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zoom RSS 箕輪初心★久保田順一先生20141129『河内源氏&上野国:八幡荘』前編

<<   作成日時 : 2014/12/11 07:32   >>

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箕輪初心★久保田順一先生20141129『河内源氏の上野国:八幡荘』
『源頼信→源頼義→源義家→源義国→新田義重→里見義俊&義成
&山名義範』・・・・・・・
◆平成26年(2014)11月29日、高崎市旧榛名町で久保田順一先
生の講演会『里見氏と山名氏』があった。河内源氏は源頼信→頼義
→義家→義国→新田氏の始祖:新田義重と続く。子どもは里見義
俊、山名義範、新田義兼、得川義季、額戸経義、祥寿姫、足利義
清室、武田信光室、那須与一室?、得河義秀?である。今回の講
演会で「河内源氏は上野国の交通の要所=八幡荘を持ち、八幡荘
から、新田荘や足利荘を開拓した。」ことが分かった。
そして、
高崎市榛名町は「里見氏の発展の町→長野氏の隆盛の町」となっ
って行った。
画像




ウィキペディアでも久保田順一先生の名前が掲載されるようにな
ってきた。
久保田先生を見送った時、久保田先生が「先が見てき
たので、やれることをやる。」とおっしゃった。



【1】源頼信
清和源氏経基流・・・源満仲の3男。
・安和元年(968) 11月29日(968年12月21日)生誕
父:源満仲
母:藤原元方女?藤原致忠女

兄弟
頼光、頼親、頼信、頼平、頼範
頼明、頼貞、頼尋、源賢
父:源満仲は摂津国多田(現兵庫県川西市多田)に源氏武士団を形成
した。

・寛和3年(987) 2月19日 左兵衛少尉に任官。
・長保元年(999) 9月2日、上野介に任官。

久保田先生「八幡荘」・・・
この時、八幡庄を切り開いたのではないだろうか」
八幡荘は、上野国碓氷郡(現群馬県高崎市八幡町付近)にあった
荘園である。古くから信濃国と結ぶ交通の要所に位置していた。
交通の要所であった。・・・鎌倉上道&東山道が交わる場所で
あった。
源頼信が上野介任官時に摂関家領として立券された。
源頼義→源義家→源義国→源義重が相続した。
新田荘とともに新田氏の根拠地となった。
新田氏一族の里見氏、山名氏は八幡荘内の里見郷、山名郷より
それぞれ発祥した。・・・
2014年11月29日には、「山名郷は多胡荘かなあ?」
とおっしゃっていた。
 また、義重の猶子(利権の相続がない)で娘婿:矢田義清の所領の
矢田郷も八幡荘内に存在する。



久保田先生「上野國一社八幡宮うえのこくいっしゃはちまんぐう」
 が正式の名前です。
・・・群馬県高崎市八幡町にある神社である。
碓氷八幡宮と呼ばれていたと言われている。八幡八幡宮と呼ばれて
いる。
画像

・天徳元年(957) 源頼信が八幡荘に石清水八幡宮を勧請して創建された
という。・・・しかし、源頼信は生まれていない。


永承年間(1046〜1052) 源頼義&源義家が奥州征伐に赴く際に
 戦勝祈願をしたといわれている。その際に社殿を改修した。


〜〜〜八幡八幡宮のその後〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
・源頼朝も社殿を改修、神田100町を寄進した
・新田義貞が鎌倉幕府打倒の兵を挙げた際も、一旦、八幡に
 入って信濃や越後の味方と合流した。
 新田義貞は里見氏・・戦勝祈願をしている。→鎌倉幕府滅亡。

・南北朝の内乱
  上杉氏が八幡荘を奪って守護領に編入した。
  以降守護:上杉氏の上野国経営の中心となった。

・戦国時代  武田信玄が侵入して八幡を支配している。

・その後も関東源氏一門の崇敬を受けた。

・徳川幕府からは朱印地100石を寄進されていた。
*主祭神は品陀和気命、息長足姫命、玉依姫命・・・。


『中世武士選書18 新田義重』:久保田順一著

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜


・長保3年(1001) 2月26日、上野介を退任か?

・長和元年(1012) 前常陸介(御堂関白記閏10月23日条)

・寛仁3年(1019) 春、石見守に任官、7月に赴任。(論文で否定)

・治安3年(1023) 8月、鎮守府将軍に任官。
 ※兄:源頼光と同じく関白の藤原道兼に、藤原道長に仕えた。、
河内国石川郡壺井(現・大阪府羽曳野市壺井)を本拠地とした。
 壺井荘を拓き、香炉峰の館を建てる。 河内源氏の祖となった。

・長元元年(1028) 時に前伊勢守(左経記6月21日条)

・長元2年(1029) 甲斐守に任官。

・長元4年(1031) 平忠常の乱
源頼信は平定した。
 平直方と争っていた忠常が戦わずして降伏したのは、それ以前に
 源頼信と平忠常は主従関係があったためと考えられている。
   (★河内源氏:元木泰雄著)
この乱の後、坂東の武士たちは河内源氏と主従関係を結ぶようになり、
 河内源氏の東国進出の第一歩を踏み出した。
 後の東国支配と武家源氏の主流となる礎を築いた。

 平維衡・平致頼・藤原保昌らとともに「道長四天王」と称された。

・長元4年(1031) 1月6日 従四位下に昇叙。甲斐守如元。

・長元5年(1032) 2月8日 美濃守に遷任。

・長元9年(1036) 10月14日 相模守に遷任。

・永承2年(1047) 従四位上に昇叙。河内守に任官。

・永承3年(1048)4月17日(16月1日)死亡。

妻:修理命婦・・・下級女官
長男:源頼義(988-1075)嫡男
次男:源頼清(995-1073)子孫は信濃村上氏(千曲市)
   ・・・村上義清     村上水軍
妻:生母不明
3男:源頼季・・・・・・源氏井上氏の祖()
4男:源頼任・・・・・・信濃河内氏の祖
5男:源義政・・・・・・常磐五郎
女子:源為満の室

★参考文献・図書
『河内源氏 頼朝を生んだ武士本流』元木泰雄著中公新書



【2】源頼義
・永延2年(988)
 頼信の嫡子として河内国古市郡壺井村(現大阪府羽曳野市壺井)の
  香炉峰の館に生まれた。
  弓の達人で若い頃から武勇の誉れ高かった。

・長元元年(1028) 10月14日 相模守に任官。

・長元3年(1030) 平忠常の乱(長元の乱)
父:源頼信と共に乱を平定した。
  父の後を継いで河内源氏の東国への進出を図る。
  平忠常の討伐に失敗した平直方の娘を娶った。
   鎌倉の大蔵にあった平直方の屋敷を譲り受けた。
   以後その屋敷が河内源氏の東国支配の拠点となる。

・永承6年(1051) 陸奥守に任官。
・永承6年(1051)〜前九年の役 
     安倍氏と戦った。
   1度は朝廷に服従した安倍頼時(頼良)を挑発して再び挙兵
   させた。
   しかし、藤原経清などの離反した。
   黄海(きのみ)の戦い
   源頼義が大敗を喫した。
    その後、出羽の豪族の清原氏の協力を得て安倍氏や経清を
   討った。

・天喜元年(1053) 鎮守府将軍を兼任した。
      藤原登任の後任として陸奥守・鎮守府将軍となった。

・天喜4年(1056) 12月29日 陸奥守を更任。
・康平5年(1062) 陸奥守任期満了。
戦乱は陸奥への河内源氏勢力拡大のためのものであった。
   頼義は戦後朝廷より伊予守に叙任された。
  陸奥守への再任に失敗したのだ。
  清原氏に陸奥の支配権を譲る形で帰京したのだった。

・康平6年(1063) 2月25日 従四位下に昇叙。伊予守に任官。

・治暦元年(1065) 9月1日 剃髪し出家。信海と号した。

・承保2年(1075)8月27日 死亡・・・没。享年87。
・大正4年(1915) 11月10日、贈正三位。


河内源氏の氏神:石清水八幡宮を勧請して、
壷井八幡宮(大阪府羽曳野市)
鶴岡若宮(鶴岡八幡宮の前身)
大宮八幡宮(東京都杉並区)

妻・・・・正室:平直方娘
子・・・義家、義綱、義光、親清? 快誉、清原成衡室?

※源氏一門は数多いが、多くは源頼義を祖としている。
@長男:八幡太郎義家・・・源為朝、源頼朝・源義経、源義仲
  ・・・新田氏の祖:源義重や足利氏の祖:源義康など
A次男:賀茂次郎義綱・・・石橋氏
B3男:新羅三郎義光・・・源義業の子:佐竹昌義を祖とする佐竹氏、
    源義業の弟:源清光の子:武田信義を祖とする武田氏や
    その弟:加賀美遠光・・・小笠原長清を祖とする小笠原氏
C河野親清・・・伊予の河野氏の伝承では女婿となったは
    三島四郎親清であるとされている。
D快誉・・・・園城寺に出家。伊予阿闍梨となった。
E平正済室・・・伊勢平氏の祖:平維衡の息子は正輔・正度・正済
    (まざずみ)である。平正済の曾孫:平家弘は信濃国を勢
    力基盤としていた。
F清原成衡室?・・奥州清原真衡の養子。
  妻は多気権守平宗基の孫娘=源頼義の娘と伝わっている。
  妻の兄:源義家の庇護され、下野国塩谷郡に居を構えた。
  後に常陸国住人:中郡頼経に討伐された?


【3】源義家
・長暦3年(1039)
  @源頼義の長男として、河内源氏の本拠地である河内国
  石川郡壺井(現大阪府羽曳野市壺井)の香炉峰の館に生
  まれた説
 A鎌倉で生まれたとの説
  幼名は不動丸、または源太丸。

・永承元年(1045) 七歳
春に、京都郊外の石清水八幡宮で元服したことから八幡太郎と
称した。

・永承6年(1051)〜前九年の役 
  【前九年の役】     
  陸奥の豪族の阿部頼時、阿部貞任が朝廷に対して反乱を起こ
   した。
八幡宮にお参りをした。 

   鎮守府将軍・陸奥守に任ぜられた父:源頼義とともに
   安倍氏と戦った
 
   1度は朝廷に服従した安倍頼時(頼良)を挑発して再び挙兵
   させた。
   しかし、藤原経清などの離反した。
   
・天喜5年(1057) 11月 黄海(きのみ)の戦い
    源義家が奮戦した。
    源頼義が大敗を喫した。
    数百の死者を出し大敗した黄海の戦いを経験したのだ。

  
・康平6年(1062)源義家と源頼義は清原武則(きよはらのたけのり)に
  「味方してくだされ。」と平身低頭で頼み込んだ。
(★『奥州後三年記』・・・『続群書類従』)
源義家と源頼義は清原武則(きよはらのたけのり)の助けを
    借りて安倍貞任や藤原経清を倒した。

・・・・前九年の役が終わった。

・康平6年(1063)2月25日
源義家は勲功を賞され、従五位下出羽守(山形県と秋田県)
  に叙任された。
  しかし、出羽は清原氏の本拠地であった。
  清原武則には前九年の役で頭を下げた経緯もあり受領としての
  任国経営が思うにならなかった。


・康平7年(1064) 源義家は朝廷に越中守への転任を希望した.
『朝野群載』
 美濃の合戦
源義家は美濃で美濃源氏の祖:源国房と合戦した。

・延久2年(1070) 源義家は下野守となった。
   
・承保2年(1075)8月27日 父:源義朝が死亡没。享年87。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜


・承暦3年(1079)
源義家は源国房と闘乱を起こした源右兵衛尉源重宗(清和源氏満政流
 4代)を官命により美濃で追討した。

・永保元年(1081)
9月14日 白河天皇の石清水八幡宮行幸
  源義家は園城寺の悪僧(僧兵)の襲撃を防ぐために、 検非違使
 と共に園城寺の悪僧を追補した。
   (『扶桑略記』)。

10月14日 源義家は&弟:源義綱と2人で郎党を率いてを護衛した。


12月4日 白河天皇の春日社行幸
   源義家は甲冑をつけ、弓箭を帯した100名の兵を率いて白河天皇
   を警護した。

・永保3年(1083) 源義家は陸奥守となった。
●【前三年の役】が勃発・・・清原氏の内紛
清原武則の孫:清原家衡 VS 清原一族の清原清衡  

★妹が奥州清原真衡の養子:清原成衡室?となっているので、
 源義家は清原清衡に味方をしたのかもしれない。 

源義家が清原家衡を攻める。
   ↓
・寛治元年(1087)
源義家の弟:新羅三郎義光が援軍を率いて助けにきた。
11月 源義家は出羽金沢柵で清原武衡・清原家衡を破った。
【雁の乱れと伏兵】伝説
源義家の軍が沼地まできた時、雁が群れをなして空を飛んでいた。
ところが、雁が沼地の上にくると雁の群れが乱れた。
源義家は、沼地に敵の隠れている伏兵がいることに 気づき、先に
敵の兵に矢を射て敵を破ることができた。

清原家衡を滅ぼし、争いをしずめた。
陸奥の清原氏の一族の争いを源義家がしずめた。
    ↓ 
後3年の役が終わった。
朝廷から「戦いが私的なこと」と思われ、恩賞が出なかった。

源義家は、自分の財産を部下に分け与えた。
    ↓
東国の武士は源義家に忠誠を誓うようになった。

※清原清衡は後に藤原清衡と名を改めた。
        
・寛治2年(1088) 正月 源義家は陸奥守を罷免された。
  ※源義家は朝廷や藤原氏への貢納が滞ったと考えられている。
  新たな官職に就くことができず、官位もそのままだった。
★源義家は源氏の頭領として大物であったようだ。
前九年の役も後三年の役とも陸奥=東北の地でおこった。
家臣の武士達は飢えと寒さに悩まされた。そんな兵士を源義家
は一人一人抱きしめ、励ましたという。



・寛治5年(1091)
正月 源義綱は藤原師実が節会に参内する際の行列の前駆を努めた。

6月 郎党同士の争い
  源義家の郎党:藤原実清 VS 弟:義綱の郎党:藤原則清
  河内の所領の領有権を争そった。
  源義家&源義綱兄弟が兵を構える事件がおきた。

・寛治6年(1092) 2月 源義綱は藤原忠実が春日祭使の際に警衛した。

・寛治7年(1093)
10月 源義綱は陸奥守に就任した。
12月 源俊房の慶賀の参内の際に前駆を努めた。
  
寛治8年/嘉保元年(1094)平師妙(もろたえ)の反乱 
  平師妙(もろたえ)の郎党が源出羽守義綱を襲撃した。
  平師妙に追捕させた。
  従四位上に叙された。
  官位は兄:源義家と並んだ。

・嘉保2年(1095) 正月 美濃守に就任した。
★源義家よりランクが上になった。・・・
  源義綱 VS 比叡山僧侶

・承徳3年(1099) 6月 関白藤原師通が38歳で世を去った。
  朝廷は比叡山の呪詛の恐怖におののいた。
   この後、源義綱が受領に任じられることはなかった。


・長治元年(1104)
10月30日 源義家&源義綱兄弟は揃って延暦寺の悪僧追捕を
  行った。
 ※源義家の最後の公的な活躍であった。

・嘉承元年(1106) 6月10日 常陸合戦

 足利義国 VS 義家・義綱の弟:源義光
  義家に実子:義国を召し進ぜよとの命が下された。
 


・嘉承元年(1106)
 7月4日 死亡説。
 7月15日死亡説。
 源義家は68歳で没した。
  3男:源義忠が家督継承し、河内源氏の棟梁となった。

・嘉承2年(1107) 12月19日 源義親が出雲国目代を殺害。
   白河法皇は因幡国守:平正盛に源義親の追討を命じた。

・天仁元年(1108) 1月29日 平正盛は源義親の首を持って京に
  凱旋した。

・天仁2年(1109) 源義忠が郎党が平成幹に暗殺された。
  犯人は源義綱と子:源義明とされ、源義忠の弟:源為義が
  兄:源義綱一族を追討した。
 
※河内源氏の当主:源為義は摂関家を後ろ盾とした。
※長男:源義朝は国へ下って南関東へ勢力を伸ばし、院近臣を後ろ盾
 とした。

・仁平年3年(1153) 3月 源義朝は下野守に任じらた。
  関東を地盤として都の武者としての地位を高めた。
 
※源氏の棟梁=家督は源為義が継いだ。
 源義光や義国や源義忠の遺児:河内経国、為義の子:源義朝など
 は関東へ下り勢力を蓄えた。
 やがて、曾孫:源義朝の子:源頼朝が鎌倉幕府を築くこととなる。


@源義宗・・・ 早世。尊卑分脉などに記載がある。史料はない。
A源義親 ・・・尊卑分脉によれば庶子。対馬守となり、対馬で反乱
   を起こした。平正盛に討伐される。
   義親の子が源為義だという説がある。子孫は対馬氏など。
B源義忠・・・母は藤原有綱の娘。源義朝は家督を継がせるが新羅三郎
      義光の策謀により平成幹により暗殺された。
      子孫は河内氏、稲沢氏、飯富氏など。
C源義国 ・・・母は藤原有綱の娘。都で問題を起こし、坂東へ追放。
       源氏の棟梁になったが地位を失った。
      子孫は新田氏・足利氏など。
D源為義・・・孫(義親の子)という説もある。
E源義時・・・河内源氏の本拠地:河内国石川の地を継いだ。
      子孫は石川源氏、石川氏、紺戸氏など。
F源義隆・・・相模国森庄(毛利庄)を継承した。
      子孫は源姓毛利氏・若槻氏・森氏など。
G増珍・・・・僧。




【4】源義国
・永保2年(1082)説・・・
  足利鑁阿寺所蔵の「新田足利両家系図」に、
  源義忠没時の義国の年齢を18歳と記している。
 『足利市史』(1928年)では、これを28歳の誤りであるとし、
 逆算して誕生としている。

・応徳元年(1084年)説 『系図纂要』記載。
・寛治3年(1089年)説
・寛治5年(1091年)説・・・通説
1091年の生れとすると、三兄義忠の永保3年(1083年)より8歳も
年下になってしまい、系図上の兄弟の順が崩れる。
また、義国が誕生した時点での義家の年齢も52歳となる。

・1080年から1090年の間とする説
「平安末期清和源氏義国流の在京活動」須藤聡著
  (『群馬歴史民俗』16号1995年)
    
源義家の3男として生まれた。
尊卑分脈では3男とされるが、出生年が四男とされる義忠より後になる
ため、長幼の順は不明。
久保田先生も悩んでいた。
式部丞,加賀介。
上野(こうずけ)(群馬県)新田郡を本拠とする。
源頼信→頼義→義家と伝領した摂関家領上野国八幡荘を相続した。
長兄:義宗が早世し、次兄義親が西国で反乱を起こすと、
三兄の義忠とともに次の「源氏の棟梁」としての期待を受けた。
しかし、乱暴狼藉を行ったことや、時代の趨勢に合わないと義家
に判断されて後継者から外されていった。


・康和元年(1099) 源義国は朝廷から常陸の佐竹昌義を討伐を命じ
  られた。
源義国は佐竹昌義を討ち取った。
 しかし、佐竹昌義の祖父:源義光(源義家の弟・・武田・佐竹氏
  などの祖)や外祖父:平重幹が怒って、源義国を攻撃してきた。
 常陸合戦は「私闘」と見なされ、父:義家が子:源義国を連行し
 てくることを命じられた。

しかし、直後、源義家が死んでしまった。
結局・・常陸合戦の処理はうやむやになってしまった。
(源氏の力を弱めようと白河院が影で動いたという説が有力。

しかし父の義家が常陸合戦の最中に死んだことは義国に大きな影響が
あった。
@長男:源義宗は義家の生前に死亡していて、子孫はいない。
A2男:義親も事件を起こして追討を受けてる時だった。
B3男:義国は「私闘」を起こし朝廷からの信頼が薄い・
C4男:義忠が跡を継いだ。

その後、義親の子である為義が源氏の棟梁の座に就いた。
源義国は下野の簗田郡を開拓した。
 源義国 VS 藤姓足利氏

源義国は訴訟問題を有利に持っていこうと上洛をした。
 しかし、藤原光頼や藤原実能といざこざを起こして下野に戻っ
 て蟄居となった。

下野に戻った源義国は「荒加賀入道」と名乗った。
下野の足利荘は2男:義康が継いだ。
上野の八幡荘は長男:義重が継いだ。
  ・・・新田荘方面の開発を始めた。
 藤姓足利氏の領土でさらに対立は深まった。

・藤姓足利氏は秩父氏や源義賢(義仲の父)と結んだ。
・源姓足利氏は三浦氏や源義朝と結ぶという状況だった。

・嘉承元年(1106)「常陸合戦」
源義国 VS  叔父:源義光案&従兄弟:源義業
結果・・・叔父義光との抗争には敗れた。
 源義国は勅勘を蒙り、父:源義家に捕縛命令が下りる。
 また、源義光及び平重幹にも捕縛命令が各地の国司に下る。
 常陸国は源義光流の佐竹氏に受け継ぐことになった。


・保安5年(1124) 源義清の元服に際して加冠を行なった。

・大治2年(1127) 次男:義康(足利)が誕生。

・康治元年(1142) 鳥羽院御願寺の安楽寿院に寄進し足利庄とし
  て成立させた。八条院領→大覚寺統へ伝領した。
  足利庄を成立させ、下野国に着実に勢力を築いていった。

・康治2年(1143) 梁田郡内の開発私領を伊勢神宮に寄進し
           梁田御厨を立券した。
※足利のが源姓足利氏と藤原姓の足利氏がいる。
平将門を倒した藤原秀郷の系統の1つである。
源義家が下野守だった頃、藤姓足利氏の一族の佐野氏の娘との間に
子供が生まれた。源義家の3男:義国である。

・久安5年(1149)源義国の郎党は京洛において乱闘
   源義国が責任を問われる。

・久安6年(1150)源義国 VS 右近衛大将大炊御門藤原実能
徳大寺実能(さねよし)= 藤原実能の屋敷を焼き払い勅勘を蒙る。

・久安6年(1150) 家臣が藤原実能邸を焼きはらった事件をとが
   められ,下野(栃木県)足利の別宅に謹慎した。

・仁平4年(1154)出家・・・

・久寿元年(1155)死亡説
・久寿2年(1155)死亡説
 長男:新田義重の新田荘の館で死去。
  6月26日に死去となっている
 (★尊卑分脈)

子・・・
@長男は源義重(新田氏の祖)
   母は上野介藤原敦基女又は足利成綱女
A次男は源義康(足利氏の祖)母は信濃守源有房女
B三男は源季邦
 
下野国足利荘・・・次男:足利義康が継承した。
源頼信→頼義→義家→義国と伝領した河内源氏の拠点である
摂関家領:上野国八幡荘を長男:新田義重が継承した。




【5】新田義重
・永久2年(1114)?保延元年(1135) 生まれた。
父:源義国
母:藤原敦基の娘

・下野で育った。

長男:新田義重は源頼信→頼義→義家→義国と伝領した
  摂関家領:上野八幡荘を継承した
*次男:足利義康は父:源義国が開墾した下野国足利荘を継承した。


●ライバル・・・
上野国の源義賢・・・多胡郡(群馬県高崎市吉井町)
→後、秩父氏系棟梁:畠山重忠の娘を嫁にし、
秩父大蔵館に住んだ。木曽義仲を生んだ。
武蔵国の秩父氏・・・秩父氏系棟梁:畠山重忠
下野国の藤姓足利氏・・足利利綱・・・佐野氏など


●高崎市寺尾・・・茶臼山城遠望
 (農大二高の近く・・・)
画像

●興善寺(高崎市・・・市役所南)
 現存は地蔵堂のみ・・・
画像



南関東の支配者・・・源義朝&源義平父子
新田義重は弟:足利義康と相婿:源義朝・義平父子と提携した。
娘:祥寿姫を源悪源田義平の室としている。
また、甥:足利義清を猶子とし、娘を嫁がせている。


・仁平3年(1153) 新田義重は内舎人に任官した。
  (★山槐記)

・久寿2年(1155) 8月16日 大蔵合戦 
  源義平が源義賢の拠点:大蔵館を襲撃した。
  源義賢と秩父重隆を攻め殺した。

・保元2年(1157) 平家系の藤原忠雅を領家として新田荘の立券に
成功した。新田荘司と称し、新田荘を開墾した。
 上野国司:藤原重家の舅(しゅうと)が鳥羽院御願寺金剛心院の
 造営に深く関与をした藤原家成であった。・・・藤原氏北家花山
 院流忠雅の母の兄が藤原家成であった。

・久寿2年(1155)8月16日 ・秩父足利合戦
源義朝 VS 藤姓足利氏・秩父氏
渡良瀬川の強行渡河作戦で撃破した。
 →北関東における地盤を確保した。

 父:源義国が加冠を行った源義清の子:武田信義の子:信光に
 自分の娘を嫁がせた。
 武田信義の弟:加賀美遠光の加冠を新田義重が行なった。

 新田義重は源盛義とも親交が深く、平賀氏一族:義隆、義澄、
 義資(義職)を猶子としている。

 従五位下大炊助に任ぜられた。


・治承4年(1180) 源頼朝の挙兵
 新田義重の甥:足利義兼&子:山名義範&孫:里見義成らが
 早期にその麾下に帰参した。
 
 ●新田義重は一時日和見的態度を取った。
 理由@北関東での主導的地位にあった。
 理由A八幡太郎義家の孫だ。・・源頼朝を格下に見ていた。
 理由B新田荘が平家方の荘園であったこと
 理由C木曾義仲が多胡郡で味方集めをしてた。
・・・多胡郡は源義賢のかつての所領であった。
   親子2代に渡る隣合わせの所領を持っていて宿敵関係
     であった。
  したがって、木曽義仲を牽制する必要があった。



12月 やがて、源頼朝の威勢興隆を目の当たりにし慌てて鎌倉に駆
  けつけた。
  容易には源頼朝の不信感をぬぐうことはできなかった。
  安達盛長の取り成しでようやく帰参が叶ったという。
  
  さらに、新田義重は娘:祥寿姫を源頼朝の兄:義平の未亡人:
  源頼朝の側室にと乞われるもこれを拒否した。
  ・・・という。より一層、源頼朝の不興を買った(伝)。
  新田義重の猶子:娘婿:矢田義清が木曾義仲に与した。
このことが源頼朝の反感をさらに買った要因のひとつとされている。


  
  甥:足利義兼がいち早く頼朝の下に駆けつけて活躍した。
  以後、代々北条氏と姻戚関係にあって強固に結びつけていった
  足利氏は幕府内での地位を保った。
  後の執権:北条家との婚姻による。
  新田義重の鎌倉政権内における立場は常に微妙であった。
  
  足利・新田両氏の処遇の差となった。
  後代まで尾を引いていくことになった。
  但し、新田義重自身は源家の最長老であり、鎌倉幕府成立時点
  で八幡太郎義家にもっとも血統が近い者として一定の敬意を受
  けていた。

・晩年   嫡男:新田義兼とともに新田家の家督を継いだばかりの
  曾孫の:世良田政義の後見役を務めた。
画像

・建仁2年(1202) 新田義重は老衰のために新田荘で没した。
   享年89
  (★『新田足利両家系図』
  享年68
   (★『尊卑分脈』)
画像

  (★台源氏館)
●墓所・・・円福寺:群馬県太田市別所町
画像

・慶長16年(1611年)3月22日、新田義重の子孫と称する徳川家康に
 より、鎮守府将軍に任官される。

●供養塔・・・高崎市寺尾
 ★写真が見つからない。



○新田義重の子ども
  新田之庄(太田市)・・・★ここが領地であったであろう。
   ★新田は足利俊綱に占領されていたので、寺尾での蜂起は疑問?
  寺尾(高崎市)・・・・・・・源の頼朝の蜂起に合流せず。
  ●長男:@里見伊賀守義俊・・・現高崎市旧榛名町在住
     (光明寺の里見供養塔)
  ●次男:山名義範・・・・・・・・・・・現高崎市山名の光台寺在在
  ●3男:岩松次郎義兼・(岩松の祖)・岩松の子孫・・足利??の娘
   :→→→(岩松館)
  ●4男:額田三郎経義・・・・
   ●5男:世良田義季「得川」・・子孫:徳川家康(捏造?)
     (満徳寺の北200m)
  ●?男:新田冠者:新田義光・・・・・新田一族の本流。
  ●?男:新田小四郎:新田義佐  
  ○娘祥寿姫・・・源義平室


◆◆ 『新田町誌』〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
義俊・義範・義兼・義季・経義の順としている。
@長男:里見義俊・・・新田太郎
    (「長楽寺草写本源氏系図(長楽寺系図)」では四良)
A次男:山名義範・・・・・新田太郎三郎、山名三郎
      (★「長楽寺系図」では四良義俊の次で伊豆守)
尊卑文脈の足利系図・・・にも表れている。
  ●久保田先生・・・足利家の娘婿になり、

B3男:新田義兼・・・・新田次郎。母:源親弘の娘。
C4男:世良田義季・・・得川四郎。母:源親弘の娘。
           (※「長楽寺系図」では次郎)
D額戸経義・・・・・・・額戸五郎
           (※「長楽寺系図」では三郎)

※額戸経義より下の諸子は各系図で異同がある。
 なお『新田町誌』は記載していない。


◆参考文献&資料
@「里見氏」(里見義成著)あさを社1300円がベース・・・
  ※群馬の地方会社なので、群馬のみ販売。
A新田町史+群馬県県史ベース
B上州風VOI29・・2008年「里見氏のルーツをたどる」
               「南総里見八犬伝と群馬」
C館山城博物館の資料・出版物
D河内源氏:元木泰雄著
E榛名町誌の通史編上巻・・・中心は久保田順一先生。
F『群馬県史 資料編4』
G『中世武士選書18新田義重』久保田順一著:戎光祥出版 2013
〜〜〜など多数。


◆参考サイト
 ウキペディア



箕輪初心★里見一族の歴史:リニューアル版
http://53922401.at.webry.info/201309/article_29.html


箕輪初心●里見一族@「新田から里見へ」
http://53922401.at.webry.info/201102/article_33.html

箕輪初心●里見一族A「初代:里見義俊→2代・義成
〜3代:義基」
http://53922401.at.webry.info/201102/article_34.html

箕輪初心●里見一族B「4代義秀〜10代家基」
http://53922401.at.webry.info/201102/article_35.html

箕輪初心●里見一族C「安房里見前期5代J〜N」
http://53922401.at.webry.info/201102/article_36.html

箕輪初心●里見一族D「後期安房里見」O〜S
http://53922401.at.webry.info/201102/article_37.html

箕輪初心●里見一族E「南総里見八犬伝&群馬」
http://s.webry.info/sp/53922401.at.webry.info/201102/article_38.html

箕輪初心●里見一族F「日本ハム:斉藤佑樹投手も子孫?」
http://53922401.at.webry.info/201102/article_39.html

箕輪初心●里見一族G「高津戸城」=桐生仁田山で114年
http://53922401.at.webry.info/201102/article_45.html

箕輪初心●里見一族H「里見城&上里見城など」
 (高崎榛名)」=武田信玄に抵抗。
http://53922401.at.webry.info/201102/article_46.html

箕輪初心●群馬【仁田山城&谷山城&皿窪砦】&『里見一族』
http://53922401.at.webry.info/201205/article_16.html

箕輪初心●箕輪城81「大悍猿=風「見繁美氏の講演会」
※里見氏&長野氏の関係についてである。
http://53922401.at.webry.info/201209/article_12.html


箕輪初心■群馬【下仁田町の特産品&山&名所・観光地】
★ここで、里見哲夫先生のことを書いた。
http://53922401.at.webry.info/201204/article_20.html

箕輪初心★水戸天狗党VS高崎藩本陣里見哲夫先生宅
http://53922401.at.webry.info/201303/article_25.html

箕輪初心●山形【天童城】&里見氏・松尾芭蕉立石寺&セミの話
http://53922401.at.webry.info/201307/article_10.html


〜〜〜箕輪初心★新田氏関係〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
箕輪初心★高崎:新田義重&茶臼山城
http://53922401.at.webry.info/201309/article_27.html
http://s.webry.info/sp/53922401.at.webry.info/201309/article_27.html

◆◆ 箕輪初心★新田義貞1「楠木正成への攻撃」 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201102/article_40.html

◆◆ 箕輪初心★新田義貞2「鎌倉の攻撃1」 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201102/article_41.html

◆◆ 箕輪初心★新田義貞3「鎌倉の攻撃2」 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201202/article_2.html
http://53922401.at.webry.info/201102/article_42.html

◆◆ 箕輪初心★新田義貞4「足利尊氏との対立」 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201102/article_43.html

◆◆ 箕輪初心★新田義貞5「福井:金ヶ崎城」 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201104/article_21.html

◆◆ 箕輪初心★新田義貞6「福井:そま山城」 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201104/article_30.html

◆◆ 箕輪初心★新田義貞7「福井:新田義貞の最後」 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201102/article_44.html

箕輪初心●群馬「旧尾島町の城9城」=新田一族の遺構
http://53922401.at.webry.info/201302/article_28.html

箕輪初心★新田岩松の歴史&男爵:新田俊純
http://53922401.at.webry.info/201311/article_9.html

◆◆ 箕輪初心★新田一族「千利休」 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201106/article_27.html

**************************************************
箕輪初心★人形劇ミュージカル『里見八犬伝』
in2013榛名初演
http://53922401.at.webry.info/201309/article_28.html

箕輪初心★里見一族の歴史:リニューアル版
http://53922401.at.webry.info/201309/article_29.html

箕輪初心●里見一族@「新田から里見へ」
http://53922401.at.webry.info/201102/article_33.html

箕輪初心●里見一族A「初代:里見義俊→2代・義成
〜3代:義基」
http://53922401.at.webry.info/201102/article_34.html

箕輪初心●里見一族B「4代義秀〜10代家基」
http://53922401.at.webry.info/201102/article_35.html

箕輪初心●里見一族C「安房里見前期5代J〜N」
http://53922401.at.webry.info/201102/article_36.html

箕輪初心●里見一族D「後期安房里見」O〜S
http://53922401.at.webry.info/201102/article_37.html

箕輪初心●里見一族E「南総里見八犬伝&群馬」
http://s.webry.info/sp/53922401.at.webry.info/201102/article_38.html

箕輪初心●里見一族F「日本ハム:斉藤佑樹投手も子孫?」
http://53922401.at.webry.info/201102/article_39.html

箕輪初心●里見一族G「高津戸城」=桐生仁田山で114年
http://53922401.at.webry.info/201102/article_45.html

箕輪初心●里見一族H「里見城&上里見城など」
 (高崎榛名)」=武田信玄に抵抗。
http://53922401.at.webry.info/201102/article_46.html

箕輪初心●群馬【仁田山城&谷山城&皿窪砦】&『里見一族』
http://53922401.at.webry.info/201205/article_16.html

箕輪初心●箕輪城81「大悍猿=風「見繁美氏の講演会」
※里見氏&長野氏の関係についてである。
http://53922401.at.webry.info/201209/article_12.html

箕輪初心■群馬【下仁田町の特産品&山&名所・観光地】
★ここで、里見哲夫先生のことを書いた。
http://53922401.at.webry.info/201204/article_20.html

箕輪初心★水戸天狗党VS高崎藩本陣里見哲夫先生宅
http://53922401.at.webry.info/201303/article_25.html

箕輪初心●山形【天童城】&里見氏・松尾芭蕉立石寺&セミの話
http://53922401.at.webry.info/201307/article_10.html


◆◆◆ 群馬県下仁田町の里見氏 ◆◆◆
箕輪初心■群馬【下仁田町の特産品&山&名所・観光地】
http://53922401.at.webry.info/201204/article_20.html

箕輪初心★水戸天狗党VS高崎藩本陣里見哲夫先生宅
http://53922401.at.webry.info/201303/article_25.html





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内 容 ニックネーム/日時
こんな講演会があったなら教えてください。
12月14日は仕事ですが、12月28日は公休です。
秩父の根岸城・熊倉城、皆野町の龍ヶ谷城などはどうですか。
富岡武蔵
2014/12/11 18:44

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箕輪初心★久保田順一先生20141129『河内源氏&上野国:八幡荘』前編 城・陶芸・ハイキング・ダイビング・スキー・旅行/BIGLOBEウェブリブログ
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