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zoom RSS 箕輪初心★源頼朝@伊豆「伊東→蛭ヶ小島へ」

<<   作成日時 : 2014/12/19 07:19   >>

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源頼朝は鎌倉に幕府を開いたが、理由は@鎌倉は父:源義朝
の旧居があったこと、A伊豆に20年過ごして、東国武士、
特に伊豆の武士&相模の武士と仲良くなったことと密接な
繋がりがあったこと、によるものだと考えられる。源頼朝
の伊豆流罪20年は、はじめは、東伊豆の伊東祐親の管理
下にあって伊東で過ごした。やがて、北条時政の管理下と
なり、北条館あるいは蛭ヶ小島に移り住んだのであろう。

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●【0】河内源氏@源頼信→A源頼義→B源義家→C源義国→
D新田義重
箕輪初心★久保田順一先生20141129『河内源氏&上野国:八幡荘』
http://53922401.at.webry.info/201412/article_11.html

●【1】新田義重の関係〜〜〜〜〜〜
箕輪初心★高崎:新田義重&茶臼山城
http://53922401.at.webry.info/201309/article_27.html
http://s.webry.info/sp/53922401.at.webry.info/201309/article_27.html

●【2】里見氏関係:里見義俊〜


●【3】山名氏関係:山名義範〜
箕輪初心●群馬:高崎「山名義範館」=子孫は山名宗全
http://53922401.at.webry.info/201102/article_31.html

箕輪初心★「上野国:山名義範〜応仁の乱:山名宗全」
http://53922401.at.webry.info/201309/article_26.html
http://s.webry.info/sp/53922401.at.webry.info/201309/article_26.html

箕輪初心●兵庫『出石:有子山城』=山名一族の古城
http://53922401.at.webry.info/201304/article_20.html

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜


箕輪初心★久保田順一先生20141129『河内源氏の上野国:八幡荘』後編
http://53922401.at.webry.info/201412/article_12.html


★★ 源頼朝&伊豆 ★★
・久安3年(1147)4月8日(5月9日)
   〜建久10年(1199)1月13日(2月9日)


源義朝の子ども
長男:義平・・・・源義賢を討った。
次男:朝長
3男:頼朝・・・・母:藤原季範の娘=由良御前★身分が高い。
4男:義門
5男:希義
6男:範頼・・・・母:池田宿(=磐田市)の遊女?
7男:全成
8男:義円
9男:義経・・・・母:常盤御前
長女:坊門姫
次女:女子?


・平治元年(1159) 平治の乱
父:源義朝が尾張で戦死。
源頼朝は尾張の熱田神宮で平清盛の配下に捕えられた。
源頼朝は京の六波羅へ送られた。
  処罰は死刑が当然視されていた。・・・
 

・平治2年・ 永暦元年(1160) 2月9日
平清盛の継母:池の禅尼の命乞いで、死一等を減ぜられて
  伊豆に流刑となり、助けられた。
 3月11日 伊豆国の蛭ヶ小島へと流された。
  大炊御門経宗・葉室惟方・源希義も伊豆流刑になった。
  
 ※源頼朝が伊豆国へ流罪となった。
 伊豆国に配流とのみ伝わっているので、本当に蛭ヶ小
   島に流されたのかどうかは不明である。


源頼朝が平清盛により最初に流されたのは、
  現在の伊東市の基を作った伊東祐親の管理下であった。

(★曽我物語)
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【1】源頼朝の伊豆伊東時代 13歳頃
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源頼朝は伊東祐親に預けられ、伊東祐親の管理下に置かれた。
★おそらくは、流人とはいえ、母の弟:伊東祐範や源頼朝の乳母:
比企尼&夫:比企遠宗や娘夫婦から援助を受け、狩りを楽しむな
ど比較的安定した自由な生活をしていたと思われる。身の回りの
世話・食料調達をしてもらったのであろう。ある程度自由であっ
たが、謹慎の身の上、源氏一族の冥福を祈った。走湯権現(伊豆
山神社)や箱根権現にも参詣した。深く帰依して読経をおこたら
なかった。また、祈祷師を招いて法事も行った。地方武士として
敬虔な日々を送っていた。この敬虔な態度が平氏方の伊東氏や北条
氏の信用を得ていった。
比企尼の3人娘達
@長女:安達盛長の妻・・函南の桑原・大竹地区・本領武蔵
比企尼の婿である安達盛長が側近として仕えた。
A次女:河越重頼の妻・・武蔵
B3女:伊東祐親の次男:祐清の妻
C比企尼の養子・・・比企能員
D伊東祐親の長男:祐泰は妻は狩野茂光の娘
E比企朝宗の娘:北条義時の妻

〇源氏方に従ったため所領を失って放浪中の近江源氏佐々木定綱
四兄弟が従者として奉仕した。
〇京にいる乳母の甥:三善康信から定期的に京都の情報を得ていた。

・仁安2年(1167) 21
 源頼朝は伊東祐親の下に在った。ここでは後に家人となる土肥
 実平、天野遠景、大庭景義などが集まり狩や相撲が催されて
 た。
(★曽我物語)


ところが、成長していく間に恋をした。
伊東祐親が大番役・・交代で京で朝廷や貴族の警備をする役
の遠征に出ている間に、
・・・伊東祐親の娘:八重姫(伊東祐清の兄妹)
との間に男子をもうけてしまった。
※二人が愛を語らった場所は伊東市の「ひぐらしの森」
 「音無の森」である。
伊東祐親が2年の任期を終え、帰国した。
伊東祐親は
「ビックリした。平家から源頼朝の監視を頼まれたのに
 源頼朝のためにあらぬ疑いをかけられては困る。」
 と考えた。
源頼朝&娘:八重姫の子:千鶴丸を松川の上流で川に沈めた。
そして、八重姫を江間小四郎=北条泰時に嫁がせた。
八重姫は狩野川に入水自殺をしてしまった(伝)。

源頼朝は伊豆山神社に逃げ込んだ。
そして、狩野茂光や加藤景員に相談した。
狩野茂光から伊東祐親に
「北条時政の所で預かってもらおう。」
と言ったのであろう。
※『曽我物語』には次のような記載がある。
「仁安2年(1167)頃、21歳の頼朝は伊東祐親の下に在っ
た。ここでは後に家人となる土肥実平、天野遠景、大庭景義
などが集まり狩や相撲が催されている。祐親が在京の間に
頼朝がその三女:八重姫と通じて子:千鶴丸を成すと、祐親
は激怒し平氏への聞こえを恐れて千鶴丸を伊東の轟ヶ淵に投
げ捨て、八重姫を江間小四郎(北条義時)に嫁がせる一方で
頼朝を討たんと企てた。祐親の次男:伊東祐清からそれを聞
いた頼朝は走湯権現に逃れて一命を取り留めた。頼朝29歳
頃の事件であった。」





【2】源頼朝の蛭ヶ小島時代 29歳〜31歳
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・治承元年(1177) 頃? 29歳
源頼朝は韮山の北条館に行った。
★おそらくは北条時政から
「狩野川の中洲にある蛭ヶ島に行ってね。」
と言われたのであろう。
源頼朝は29歳であった。

蛭ヶ小島(静岡県伊豆の国市四日町)
伊豆国での流人生活は史料としてはほとんど残っていない。
「蛭ヶ小島」は静岡県伊豆の国市にある。源頼朝の流刑地と
して知られている。しかし、歴史的には「伊豆国に配流」と
記録されるのみである。『吾妻鏡』では源頼朝の流刑地につ
いて「蛭島」と記してあるだけである。江戸時代に秋山富
南が「頼朝が配流となった蛭ヶ島はこの付近にあった。」と
推定し、寛政2年(1790)に「蛭島碑記」が建てられた。
長岡温泉の旅館の人の話だと「土地を寄付してくれた人が
いたから。」だという。従って、「蛭ヶ島」の正しい場所は
不明であり、当地が比定地としただけである。発掘調査で
は弥生・古墳時代の遺構・遺物のみである。しかし、これ
が伊豆の国市指定有形文化財となっている。


隣村の函南の桑原・大竹地区は安達盛長の所領であった。
ここでも、安達盛長の庇護を受けた。

●北条館=北条時政の館=伝:堀越公方館

●北条政子の産湯の井戸

・治承2年(1178)頃 30歳
※源頼朝は蛭ヶ小島からいろいろな場所を訪ねたであろう
@三島神社
A函南・・・安達盛長邸・仁田忠行邸・肥田邸
B韮山・・・北条時政館・江間館・江川(宇野源氏)邸
C修善寺
D加藤景廉邸・工藤系狩野茂光邸
E白浜神社
F松崎・・・円通寺

良橋太郎入道の娘:亀ノ前とできちゃった。
→また、ひと悶着あった。



〜〜〜北条政子との出会い〜〜〜〜〜〜〜
※北条時政の娘
@長女:北条政子21歳・・・一番美人
A次女:19歳・・・・やや不器量。源頼朝は恋文を書いた。
B3女:17歳・・・・やや不器量。
〇長男:北条泰時=江間小四郎


●「蛭ヶ小島公園」の源頼朝&政子夫妻の像
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源頼朝31歳
北条政子21歳
がであった。
次女:19歳に源頼朝は恋文を書いた。しかし、文使いの
安達盛長は、
「北条時政の長女:政子の方がいいであろう。ごたごたがあ
った時、器量がいい方が飽きが来ないであろう。」
北条政子は時政の先妻の子であった。20歳過ぎても嫁に
行かず、さびしい思いをしていたのであろう。

北条時政は大番役で京へ行っていた。
留守中に、2人は逢瀬を重ねた。
2人の大恋愛は注目の的であった。
都人の源頼朝は伊豆の娘たちの理想でもあった。

逢引き=デートは間もなく、北条時政の後妻:牧ノ方
の知るところとなった。
父:大岡庄:牧三郎宗親
牧ノ方→父:大岡庄:牧三郎宗親→京の北条時政
と知らせが伝えられた。
※父:大岡庄:牧三郎宗親は池ノ禅尼の子:平頼盛の家人で
あり、源頼朝の監視&保護の役を負っていた。

・治承3年(1779) 32歳
正月 北条時政は帰郷した。
同じころ、平兼隆が伊豆の判官として任用された。
平兼隆は元々は流人だったが平時忠と懇意であった
 ために目代となった。
が、実は北条時政は平兼隆に
「娘:政子を嫁にやる。」
と約束した。
北条時政は山木兼隆に嫁がせるべく、娘:政子を山木兼隆の
下に送った。



山木(平)兼隆&北条政子が祝言を挙げた。
その日、北条政子は山木の平兼隆邸から逃げ出し、
伊豆山神社に逃げ込んだ。
ドタキャン・・駆け落ちですね!
★源頼朝&北条政子もワイルドな人生を歩んでいたの
ですね。伊豆山神社で待ち合わせた源頼朝と結婚した。



●伊豆山神社の梛の木(なぎのき)
※「梛の木」・・・・縁結びの木。
「鏡の裏側に梛の葉を入れて御守りにすると結ばれる。」
と信じられてきた。ロマンチックですよね。

●蛭ヶ小島の梛の木
※伊豆の国市の木・・・梛の木である。


源頼朝は北条時政の長女:政子と婚姻関係を結び、
長女:大姫をもうけた。

治承3年の政変に伴う知行国主の変更により、坂東各地では
新知行国主に近い存在となった平氏家人や平氏方目代により
旧知行国主系の豪族達が圧迫されていった。
 
源頼朝は文覚上人(遠藤盛遠)から挙兵を促されていた。
 文覚上人のいた場所
説@伊豆国の奈古屋説・・★こっちかな?
説A松崎の円通寺説
 「源頼朝が挙兵した場合、旧知行国主系豪族の協力が見込ま
  れることが予想できる。」
 と密かに心構えを説いた。
 
北条時政は次第に北条政子&源頼朝を許す考えになって
 いった。

・治承4年(1180)

4月 後白河法皇の子:以仁王の令旨
後白河法皇の皇子:以仁王が平氏追討を命ずる令旨を
   諸国の源氏に発した。

4月27日 源頼朝の叔父:源行家は蛭ヶ小島を訪れた。
   伊豆国の源頼朝に叔父:源行家より令旨が 
     届けられた。
 
     源頼朝は事態を静観していた。

5月10日 下河辺行平は
「源頼政の挙兵がある。」
と伝えた。

5月下旬 以仁王の挙兵
 しかし、挙兵計画が平氏に発覚してしまった。
 以仁王と源頼政は準備不足のため、
 以仁王は一端、近江の園城寺に逃れた。
 そして、平氏の追討を受けて宇治で戦死した。

伊豆国は平時忠の知行国になった。
 平時忠の子:平時兼は伊豆守になった。
山木(平)兼隆が目代になった。

 伊豆国では目代:山木(平)兼隆は急速に伊豆で勢力を振る
うようになっていった。
 また、目代であるが故、旧知行国主系の工藤系狩野茂光や
 北条時政から反感を持たれた。


6月2日 平清盛の福原遷都

平氏が令旨を受けた諸国の源氏追討を企てた。

6月19日 京の三善康信(源頼朝の乳母の妹の子)が
「平家が諸国の源氏を追討しようとしているので、直ち
 に奥州藤原氏の元へ逃れるように・・。」
 と急報を送ってきた。



6月24日 源頼朝は挙兵を決意した。
 函南の桑原・大竹の安達盛長・小中太光家が
相模・武蔵に出向いた。
源頼朝は安達盛長に源家累代の家人の動向
  を探らせた。

 
6月27日 大番役を終え、京より下った三浦義澄、千葉
   胤頼らが北条館を訪れて京の情勢を報告した。
  「5月から、拘留されていた。」
 
 安達盛長・小中太光家が使者として、源義朝の時代
 から縁のある坂東の武者に挙兵の協力を呼びかけた。 

7月10日 安達盛長・小中太光家が戻った。
@反対派
 山内首藤経俊は
  「佐殿(頼朝)が平家を討とうなぞ、富士山と丈比べをし、
  鼠が猫をとるようなものだ。」
  と嘲笑した。
A迷った派
  波多野義常は返答を渋った。
B賛成派
  大庭景義(大庭景親の兄)は快諾した。
  三浦義明は一族を集めて御教書を披露して同心を確約
  した。
土肥実平も快諾した。
  千葉常胤、上総広常も承諾した。
渋谷重国の居候:佐々木4兄弟も味方に付いた。
 ※賛成派は平氏系目代から圧迫されていた存在だった。
(★ 『源平盛衰記』)
 

7月23日 伊豆に流されていた佐伯昌長や永江頼隆
を呼んで祈祷した。
佐伯一族も永江一族も同心となった。


8月2日 大庭景親が本領:藤沢に下向した。
  源頼政の孫:源有綱が伊豆国にいた。
   大庭景親が源有綱追捕を平清盛から命を受けていた
  のだ。
  源頼朝らの緊張が高まった。
風雲急を告げた。・・・・・

源頼朝は北条時政に相談した。
  平家打倒の挙兵の打ち合わせに大日堂=現願成就院の地が
  使われたらしい。北条館の100m東は八幡神社で、その
東隣が現願成就院〜旧願成就院である。

  源頼朝は8月17日をもって挙兵することを決めた。
  まず手始めに、伊豆目代の山木兼隆を討つことにした。
  源頼朝は最初の標的は伊豆国目代:山木兼隆と定めた。


8月4日 源頼朝は祐筆:大和判官邦通に山木邸付近の
見取り図を書かせた。

8月6日〜□□日? 源頼朝の挙兵裏工作開始
 源頼朝は工藤系狩野茂光・土肥実平・岡崎義実・宇佐美祐茂
 (すけもち)・天野遠景・佐々木盛綱、加藤景廉らを招集し、
 一人ずつ私室に呼び、個別にそれぞれと密談を行い、意見
 を聞き、賛同を得た。
 「未だ口外せざるといえども、ひとえに汝を頼むによって
 話す。」
 と言い、自分だけが特別に頼りにされていると錯覚させた。

8月11日 源頼朝は岡崎義実&子:佐奈田義忠に使いを送
 った。
 「8月17日、土肥実平と参上せよ。」

8月16日
 挙兵の前日に至るが、佐々木定綱、経高、盛綱、高綱ら
 佐々木兄弟が参じなかった。
 源頼朝は佐々木盛綱に計画を漏らしたことに疑心暗記に
 なり、後悔した。
 
8月17日
 山木館の襲撃は朝駈けを図っていたが、佐々木兄弟の遅参
 によって計画がくるってしまった。
 源頼朝は
 「明朝を待たずに直ちに山木館を襲撃すべし。
  山木と雌雄を決して生涯の吉凶を図らん。
山木の館を放火すべし。・・・
 と決意を述べた。
 襲撃の成否を確認したいと配下に相談した。。

 北条時政は
 「今宵は三島神社の祭礼であるがゆえに牛鍬大路は人が
  満ちて、襲撃を気取られる恐れがあるから、間道の蛭
 島通を通ってはどうか。」
 と進言した。
 源頼朝は
 「余も最初はそう思ったが、挙兵の草創であり、間道は用
 いるべきではない。また、蛭島通では騎馬が難渋する。
 大道を通るべし」
 と命じた。

 源頼朝は三島神社祭礼に安達盛長を名代として参列させ
 ていた。

 挙兵当日の8月17日(新暦9月8日)佐々木兄弟が
 急ぎ疲れた体で参着した。
「洪水により遅れた。」
 源頼朝は涙を流してねぎらった(伝)。


夜、・・・・
 山木兼隆の雑色男=召使いが源頼朝の家の下女と恋仲で、
 北条館に来た。
 源頼朝は「多くの武者の集まっている。」
 と告げ口される恐れがあるので用心のため生け捕った。





 
源頼朝の命で進軍した。
深夜一行は進発。
北条時政は、途中の肥田原で、佐々木定綱に
「山木兼隆の後見役:堤信遠は優れた勇士であるので軍勢を別けて
これを討て。」
と命じた。
@仁田兄弟&佐々木兄弟・・後見人:堤信遠邸へ 
佐々木兄弟は堤信遠の館に向かい、子の刻に佐々木
経高が館に矢を放った。
「源家が平家を征する最前の一箭なり」
 (★『吾妻鏡』)
新田忠常は筏を組んで、堀を渡って一男乗り・・。(伝)
  新田(仁田・日田)忠常は満13歳。
  堤信遠の郎従が応戦して矢戦になり、佐々木経高は矢を
  捨てて太刀を取って突入。
  堤信遠も太刀を取って組み合いになった。
  佐々木経高が矢を受けて倒れるが、佐々木定綱、佐々木
  高綱が加わり、遂に堤信遠を討ち取った。
  
A北条時政本隊・・・山木判官(目代)平兼隆邸へ
 北条時政らが韮山にある平兼隆の目代屋敷を襲撃。
 北条時政の本隊は山木館の前に到着すると矢を放った。
  その夜は三島神社の祭礼で山木兼隆の郎従の多くが参詣に
  出払たっていて、さらに黄瀬川の宿で酒宴を行っていた。
  山木館に残っていた兵は激しく抵抗した。
  
  堤信遠を討った佐々木兄弟や仁田忠常も加わり、激戦と
  なった。・・・容易に勝敗は決しなかった。

  源頼朝は山木館から火の手は上がらないのいで、
  焦った。
  源頼朝は警護に残っていた加藤景廉・佐々木盛綱・堀親家
  を山木館へ向かわせた。
  加藤景廉には長刀を与え、
 「これで兼隆の首を取り持参せよ。」
  と命じた。
  加藤景廉、佐々木盛綱は山木館に乗り込んでいった。
  遂に山木兼隆を討ち取った。
  山木館に火が放たれた。〜〜〜悉く燃え尽きた。
  襲撃隊は暁に帰還した。
  源頼朝は庭先で山木兼隆&堤信遠の首を検分した。

8月19日 
  源頼朝は山木兼隆の親戚:史大夫知親の伊豆国蒲屋御廚で
  の非法を停止させる命令を発給した。
 『吾妻鏡』はこれを「関東御施政の始まりである」
 と特記している。

 山木兼隆を討ち取って韮山一帯を制圧した。

※目代:山木兼隆を倒しても源頼朝の兵力のみで伊豆1国を
  掌握するにはほど遠かった。
  平家方の攻撃は時間の問題であった。

  三浦義澄・和田義盛らの三浦一族が源頼朝に参じる
  べく三浦を発した。
  途中、弟の大庭景親の党類の館に火を放った。 
  三浦義澄一族は台風のために合流が遅れた。
  源頼朝は相模の三浦一族を頼みとしていたがなかなか参着
  してこなかった。

  大庭景親は三浦勢が到着する前に雌雄を決すべしとし、夜戦
  を仕掛けることにした。
  闇夜の暴風雨の中を大庭軍は頼朝の陣に襲いかかった。

  北条時政 VS 大庭景親
「言葉戦い」をした。
大庭景親は
  「後三年の役で奮戦した鎌倉景政の子孫である。」
  と名乗った。
  北条時政が
  「かつて、源義家に従った鎌倉景正の子孫ならば、
   なぜ源頼朝公に弓を引くのか。」
   と言い返した。
  大庭景親は
  「昔の主でも今は敵である。平家の御恩は山よりも高く、
   海よりも深い。」
  と応じた。
 (★『平家物語』)
★北条時政は先陣だった。


8月20日 源頼朝は相模へ〜〜〜〜 
  しかし、来援を約束していた三浦勢がなかなか来なかった。

  源頼朝は、伊豆韮山から北条時政以下46騎を従えて、
  相模国土肥郷(神奈川県湯河原)を目指した。
  従った者は
  北条義時・工藤茂光・土肥実平・土屋宗遠・岡崎義実・
  佐々木四兄弟、天野遠景、大庭景義、加藤景廉らである。 
  ★新田四郎忠常・・ほかに新田(仁田)の名が見られ
   ないので単独参加なのだろうか?
  (★吾妻鏡)
  三浦軍との合流前・・・

  これに対して、平家方の大庭景親が俣野景久、渋谷重国、
  海老名季員、熊谷直実ら3000余騎を率いて迎撃に向か
  った。
 
8月23日 石橋山(神奈川県小田原市)の戦い 
 源頼朝は300騎で石橋山の山上に本陣を構えた。
  そして、以仁王の令旨を御旗に高く掲げさせた。

 源頼朝の挙兵を知った大将大庭景親を先頭に、熊谷直実など
 3000余騎が各地から駆けつけた。
 大庭景親軍は谷ひとつ隔てて石橋山の麓に陣を構えた。布
 伊豆国の伊東祐親も300騎を率いて石橋山の後山まで
 進出して、源頼朝の背後を塞いだ。

 夜、雨が激しく降りだした。
 三浦義澄軍250騎が遅参した。

大庭景親は、源頼朝と三浦軍が合流するのを恐れ、夜討ちを
決行した。
源頼朝軍が衆寡敵せず、分散して、退却することにした。
 頼朝主従5人は、やっと朽木の洞に身を潜めることができた。
 

  この日は大雨となった。
  三浦軍は酒匂川の増水によって足止めされた。
 源頼朝軍への合流ができなかった。

 源頼朝軍300騎 VS 平氏軍3000騎
   平氏・・・大庭景親・渋谷重国・熊谷直実・
    山内首藤経俊・伊東祐親ら・・・
  
源頼朝軍は力戦するが多勢に無勢で敵わず、岡崎義実の子:
  佐奈田与一義忠らが討ち死にして大敗した。
  ・・源頼朝は大敗北した。
  (★『平家物語』、『源平盛衰記』)
  大庭軍は勢いに乗って追撃し、源頼朝に心を寄せる大庭軍の
  飯田家義の手引きによって辛くも土肥の椙山に逃げ込んだ。
 
  源頼朝は土肥実平ら僅かな従者と共に山中へ逃れた。

  源頼朝は数日間の山中逃亡・・・死を逃れた。

8月24日 大庭軍は追撃の手を緩めなかった。
  頼朝軍の残党は山中で逃げ回って激しく抵抗した。
  源頼朝も弓矢をもって戦った。
  源頼朝軍の武士達はおいおい頼朝の元に集まった。
  土肥実平は
  「人数が多くてはとても逃れられない。源頼朝一人ならば
   命をかけて隠し通すので、皆はここで別れよう。」
   と雪辱の機会を期すよう進言した。
   皆これに従って涙を流して別れた。
 北条時政と2男の:義時は甲斐国武田に向かった。
 しかし、嫡男:北条宗時は別路を向かったが、伊東祐親の
  軍勢に囲まれて討ち死にした。

  大庭軍は山中をくまなく捜索した。
  大庭軍の梶原景時が源頼朝の居場所を突き止めた。
 


 しかし、梶原景時は
  「・・・・・・・」
  が知って知らぬふりをした。梶原景時は
 「人跡なく、向こうの山が怪しい。」
  と大庭景親を導き、源頼朝の命を救ったのである。
●土肥の椙山の「しとどの窟」
  ・・エピソード=伝説の地として伝わっている。
★先頭にいた梶原景時に見つかってしまった。
 この時、梶原景時が
「源頼朝を見つけたぞー!」
と言えば、歴史は大きく変わった。
しかし、梶原景時洞穴に身を隠している源頼朝の目と会った瞬間、
梶原景時は
「ここにはいない、別な山だ。」
と言って、追っ手を率いて、その場を立ち去った。

「慥かに御在所を知ると雖も、有情の慮を存し、此山人跡無しと
 称し、景親の手を曳いて傍峯に登る。」
 (★『吾妻鏡』)
★梶原景時は平氏での自分の出世を棒に振った。源頼朝と会った
 瞬間、助けてしまった。しかしこれが縁で後に梶原景時は源頼
 朝から重用されることになった。

 源頼朝&土肥実平の一行は箱根権現社別当:行実に匿われ
 た後に箱根山から真鶴半島へ逃れた。

8月28日 真鶴岬の北の付け根:岩から船で安房国へ
  脱出した。
  真鶴岬の岩(神奈川県真鶴町)から出航・・・・。
  北条時政らも引き返して船を仕立て、海上で三浦一族と
 合流し、安房国を目指して落ち延びた。

〜〜〜三浦義澄 VS 畠山重忠〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
8月25日 小坪の合戦
  三浦義澄 VS 畠山重忠
 
8月26日 三浦義澄は、衣笠城に籠城した。
  三浦一族の長老三浦介義明(89歳)を残して、船で
  安房に逃れた。北条時政らも安房に逃れた。
 
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
8月28日 源頼朝らも土肥の真鶴岬から小舟に乗って安房に
  向かった。
 
◆◆源頼朝の関東平定 ◆◆
8月29日
 源頼朝は安房国の平北郡猟島(現勝山付近)へ上陸した。
  北条時政・和田義盛・三浦義澄らの出迎えを受けた。
 
 源頼朝は、房総に勢力を持つ上総広常と千葉常胤に加勢を要請
 すべく使者を派遣した。
 源頼朝は江戸湾に沿って南下し洲崎明神に参詣した。

9月3日 源頼朝は勝山から使者を送り、味方の参陣を待つこと
  にした。
  上総介広常の元には和田義盛が派遣された。  
  千葉介常胤の元には安達盛長が派遣された。

  小山朝政ら下野・下総・武蔵の有力豪族にも使いを
  送った。
  甲斐・信濃の豪族にも北条時政を派遣した。

9月9日、千葉介常胤から
  「先祖以来の故地で、要害の地鎌倉にお入りを」
  という使者が来た。


9月13日 源頼朝は安房国を出て上総国に向かった。

9月17日 源頼朝は下総国府で千葉介常胤と合流した。


9月19日 源頼朝は上総広常と会見した。
  上総広常は大軍を率いて参上したのだった。
  
安房においては頼朝は再挙した。
  安西氏、千葉氏、上総氏などに迎えられた。
  房総半島を進軍して武蔵国へ入った。
  平氏方の目代に圧迫されていた千葉氏、上総氏などの東国武士
  が平氏方目代や平氏方豪族を打ち破りながら続々と参集した。
  
  1か月かけて数万騎の大軍に膨れ上がった。




 
9月19日 源頼朝は下総と武蔵の境の隅田川で、上総介広常
  の2万騎を迎えた。
  しかし、頼朝は広常の遅参を厳しく責めました。
  頼朝の「許容の気無し」の態度に、広常は「害心を変じ、和順」
  (日和見を改め、頼朝に服属)しました。
  傲慢な千葉介常胤をしかった。

10月2日 上総・千葉両氏の支持を受けた源頼朝は、
  太井川・隅田川の両河を渡った。
  武蔵国に入った。
  源義経の傘下に葛西清重、足立遠元が入った。
江戸城の江戸重長も源頼朝の傘下に入った。
  源頼朝は三浦義澄の敵:畠山重忠の参陣を許した。
一度は敵対した秩父平氏氏系畠山重忠・河越重頼・
  江戸重長らも従えることになった。
  
★源頼朝は度量の大きさでもリーダーとしての風格を持って
  いると言える。

10月6日 源頼朝は「凡そ扈従の軍士幾千万を知らず」
  という大軍を率いて、鎌倉に入った。

10月6日 源頼朝は鎌倉に入った。
源頼朝はかつて父:源義朝と兄:義平の住んだ
  鎌倉へ入った。
  大倉の地に大倉御所をかまえて鎌倉の政治の拠点とした。
  また、先祖の源頼義が京都石清水八幡宮を勧請した鶴岡
  八幡宮を移した。
  父:源義朝の菩提を弔うための勝長寿院の建立を行った。

10月20日 富士川の戦い
 源頼朝+武田信義ら VS 京 平維盛軍
源頼朝は平氏勢を撃破した。
 
※この後、佐竹氏、新田義重などの源頼朝に従わぬ豪族達と
 の対立を制して、源頼朝は坂東での覇権を徐々に確立して
 いくことになる。

10月21日 源義経が平泉から駆けつけてきて、兄源頼朝と
  劇的な再会をした。
 ★普通は「弟よ」・「兄さん」と言って感激の対面を期待し
 たでしょうが・・。しかし、源頼朝は源義経を馬から降ろし、
 片膝ついて座ることを命じた。
 そして、馬上から源義経の肩に土足を置いた姿を、多くの
 従者に見せた(伝)。 
 源義経はこのことを恨んで、後に兄:源頼朝に背くことに
 なった(伝)。
 ★歴史好きの方の中に「源頼朝が嫌い&憎い」という方が
 多いと思う。・・・実は私も嫌いで、ブログ取り上げるのに
 3年もかかった。
 源頼朝の再会場面は、徳川家康が「武士の世で、主人は1人」
 ということを宣言した現れである。
 兄弟であれ、「自分が一番。」と例外なく伝えたかった。
 為政者って我が儘ですね。・・・何をか言わんや・・・・。

 
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜]
10月25日
 源頼朝と合流すべく三浦半島を出た三浦義澄、和田義盛ら
 三浦一族500騎は丸子川(酒匂川)の辺りまで来ていた。
 しかし、豪雨の増水のために渡河できなかった。
 源頼朝軍の敗北を知り、引き返した。

 三浦一族は鎌倉の由比ヶ浜で平家方の畠山重忠の軍勢と遭遇
 した。和田義盛が名乗りをあげて、双方対峙した。
 
※小壺坂合戦、小坪合戦
 和田義盛の弟:和田義茂が畠山勢に討ちかかってしまった。
 これに怒った畠山重忠が応戦した。
 和田義茂を死なすなと三浦勢も攻めかかって合戦となった。
 双方に少なからぬ討ち死にしたものが出た。
 停戦で双方が兵を退いた。

10月26日
 秩父氏系平氏の畠山重忠・河越重頼・江戸重長ら平家方の
 大軍が三浦半島に押し寄せた。
※衣笠城の戦い
 三浦一族は本拠ので防戦するが、城を捨てて船で海上へ逃れ
 ることにした。
 三浦義明89歳
 「源氏累代の家人として、再興に立ち会うことができた。
  これ程の喜びはない。武衛(頼朝)のために我が老命を
  奉げて子孫の勲功を募らん。皆は彼の生死を確かめよ。」
 と言って、城に残り、討ち死にした。

石橋山の戦いで源頼朝を破った大庭景親と伊東祐親は平家方に
 合流しようとするが失敗した。
 大庭景親は降参するが許されずに斬られた。
 伊東祐親は捕えられ自害した。

※その後、源頼朝は安達盛長&丹後内侍の間にできた
 丹後局を妾とし、島津忠久を生んだという。
 鹿児島の伊集院近くの薩摩焼の苗代川近くに
 「丹後局の館」があるという。
(★母は鹿児島出身の関根氏の話より)

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世界遺産:高山社の【高山長五カ重札】や江戸時代の3奇人 【高山彦九郎正之】は秩父平氏の出自である。桓武平氏良文 流秩父十郎武綱の子:権平重綱の第3子:高山三郎重遠から 始まる。長男:高山重昭(重久)&次男:小林重幸は主君を 源義朝→源義賢→(畠山重忠)→木曾義仲→源頼朝と変え た。そして、鎌倉御家人となった。 ...続きを見る
城・陶芸・ハイキング・ダイビング・スキー...
2015/05/19 08:37

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