城・陶芸・ハイキング・ダイビング・スキー・旅行

アクセスカウンタ

zoom RSS 箕輪初心★源頼朝B【蛭ヶ小島3年北条政子との結婚】

<<   作成日時 : 2014/12/24 06:59   >>

ブログ気持玉 0 / トラックバック 0 / コメント 3

・平治2年・永暦元年(1160)13歳の源頼朝は伊豆流罪となった。
流罪生活のはじめは伊豆の伊東祐親の管理下にあって伊東で過ご
した。やがて、治承元年(1177) 頃? 29歳の源頼朝は韮山の北
条館に行った。北条館あるいは蛭ヶ小島に移り住んだのであろう。
★おそらくは北条時政から「狩野川の中洲にある蛭ヶ島に行って
ね。」と言われたのであろう。蛭ヶ小島(伊豆の国市四日町)伊
豆で源頼朝の流刑地として知られている。しかし、長岡温泉の旅
館の人の話だと「土地を寄付してくれた人がいたから。」だとい
う。従って、「蛭ヶ島」の正しい場所は不明である。
北条時政の
管理下となり、北条政子が山木兼隆との婚礼の後、源頼朝と駆け
落ちしたのは本当なのであろうか?治承3年の政変や源頼政の死
と平時忠の伊豆支配とがちぐはぐな気がするのだが・・・。
★つまり、山木兼隆と北条政子との婚姻話は創作と思われる。
理由@治承2年(1178)には源頼朝の長女:大姫が生まれている。
A山木兼隆の伊豆流罪は治承3年(1179)のことである。
山木(平)兼隆は治承3年の政変の後、伊豆知行国主:平時忠により
伊豆国目代に任ぜられたという見方が妥当であろう。
治承4年(1180)5月に源頼政が挙兵に失敗し、宇治で戦死した後、
伊豆の知行主に平時忠がなり、山木兼隆を目代に推挙したとみる
方が妥当であろう。源頼朝と北条政子が結婚した時、山木兼隆は
京都にいたはずである。

画像





〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
箕輪初心★源頼朝@伊豆「伊東→蛭ヶ小島へ」
http://53922401.at.webry.info/201412/article_19.html

箕輪初心▼伊東ダイビング2回
http://53922401.at.webry.info/201307/article_29.html

箕輪初心★源頼朝A伊東祐親の娘:八重姫の悲話&
『伊東祐親の生涯』
http://53922401.at.webry.info/201412/article_20.html



◆◆ 源頼朝の伊豆での20年 ◆◆
・久安3年(1147)4月8日(5月9日)
   〜建久10年(1199)1月13日(2月9日)


源義朝の子ども
長男:義平・・・・源義賢を討った。
次男:朝長
3男:頼朝・・・・母:藤原季範の娘=由良御前★身分が高い。
4男:義門
5男:希義
6男:範頼・・・・母:池田宿(=磐田市)の遊女?
7男:全成
8男:義円
9男:義経・・・・母:常盤御前
長女:坊門姫
次女:女子?


・平治元年(1159) 平治の乱
父:源義朝が尾張で戦死。
源頼朝は尾張の熱田神宮で平清盛の配下に捕えられた。
源頼朝は京の六波羅へ送られた。
  処罰は死刑が当然視されていた。・・・
 

・平治2年・ 永暦元年(1160) 2月9日
平清盛の継母:池の禅尼の命乞いで、死一等を減ぜられて
  伊豆に流刑となり、助けられた。
 3月11日 伊豆国の蛭ヶ小島へと流された。
  大炊御門経宗・葉室惟方・源希義も伊豆流刑になった。
  
 ※源頼朝が伊豆国へ流罪となった。
 伊豆国に配流とのみ伝わっているので、本当に蛭ヶ小
   島に流されたのかどうかは不明である。
源頼朝が平清盛により最初に流されたのは、
  現在の伊東市の基を作った伊東祐親の管理下であった。
(★曽我物語)

【1】源頼朝の伊豆伊東時代 13歳頃〜29歳頃
源頼朝は伊東祐親に預けられ、伊東祐親の管理下に置かれた。
★おそらくは、流人とはいえ、母の弟:伊東祐範や源頼朝の乳母:
比企尼&夫:比企遠宗や娘夫婦から援助を受け、狩りを楽しむな
ど比較的安定した自由な生活をしていたと思われる。身の回りの
世話・食料調達をしてもらったのであろう。ある程度自由であっ
たが、謹慎の身の上、源氏一族の冥福を祈った。走湯権現(伊豆
山神社)や箱根権現にも参詣した。深く帰依して読経をおこたら
なかった。また、祈祷師を招いて法事も行った。地方武士として
敬虔な日々を送っていた。この敬虔な態度が平氏方の伊東氏や北条
氏の信用を得ていった。
比企尼の3人娘達
@長女:安達盛長の妻・・函南の桑原・大竹地区・本領武蔵
比企尼の婿である安達盛長が側近として仕えた。
A次女:河越重頼の妻・・武蔵
B3女:伊東祐親の次男:祐清の妻
C比企尼の養子・・・比企能員
D伊東祐親の長男:祐泰は妻は狩野茂光の娘
E比企朝宗の娘:北条義時の妻

〇源氏方に従ったため所領を失って放浪中の近江源氏佐々木定綱
四兄弟が従者として奉仕した。
〇京にいる乳母の甥:三善康信から定期的に京都の情報を得ていた。

・仁安2年(1167) 21
 源頼朝は伊東祐親の下に在った。ここでは後に家人となる土肥
 実平、天野遠景、大庭景義などが集まり狩や相撲が催されて
 た。
(★曽我物語)


ところが、成長していく間に恋をした。
伊東祐親が大番役・・交代で京で朝廷や貴族の警備をする役
の遠征に出ている間に、
・・・伊東祐親の娘:八重姫(伊東祐清の兄妹)
との間に男子をもうけてしまった。
※二人が愛を語らった場所は伊東市の「ひぐらしの森」
 「音無の森」である。
伊東祐親が2年の任期を終え、帰国した。
伊東祐親は
「ビックリした。平家から源頼朝の監視を頼まれたのに
 源頼朝のためにあらぬ疑いをかけられては困る。」
 と考えた。
源頼朝&娘:八重姫の子:千鶴丸を松川の上流で川に沈めた。
そして、八重姫を江間小四郎=北条泰時に嫁がせた。
八重姫は狩野川に入水自殺をしてしまった(伝)。

源頼朝は伊豆山神社に逃げ込んだ。
そして、狩野茂光や加藤景員に相談した。
狩野茂光から伊東祐親に
「北条時政の所で預かってもらおう。」
と言ったのであろう。
※『曽我物語』には次のような記載がある。
「仁安2年(1167)頃、21歳の頼朝は伊東祐親の下に在っ
た。ここでは後に家人となる土肥実平、天野遠景、大庭景義
などが集まり狩や相撲が催されている。祐親が在京の間に
頼朝がその三女:八重姫と通じて子:千鶴丸を成すと、祐親
は激怒し平氏への聞こえを恐れて千鶴丸を伊東の轟ヶ淵に投
げ捨て、八重姫を江間小四郎(北条義時)に嫁がせる一方で
頼朝を討たんと企てた。祐親の次男:伊東祐清からそれを聞
いた頼朝は走湯権現に逃れて一命を取り留めた。頼朝29歳
頃の事件であった。」

【2】源頼朝の蛭ヶ小島時代 29歳〜31歳
・治承元年(1177) 頃? 29歳
源頼朝は韮山の北条館に行った。
★おそらくは北条時政から
「狩野川の中洲にある蛭ヶ島に行ってね。」
と言われたのであろう。
源頼朝は29歳であった。
画像

蛭ヶ小島(静岡県伊豆の国市四日町)
伊豆国での流人生活は史料としてはほとんど残っていない。
「蛭ヶ小島」は静岡県伊豆の国市にある。源頼朝の流刑地と
して知られている。しかし、歴史的には「伊豆国に配流」と
記録されるのみである。『吾妻鏡』では源頼朝の流刑地につ
いて「蛭島」と記してあるだけである。江戸時代に秋山富
南が「頼朝が配流となった蛭ヶ島はこの付近にあった。」と
推定し、寛政2年(1790)に「蛭島碑記」が建てられた。
長岡温泉の旅館の人の話だと「土地を寄付してくれた人が
いたから。」だという。従って、「蛭ヶ島」の正しい場所は
不明であり、当地が比定地としただけである。発掘調査で
は弥生・古墳時代の遺構・遺物のみである。しかし、これ
が伊豆の国市指定有形文化財となっている。

画像

隣村の函南の桑原・大竹地区は安達盛長の所領であった。
ここでも、安達盛長の庇護を受けた。

●北条館=北条時政の館=含む伝:堀越公方館

●北条政子の産湯の井戸

・治承2年(1178)頃 30歳
※源頼朝は蛭ヶ小島からいろいろな場所を訪ねたであろう
@三島神社
A函南・・・安達盛長邸・仁田忠行邸・肥田邸
B韮山・・・北条時政館・江間館・江川(宇野源氏)邸
C修善寺
D加藤景廉邸・工藤系狩野茂光邸
E白浜神社
F松崎・・・円通寺

良橋太郎入道の娘:亀ノ前とできちゃった。
→また、ひと悶着あった。



〜〜〜北条政子との出会い〜〜〜〜〜〜〜
※北条時政の娘
@長女:北条政子21歳・・・一番美人
A次女:19歳・・・・やや不器量。源頼朝は恋文を書いた。
B3女:17歳・・・・やや不器量。
〇長男:北条泰時=江間小四郎


●「蛭ヶ小島公園」の源頼朝&政子夫妻の像
画像

源頼朝31歳
北条政子21歳
がであった。

次女:19歳に源頼朝は恋文を書いた。しかし、文使いの
安達盛長は、
「北条時政の長女:政子の方がいいであろう。ごたごたがあ
った時、器量がいい方が飽きが来ないであろう。」
と勝手に源頼朝と北条政子の間を取り持ったとされる。

 (★『曽我物語』)

北条政子は時政の先妻の子であった。20歳過ぎても嫁に
行かず、さびしい思いをしていたのであろう。

 『曽我物語』の「夢買い」エピソード
二人の馴れ初めは北条政子の妹(後に頼朝の弟:阿野全成の妻となる
阿波局)が日月を掌につかむ奇妙な夢を見た。妹が夢について政子に
話すと、北条政子は
「それは禍をもたらす夢であるので、自分に売るように・・・」
と勧めた。
妹は姉:政子に夢を売り、北条政子は代に小袖を与えた。
北条政子は吉夢と知って妹の夢を買ったのである。
吉夢の通りに北条政子は後に天下を治める頼朝と結ばれた。」




北条時政は大番役で京へ行っていた。
留守中に、2人は逢瀬を重ねた。
2人の大恋愛は注目の的であった。
都人の源頼朝は伊豆の娘たちの理想でもあった。


●伊豆山神社の梛の木(なぎのき)
※「梛の木」・・・・縁結びの木。
「鏡の裏側に梛の葉を入れて御守りにすると結ばれる。」
と信じられてきた。ロマンチック・・・・。
画像

画像



●伊豆山の逢引橋・・・いつも通り過ぎてしまう。

●蛭ヶ小島の梛の木
※伊豆の国市の木・・・梛の木である。
画像




逢引き=デートは間もなく、北条時政の後妻:牧ノ方
の知るところとなった。
父:大岡庄:牧三郎宗親
牧ノ方→父:大岡庄:牧三郎宗親→京の北条時政
と知らせが伝えられた。
※父:大岡庄:牧三郎宗親は池ノ禅尼の子:平頼盛の家人で
あり、源頼朝の監視&保護の役を負っていた。

・治承3年(1779) 32歳
正月 北条時政は帰郷した。


・治承元年(1177)
  平氏政権の成立・・・目代:平兼隆は伊豆(韮山城&江田邸の東
  300m)で平氏の代官となっていた。
  平氏の一族の山木平兼隆は元は流人だった。
  平時忠と懇意であったために目代となった。
  平兼隆が伊豆の判官として任用されたのだ。
  ★でも、この年かどうかは不明である。
   治承3年の政変とする方が妥当であろう。





  北条時政は源頼朝と娘:北条政子の関係を
  知った北条時政は平氏一門への聞こえを恐れ、北条政子を伊豆
  の目代:平兼隆と結婚させようとした。
   北条時政は平兼隆に
  「娘:政子を嫁にやる。」
  と約束した。
  北条時政は山木兼隆に嫁がせるべく、娘:政子を山木兼隆の
  下に送った。

  
  北条政子は山木の邸へ輿入れさせられようとする。
  山木(平)兼隆&北条政子が祝言を挙げた。
  その日、北条政子は山木の平兼隆邸から逃げ出した。
  屋敷を抜け出した北条政子は山を越え、源頼朝の元へ
  走ったという。
  2人は伊豆山権現(伊豆山神社)に匿われた。
  北条政子が21歳のときである。
  伊豆山は僧兵の力が強く目代の山木も手を出せなかった。
  伊豆山神社に逃げ込んだ。
  ★ドタキャン・・駆け落ち?
  源頼朝&北条政子もワイルドな人生を歩んでいたの
  ですね。伊豆山神社で待ち合わせた源頼朝と結婚した。
   でも、本当かどうか?


・治承2年(1178)
  源頼朝の長女:大姫が生まれている
  源頼朝は北条時政の長女:政子と婚姻関係を結び、
  長女:大姫をもうけた。・・・・★ちぐはぐだ。

・治承3年(1179) 政変に伴う知行国主の変更により、坂東では
  新知行国主に近い存在となった平氏家人や平氏方目代により
  旧知行国主系の豪族達が圧迫されていった。
 
源頼朝は文覚上人(遠藤盛遠)から挙兵を促されていた。
 文覚上人のいた場所
説@伊豆国の奈古屋説・・★こっちかな?
説A松崎の円通寺説・・・・地元の説
 「源頼朝が挙兵した場合、旧知行国主系豪族の協力が見込ま
  れることが予想できる。」
 と密かに心構えを説いた。
 
北条時政は次第に北条政子&源頼朝を許す考えになって
 いった。


・治承4年(1180)

4月 後白河法皇の子:以仁王の令旨
後白河法皇の皇子:以仁王が平氏追討を命ずる令旨を
   諸国の源氏に発した。

4月27日 源頼朝の叔父:源行家は蛭ヶ小島を訪れた。
   伊豆国の源頼朝に叔父:源行家より令旨が 
     届けられた。
 
     源頼朝は事態を静観していた。

5月10日 下河辺行平は
「源頼政の挙兵がある。」
と伝えた。

5月下旬 以仁王の挙兵
 しかし、挙兵計画が平氏に発覚してしまった。
 以仁王と源頼政は準備不足のため、
 以仁王は一端、近江の園城寺に逃れた。
 そして、平氏の追討を受けて宇治で戦死した。

伊豆国は平時忠の知行国になった。
 平時忠の子:平時兼は伊豆守になった。
山木(平)兼隆が目代になった。

 伊豆国では目代:山木(平)兼隆は急速に伊豆で勢力を振る
うようになっていった。
 また、目代であるが故、旧知行国主系の工藤系狩野茂光や
 北条時政から反感を持たれた。


6月2日 平清盛の福原遷都

平氏が令旨を受けた諸国の源氏追討を企てた。

6月19日 京の三善康信(源頼朝の乳母の妹の子)が
「平家が諸国の源氏を追討しようとしているので、直ち
 に奥州藤原氏の元へ逃れるように・・。」
 と急報を送ってきた。



6月24日 源頼朝は挙兵を決意した。
 函南の桑原・大竹の安達盛長・小中太光家が
相模・武蔵に出向いた。
源頼朝は安達盛長に源家累代の家人の動向
  を探らせた。

 
6月27日 大番役を終え、京より下った三浦義澄、千葉
  胤頼らが北条館を訪れて京の情勢を報告した。
  「5月から、拘留されていた。」
 

 安達盛長・小中太光家が使者として、源義朝の時代
 から縁のある坂東の武者に挙兵の協力を呼びかけた。 

7月10日 安達盛長・小中太光家が戻った。
@反対派
 山内首藤経俊は
 「佐殿(頼朝)が平家を討とうなぞ、富士山と丈比べをし、
 鼠が猫をとるようなものだ」
 と嘲笑した。
A迷った派
波多野義常は返答を渋った。
B賛成派
  大庭景義(大庭景親の兄)は快諾した。
  三浦義明は一族を集めて御教書を披露して同心を確約
  した。
土肥実平も快諾した。
  千葉常胤、上総広常も承諾した。
渋谷重国の居候:佐々木4兄弟も味方に付いた。
※賛成派は平氏系目代から圧迫されていた存在だった。
(★ 『源平盛衰記』)
 

7月23日 伊豆に流されていた佐伯昌長や永江頼隆
を呼んで祈祷した。この一族も同心となった。


8月2日 大庭景親が本領:藤沢に下向した。
  源頼政の孫:源有綱が伊豆国にいた。
   大庭景親が源有綱追捕を平清盛から命を受けていた
  のだ。
  源頼朝らの緊張が高まった。

  源頼朝は8月17日をもって挙兵することを決めた。
 まず手始めに伊豆目代の山木兼隆を討つことにした。
 源頼朝は最初の標的を伊豆国目代・山木兼隆と定めた。

8月17日 
早朝・・・源頼朝は襲撃は朝駈けを考ええていたが、
  佐々木兄弟の遅参によって計画がくるってしまった。

昼・・・・山木兼隆の雑色男=召使が源頼朝の家の下女と
     恋仲で今日もゲートをしに来た。
     源頼朝は用心のため生け捕った。


深夜・・・源頼朝の命で進軍した。
 源頼朝は
 「明朝を待たず、直ちに山木館を襲撃すべし。」
 「山木と雌雄を決して生涯の吉凶を図らん。」
 「山木の館を放火すべし。それをもって襲撃の成否を
  確認すべし。」
と命じた
  北条時政は
 「今宵は三島神社の祭礼であるがゆえに、牛鍬大路は
  人が満ちて、襲撃を気取られる恐れがあるから、間道
  の蛭島通を通ってはどうか?」
  と進言したが、源頼朝は
 「余も最初はそう思った。しかし、挙兵の草創であり、
  間道は用いるべきではない。・・・また、蛭島通では
  騎馬が難渋する。大道を通るべし。」
 と命じた。

 一行は進発。
 北条時政は、途中の肥田原で、佐々木定綱に
「山木兼隆の後見役:堤信遠は優れた勇士であるので軍勢を別けて
 これを討て。」
 と命じた。
@仁田兄弟&佐々木兄弟・・後見人:堤信遠邸へ 
佐々木兄弟は堤信遠の館に向かい、子の刻に佐々木
経高が館に矢を放った。
「源家が平家を征する最前の一箭なり」
 (★『吾妻鏡』)
新田忠常は筏を組んで、堀を渡って一男乗り・・。(伝)
  新田(仁田・日田)忠常は満13歳。
  堤信遠の郎従が応戦して矢戦になり、佐々木経高は矢を
  捨てて太刀を取って突入。
  堤信遠も太刀を取って組み合いになった。
  佐々木経高が矢を受けて倒れるが、佐々木定綱、佐々木
  高綱が加わり、遂に堤信遠を討ち取った。
   (★吾妻鏡)
A北条時政本隊・・・山木判官(目代)平兼隆邸へ
 北条時政らが韮山にある平兼隆の目代屋敷を襲撃。
 北条時政の本隊は山木館の前に到着すると矢を放った。
  その夜は三島神社の祭礼で山木兼隆の郎従の多くが参詣に
  出払たっていて、さらに黄瀬川の宿で酒宴を行っていた。
  山木館に残っていた兵は激しく抵抗した。
  
  堤信遠を討った佐々木兄弟や仁田忠常も加わり、激戦と
  なった。容易に勝敗は決しない。

  源頼朝は山木館から火の手は上がらないのいで、
  焦った。
  源頼朝は警護に残っていた加藤景廉・佐々木盛綱・堀親家
  を山木館へ向かわせた。
  加藤景廉には長刀を与え、
 「これで兼隆の首を取り持参せよ。」
  と命じた。
  加藤景廉、佐々木盛綱は山木館に乗り込んでいった。
  遂に山木兼隆を討ち取った。
  山木館に火が放たれた。〜〜〜悉く燃え尽きた。
  襲撃隊は暁に帰還した。
  源頼朝は庭先で山木兼隆&堤信遠の首を検分した。

8月19日 
  源頼朝は山木兼隆の親戚:史大夫知親の伊豆国蒲屋御廚で
  の非法を停止させる命令を発給した。
 『吾妻鏡』「関東御施政の始まりである」と特記している。

  源頼朝は山木兼隆を討ち取って韮山一帯を制圧した。

8月20日 源頼朝は相模へ〜〜〜〜 
  源頼朝は、伊豆韮山から北条時政以下46騎を従えて、
  伊豆東海岸の相模国土肥郷(湯河原)を目指した。
  従った者は 伊豆と相模の御家人だけだった。
  北条時政・北条義時・工藤茂光・土肥実平・土屋宗遠
  ・岡崎義実・佐々木四兄弟、天野遠景、大庭景義、加藤
  景廉らである。 
  ★新田四郎忠常・・ほかに新田(仁田)の名が見られ
   ないので単独参加なのだろうか?
  (★吾妻鏡)

8月22日 
三浦義澄、和田義盛らの三浦一族が源頼朝に参じる
  べく三浦を発した。
  三浦一族は途中の大庭景親の家臣の館に火を放った。 
  三浦義澄一族は台風のために合流が遅れた。
 

8月23日 石橋山(神奈川県小田原市)の戦い 
 大雨となった。
 三浦軍は酒匂川の増水によって足止めされ、源頼朝軍へ
 の合流ができなかった
大庭景親は三浦勢が到着する前に雌雄を決すべしとし、
  夜戦を仕掛けることにした。闇夜の暴風雨の中を大庭軍
は源頼朝の陣に襲いかかった。

 合戦に先立って、北条時政と大庭景親が名乗りあった
 大庭景親は
 「我こそは、後三年の役で奮戦した鎌倉景政の子孫である。」
 と名乗った。これに対して、北条時政が
 「かつて源義家に従った鎌倉景政の子孫ならば、なぜ頼朝
  公に弓を引く。」と言い返した。これに対して
 大庭景親は
 「昔の主でも今は敵である。平家の御恩は山よりも高く、
 海よりも深い。」
 と応えた。
  (★『平家物語』)
 
 源頼朝軍300騎 VS 平氏軍3000騎
   平氏・・・大庭景親・渋谷重国・熊谷直実・
    山内首藤経俊・伊東祐親ら・・・
     
結果・・・源頼朝軍は多勢に無勢で敵わなかった。
佐奈田与一義忠と俣野五郎景久が組み合った。
    岡崎義実の子:佐奈田与一義忠らが討ち死にした。
  源頼朝は大敗北した。
  源頼朝は土肥実平ら僅かな従者と共に山中へ逃れた。
大庭軍は追撃した。
  しかし、源頼朝に心を寄せる大庭軍の飯田家義の手引きに
  よって源頼朝は辛くも土肥の椙山に逃げ込んだ。

8月24日 源頼朝軍の残党は山中で激しく抵抗した。
  源頼朝も弓で応戦した。
  
源頼朝、土肥実平一行は箱根権現社別当行実に匿われた。

土肥実平は
  「人数が多くてはとても逃れられない。土肥は自分の領地
   なので、頼朝公御一人ならば命をかけて隠し通せます。
   皆、ここで別れて雪辱の機会を期す。・・・」
  と進言した。
  皆、涙を流して別れた。
  北条時政と3男:義時は甲斐国へ向かった。
  嫡男の宗時は伊東祐親の軍勢に囲まれて討ち死にした。

 源頼朝は箱根山から真鶴半島へ逃れた。

  大庭軍はくまなく捜索した。
  源頼朝主従5人はやっと朽木の洞に身を潜めた。
  大庭軍に梶原景時が土肥の椙山の「しとどの窟」で源頼朝
  の居場所を知った。しかし、
  梶原景時は
  「この山に人跡なく、向こうの山が怪しい。」
  と大庭景親らを導き、頼朝の命を救った。
(★伝説の地)
しかし、梶原景時は洞穴の中の源頼朝の目と会った瞬間、
 梶原景時は「ここにはいない、別な山だ」と言って、追っ手
 を率いて、その場を立ち去ったのである。
 
★何故だろう?・・・・・考えても分からん。
 梶原景時が「源頼朝を見つけたどー!覚悟。」と言って
 源頼朝を殺してしまえば、歴史は大きく変わったでしょうね。
 源頼朝って、運のいい男である。平清盛に助けられ、梶原景
  時に助けらた。2度目の強運だった。

 「慥かに御在所を知ると雖も、有情の慮を存し、此山人跡無し
 と称し、景親の手を曳いて傍峯に登る」
(★『吾妻鏡』)

 ※これが縁で、梶原景時は源頼朝から信頼され
   鎌倉幕府の「別当」になった。
   
  源頼朝は数日間の山中逃亡し、死を逃れた。

8月28日 源頼朝は船を仕立てて真鶴岬の岩(神奈川県真鶴町)
  から出航。安房国へ向かった。
 北条時政らも引き返して船を仕立て、海上で三浦一族と
  合流し、安房国を目指して落ち延びた。

〜伊豆〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜安房〜〜〜〜遠いなあ。

******三浦一族VS 畠山重忠*************************************
8月24日  三浦義澄、和田義盛ら三浦一族500騎は
 丸子川(酒匂川)まで来ていたが、豪雨の増水のために
 渡河できずにいた。源頼朝軍の敗北を知り、引き返した。

8月25日 鎌倉の由比ヶ浜の戦い・小壺坂合戦
 三浦一族は畠山重忠の軍勢と遭遇。
 和田義盛が名乗りをあげて、双方対峙した。
 和田義盛の弟:和田義茂が畠山勢に討ちかかってしまった。
 畠山勢が応戦。
 双方に討ち死にしたものが出た。
 停戦がなり、双方が兵を退いた。

8月26日 衣笠城の戦い
  畠山重忠、河越重頼、江戸重長ら平家方の大軍が三浦半島に
  押し寄せた。三浦一族は本拠の衣笠城で防戦するが、支えきる
  ことができず、船で海上へ逃れることに決した。
  三浦義明は一人城に残り討ち死にした。89歳だった。

三浦義澄は、一族の長老三浦介義明(89歳)を残して
  船で安房に逃れた。北条時政も安房に逃れた。

***************************************************
 

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜「着いたどお〜安房ぢゃあ。」

8月29日 源頼朝は安房国平北郡猟島へ上陸した。
  ※源頼朝上陸地・・千葉県鋸南町勝山付近?
  北条時政・和田義盛・三浦義澄らの出迎えられた。


9月3日 源頼朝は、勝山付近で使者を送り、味方の参陣を
 待つことにした。
 和田義盛・・・上総介広常に派遣
 安達盛長・・・千葉介常胤に派遣
 □□□□・・・下野・下総・武蔵の有力豪族に派遣。
 北条時政・・・甲斐・信濃の源氏系豪族に派遣。

  南下し洲崎明神に参詣した。

9月9日 千葉介常胤から
  「先祖以来の故地で、要害の地鎌倉にお入りを・・・」
  という使者が来た。

9月13日 安房国を出て上総国に北上した。

9月17日 源頼朝は下総国に向かった。
 下総国府で千葉介常胤らの千葉一族と合流した。
 千葉寺に詣でた。

  頼朝は再挙した。
  安西氏、千葉氏などに迎えられて房総半島を
  進軍した。
  平氏方目代に圧迫されていた東国武士が平氏方を打ち
  破りながら続々と参集してきた。

9月19日 上総広常が大軍を率いて参上した。
 源頼朝は下総と武蔵の境の隅田川で、上総介広常が2万騎を
 率いて迎えた。しかし、源頼朝は広常の遅参を厳しく責めた。
 源頼朝の「許すの気がない」態度に、上総広常は頼朝に服従
 
   
 ※1か月で数万騎の大軍に膨れ上がった。

10月2日  隅田河を渡った。
    武蔵国に入った。
    葛西清重・足立遠元は加わった。

    江戸重長の勧めで、三浦軍を壊滅させた
    畠山重忠、河越重頼、江戸重長が従った。
源頼朝は三浦義澄の敵であった畠山重忠の参陣も
    許した。

10月6日 源頼朝は「凡そ扈従の軍士幾千万を知らず」と
    いう大軍を率いて、鎌倉に入った。
     父:源義朝と兄:義平が住んだ鎌倉へ入った。
   大倉に大倉御所を構えた。
   鎌倉の政治の拠点とした。
   先祖:源頼義が京の石清水八幡宮を勧請した鶴岡
   八幡宮を北の山麓に移した。
   父:源義朝の菩提を弔うために勝長寿院の建立を行った。
  
※鎌倉は鎌倉幕府の本拠地として、発展を遂げることとなる。
★いつ世界遺産になるのだろう?

10月20日 富士川の戦い
  源頼朝+武田信義らの甲斐源氏 VS 平維盛
 源氏は平氏を撃破した。

10月21日 源義経が平泉から駆けつけてきた。
    源頼朝と源義経は再会をした。
源頼朝は源義経を馬から降り、片膝ついて座ることを
    命じた。そして、源頼朝は馬上から義経の肩に土足を
   置いた。・・・・この上下関係の姿を、多くの従者に見
   せたと言う。徳川家康が松平から徳川に変えたのと
   同様である。源義経はこの時のことを恨んで、後に頼朝
   に背くことになったと言う。
   
  ★今まで、私のブログに「源頼朝がなかったのは、好きな
   人物ではないからである。嫌いな人物なのだ。」

12月まで  源氏系佐竹氏、新田義重などが従った。
  源頼朝は坂東での覇権を徐々に確立していった。


★石橋山の戦いで頼朝を破った大庭景親と伊東祐親は平家方に
 合流しようとするが失敗した。
 大庭景親は降参するが許されずに斬られた。
 伊東祐親は捕えられ自害した。

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(3件)

内 容 ニックネーム/日時
AM8:00下仁田の道の駅でいいのでは?
攻める山城は、日尾城・根小屋城・熊倉城・根岸城
余裕があれば三峰山城
富岡武蔵
2014/12/24 18:37
下仁田の道は家から50分?結構、辛いです。
日尾城・根小屋城・熊倉城・根岸城・三峰山城
・・・賛成です。
富岡武蔵さんへ
2014/12/24 19:36
地方道10号線、下高尾の信号そばにあるファミリーマートで8:00にしますか?
富岡武蔵
2014/12/27 19:36

コメントする help

ニックネーム
本 文
箕輪初心★源頼朝B【蛭ヶ小島3年北条政子との結婚】 城・陶芸・ハイキング・ダイビング・スキー・旅行/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる