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zoom RSS 箕輪初心●静岡【興国寺城】:北条早雲築城→今川→北条の塀和→武田信玄

<<   作成日時 : 2014/12/06 07:21   >>

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★駿東:沼津付近も今川・北条・武田という3つの強大な戦国大名
の勢力がぶつかり合った戦いの舞台となった。上野国の3つ巴の
争奪戦と同様である。興国寺城は 曾我氏→今川氏の家臣:葛山氏
→北条早雲が築城→北条早雲家臣:塀和伯耆守→武田信玄親族:穴
山信君の家臣:保坂掃部・向井伊賀守正重・曾根下野守正清らが在
番・・・・。塀和伯耆守は武田氏が滅んだ時、八王子にいて、武田
家臣の受け入れた。上野国の武田24将:小幡信貞も助けられた。
た。天正16年(1588)頃は上野国:倉賀野城&箕輪城の最後の城代
天正18年(1590)豊臣秀吉の北国軍:真田昌幸が箕輪城の受け取り
をした時、塀和伯耆守はとんずら(逃亡)をした。残った保科正直
(徳川異父兄弟→長男:保科正俊・次男は内藤昌月:まさあき)は
箕輪城の引き渡しをした。明日は保科正直&内藤昌月を紹介して
みよう?

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  (★たぶん、この辺り?)


■見所・・・興国寺城は連郭式縄張りで、上から北曲輪・本丸
       ・二の丸・三の丸の順に配置されている。
   最大の見所は
   @北曲輪と本丸の間の大空堀。
   A本丸・・・東西60m、南北50mの天守台跡(伝)。
   B天守台跡の南面の石垣遺構。
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〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
箕輪初心▲静岡裾野【葛山城】大森弟系葛山→北条綱成娘婿:
葛山広元→武田信玄6男
http://53922401.at.webry.info/201412/article_5.html

箕輪初心▼駿河:【深澤城】:今川義元→北条綱成→武田信玄
http://53922401.at.webry.info/201412/article_4.html

箕輪初心▲静岡小川町『箱根竹ノ下の戦い』
(足利尊氏VS新田義貞)
http://53922401.at.webry.info/201412/article_3.html

箕輪初心▼相模&駿河【足柄城】:北条氏の武田氏対策の城
http://53922401.at.webry.info/201412/article_2.html

箕輪初心▲神奈川【河村城】:河村氏→上杉氏→北条氏
http://53922401.at.webry.info/201412/article_1.html

箕輪初心▲神奈川【小田原城の歴史詳細】:大森氏→北条氏5代
http://53922401.at.webry.info/201411/article_26.html




◆訪問日・・・平成21年(2009)9月22日
御殿場の深沢城・御殿場IC・東名高速・沼津IC・・・
道を迷いながら、伊豆縦貫道の長泉・三島・沼津IC・・・
国道1号・・・脇道・・・
地図で「根小屋・青野・原」などの地名を頼りに全くの感で
・・・きっと興国寺城とかってに決めて、地元民に
「興国寺城はどこですか?」
と聞きながら、城を目指した。

@興国寺城は、根古屋と青野の境にある篠山という愛鷹山の
 尾根を利用して築かれている。
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A興国寺城は「根小屋」信号の手前にあった。
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 青いシートの発掘調査跡は四の丸?・・・坂を登る。
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B三の丸・・・ここも広い。


C二の丸穂首神社駐車城・・・車4台?・・・
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 先人がいて、教えてくれた。
「ここは、なかなか整備が進まなくてね。」
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D興国寺城案内板・説明版
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「興国寺城は戦国大名北条早雲(伊勢宗瑞)が初めて城主となった城
であり、彼の旗揚げの城としても有名な城です。早雲ははじめ伊勢
新九郎長氏と称し、駿河守護今川義忠の側室であった妹を頼って今
川家に身を寄せていましたが、義忠の急死後、今川家の相続争いを
まとめた功績に寄りこの城を与えられ、その後伊豆国を治めていた
堀越公方の内紛に乗じて足利茶々丸を滅ぼし伊豆国の領主となって
韮山城に移り、戦国大名へと成長しました。
 その後、興国寺城は、駿河、甲斐、伊豆の境目に位置していたた
めに今川、武田、後北条氏の争奪戦の渦中に置かれ、城主が目まぐ
るしく替わりました。天文年間に今川義元が小規模な構造の城であ
った興国寺城を普請し、城域を拡大しました。 
 永禄年間には駿河に侵入した後北条の城となり、武田信玄の攻撃
を退けました。
 元亀年間の武田・後北条の同盟成立以降は武田方の城となり、武
田一門穴山梅雪の持城となりました。天正10(1582)年に武田勝頼
が滅亡した後、城主の曽根下野守正清が開城し、徳川方の城となり、
家康の関東移封後は豊臣秀吉の武将中村一氏の家臣河毛重次が
城主となりました。関が原の合戦後には、三河三奉行の一人で「三
郎兵衛」と称された天野三郎兵衛康景が城主となりましたが、康景
の逐電により廃城となりました。
(★看板資料より)

興国寺城A
 興国寺城は愛鷹山の山裾が浮島沼に向かって張り出した低い尾根
上に立地しており、山の根を通る根方道と浮島沼を横断して千本浜
へ至る江道・竹田道との分岐点に当り、かつては伊豆、甲斐を結ぶ
交通の要衝であった。
 城郭の遺構を良く残しているのは古城と呼ばれるこの地域で、浮
島沼と谷戸に三方を囲まれ、深田足入と呼ばれる天然の泥田堀に守
られていた。古城は土塁と空堀によって区切られた本丸、二の丸、
三の丸の3曲輪から成る主郭部と大空堀の北側に付属する外曲輪
によって構成されている。
 本丸北側土塁は一段高く築かれ、中央部の南面には石垣が積まれ、
天主台と呼ばれる平坦部になっており、発掘調査によって2棟の建
物址が検出され、礎石が残されている。西端も狭い平坦部が設けら
れ、西櫓台と呼ばれている。
 本末は四方を土塁によって囲まれ、南は空堀で区切られていたが、
現在南側土塁は崩され、空堀も埋められているが、ほぼ 旧状をし
のぶことができる。この部分に入口が設けられており、土橋また木
橋があったと推定される。本丸の東南には土塁上に平坦部が設けら
れ、石火矢台と呼ばれていた。ここからは本丸土塁の裾を通って大
空堀に抜ける小道が残されている。
 二の丸は土塁がほとんど崩されており、三の丸との境界がはっき
りしないが、かつては土塁によって囲まれ、空堀によって区切られ
ていた。南側土塁中央に入口があり升形が設けられていた。
 三の丸は南部を県道が横断し、宅地となっているが、南・東の土
塁は部分的に残され、ほぼその範囲を知ることができる。かつては
東南隅に大手口の虎口が設けられており、西北隅にも入口が設けら
れていた。
 周囲の深田足入と呼ばれた泥田堀はほとんど埋められているが、
ところどころ小さな池や沼として残され、そのおもかげをしのぶ
ことができる。
 (★看板資料より)

D天野三郎兵衛康景の説明板B
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「天野三郎兵衛康景は元の名を景能といい、天文6(1537)年三河
国に生まれ、徳川家康に仕えました。岡崎三奉行の一人に任ぜ
られ、「彼是偏無しの三郎兵衛」と評される公平な人物でした。
後に家康の「康」の字を拝領して康景を称し、慶長6(1601)年
関ヶ原の合戦後1万石を与えられ、興国寺城主となりました。
伝えられるところでは、慶長12(1607)年、家来の足軽が城の
修築用の竹木を盗もうとした盗人を殺害する事件が起きました。
これが天領の農民であったことから、康景と代官井出志摩守正
次の争いになりました。家康の側近本田上野介正純は康景に足
軽を差し出すよう勧めましたが、康景は足軽をかばって城を棄
て、行方をくらましてしまいました。このため康景は改易にな
り、興国寺城は廃城となりました。その後、康景は慶長18
(1613)年、相模国沼田村(神奈川県南足柄市沼田)で没しました。
墓は沼田の西念寺にあります。
 (★看板資料より)

 
北側に向かって天主台に登れるようになっていた。
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D天守台石垣・・・
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E天守台・・・昭和57年には天守台跡の発掘調査が行われ、
       東西2棟の建物の礎石が検出された。
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F西楼台
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★眺めが良かった。
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・楼台の北の堀
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▼天守台に戻ってから下った。
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G大空堀・・・
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 大空堀はものすごく深くて大きな堀である。
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  奥の方は崩れる恐れがあるのか発掘調査中なのか
  ・・・立ち入り禁止だった。
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  東の大空堀も見事であった。
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   幅30m以上あるかもしれない。
   でも、立ち入り禁止だった。
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H再び登った場所は広くなっていた。
  北側に東名高速道路が走っている。
 後で調べたら、新幹線の所までまで続いていた。

I二の丸・・・南側に城が続いていた。
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J三の丸・・・三の丸南端にも土塁の跡が残存。

K南はかつての湿地帯、浮島ケ原の東端で人馬の踏み込み
 が困難な要害地だったらしい。
 (★余湖さんのHP)
  今(2009年9月)ブルーシートで覆われていた。
  発掘調査中であろう。
  その南に、わずかに土塁があった。
  ★上記の写真・・・

L根小屋・・・武田氏の町の名前である。
  城地の一部を東西に根方街道が通過する一方、
  南に竹田道が伸び、根方街道と東海道を結ぶ交通の要衝
  でもあった。
  竹田道=武田道の意味であろうと想像される。
  (★余湖さんの説)
  ★上記の写真・・・




■▲● 興国寺城の歴史 ■▲●
●伊勢新九郎盛時(北条早雲)は、駿河の守護今川義忠の
 側室であった妹を頼り、今川氏に身を寄せていた。
 伊勢新九郎盛時は今川義忠の正室:「北川殿」の兄である。
 戦国大名に発展させた今川氏親の叔父である。

・鎌倉時代
 大森氏は駿河国駿東郡の国人となった。

・鎌倉時代中末期以降
  北条氏得宗被官だった。

・室町時代初期
  鎌倉府は関所からの関銭を経済的基盤としていた。
  大森氏は、駿東郡から箱根道に連なる交通網を押さえていた。

・応永23年(1416)上杉禅秀の乱
  前関東管領である上杉氏憲(禅秀)が鎌倉公方の足利持氏に対して
  起した反乱である。上杉禅秀=上杉氏憲である。
  西相模の御家人・・・土肥・中村・二宮・土屋など中村一党の勢力
  松田・河村の波多野一党、及び曽我氏などが知られていた。
  大森頼春は鎌倉公方に仕え。今川範国の軍勢に組みした。

  上杉禅秀方の土肥氏を滅ぼして、相模・伊豆に勢力を広げた。
上杉禅秀の乱の鎮圧に功績を挙げた。
  西相模の旧勢力に代って地盤を西相模に移した。
  大森頼春は駿東一帯を支配したが伊勢原に本拠を移した。
  葛山城には足利一族:大森頼春の弟:葛山氏が居住した(伝)。
   ※葛山城主の葛山氏は初代大森氏の弟一族である。
    
 葛山氏は駿河守護職:今川氏の被官となっていた。
 
 富士川以東=駿東は今川氏の直接支配は及ばず、葛山氏は
 半独立勢力であった。
 ●沼津付近は、曾我氏にかわって今川氏の家臣:葛山氏が
 支配した。

 ※今川氏と北条氏 VS 甲斐:武田信虎と対抗していた時代
 には、安泰だったが・・・・・

・永享10年(1438)〜永享11年(1439) 永享の乱
大森氏頼は室町幕府方に付いて上杉氏の指揮下に入った。
 しかし、弟の憲頼が不満を抱き、激しく対立した。
 堀越公方:足利政知&執事:渋川義鏡も大森氏頼を疎んじて
 異母弟の8代将軍・足利義政に讒言した。


・文明8年(1476) 応仁の乱
 「塩買坂合戦」
   今川義忠は京都から帰国時、遠江の横地氏、勝間田氏の残党
   の矢により落命した。
 →跡目相続争い   
 嫡子:龍王丸(六歳)派 VS 範忠の叔父:小鹿新五郎範満 
 
 伊勢新九郎長氏(=北条早雲)の手引きで龍王丸とともに
 丸子の館(駿府西)に籠城した。
  堀越公方(伊豆長岡):足利政知や扇谷上杉氏の武力介入を画策。
 伊勢新九郎は扇谷上杉軍を率いる太田道灌に和解案を示して
 外部勢力の介入を防御した。

  小鹿範満が政務を代行。
  ・・・「龍王丸の成人後に家督を相続させる」約束を破棄。
 龍王丸と北川殿(伊勢新九郎の妹:今川義元妻)は駿府館には
 もどらず丸子館に在住した。
  
  伊勢新九郎は丸子館・丸子城にいて、妹と龍王丸を援護した。

・長享元年(1487)伊勢新九郎は駿府館を急襲。
         ・・・子鹿範満を討伐。
     龍王丸は家督を相続し今川氏親と改名。
     今川氏親は駿河城主を継承した。

・長享2年(1488)頃 伊勢新九郎は今川氏親から富士郡下方12郷
   を与えられ、沼津の興国寺城主となった。

・延徳3年(1491)北条早雲は伊豆韮山の堀越公方次男:足利
         茶々丸を攻撃し、伊豆国を平定。
             
         興国寺城自体は継続して使用しながら、
         韮山城の再構築・増築。

・明応4年(1495)伊勢新九郎は小田原城の乗っ取り作戦
   大森藤頼に「小田原周辺で鹿追いをしたい」旨を申し入れ
     →大森氏が承諾。
     宗瑞は鹿追いを装い韮山城を出兵。
     「火牛の計」という奇策を用いて夜間に進入した。
※有力説は、永正9年

・永正年間(1504〜1520)興国寺城は今川氏親の支城。

・天文5年(1536) 河東一乱
   今川義元が武田信虎と和睦した。
   怒った北条氏綱が駿東に侵出した。
   北条綱成(元今川家臣:福島)は足柄城・・・
竹之下に進出。・・・
北条綱成は娘を葛山城主:葛山広元の妻にした。
葛山広元は北条氏についた。 
   →興国寺城は一端は北条氏綱の支配下となった。

・天文14年(1545)今川義元は北条の拠点:長久保城を
     包囲・落城させ、駿東郡の支配を奪還。

・天文18年(1549)今川義元は興国寺城を大改修。

・天文20年(1551)一時北条軍に奪回。
         →今川軍すぐに奪還。
  ●葛山氏は駿東一帯の領主として成長。
   今川氏と北条氏の間で、揺れ動いた。

・永禄3年(1560)桶狭間の戦い
    今川義元が織田信長が敗北。
    駿河が武田信玄の支配下になった。
    葛山広元は武田信玄に内通し、信玄の家臣になった。
    
    松平元康(徳川家康)は今川家を離反し、岡崎城に戻り
    独立した。

・永禄11年(1568)甲相駿三国同盟が破棄。
   →北条氏政・氏邦は駿河に侵出。
   興国寺城・葛山城などを奪取した。

・永禄12年(1569)
  5月 北条氏政は塀和(はが)伊予守氏続に守備を命令した。
   塀和氏続は武田軍の動静を小田原城に連絡。
    吉原・沼津等で武田軍と交戦した。

・元亀元年(1570)
  8月 武田信玄は興国寺城&韮山城を攻撃。
   武田信玄は馬場信春、高坂昌信らに興国寺城を攻撃命令
    →しかし、興国寺城を落とせなかった。
               
 ※徳川家康は居城:岡崎城を長子:信康に譲った。
  徳川家康は曳馬城(浜松城)に入城。

・元亀2年(1571)1月 武田軍の攻撃。
   →塀和(はが)伊予守氏続父子が武田信玄軍を撃退。
   ●塀和(はが)伊予守氏続父子・・・
   ★八王子城にいたが後に北条の北関東に侵攻で、群馬の倉賀
    野城・箕輪城主となった。
   ・天正18年(1590)の前田利家・上杉景勝+真田昌幸軍
       の侵攻で箕輪城明け渡しした人物である。
          
    北条氏康が死亡→甲相同盟が復活。
            
 12月甲相和睦が成立。
    →興国寺城は武田信玄の属城となった。
   ★武田信玄が実力では落とせなかった城の一つである。
    穴山信君の家臣:保坂掃部・向井伊賀守正重・曾根
    下野守正清らが在番衆となった。

・元亀3年(1572)武田信玄は遠州諸城を落とし、浜松城に肉薄。
●三方原の戦い
    武田軍25000 VS 家康11000+織田信長の援軍3000  
    結果・・家康が×   浜松城に撤退。

・天正10年(1582)武田氏が滅亡。
 →武田家臣:曾根正清は徳川家康に興国寺城を明け渡した。
 →徳川の家臣:牧野右馬允正康が入城。
 →松平清宗が入城。

・天正17年(1589)大地震
  興国寺城・沼津城・長久保城などの塀や櫓が破損。

・天正18年(1590)小田原の役の後→徳川家康は関東に移封。
       豊臣秀吉が駿府城に中村一氏を任命。
       興国寺城に家臣:河毛惣左衛門尉重次が入城。

・慶長5年(1600)   関ヶ原の役

・慶長6年(1601)2月 徳川家康の家臣:天野三郎兵衛康景が
   1万石城主となった。
  ※天野氏の先祖は治承4年(1180)源頼朝の挙兵を助けた天野
  である。現伊豆の国市長岡温泉の南の出身である。 



・慶長12年(1607)
   駿河代官:井出志摩守正次の足軽:農民が城の修築用の竹木
   を盗もうとした。
   天野康景の家臣は盗人を殺害した。
   天領の農民であったことから、天野康景と代官:井出志摩守正
  次の争いになった。
  天野康景の家臣と代官領の百姓をめぐる争いが訴訟事件に発展。
  徳川家康の側近:本多上野介正純に裁定をを任せた。
  →訴訟の結果・・・天野康景の家臣に非があるとされた。
  本多正純は天野康景に
  「天領の百姓を斬殺した家臣を差し出すよう。」
  勧めた。
  しかし、天野康景は家臣をかばって、興国寺城を棄て、行方をくら
  ました。
  天野康景が遁走・逐電したため、→興国寺城は破却、廃城
  となった。



★明日は群馬高崎の箕輪城関係:善龍寺・・・保科正直&内藤昌月
を紹介かな?

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