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zoom RSS 箕輪初心▲静岡小川町『箱根竹ノ下の戦い』(足利尊氏VS新田義貞)

<<   作成日時 : 2014/12/03 18:00   >>

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神奈川県の大井松田ICで降り、河村城→坂田金時(金太郎)の家→
足柄城を見学した。足柄峠を越えると静岡県小川町小山町だった。
足柄駅を越えて200m程行った所に、「竹之下の戦いの碑」があった。
建武2年(1335)12月11日、後醍醐天皇の命令で、足利尊氏の追討に
やって来た新田義貞だったが、足利尊氏に負けてしまった。『箱根
竹ノ下の戦い』は建武政権が崩壊し「南北朝動乱の幕開け」と言わ
れている。
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【0】神奈川県の大井松田ICで降り、河村城→坂田金時(金太郎)
の家→足柄城を見学した。足柄峠を越えると静岡県小川町
小山町だった。
【0】足柄街道
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【1】足柄駅
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【2】『箱根:竹ノ下の戦い』の碑・・・★偶然だった。
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◆◆ 『箱根:竹之下の戦い』 ◆◆
・元弘3年(1333) 正慶2年(1333) 鎌倉幕府滅亡。
1)建武の新政
  足利高氏は六波羅探題を滅ぼした。
  鎌倉幕府の滅亡後、足利高氏は後醍醐天皇から勲功第一と
  され、従四位下に叙し、鎮守府将軍・左兵衛督に任じられた。
  また、武蔵・上総など30箇所の所領を与えられた。
  さらに天皇の「尊治」から一字を賜り、「足利尊氏」と改名
  した。 足利尊氏は建武政権では、要職には就かなかった。
「尊氏なし」(★梅松論)
 しかし、足利家の執事:高師直、弟:師泰をはじめとする家臣を
 多数建武の政権に送り込んだ。
建武政権であったが、武士は不満を募らせた。

12月  足利尊氏は、成良親王を上野太守に擁立した。
 相模守となった弟:足利直義に鎌倉に成良親王を駐屯させた。
 ※足利幕府の小型版の形成・・・(★峰岸純夫先生)
恩賞について、足利尊氏か新田義貞か迷っていたが。
 鎌倉は足利の気運になっていった。
★すでに、足利 VS 新田 の芽が出始めていた。

・建武元年(1334) 父:後醍醐天皇の命令で護良親王は逮捕され、
   鎌倉の足利直義のもとで幽閉の身となった。

2)中先代の乱
・建武2年(1335) 
 西園寺公宗と北条泰家の陰謀をきっかけに全国の旧北条氏所領で
 北条残党の蜂起が相次いだ。
7月14日 北条高時の遺児:北条時行を擁立した北条氏
  残党の反乱が信濃国で起こった。
  信濃で諏訪氏の支援のもと蜂起したのだ。

 足利直義(ただよし)は北条時行の軍に負けた。
 北条時行は、反建武政権勢力を吸収し、足利直義を追い出し、
  鎌倉を占領した。

  足利直義は鎌倉を脱出する際に独断で護良親王を殺害した。
反足利勢力に護良親王を擁立されると困るからであった。
(★峰岸純夫先生)

7月25日 北条時行の軍勢は鎌倉を一時占拠した。


8月2日 足利尊氏は後醍醐天皇に征夷大将軍の官職を望んだが
     許されなかった。既に、成良親王が征夷大将軍だった
     からである。

  足利尊氏は北条時行を討つために自分を派遣するように後醍醐
  天皇に再三要請した。
  後醍醐天皇は足利尊氏の強さを恐れて
  「遠くに鎌倉で反乱を起こしたら・・・」という思いから
   足利尊氏が鎌倉に向かうのを許可しなかったのであろう。
  はっきり言って、足利尊氏が自立することを怖れたのであろう。

   しかし、足利尊氏は我慢できなかった。     
   足利尊氏は後醍醐天皇の許可を得ないまま軍勢を率いて
    鎌倉に出陣した。     
   後醍醐天皇は後追いで征東将軍の号を与えた。

8月3日 台風
   足利尊氏は足利直義の軍勢と合流した。

8月9日〜各地で戦いが始まった。  
 ●相模川の戦い
    北条時行を破った。
後から「北条残党・追討」の命令を出した。
 北条時行は消息を絶ち、北条時行の反乱は鎮圧された。 

8月19日 足利尊氏は鎌倉を回復した。
 
 後醍醐天皇は足利尊氏に従二位の位を与え、功績を賞した。
 「後は、すみやかに京に戻レ。」と命じた。

足利尊氏は後醍醐天皇の命で京に戻るつもりでいた。
しかし、弟:足利直義は
 「せっかく関東を制圧したのに、京に戻る必要があるのか?」
 と兄:尊氏に問うた。
 すでに『建武の新政』で、武士が冷遇されていたのだ。
 
10月 足利尊氏は鎌倉に新たな屋敷を建築した。
    京に戻る意思がないことを意味していた。

  足利尊氏・直義はそのまま鎌倉に本拠を置いた。
 「鎌倉殿」として、独自に恩賞を与えはじめた。
  新田義貞の所領を分け与え始めた。
 ★足利尊氏は、源氏の棟梁としての冷遇されている足利一門&
  配下の武士たちの待遇を良くしたいと思っていた。 
  もしかしたら、京都からの上洛命令も拒んで、独自の武家政権
  創始の気持ちがあったかもしれないが・・・・。
  
 新田義貞も足利領を分け与えた。

10月 建武の新政府では、
    新田義貞は「足利尊氏は君側の奸である。
    足利尊氏は「新田義貞を君側の奸である。」
と、後醍醐天皇に討伐を要請・・・・
    
   後醍醐天皇は再三帰洛命令を出すが、足利尊氏は無視した。
   新田義貞を非難する文書を送り返すだけであった。
   

白熱した議論になった。
   ・・・足利尊氏側が不利になった。
新田義貞は反論の文書を提出した。
 
11月初旬 足利尊氏は赦免を求め、隠居を宣言した。
     鎌倉建長寺に入った。
 ★実は、足利尊氏には、「後醍醐天皇に反旗をひるがえそう」
 なんて気持ちは毛頭なかったのだ。
 
※足利直義が総大将にならざるを得なかった。

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つまり、新田義貞&足利尊氏はともに協力して鎌倉幕府を倒した。
しかし、建武新政を成し遂げた後醍醐天皇と足利尊氏が対立・・・
そして、合戦へ・・・
「南朝:後醍醐天皇+新田義貞 VS 北朝:足利尊氏・直義 」
となった。・・・「南北朝の動乱の幕開け」となった。


11月19日、後醍醐天皇は、足利尊氏追討の命令を出した。
結果・・・新田義貞の訴えを認め、足利尊氏を討伐することに
  決定し、義貞に宣旨を下した。

11月21日  後醍醐天皇は新田義貞に尊良親王をともなわせて
  「足利尊氏討伐」を命じた。
   
12月10日、北畠顕家(18歳)は、足利尊氏討伐の勅命を受け、
  出撃した。
  
12月10日? 追討大将軍の新田義貞(34歳)は、錦の御旗を
  立てて、関東に下向した。
  新田義貞軍が三条河原に来た時、突風で、錦の御旗の月日の紋
  が落ちという不吉な出来事があった(伝)。

  足利尊氏は@弟:足利直義が護良親王を殺害したことと
  A朝敵になることを嫌って、建長寺に籠もっていた。
  →足利軍の指揮は弟:足利直義が執っていた。
 
奥州からは北畠顕家も南下を始めてきた。 
 ●三河:矢作川の戦い(岡崎)
  ●遠江:鷺坂の戦い(磐田市匂坂)
 ●駿河:手越川原(安倍川)の戦い
 ●国府(三島市)の戦い
 足利直義・高師直などの足利方が各地で劣勢となった。
  新田義貞軍は撃破し、箱根の峠下まで追い詰めた。
新田義貞軍は伊豆まで迫ってきた。

  その途中、有力武将の佐々木道誉が寝返ってしまった。

  それでも、足利尊氏は、後醍醐天皇に弓を引くつもりはなく、
  「武士の待遇改善と幕府を開くことを何とか認めてもらいたい。」
  という考えを貫いていた。

 そこで、足利直義・高師直は一計を案じ、足利尊氏を戦の場に
  引き戻した。
  足利直義は、後醍醐天皇の偽の綸旨(天皇の命令書)を作った。
  『足利尊氏と足利直義を誅せよ。』というものであった
  『綸旨』を作成し尊氏に見せた。・・・
足利直義は
  『「天皇は足利の者を全員殺せ。」と命じられたのですよ。』
 と、足利尊氏に見せたのだろう。   

 足利尊氏は弟の偽の綸旨で「後醍醐天皇に叛旗を翻すこと」を
 決意した。やっと参戦・・・ということになった。
 「弟:直義が死ねば、自分が生きていても無益である。」
 と宣言し出馬した。

12月8日 足利尊氏は足利直義に
 「新田義貞軍の布陣はどこであるいか?」
 と尋ねた。足利直義は
 「三島の国府である。」
 と答えた。
 
 足利尊氏は、新田義貞軍と足利直義軍が対峙している箱根峠には
 向かわなかった。
 新田義貞の弟・脇谷義助がいる竹ノ下へと向かった。

新田義貞は三島で軍を集結させた。
 軍を二方面に分ける事にした。
 @新田義貞本軍は箱根峠に進んだ。
 @実弟:脇屋義助は足柄峠へ進軍した。
 足利尊氏軍は
 @足利直義が箱根に布陣した。
  戦力にも勝る新田軍が足利軍を破り、足利軍は箱根まで後退した。
 A足利尊氏は竹ノ下の上の足柄峠に布陣した。

12月11日(1336年1月24日 )
  両軍は激突した。
1)箱根では、新田義貞軍 VS 足利直義軍
新田軍は押し気味に展開した。
   足利直義は箱根の水飲で新田軍の攻撃にあった。

 ※菊池千本槍伝説・・・新田軍に菊池氏が加わった。
  竹やぶの竹を切り、小刀に結びつけ槍とした。
  元寇での戦いで、菊池武重の発案という。
  1,000の槍で3,000人を倒したという・・・伝説。
  (★ウィキペディアより) 

2)『箱根・竹ノ下の戦い』
  戦場は足柄峠のすぐ西にある竹ノ下となった。
  竹ノ下の地名は「岳の下」から転じたらしい?
  足柄街道は、鎌倉時代中期まで箱根を越える官道として使われ
  ていた。足柄関所は大森氏が管理していた。
 竹の下には、新田義貞の弟:脇屋義助を実質上の大将とする
   約7000の搦め手軍が陣取っていた。
  足利尊氏の参陣で志気が上がる足利尊氏軍が押し気味に展開した。
足利尊氏軍約3000は、地蔵堂付近に集結した。
  夜明け前に移動を開始して、峠の下にいた新田軍に奇襲攻撃を
  かけた。新田軍が不意打ちを受けた。兵力も分からない恐怖が
   走り敗走し始めた。暗闇の中、敵味方も分からず新田軍は
   さらに混乱した。
そんな中、新田軍の大友貞載と塩冶高貞が足利尊氏軍に寝返った。
  脇屋義助軍は総崩れとなり敗走した。

12月22日   
A新田義貞はその報を受けた。
  竹の下の脇屋軍の敗走は、新田軍の本隊である新田義貞から
   見れば、自分の背後に敵が回ったことになる。
   新田義貞は箱根口の戦いで大勝しながらも、退路を断たれる
   危険性があるため、軍を撤退させた。
   足利軍の兵力も不明である。新田義貞は一旦退却しか道はなかった。
   しかもこの状況下、新田方に寝返っていた近江守護:佐々木道誉が、
   新田本軍の中心部で足利尊氏方に再び本返りした。
   佐々木道誉が足利尊氏軍に寝返りで、新田義貞軍も総崩れとなった。
   尊良親王の近侍:中将二条為冬が戦死した。

   もはや勝敗は決まった。足利軍の大勝利であった。

12月23日 足利尊氏が伊豆国府を奪回した。
 新田義貞軍は東海道を総崩れで敗走した。
 新田義貞は天竜川に架かる浮き橋を遅れてくる味方のために残した。
  (★『梅松論』)
新田義貞は天竜川に架かる浮き橋を斬って退却した
  (★『太平記』)

 足利尊氏は、陸奥将軍府:北畠顕家が鎌倉に進軍すると、挟み撃ち
 になることを恐れた。
 足利尊氏は新田義貞を追撃して、一気に京都に攻め上ることにした。
 
足利尊氏は新田軍を破り ・・・で、足利軍は、京都へ進軍を始めた。
 足利尊氏は持明院統の光厳上皇と連絡を取り、叛乱の正統性を
   得る工作をした。
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・建武3年(1336)
1月1日 足利尊氏軍は新田義貞軍を追撃し。近江(滋賀県)に迫った。
1月3日 近江瀬田唐橋で激突→宇治の戦い
     足利尊氏軍が勝利した。
1月4日〜新田義貞軍が撤退した。足利尊氏は入京した。
  京を巡る合戦に突入した。
   京での市街戦・・・
1月9日 足利尊氏の挙兵は成功し、室町幕府へと繋がっていく。
  建武政権は崩壊し、南朝に零落し、南北朝時代へ突入する。
  有力武士を抑制することで成立しようとした建武政権は
  足利尊氏に破れることとなった。

  後醍醐天皇・新田義貞は比叡山へ退いた。

1月14日 奥州から上洛した北畠顕家は到着。
      北畠顕家:楠木正成・新田義貞の優勢勝ち。

1月30日 足利尊氏は篠村八幡宮に撤退して京都奪還を図る。
2月4日  九州の大友近江次郎(★上野国沼田一族)に出兵と
      上洛を命じた。
      (軍勢催促状:「筑後大友文書」)
2月11日 摂津豊島河原の戦い
      新田軍に大敗を喫した。

   足利尊氏は兵庫から播磨室津に退き、赤松円心の進言を
   容れて京都を放棄して九州に下った。

後醍醐天皇が京都入りを果たした。

   足利尊氏は九州への途中、
   長門国赤間関(下関市)で少弐頼尚を味方にした。
   筑前国宗像大社の宗像氏範の支援を受けた。

3月初旬 筑前多々良浜の戦い
足利尊氏は天皇方の肥後の菊池武敏らを破った。
足利尊氏は豊後の大友貞順(近江次郎)らの協力で
勢力を立て直した。
尊氏は、京に向かう途中の鞆で光厳上皇の院宣を獲得し、
西国の武士を急速に傘下に集めて再び東上した。
5月25日 湊川の戦い
  新田義貞・楠木正成の軍を破った。
楠木正成は戦死。・・・
 堀口貞満が総大将であった。
★新田義貞は後醍醐天皇のおそば付きの「こうとうの内待」
 に惚れ込んで、いちゃいちゃしていたのだ。

5月27日 後醍醐天皇&新田義貞は比叡山に退去した。
さらに、近江・京で合戦が続いた。

6月14日 足利尊氏は光厳上皇を奉じ、京都を再び制圧した。


8月17日 足利尊氏は「この世は夢であるから遁世したい。」
 という趣旨の願文を清水寺に納めている。
 
10月10日 足利直義は比叡山の後醍醐天皇に和議を申し入れ、
  後醍醐天皇は京都に戻った。

11月2日 後醍醐天皇は光厳上皇の弟:光明天皇に神器を譲
  った。

11月7日 建武式目17条を定めた。
★簡単にいうと、
@ばさらの禁止 A飲む打つ買うの禁止 B強盗などの禁止 
C家の差し押さえ禁止 D空き地はもとの地主へ
E金融業の再開 F能力ある者の採用 G口入れ禁止
H職務専念義務 I賄賂禁止 J進物返却 K近習の厳選
L礼節の尊重 M名誉の重視 N貧者の救済 O寺社の訴訟拒否
P御無沙汰の日時連絡
・・・・★新たな武家政権の成立を宣言した。
 ●室町幕府の発足とする。
 足利尊氏は権大納言に任じられた。

南北朝の動乱
12月21日 後醍醐天皇は京を脱出して奈良の吉野へ逃れた。
  光明に譲った三種の神器は偽物である。
  南朝を樹立した。
京都朝廷(北朝)と吉野朝廷(南朝)が並立する南北朝時代が
 始まった。
 後醍醐天皇は、尊良親王や恒良親王らを新田義貞に奉じさせて北陸へ
 向かわせた。
 懐良親王を征西将軍に任じて九州へ、
 宗良親王を東国へ、
 義良親王を奥州へと、
 北朝方に対抗させようとした。


・暦応元年/延元3年(1338)
足利尊氏は光明天皇から征夷大将軍に任じられた。
 室町幕府が名実ともに成立した。


・延元4年 / 暦応2年(1339)
8月15日、吉野へ戻っていた義良親王(後村上天皇)に譲位した。
8月16日 吉野金輪王寺で朝敵討滅&京都奪回を遺言して崩御した。
   後村上天皇は、住吉大社の宮司:津守氏の荘厳浄土寺で後醍醐
   天皇の大法要を行った。

翌年、足利尊氏は後醍醐天皇の慰霊のために天龍寺造営を開始した。
南朝との戦い


・暦応元年(1338)
5月  南朝:北畠顕家が戦死。
7月  南朝・新田義貞が戦死。(越前藤島)
8月  後醍醐天皇は病死
    
    楠木正成の遺児正行などが次々に戦死した。

・貞和4年/正平3年(1348) 足利尊氏は吉野全山を焼き払った。


★参考文献・図書
・足利尊氏と直義:峰岸純夫著
・漫画:足利尊氏:学研
・上杉憲顕:久保田順一著
・新田義貞:山本隆夫著
・新田一族の盛衰:峰岸純夫著
など・・・


◆参考サイト
・ウィキペディア
・弟のニセ綸旨で反旗を決意?足利尊氏・箱根竹ノ下の戦い:





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コメント(2件)

内 容 ニックネーム/日時
小川町ではなく小山町ですね
地元住民ですが
2015/08/23 22:36
ご指摘、ありがとうございます。
すみません。町名を間違えてしまって。
後で、訂正いたします。
地元の方へ
2015/08/24 09:30

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