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zoom RSS 箕輪初心▲源頼朝F治承4年(1180) 8月24日〜石橋山からの逃亡

<<   作成日時 : 2014/12/28 04:54   >>

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●治承4年(1180) 8月17日、源頼朝の命で85騎が伊豆国目代
:山木兼隆&後見人:堤:堤信遠を襲撃した。18日には山木兼
隆&後見人:堤信遠の首検分をした。19日、迎えに来た土肥実
平と合流した。おそらくは函南経由で湯河原の土肥館に入った。
20日、21日、22日土肥館で三浦義澄の到着を待った。23
日、石橋山の戦いが源氏:源頼朝と平氏:大庭景親との間で行
われた。源頼朝は石橋山の戦いで大敗を喫した。24日、源
頼朝は箱根山中に逃げ込み、石橋山を下った大木のうろで梶原景
時に見逃してもらい→土肥城→しとど窟→箱根神社→しとど窟→
土肥館
→荒井城前→詠い坂→湯河原の岩海岸の洞窟→岩から舟で
安房へ落ち延びた。源頼朝はなんて運が強いのだろうと思わざる
を得ない。源頼朝が死んでいたら、日本の歴史は大きく変わって
いただろうな。「たら・れば」は歴史にはないけれど・・・・。   
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〜〜〜源頼朝&伊豆シリーズ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
箕輪初心★源頼朝@伊豆「伊東→蛭ヶ小島へ」
http://53922401.at.webry.info/201412/article_19.html

箕輪初心▼伊東ダイビング2回
http://53922401.at.webry.info/201307/article_29.html

箕輪初心★源頼朝A伊東祐親の娘:八重姫の悲話&
『伊東祐親の生涯』
http://53922401.at.webry.info/201412/article_20.html

箕輪初心★源頼朝B【蛭ヶ小島3年北条政子との結婚】
http://53922401.at.webry.info/201412/article_24.html

箕輪初心★源頼朝C「治承4年(1180)8月17日の挙兵
〜19日石橋山の合戦前」
http://53922401.at.webry.info/201412/article_25.html

神奈川▲源頼朝D【治承4年(1180)8月19日〜22日土肥館】&
土肥実平の生涯
http://53922401.at.webry.info/201412/article_26.html

箕輪初心▲源頼朝E【8月23日石橋山の戦い&佐那田神社】

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜





【1】源頼朝の挙兵の地?
1)北条時政館説?・・・伊豆武将物語・源頼朝:ポプラ社など
2)源頼朝館=蛭ヶ小島説?・・・通説
3)韮山の八幡神社説・・・箕輪初心


【2】山木判官館&香山寺(伊豆の国市)
・治承4年(1180)8月17日



【3】土肥氏館→菩提寺:城願寺
JR湯河原駅〜城山麓には土肥氏菩提寺:城願寺がある。
  土肥館址碑(湯河原駅前)〜城願寺・・・
  湯河原町のJR湯河原駅周辺は、土肥実平が屋敷を構えた場所
  である。今でも「土肥」の地名が残っている。
1)JR湯河原駅前の館跡碑

2)JR湯河原駅の土肥実平夫妻像の銅像


3)城願寺・・・土肥氏館の持仏堂跡と言われている。
城願寺は土肥実平が建立した寺院である。
@土肥実平&土肥遠平父子の木像
A土肥実平手植えの樹齢800年のビャクシンの大樹
  (国指定天然記念物)
B七騎堂・・石橋山合戦に敗れた源頼朝主従7人の武者像
 (土肥実平・遠平、土屋宗遠、岡崎義実、佐々木信綱、
 土肥の小舎人七郎丸)が安置されている。
 源頼朝が安房へ渡る際に従った「頼朝七騎の像」である。
C土肥一族の墓所・・五輪塔や宝篋印塔などが建ち並ぶ。
D土肥祭・・・4月の第一日曜日の土肥祭:源頼朝の武者行列。
E焼亡の舞・・土肥館が焼かれるのを見て土肥実平が舞った。



【3】石橋山古戦場(小田原市)
1)「石橋山の戦い」   

 石橋山は現在は「みかん畑」・・・非常に急斜面である。
 ・・真っ暗闇の土砂降りの雨の中を何時間も急斜面を
 上ったり降りたりしながら戦っていたのだ。


●狩野茂光が討ち死にした。
  場所不明?

●佐那田与一が討ち死にした。
 現在の伊豆の佐奈田神社の下である。
 佐那田(真田)与一忠義は一たんは敵をねじ伏せた。
 しかし、血で固まって抜けなくなった小刀を必死に抜こう
 としている間に別の武士によって殺されてしまった。
 
@佐那田与一が殺された付近・・・

A佐那田与一が眠る与一塚

・佐名田与一を祭る廟

3)源頼朝一行は必死に逃げた。
  石橋山頂上付近の林・・・
  

土肥の椙山の大木のうろ「しとどの窟」
 石橋山を下って、木の洞穴に隠れた。
  梶原景時が見逃した。


●北条宗時は、伊東軍に討たれた。



【5】土肥城:詰め城(湯河原町)
  @城願寺からのハイキングコースから来られる。
    これが、本来の大手道コースであろう。
  A車では、奧湯河原温泉を越えて道なり10分程?
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・奧湯河原温泉
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・城山入り口バス停
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・看板
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・道標
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【6】 「鵐窟」=しとどの窟(湯河原町)

   
【7】箱根神社(箱根町)
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【8】 「鵐窟」=しとどの窟(湯河原町)

【8】 土肥館〜城願寺(湯河原町):土肥実平の菩提寺。
 土肥実平は、石橋山の戦いで敗れた源頼朝を庇護した。
   「頼朝七騎」の中心人物であった。

 
【10】荒井城(湯河原町)前〜詠い坂〜


【11】岩海岸の洞窟
     真鶴の「しとどの窟」?


【12】源頼朝船出の浜(真鶴町岩海岸)
源頼朝・安達盛長・岡崎義実・新開忠氏・
  土屋宗遠・土肥実平・田代信綱が祀られている。
 7名が真鶴の岩から舟出したメンバーである。


【13】源頼朝上陸地:竜島?(鋸南町)



◆◆ 源頼朝の伊豆での挙兵 ◆◆
・治承4年(1180)
4月 後白河法皇の子:以仁王の令旨
後白河法皇の皇子:以仁王が平氏追討を命ずる令旨を
   諸国の源氏に発した。

4月27日 源頼朝の叔父:源行家は蛭ヶ小島を訪れた。
   伊豆国の源頼朝に叔父:源行家より令旨が 
     届けられた。
 
     源頼朝は事態を静観していた。

5月10日 下河辺行平は
「源頼政の挙兵がある。」
と伝えた。

5月下旬 以仁王の挙兵
 しかし、挙兵計画が平氏に発覚してしまった。
 以仁王と源頼政は準備不足のため、
 以仁王は一端、近江の園城寺に逃れた。
 そして、平氏の追討を受けて宇治で戦死した。

伊豆国は平時忠の知行国になった。
 平時忠の子:平時兼は伊豆守になった。
山木(平)兼隆が目代になった。

 伊豆国では目代:山木(平)兼隆は急速に伊豆で勢力を振る
うようになっていった。
 また、目代であるが故、旧知行国主系の工藤系狩野茂光や
 北条時政から反感を持たれた。


6月2日 平清盛の福原遷都

平氏が令旨を受けた諸国の源氏追討を企てた。

6月19日 京の三善康信(源頼朝の乳母の妹の子)が
「平家が諸国の源氏を追討しようとしているので、直ち
 に奥州藤原氏の元へ逃れるように・・。」
 と急報を送ってきた。



6月24日 源頼朝は挙兵を決意した。
 函南の桑原・大竹の安達盛長・小中太光家が
相模・武蔵に出向いた。
源頼朝は安達盛長に源家累代の家人の動向
  を探らせた。

 
6月27日 大番役を終え、京より下った三浦義澄、千葉
   胤頼らが北条館を訪れて京の情勢を報告した。
  「5月から、拘留されていた。」
 
 安達盛長・小中太光家が使者として、源義朝の時代
 から縁のある坂東の武者に挙兵の協力を呼びかけた。 

7月10日 安達盛長・小中太光家が戻った。
@反対派
 山内首藤経俊は
  「佐殿(頼朝)が平家を討とうなぞ、富士山と丈比べをし、
  鼠が猫をとるようなものだ。」
  と嘲笑した。
A迷った派
  波多野義常は返答を渋った。
B賛成派
  大庭景義(大庭景親の兄)は快諾した。
  三浦義明は一族を集めて御教書を披露して同心を確約
  した。
土肥実平も快諾した。
  千葉常胤、上総広常も承諾した。
渋谷重国の居候:佐々木4兄弟も味方に付いた。
 ※賛成派は平氏系目代から圧迫されていた存在だった。
(★ 『源平盛衰記』)
 

7月23日 伊豆に流されていた佐伯昌長や永江頼隆
を呼んで祈祷した。
佐伯一族も永江一族も同心となった。


8月2日 大庭景親が本領:藤沢に下向した。
  源頼政の孫:源有綱が伊豆国にいた。
   大庭景親が源有綱追捕を平清盛から命を受けていた
  のだ。
  源頼朝らの緊張が高まった。
風雲急を告げた。・・・・・

源頼朝は北条時政に相談した。
  平家打倒の挙兵の打ち合わせに大日堂=現願成就院の地が
  使われたらしい。北条館の100m東は八幡神社で、その
東隣が現願成就院〜旧願成就院である。

  源頼朝は8月17日をもって挙兵することを決めた。
  まず手始めに、伊豆目代の山木兼隆を討つことにした。
  源頼朝は最初の標的は伊豆国目代:山木兼隆と定めた。


8月4日 源頼朝は祐筆:大和判官邦通に山木邸付近の
見取り図を書かせた。

8月6日〜□□日? 源頼朝の挙兵裏工作開始
 源頼朝は工藤系狩野茂光・土肥実平・岡崎義実・宇佐美祐茂
 (すけもち)・天野遠景・佐々木盛綱、加藤景廉らを招集し、
 一人ずつ私室に呼び、個別にそれぞれと密談を行い、意見
 を聞き、賛同を得た。
 「未だ口外せざるといえども、ひとえに汝を頼むによって
 話す。」
 と言い、自分だけが特別に頼りにされていると錯覚させた。

8月11日 源頼朝は岡崎義実&子:佐奈田義忠に使いを送
 った。
「8月17日、土肥実平と参上せよ。」

8月16日
 挙兵の前日に至るが、佐々木定綱、経高、盛綱、高綱ら
 佐々木兄弟が参じなかった。
 源頼朝は佐々木盛綱に計画を漏らしたことに疑心暗記に
 なり、後悔した。

 
8月17日
 山木館の襲撃は朝駈けを図っていたが、佐々木兄弟の遅参
 によって計画がくるってしまった。
 源頼朝は
 「明朝を待たずに直ちに山木館を襲撃すべし。
  山木と雌雄を決して生涯の吉凶を図らん。
山木の館を放火すべし。・・・
 と決意を述べた。
 襲撃の成否を確認したいと配下に相談した。。

 北条時政は
 「今宵は三島神社の祭礼であるがゆえに牛鍬大路は人が
  満ちて、襲撃を気取られる恐れがあるから、間道の蛭
 島通を通ってはどうか。」
 と進言した。
 源頼朝は
 「余も最初はそう思ったが、挙兵の草創であり、間道は用
 いるべきではない。また、蛭島通では騎馬が難渋する。
 大道を通るべし」
 と命じた。

 源頼朝は三島神社祭礼に安達盛長を名代として参列させ
 ていた。

 挙兵当日の8月17日(9月8日)佐々木兄弟が参着した。
 「洪水により遅れ申した。」
 源頼朝は涙を流してねぎらった(伝)。


夜、・・・・
 山木兼隆の雑色男=召使いが源頼朝の家の下女と恋仲で、
 北条館に来た。
 源頼朝は「多くの武者の集まっている。」
 と告げ口される恐れがあるので用心のため生け捕った。


 
源頼朝の命で進軍した。
深夜一行は進発。
北条時政は、途中の肥田原で、佐々木定綱に
「山木兼隆の後見役:堤信遠は優れた勇士であるので軍勢を別けて
これを討て。」
と命じた。
@仁田兄弟&佐々木兄弟・・後見人:堤信遠邸へ 
佐々木兄弟は堤信遠の館に向かい、子の刻に佐々木
経高が館に矢を放った。
「源家が平家を征する最前の一箭なり」
 (★『吾妻鏡』)
新田忠常は筏を組んで、堀を渡って一男乗り・・。(伝)
  新田(仁田・日田)忠常は満13歳。
  堤信遠の郎従が応戦して矢戦になり、佐々木経高は矢を
  捨てて太刀を取って突入。
  堤信遠も太刀を取って組み合いになった。
  佐々木経高が矢を受けて倒れるが、佐々木定綱、佐々木
  高綱が加わり、遂に堤信遠を討ち取った。
  
A北条時政本隊・・・山木判官(目代)平兼隆邸へ
 北条時政らが韮山にある平兼隆の目代屋敷を襲撃。
 北条時政の本隊は山木館の前に到着すると矢を放った。
  その夜は三島神社の祭礼で山木兼隆の郎従の多くが参詣に
  出払たっていて、さらに黄瀬川の宿で酒宴を行っていた。
  山木館に残っていた兵は激しく抵抗した。
  
  堤信遠を討った佐々木兄弟や仁田忠常も加わり、激戦と
  なった。・・・容易に勝敗は決しなかった。

  源頼朝は山木館から火の手は上がらないのいで、
  焦った。
  源頼朝は警護に残っていた加藤景廉・佐々木盛綱・堀親家
  を山木館へ向かわせた。
  加藤景廉には長刀を与え、
 「これで兼隆の首を取り持参せよ。」
  と命じた。
  加藤景廉、佐々木盛綱は山木館に乗り込んでいった。
  遂に山木兼隆を討ち取った。
  山木館に火が放たれた。

  〜〜〜悉く燃え尽きた。
  襲撃隊は暁に帰還した。
  源頼朝は庭先で山木兼隆&堤信遠の首を検分した。

8月19日 
  源頼朝は山木兼隆の親戚:史大夫知親の伊豆国蒲屋御廚で
  の非法を停止させる命令を発給した。
 『吾妻鏡』はこれを「関東御施政の始まりである」
 と特記している。

 山木兼隆を討ち取って韮山一帯を制圧した。

※目代:山木兼隆を倒しても源頼朝の兵力のみで伊豆1国を
  掌握するにはほど遠かった。
  平家方の攻撃は時間の問題であった。

  三浦義澄・和田義盛らの三浦一族が源頼朝に参じる
  べく三浦を発した。
  途中、弟の大庭景親の郎党の館に火を放った。 
  
  三浦義澄一族は台風のために合流が遅れた。
  源頼朝は相模の三浦一族を頼みとしていたがなかなか参着
  してこなかった。

  
8月20日 源頼朝は相模へ〜〜〜〜 
 土肥実平は嫡男:土肥遠平ら中村党を率いて参じた。
  ※相模・伊豆の有力な源氏方であった鎌倉党や工藤党が
  内部分裂したが・・・
  中村党は土肥実平を中心に一団となって参じた。
 
  源頼朝は、伊豆韮山から北条時政以下46騎を従えて、
  相模国土肥郷(神奈川県湯河原)を目指した。
  従った者は
  北条義時・工藤茂光・土肥実平・土屋宗遠・岡崎義実・
  佐々木四兄弟、天野遠景、大庭景義、加藤景廉らである。 
  ★新田四郎忠常・新田(仁田)忠常など
  (★吾妻鏡)
  
  山木兼隆を討った源頼朝が土肥実平の拠点である土肥郷に入って
  三浦氏との合流を図った。
  (★『吾妻鏡』治承4年8月20日条)
  
8月21日 源頼朝は土肥氏館で三浦義澄を待った。  

しかし、来援を約束していた三浦勢がなかなか来なかった。

8月22日 源頼朝は土肥氏館で三浦義澄を待った。 
  平家方の大庭景親が俣野景久、渋谷重国、海老名季員、
  熊谷直実ら3000余騎を率いて迎撃に向かった。
 


【4】石橋山
8月23日 石橋山(神奈川県小田原市)の戦い 
 源頼朝は300騎で石橋山の山上に本陣を構えた。
  そして、以仁王の令旨を御旗に高く掲げさせた。
源頼朝の郎党・・・安達盛長、小中太光家
伊豆の武士・・・・北条一族4・狩野茂光父子・
 土肥実平一族5、天野遠景父子・
 宇佐美政光・実政、新田忠常、
加藤景員・景廉父子、堀親家・助政、天野光家、
 大見家秀、近藤七国平、平佐古為重、奈古谷頼時
 沢宗家・義勝房成尋、中惟重・惟平、鎌田俊長
近江源氏・・佐々木一族4兄弟
相模の武士・・中村景平・盛平(土肥同族)
       岡崎義実&佐那田義忠父子、
駿河の武士・・・鮫島宗家・宣親父子
敵将の兄・・・大庭景親、豊田景俊、


 源頼朝軍300騎 VS 平氏軍3000騎+伊東300騎
   平氏・・・大庭景親・渋谷重国・熊谷直実・
   山内首藤経俊・
   伊東祐親(狩野茂光弟)300ら・・・

 @大将:大庭景親を先頭に、熊谷直実など3000余騎が
  谷ひとつ隔てて石橋山の麓に陣を構えた。
 (★現米神付近であろう。)
 A伊東祐親も300騎を率いて石橋山の後山まで来た。
 そして、源頼朝の背後を塞いだ。
つまり、源頼朝軍は挟まれてしまった。
  三浦義澄と挟み撃ちのはずが・・・

 夜、雨が激しく降りだした。
 三浦義澄軍250騎が酒匂川の洪水で川を渡れなかった。

大庭景親は、源頼朝と三浦軍が合流するのを恐れ、三浦勢
が到着する前に雌雄を決すべしとし、夜戦を仕掛けること
にした。
 
 大雨となった。
 三浦義澄軍は酒匂川の増水によって足止めされたまま
 だった。源頼朝軍への合流ができなかった。
  
 闇夜の暴風雨の中を大庭軍は源頼朝の陣に襲いかかった。

  北条時政 VS 大庭景親
「言葉戦い」をした。
大庭景親は
  「後三年の役で奮戦した鎌倉景政の子孫である。」
  と名乗った。
  北条時政が
  「かつて、源義家に従った鎌倉景正の子孫ならば、
   なぜ源頼朝公に弓を引くのか。」
   と言い返した。
  大庭景親は
  「昔の主でも今は敵である。平家の御恩は山よりも高く、
   海よりも深い。」
  と応じた。
 (★『平家物語』)
★北条時政は先陣だった。

 源頼朝は三浦の軍勢と合流しないと命が危ない状況であった。
 
※佐奈田義忠(さなだ よしただ)は、岡崎義実の嫡男。
真田義忠(『吾妻鏡』)、岡崎義忠とも称される。
 (★『源平盛衰記』)。
箕輪初心▲神奈川伊勢原「岡崎城」:岡崎氏→三浦氏→北条氏
http://53922401.at.webry.info/201411/article_23.html

佐奈田義忠は白葦毛の名馬にまたがり、15騎を率いて進み出て
 名乗りを上げた。
大庭勢はよき敵であると見て大庭景親、俣野景久、長尾新五、新六ら
73騎が襲いかかった。

合戦は夜間に行われた。その上に大雨で敵味方の所在も分からず
乱戦となった。
佐那田義忠は郎党の文三家安に
「大庭景親か俣野景久と組まんと思っているから、組んだならば
直ちに助けよ。」
と命じた。
すると、敵一騎が組みかかってきた。
佐那田義忠は組み伏せて首をかき切るが岡部弥次郎だった。
佐那田義忠は首を谷に捨ててしまった。

箕輪初心●埼玉深谷市普済寺【岡部氏館】&岡部忠澄の墓
http://53922401.at.webry.info/201406/article_19.html


闇夜の乱戦の中、敵を探していると目当ての俣野景久と行き会った。
2人は馬上組みうち、地面に落ちてころげ、泥まみれになった。
格闘の末、佐那田義忠が俣野景久を組み伏せた。
暗闇のためにどちらが上か下か分からず、文三家安も景久の郎党
も手が出せない。
俣野景久は敵わじ(勝てない)と思い、叫び声を上げた。
長尾新五が駆け付けるがどちらが上下か分らない。
長尾新五は
「上が敵ぞ?下が敵ぞ?」
と問うと、佐那田義忠は咄嗟に
「上が景久、下が与一」
と言った。驚いた俣野景久は
「上ぞ与一、下ぞ景久、間違えるな。」
と言った。
長尾新五は手探りで鎧の毛を触った、上が佐那田義忠と見当をつけ
た。佐那田義忠は長尾新五を蹴り飛ばし、短刀を抜いて俣野景久の
首をかこうとするが、不覚にも鞘ごと抜き放って刺さらなかった。
鞘を抜こうとするが、先ほどの岡部の首を切った時の血糊で鞘が
抜けなかった。
そのうちに長尾新五の弟:新六が背後から組みかかってきた。
佐那田義忠は首を掻き切られて討ち死にした。
享年25。
なお、主人を失った文三家安は奮戦して稲毛重成の手勢に討たれた。
(★『平家物語』・『源平盛衰記』より)

源頼朝軍は力戦するが多勢に無勢で敵わず、岡崎義実の子:
  佐奈田与一義忠らが討ち死にして大敗した。
(★『平家物語』、『源平盛衰記』)
 
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 大庭軍は勢いに乗って追撃し、源頼朝に心を寄せる大庭軍の
 飯田家義の手引きによって辛くも土肥の椙山に逃げ込んだ。

 
 源頼朝は土肥実平ら僅かな従者7名と共に山中へ逃れた。


8月24日 大庭軍は追撃の手を緩めなかった。
  頼朝軍の残党は山中で逃げ回って激しく抵抗した。
  源頼朝も弓矢をもって戦った。
  源頼朝軍の武士達はおいおい、源頼朝の元に集まった。
  
加藤景員や宇佐美祐茂は
  「源頼朝と行動を伴にしたい。」
  と申し出た。
  
土肥実平は加藤景員や宇佐美祐茂に対して、
「今は敵に見つからないようにバラバラに逃げることが
 大事である。人数が多くてはとても逃れられない。
 源頼朝一人ならば命をかけて隠し通すので、皆はここで
 別れよう。」
と雪辱の機会を期すよう進言した。
(★『吾妻鏡』治承4年8月24日条)
皆これに従って涙を流して別れた。
  
「兵衛佐殿に相従いて山に籠りける者は、土肥次郎実平・同男遠平
・新開次郎忠氏・土屋三郎宗遠・岡崎四郎義実・藤九郎盛長なり」
 (★『源平盛衰記』)
源頼朝軍が分散して、退却することにした。
 源頼朝主従は、やっと朽木の洞に身を潜めることがで
 きた。


安達盛長が
「もはやこれまでか?」
と言った。
「佐殿の前で、何を申すか?」…★ポプラ社
  
源頼朝が箱根山で自害を覚悟した際に土肥実平が自害の作法
 ・故実を伝授した。
 (★『愚管抄』巻5)

大庭軍は山中をくまなく捜索した。
 
 大庭軍の梶原景時が源頼朝の居場所を突き止めた。
 
しかし、梶原景時洞穴に身を隠している源頼朝の目と会った瞬間、
梶原景時は
「蜘蛛の巣だらけじゃ・・・・・・・」
と知って知らぬふりをした。梶原景時は
「人跡なく、向こうの山が怪しい。」
「ここにはいない、別な山だ。」
と言って、追っ手を率いて、その場を立ち去った。



 梶原景時はと大庭景親を導き、源頼朝の命を救ったのである。

●土肥の椙山の「しとどの窟」
  エピソード=伝説の地として伝わっている。
 源頼朝主従が「しとどの窟」に隠れていたのを梶原景時が
 見逃した。
(★『源平盛衰記』)

先頭にいた梶原景時に見つかってしまった。
 この時、梶原景時が
「源頼朝を見つけたぞ」
と言えば、歴史は大きく変わったであろう。


「慥かに御在所を知ると雖も、有情の慮を存し、此山人跡無しと
 称し、景親の手を曳いて傍峯に登る。」
 (★『吾妻鏡』)

梶原景時は平氏での自分の出世を棒に振った。源頼朝と会った
 瞬間、助けてしまった。しかしこれが縁で後に梶原景時は源頼
 朝から重用されることになったのだが・・・・・・・。

 
 源頼朝&土肥実平の一行は箱根権現社別当:行実が
 探し当ててくれた。
 行実・永実兄弟の箱根神社の宿坊に匿われた。



●北条時政と2男:義時は甲斐国武田に向かった。
 しかし、嫡男:北条宗時は別路を向かったが、伊東祐親の
 軍勢に囲まれて討ち死にした。


8月25日 箱根神社泊

8月26日 箱根神社

 ・しとど窟泊
 ※土肥実平の妻が夕飯を届けたと言われてている。
「しとどの窟」に食糧を運んだ
(伝)。

 そして、大庭軍の目が遠ざかったのを見はからって、真鶴半島
  まで駆け下った。

 ・城願寺
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 ・土肥実平一族の墓
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 源頼朝は数日間の箱根山中逃亡・・・死を逃れた。


荒井城前〜詠い坂〜

8月27日 岩海岸の洞窟泊
土肥実平は船の用意をした。
 土肥実平は嫡男:土肥遠平に、伊豆山神社に
 いる北条政子に「今の所、無事である。安房に行く。」
 という知らせを遣わした。 


 8月28日 真鶴岬の北の付け根:岩
(神奈川県真鶴町)から船で安房国へ脱出した。

 ※後に助けた岩の漁師には年貢がかからなかった。 


北条時政らも引き返して船を仕立て、海上で三浦一族と
 合流し、安房国を目指して落ち延びた。


〜〜〜三浦義澄 VS 畠山重忠〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
8月25日 小坪の合戦
  三浦義澄 VS 畠山重忠
 
8月26日 三浦義澄は、衣笠城に籠城した。
 三浦一族の長老三浦介義明(89歳)を残して、
 船で安房に逃れた。北条時政らも安房に逃れた。
 
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
8月28日 源頼朝らも土肥の真鶴岬の岩から小舟に乗って
 安房に向かった。
・源頼朝・・・・源氏の嫡流
 ・安達盛長・・・京都から伊豆に着いてきた家臣
 ・岡崎義実・・・藤沢の豪族
 ・新開忠氏・・・秦河勝の子孫。新開荒次郎忠氏
          (埼玉県深谷市新戒)
         新開忠氏は土肥実平の2男:実重が養子。
 ・土肥実平・・・東伊豆:湯河原〜早川〜小田原の豪族
 ・土屋宗遠・・・土肥実平の実弟
 ・田代信綱・・狩野茂光の娘&後三条天皇の子孫:源有
        仁の4代孫:源為綱の子どもである。
  7名が真鶴から舟出したメンバーである。
 
 ★土肥実平の嫡男:遠平は北条政子に会いに行ったのだった。
 
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 源頼朝は千葉氏、上総氏らの参陣をえて反攻。
畠山重忠・江戸…足立遠元の参陣。

 関東から大庭景親ら平家勢力を駆逐しすることに成功した。

●富士川の戦い

  富士川の合戦後に源頼朝&源義経兄弟が対面した。
  土肥実平は取次ぎをした。
(★『吾妻鏡』治承4年10月21日条)

●常陸への参陣
  土肥実平は常陸国の志田義広討伐などに従軍した。

・治承5年(1181)
  土肥実平は源頼朝に降った梶原景時を取り成した。
 (★『吾妻鏡』治承5年正月11日条)。

  土肥実平は鶴岡八幡宮の造営にも寄与した。


・寿永3年(1184)1月 「宇治川の合戦」
  土肥実平は源範頼軍の副将として2000余騎で参陣した。

源義仲 VS 源範頼、源義経

合戦後、大江山に派遣され、京の入口を守った。


・建久3年(1184)
2月 土肥実平は平家追討軍として摂津に在陣した。
「一ノ谷の合戦」
 
三草山の戦い
 源義経は一万騎を二手に分けた。
源義経軍の副将として7000余騎を率いた。
 土肥実平は7,000余騎を引きつれ、一の谷の西の手に進んだ。
 平家追討の戦いでは源義経を補佐して功を立てた。
 土肥実平は中国総追捕使となった。
  ・・・吉備三国(備前・備中・備後)の惣追捕使(守護)。
 山陽道を守り、源範頼の進軍を支援した。
 土肥実平嫡男:土肥遠平に安芸国の地頭職が与えられた。
 土肥氏と西国との関わりが始まった。小早川家の祖である。
梶原景時と共に源頼朝代官:源範頼・源義経の奉行として
 遠征軍に派遣された。

  
・寿永4年(1185)年)3月 壇ノ浦の戦い
平家滅亡
  長門国と周防国の惣追捕使として長府に居城を構えた。

 
・文治5年(1189) 奥州合戦に参加。
かつて補佐していた源義経追討や奥州合戦にも加わった。

・建久元年(1190) 源頼朝の上洛
  土肥実平は右近衛大将拝賀の随兵7人の内に選ばれた。
北条義時、小山朝政、和田義盛、梶原景時、比企能員、
  畠山重忠。

・建久2年(1191) 7月18日 厩の上棟奉行をした。
岡崎義実と土肥実平が奉行だった。
(★『吾妻鏡』)

・建久2年(1191) 11月25日死去とされる?
  (★「安芸の沼田小早川家系図」)



参考図書
・伊豆武将物語:小野眞一著
・河内源氏::元木泰雄:中央公論新社
・新田義重:久保田順一著・・★講演会は8回かな?
・鎌倉の歴史と頼朝:
・平家物語:講談社
・源頼朝:永原慶二著:岩波新書絶版

★★必要なところだけさらっと、斜め読みだった。
小説は虚構が多いという私自身の先入観があるため・・・・
・源頼朝の世界:永井路子著:中公文庫
・北条政子:永井路子著:文春文庫
・漫画・・学研・小学館・ポプラ社・中央公論社
     ドラえもんのびっくり日本の歴史
     ・・・・ほかもあるかなあ? 
今、6冊あるけど・・・・
・「源頼朝1・2・3」山岡宗八著
・「源頼朝一・二」吉川英治著

◆参考サイト
・ウィキペディア党

★まあ、結局全て斜め読みだけどね。





★明日は逃亡編2:荒井城〜詠い坂かな?

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