は伊勢神宮に寄進した。
  大庭御厨となったらしい。

源義朝&源義朝の郎党三浦一族・中村一族は相模
 の有力な在庁官人であった。
 
@三浦一族・・・源義朝の妾は三浦義明の娘であった。
●三浦義継の子・・・妻:笠間常宗の娘
長男:三浦義明
次男:津久井義行
3男:蘆名為清
4男:岡崎義実・・・妻は
長女:大友経家室
次女:中村宗平室

●三浦義明・・・妻:秩父重綱(畠山重忠)祖父の娘:
長男:杉本義宗
次男:三浦義澄
3男:大多和義久
4男:佐原義連
5男:多々良義春
6男:長井義季
7男:杜重行
長女:源義朝の側室(長男:源義平の母)
次女:畠山重能室・・・埼玉県の横瀬:根小屋城→深谷川本
(畠山重忠・河越重頼・江戸重長・・・の母)

▲▲▲〜〜〜三浦義澄 VS 畠山重忠〜〜〜〜▲▲
治承4年(1180) 畠山重忠・ 河越重頼・江戸重長
8月25日 小坪の合戦・・・従兄弟同士の戦い
  三浦義澄 VS 畠山重忠・ 河越重頼・江戸重長
 
8月26日 三浦義澄は、衣笠城に籠城した。
 三浦一族の長老三浦介義明(89歳)を残して・・・
  畠山重忠・河越重頼・江戸重長は 三浦義澄を討った。
★三浦介義澄は外孫達に殺されたのだ。
 三浦義明は船で安房に逃れた。北条時政らも安房に逃れた。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
3女:金田頼次室
4女:長江義景室
5女:大河戸広行室


●三浦義明&弟:和田太郎助弘・・・三浦半島
★既に、三浦義明の娘が源悪源太義平を産んでいた。
 中村宗平・・・・・駿河→相模小田原
 
 三浦一族も中村一族も丘陵部が多く,水田が少なかった。
 つまり、相模の中央に近く豊かな稲作地域への進出したかった。

・天養元年(1144)
 9月 鎌倉に拠点を置いていた源義朝が周囲の在庁官人:清原安行
  と字新藤太らを大庭御厨内鵠沼郷の伊介神社に派遣した。
  1人を殺害し,神官8人に傷を与えた。
  伊勢神宮への供祭料:魚・大豆や小豆を奪った。
  御厨廃止を宣言した。

 10月 源頼清、清原安行、三浦義継、三浦義明、和田助弘、
  中村宗平以下1000余騎を大庭御厨内に派兵した。
  源義朝軍が乱入した。
  大庭氏側は鎌倉景正の孫:大庭景宗が下司であった。
  御厨の大庭景宗の屋敷から私財を強奪した。
  さらに、伊介神社の神官6名を死傷させた。

  源義朝は大庭御厨の鵠沼を自分の領地であると主張し
  侵入し、農作物を奪い 御厨の農民を殺したのだ。
 
 源義朝が三浦氏や中村氏を従えて大庭御厨に侵入した。
 大庭御厨は大庭氏が正式に伊勢神宮の領地ということにして
 貰うための努力をした。やがて国の御厨として認められた。
 大庭一族が伊勢神宮領に「不輸の権・不入の権」を手に入れ
 たからである。
 源義朝も手が出せなくなって侵入しなくなった。
 
 
 その後、三浦義明の弟:岡崎義実を大住郡(茅ヶ崎)岡崎
 に配した。
 さらにその子:佐那田与一義忠を岡崎の西方の真田(平塚市
 真田)に配した。
  (・久寿2年(1155) 岡崎義実の子として誕生。)


 
●中村宗平 
  長男:中村太郎重平
  次男:土肥次郎実平→長男:遠平
  3男:土屋三郎宗遠→養子:土屋義清(岡崎義実次男)
  娘・・岡崎義実(三浦義明の弟)の妻→長男:佐那田義忠

 中村宗平は長男:土肥実平を湯河原・真鶴・早川に配した。
 中村宗平は長男:土屋宗遠を土屋に配した。
 
  土屋と真田は距離も近く姻戚関係を結んだ。
  中村一族と三浦一族の結びつきが強くなった。 
 つまり、平野部を取り囲む源義朝・三浦一族と中村一族の包囲網
  ができあがった。
 源義朝は相模国一帯に強い基盤を持つに至った。
源頼朝の父:源義朝が関東に勢力を広げたのだ。

 ★大庭氏は渋谷氏や糟屋氏と手を結んだが、結びつきは強くなか
 った。

 ※ライバルは、源義朝の伯父:源義国であった。
 源義国は上野国八幡荘&下野国の足利荘→上野国新田荘に
 本拠を置いていた。
 源義国と源義朝の武蔵国などで支配権で競合することとなり
 緊張を生んだ。
 
 しかし、源義国の指揮下にいた従兄・河内経国が仲介し、
 源義国と源義朝が同盟を締結し盟友となることで解消された。
 源義国の次男:足利義康と相婿となった。

 
 源義朝は20代前半で南関東の武士団を統率する地位を確立し
 た。中央進出へのきっかけをつかんだ。


・久安3年(1147) 源義朝は長男:源義平に東国を任せて都へ戻った
  源義朝は正室の熱田大宮司の娘:由良御前との間に嫡男(3男)
 の頼朝をもうけた。
 
 
 母の実家の白河院近臣:藤原忠清の後ろ楯を得て、鳥羽院や
 藤原忠通に接近した。

・仁平3年(1153) 31歳
源義朝は従五位下下野守に任じられた
  河内源氏の受領就任は源義親以来50年ぶりであった。

  父・源為義検非違使・摂関家
    VS
子・源義朝・鳥羽院
  
 寺社勢力の鎮圧や院領支配のためには東国武士団を率いる
 源義朝の武力を必要としていた


・久寿2年(1155) 大蔵合戦
 源為義の長男。源義朝は嫡男:源義平は鎌倉から北に勢力を
  伸ばした。
 源為義の次男:源義賢上野国:多胡郡から畠山重忠の娘を
 妻にした。
  武蔵大蔵に館を持ち勢力を南に伸ばしていた。
 ・・・権益がぶつかった・
 源義朝は父:源為義の意向を受けて東国に下向した。
  次男:源義賢+畠山重忠・・・

 【大蔵合戦】
  弟:源義賢を長男:源義平に討たせた。
  対抗勢力を排除して坂東における地位を固めた。

  父:為義と子:義朝の対立は深まった。
 
・保元元年(1156)7月 保元の乱
崇徳上皇方・・・父:源為義、3男:源頼賢・8男:為朝
   VS
後白河天皇方・・長男:源義朝*平清盛・信西・藤原忠通
  東国武士団を率いて参陣し後白河方の中信となって戦った。

 結果・・後白河天皇方が勝利
 7月30日父:源為義&頼賢らは源義朝に処刑された。
 
  恩賞として左馬頭に任じられた。


・平治元年(1159) 平治の乱
源氏 VS 平氏

 結果・・・平清盛の勝利

 源義朝は東国への脱出を図ったが、途中で源頼朝とはぐれた。
 源朝長・義隆を失った。
 12月29日 源義朝は尾張国内海荘司:長田忠致邸にたどり着いた。
 しかし、源義朝&鎌田政清(乳兄弟)とともに長田忠致に殺害された。

  源義朝は尾張で戦死したのだ。



・平治2年(1160)
1月9日  
  源義朝と鎌田政清の首は京都で獄門に晒された。

1月18日
  長男:源義平は難波経房の郎等・橘俊綱に捕らえられた。
  21日、六条河原で処刑された。


2月9日 源頼朝も平頼盛の郎等:平宗清に捕まった。
  源頼朝は京の六波羅へ送られた。処罰は死刑が当然視され
  ていた。
  平清盛の継母:池禅尼の嘆願で助命された。
  池禅尼は待賢門院(後白河上皇:上西門院の母)近臣家
  出身だった。
  上西門院と近臣・熱田大宮司家が繋がりがあった。
  そして、源頼朝は上西門院の蔵人をつとめていた。
  平清盛は助けた。・・・★失敗のはじまりだった。


・・・・※大庭景親も当然打ち首のはずだった。
   しかし、平清盛が助けた。・・・恩義を感じた。



・治承4年(1180) 源頼朝の挙兵
  大庭景親は源頼朝の追討軍の大将になった。



●源義朝妻 
  正室:藤原季範娘(由良御前)
  側室:常盤御前、三浦義明の娘、波多野義通の妹
   遠江国池田宿遊女、青墓長者大炊 

●源義朝の子ども
長男:義平・・・・三浦義明娘説が有力。源義賢を討った。
次男:朝長・・・・波多野氏の妹*娘?と婚姻関係を結んだ。
3男:頼朝・・・・母:藤原季範の娘=由良御前★身分が高い。
4男:義門
5男:希義
6男:範頼・・・・母:池田宿(=磐田市)の遊女?
7男:阿野全成
8男:義円
9男:義経・・・・母:常盤御前
長女:坊門姫
次女:女子?




◆参考文献・資料
・「武士の誕生」:関幸彦著
・河内源氏:
・新田義重:久保田順一著
・源頼朝:学研・・・・・など多数。



◆参考サイト
・ウィキペディア等

〜〜〜源頼朝&伊豆シリーズ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
箕輪初心★源頼朝@伊豆「伊東→蛭ヶ小島へ」
http://53922401.at.webry.info/201412/article_19.html

箕輪初心▼伊東ダイビング2回
http://53922401.at.webry.info/201307/article_29.html

箕輪初心★源頼朝A伊東祐親の娘:八重姫の悲話&
『伊東祐親の生涯』
http://53922401.at.webry.info/201412/article_20.html

箕輪初心★源頼朝B【蛭ヶ小島3年北条政子との結婚】
http://53922401.at.webry.info/201412/article_24.html

箕輪初心★源頼朝C「治承4年(1180)8月17日の挙兵
〜19日石橋山の合戦前」
http://53922401.at.webry.info/201412/article_25.html

神奈川▲源頼朝D【治承4年(1180)8月19日〜22日土肥館】&
土肥実平の生涯
http://53922401.at.webry.info/201412/article_26.html

箕輪初心▲源頼朝E【治承4年(1180)8月23日石橋山の戦い
&佐那田神社】
http://53922401.at.webry.info/201412/article_27.html

箕輪初心▲源頼朝F治承4年(1180) 8月24日逃亡〜梶原景時
〜土肥城〜箱根神社
http://53922401.at.webry.info/201412/article_28.html

箕輪初心▲源頼朝G治承4年(1180)8月27日【荒井城】&
【詠い坂】
http://53922401.at.webry.info/201412/article_29.html


箕輪初心▲源頼朝H【治承4年(1180)8月28日:岩からの源氏
再興の舟出】
http://53922401.at.webry.info/201412/article_30.html

箕輪初心▲源頼朝10:埼玉【阿保氏館跡】&「阿保氏の歴史」
http://53922401.at.webry.info/201501/article_6.html





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