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zoom RSS 箕輪初心▲静岡裾野【葛山城】大森弟系葛山→北条綱成娘→武田信玄6男

<<   作成日時 : 2014/12/05 06:44   >>

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葛山城は仙年寺=菩提寺・葛山氏館跡、家老屋敷などがセットに
なっている。葛山城は仙年寺の裏の丘陵の尾根に築かれている。
主郭&二の郭の東西の尾根に2ヶ所ある二重堀が見事である。
仙年寺の系図では、長男が大森氏で、3男が葛山氏であった。
大森氏が伊勢原に本拠を移した際に、葛山氏が居城した(伝)。
北条綱成の娘は葛山広元の妻であった。最後の領主は武田信
玄の6男:葛山信貞だった。★強大な勢力に挟まれた弱小武将
の生きることの難しさ&哀れな末路を感じずにはいられなかった。
草刈り場の上州&武蔵、駿東郡は酷かったのであろう。
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■訪問記・・・平成25年(2013)8月26日
神奈川県の河村城→足柄城→静岡県の
東名高速道路「御殿場」IC→「裾野」ICで降りた。
国道1号線に出て、左折した。
車10分程で、葛山の里に出た。
案内板が出て来た。
案内板と見比べながら・・・★あの山か。
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★さほど高くはない。
葛山氏館跡前から稲穂越しに葛山城を見た。
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【1】葛山氏館跡・・・94m×104m
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方形の居館である。
  ★土塁が素晴らしい。
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居館がきちんと残っている。・・・
  方形の土塁に登った。
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  葛山館の土塁上に祀られていた小さな祠が見えた。
  西には重臣の屋敷地がある。
  半田さんち・荻田さんちとなる。
  300mほど東南に行くと葛山館跡だ。



【2】葛山家の4家老の家
@半田屋敷・・・葛山氏館跡の西隣。
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A荻田屋敷・・・半田屋敷の西隣。
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【3】葛山城・・・葛山氏館から300mで仙年寺
@公民館・・・
○隣も家老屋敷だ。
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A仙年寺駐車場
★案内板では駐車場付近は水堀であったと表示されている。
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B仙年寺・・・葛山氏の菩提寺である。
★案内板では仙年寺も寺郭として機能したとあった。
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○本堂を右に見ながら、脇を登る。
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C葛山城主:葛山氏の墓所・・仙年寺裏にひっそりと佇ん
でいる。
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D案内板・・
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○仙年寺裏手から階段を5分程で登る。
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E郭ど郭の堀=山で言えば「コル」に出た。
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二重の堀切の前に出た。
「一号堀=東の堀切」&「二号堀」である。
 ★堀切は大きく見応えがある。
 ★ここで、迷った。本郭をいきなり攻めるのか?
 大手道から登ってくるのか?


※大手口→大手道から、写真を撮ってこよう。と思った。
 本来の大手道は東側=右手方向の尾根伝いに登る道がある。
 一号堀から少し下ると大手郭がある。さらに東郭、東南郭
 と続いた。

★葛山城は小丘陵で、麓の仙年寺から約5分で尾根上の城域に
 到達する。


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F大手口
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G大手郭
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H東南郭
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I東郭
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J「一号堀=東の堀切」&「二号堀」に戻った。
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○分岐・・・主郭か帯郭か?

K二郭の南側を取り巻く帯郭・・・明確に残っている。

L帯郭沿いに歩いた。
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M「三号堀」・・・竪堀は埋まっていた。

N「四号堀」

O「五号堀」&「六号堀」・・・二の郭の西の虎口の二重堀切である。
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  ★規模が大きく見応えがある。

P西郭・・・「六号堀」の先にある。
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Q水の手郭・・・北に下った所にある。
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○西の尾根筋も歩いたが、小規模な堀切らしきものがあっただけ
 だが、堀切をは言い難い?・・・???でも、ないと変。



▼戻った。・・西郭・・・
○西郭からの「六号堀」(手前)と「五号堀」(奥)。
  二重堀の様子が分かりやすい。

R堀切脇から登る

S二の郭虎口・・★結構、急坂で、防御に役立つ。
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21 二の郭・・・主郭の西にある。
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  五号堀に向けて土塁がある。

22二の郭の帯曲輪・・・
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23主郭虎口・・・比較的緩やかな虎口である。
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24▲主郭
・四阿屋
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・土塁・・・・北側のみにある。
・遠見塚の遠望・・・木ばっかである。
・富士山の遠望・・・今日は見えない。
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 「葛山城址より見る日本一の富士山」の看板があるが、実際には
 どうなのであろうか?。

・畝状空堀・・・主郭北側斜面下の帯曲輪が見える。
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  埋まってしまっているのだろう。
・眺望は今一歩。
・案内板
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▼下山


○仙年寺駐車場
★満足だった。
要害部は決して規模は大きくない。
主郭の東西の尾根を二重の堀切で断ち切っていたり、
連続竪堀があったりするなど様々な技法を見ることができる。
中世城郭のお勧めの城であった。
※「葛山古城」もあると書いてあったが、行かなかった。





★▲■ 葛山(かずら)城の歴史 ■▲★
・平安時代  藤原北家伊周流の一族
   →駿河大森氏となった。

・鎌倉時代
 大森氏は駿河国駿東郡の国人となった。

・鎌倉時代中末期以降
 大森氏は北条氏得宗被官だった。


・鎌倉幕府が崩壊→建武政権時代
  後醍醐天皇の親裁を基本とする政治体制だったが、天皇が出す
  綸旨で支配しようとして、施策は混乱した。

  
・室町時代初期
  鎌倉府は関所からの関銭を経済的基盤としていた。
  大森氏は、駿東郡から箱根道に連なる交通網を押さえていた。

・応永23年(1416)上杉禅秀の乱
  前関東管領である上杉氏憲(禅秀)が鎌倉公方の足利持氏に対して
  起した反乱である。上杉禅秀=上杉氏憲である。
  西相模の御家人・・・土肥・中村・二宮・土屋など中村一党の勢力
  松田・河村の波多野一党、及び曽我氏などが知られていた。
  
  大森氏は駿河守護職:今川範国の軍勢に組みした。

  大森頼春は鎌倉公方に仕え、上杉禅秀の乱の鎮圧に功績
  を挙げた。
  上杉禅秀方の土肥氏を滅ぼして、相模・伊豆に勢力を広げ
  た。
  鎌倉公方:足利持氏に仕えた。


 大森頼春は駿東一帯から伊勢原に本拠を移した。
  西相模の旧勢力に代って地盤を西相模に移した。
   
  葛山城には足利一族:大森系葛山氏が居住した(伝)。
  長男が大森氏で、3男が葛山氏となった。
    
(★仙年寺の系図)


  葛山氏は今川氏の被官となっていた。
  富士川以東=駿東は今川氏の直接支配は及ばず、葛山氏は
  半独立勢力であった。

※今川氏と北条氏 VS 甲斐:武田信虎と対抗していた時代
 には、安泰だったが・・・・・


・永享10年(1438)〜永享11年(1439)年) 永享の乱
大森氏頼は室町幕府方に付いて上杉氏の指揮下に入った。
 しかし、弟の憲頼が不満を抱き、激しく対立した。
 堀越公方:足利政知&執事:渋川義鏡も大森氏頼を疎んじて
 異母弟の8代将軍・足利義政に讒言した。

 弟:大森憲頼・成頼 VS 兄:大森氏頼・実頼父子:上杉方
大森氏頼系が勝利した。
 扇谷上杉家の重臣となり、小田原城を中心に勢力を広げ繁栄した。
大森氏頼の妻は三浦高明の娘で、三浦時高は義兄弟にあたる。

・永享10年(1438) 永享の乱
   今川範忠の配下で足利持氏の攻撃の先方として出陣している。

・寛正5年(1464)大森氏頼は太田道灌に従って上洛して、
  足利義政の赦免を受けた。

・大森実頼は太田道灌に従って長尾景春・豊島泰経・千葉孝胤らと
 戦った。・・・若くして没した。

・文明10年(1478) 大森氏頼は上杉定正に仕えた。
  上杉定正の兄:三浦高救に娘を嫁がせて相模三浦氏相続を
  支援した。
娘(三浦高救正室で、三浦義同母)の父。

・文明18年(1486) 太田道灌は扇谷定正の糟屋館(神奈川県伊勢原市)
  に招かれ、太田道灌は暗殺された。享年55。
  大森氏頼は第一の重臣として家中において重きをなした。
  古河公方:足利成氏と和議を結びながらすぐに破棄するなど
  上杉定正は家臣の離反を招いた。
  大森氏頼は扇谷上杉定正に「大森教訓状」=諫言状を送った。

  小田原に城下町を整備した。
  後に嫡男:大森実頼に小田原城を譲って自身は岩原城に入った。
 

・延徳3年(1491) 興国寺城にいた伊勢新九郎=北条早雲が
  伊豆に討ち入った。堀越御所を急襲し、足利茶々丸を討った。
  葛山氏は今川氏に命じられて援軍として駆けつけた。
 その後、伊勢宗瑞=北条早雲の次男:氏時を養子にむかえた。
★もちろん、半強制的にである。



・明応3年(1494) 大森氏頼が死去。
  家督は次男:大森藤頼が継いだ。

・明応4年(1495) 北条早雲は甲斐には攻め込み、甲斐守護:武田
 信縄と戦った。葛山氏広も当然出兵した。




・明応4年(1495)伊勢宗瑞が大森藤頼をだまし討ちにして小田原城を
 奪取したと言われていた。・・・従来の通説
9月相模小田原の大森藤頼を討ち小田原城を奪取した。  
   大森氏は、北条早雲に小田原城を奪われたのだ。
先祖が一緒だった葛山氏は複雑であっただろう。
永正9年説が今では有力説である。

  

・永正11年(1514) 今川氏親が福島氏・葛山氏に
 甲斐に出陣を命令した。
★葛山氏も苦しい立場に追い込まれた。


・大永6年(1526) 籠坂峠の戦い
  北条氏綱 VS 武田信虎
葛山氏広は北条方に属した。
 息子:葛山氏元は北条氏綱の息女を娶った。

・天文5年(1536) 今川義元が武田信虎と和睦。
 ●「河東の乱」
  北条氏綱の命で、北条綱成(元今川家臣:福島)が駿東に
  侵出した。葛山氏も出兵した。


・永禄11年(1568) 武田信玄が駿河に侵攻してきた。

  しかし、葛山氏元は朝比奈・三浦・瀬名氏らとともに武田
  信玄に内通した。
※武田信玄の配下となったのだ。


・永禄12年(1569) 
  武田信玄の「大宮城攻撃」 
   葛山氏元は北条方の富士兵部少輔信忠の大宮城
   を包囲し、開城させた。
  武田信玄の「蒲原城攻撃」
  葛山氏元は先方となった。
  

  葛山氏元は恩賞に不満を持った。
  ・・武田氏に謀反を企てた。
   氏元は北条氏への内通しようとしたのである。
  
 武田信玄に察知され、幽閉された。
  その後、諏訪で斬られた(伝)。
  葛山氏元の死後、武田信玄の6男:信貞が葛山氏を嗣いだ。

・天正10年(1582)2月 武田勝頼は天目山(現山梨県甲州市)の
田野の里で自刃し、武田氏は滅亡した。
 葛山信貞(=武田信貞)も小山田信茂と甲斐善光寺で自刃し、
 葛山氏は断絶した。

 葛山城も廃城となった。

 

◆参考文献・図書
・仙年寺パンフレット
・現地解説板
・「日本城郭大系」:新人物往来社
・「戦国関東名将列伝」:島遼伍著
・静岡の山城50を歩く・・など
・北条早雲
・北条氏関係の本など
・武田信玄の本


◆関連サイト・Hp
・余湖さんのHp・・・余湖さん、ありがとうございます。




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