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zoom RSS 箕輪初心※『忠臣蔵』:吉良上野介義央&赤穂義士

<<   作成日時 : 2014/11/09 07:59   >>

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★吉良上野介義央は[忠臣蔵]の「悪役」として有名であるが、吉良義
央&浅野長矩についてはどう評価してよいか分からない。・・・・
吉良上野介義央の領地は@三河国幡豆郡吉良庄・A上野国緑野郡白
石村・B上野国碓氷郡人見村・・なんと群馬県に2ヶ所あったのだ。

@吉良上野介義央(よしひさ/よしなか)は清和源氏の末裔で足利
3代:足利義氏の子孫であった。8代:足利尊氏に使え、bRの力
を持った。吉良上野介は後北条氏の血筋で父:吉良義冬&母:酒井
忠勝の姪(忠吉の娘)であった。
A浅野長矩(ながのり)は、清和源氏頼光流土岐氏の庶流である。
土岐光衡の次男:土岐光時が承久の乱後、土岐郡浅野の浅野館で
浅野氏を名乗った。浅野光時に始まる土岐氏草創期の一族である。
浅野長勝は織田信長弓衆であったが、長勝の養女ねねが木下藤吉郎
に嫁いだことから、浅野氏は姻戚として重用された。浅野長政は浅
野長勝の養子となった。浅野長政は下野笠間藩→甲斐甲府藩22万石。
浅野長政の3男:浅野長重の家系は播磨赤穂藩藩主となった。
元禄赤穂事件で3代:浅野内匠頭長矩→吉良義央への刃傷事件で
改易となった。

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〜〜〜吉良関係〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
箕輪初心▲東京【世田谷城】:吉良家の城
http://53922401.at.webry.info/201411/article_7.html

箕輪初心▲東京【奥沢城】:世田谷城支城:「窓際のトットちゃん」で有名?
http://53922401.at.webry.info/201411/article_8.html

箕輪初心●愛知【西尾城】&《吉良温泉》
http://53922401.at.webry.info/201212/article_8.html

〜〜〜浅野関係〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
箕輪初心★浅野一族【浅野長政】&「@幸長+A長晟+B長重」
http://53922401.at.webry.info/201403/article_7.html

箕輪初心●茨城桜川市『真壁城』&真壁城下町
http://53922401.at.webry.info/201403/article_6.html

箕輪初心●茨城【笠間城】&笠間城の歴史
http://53922401.at.webry.info/201403/article_5.html

箕輪初心●兵庫「赤穂城」=浅野家の辿った道
http://53922401.at.webry.info/201101/article_35.html
http://s.webry.info/sp/53922401.at.webry.info/201101/article_35.html




【1】吉良上野介
・寛永18年(1641)
  父・・・高家旗本:吉良義冬4,200石
吉良義冬の母が高家今川家出身で今川氏真の玄孫になる。 
  母・・・酒井忠勝の姪(忠吉の娘)
  @江戸鍛冶橋の吉良邸生誕説 
  A上野国(群馬県藤岡市)白石説
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 ●継母・・・母の妹。
 
 兄弟&姉妹
  東条義叔・・・500石
  東条義孝・・・切米300俵の旗本
  東条冬貞・・・義叔養子
  東条冬重・・・義孝養子
  孝証・・・・・山城国石清水八幡宮の僧
  
  妹も2人いた。1人は安藤氏(高崎藩)に嫁いだ。

 ●領地
 @三河国幡豆郡吉良庄
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  (★吉良温泉)

 A上野国緑野郡白石村
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 B上野国碓氷郡人見村
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・承応2年(1653) 徳川家綱に拝謁。

・明暦3年(1657) 従四位下侍従兼上野介に叙任された。

・万治元年(1658) 出羽米沢藩主:上杉綱勝の妹の三姫と結婚。

・万治2年(1659) 庇蔭料1,000俵が支給された。

・寛文2年(1662) 〜 年賀使15回
          江戸幕府の使者9回の計24回上洛した。

・寛文3年(1663) 徳川綱吉が寵愛した。

・寛文4年(1664) 義兄:上杉綱勝が急死した。
  保科正之(上杉綱勝の岳父)が長男:三之助を上杉家の養子
  (上杉綱憲)とした。
  ・・・上杉家は改易を免れ、30万石から15万石への減知で
  危機を収束させた。

   
・寛文8年(1668) 父:吉良義冬の死去。
  家督を相続する。28歳・・・。

・延宝8年(1680)吉良義央 高家の左近衛権少将になった。

・天和3年(1683) 高家肝煎に就任した。

・貞享2年(1685) 松平綱憲(義央の長男)の次男:吉良左兵衛
 義周を養子とした。





・元禄3年(1690) 江戸鍛冶橋の邸宅へ迎え入れた。

・貞享3年(1686) 吉良の治水事業
  黄金堤による治水事業や富好新田など新田開拓や人柄から
  名君とうたわれた。
しかし、対外的には悪い意地悪男のうわさが立っていた。

・元禄11年(1698) 江戸の大火
鍛冶橋邸が焼失。

 勅使御馳走人となった亀井茲親は吉良義央からいじめを受けた。
 

●兄弟
  吉良義央、東条義叔、東条義孝、東条冬貞、東条冬重、孝証

●妻・・・正室:上杉綱勝の妹・富子(梅嶺院)

●子・・・上杉綱憲、吉良三郎、

●吉良義央の政略結婚
  @長女:鶴姫・・・・・薩摩藩主:島津綱貴の室
  A3女:阿久利姫・・・交代寄合旗本:津軽政兕の室
  B四女・菊姫・・・・・旗本・酒井忠平の室

●養子:吉良義周(上杉綱憲の次男。義央の孫)


・元禄14年(1701)
2月4日、赤穂藩主:浅野長矩と伊予吉田藩主:伊達村豊が
勅旨に任じられた。
  
 柳原資廉・高野保春、清閑寺熈定らが御馳走人を命じられた。
  
 2月29日 吉良義央は江戸に帰着した


〜〜〜松の廊下の事件〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
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・元禄14年(1701)
 3月14日(1701年4月21日) 
  午前10時過ぎ
  松之大廊下において、吉良義央は浅野長矩から背中と額を斬り
  つけられた。
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 @浅野長矩は留守居番・梶川頼照に取り押さえられた。
  
 A吉良義央は高家:品川伊氏・畠山義寧らによって別室へ運ばれた。
  外科医:栗崎道有の治療もあって命は助かった。
  しかし、額の傷は残った。

原因・・動機は何か?
 @朝廷接待の儀礼を教えてもらうべき吉良に賄賂を贈らな
  かったので、意地悪された。(通説)
 A赤穂の塩の方が三河の吉良の塩より品質が良く、たくさん
  とれた。吉良の嫉妬や羨望もあり、意地悪を続けた。
 B浅野長矩が遅刻などよく失敗し、吉良が頭に来て、讒言
  を言っていたのを、逆恨みした?

 理由は分からない。  
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〜〜〜※江戸にいた赤穂藩重臣〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
・藩主養子・・・弟:浅野大学長広3000石
・江戸家老・・・安井彦右衛門 650石
・供奉家老・・・藤井又左衛門宗茂800石
・足軽頭・・・・原惣右衛門元辰300石・・・すぐに赤穂へ立った。
・用人・・・・・・奥村忠右衛門300石 
・用人・・・・・・糟谷勘左衛門秀信250石
・大目付・・・・早川宗助200石役料10石
・江戸留守居・・建部喜六250石
・江戸留守居・・近藤政右衛門250石
・側用人・・・・片岡源五右衛門高房350石
・側用人・・・・礒貝十郎左衛門正久150石
・側用人・・・・田中貞四郎150石

浅野長矩の弟:浅野長広は刃傷発生を知ると伝奏屋敷(現千代田区
丸の内1−4)から鉄砲洲の上屋敷(現中央区明石町聖路加国際病
院)に駆けつけた。
未の刻(午後2時頃) 浅野長広は書状を国家老:大石良雄にした
ためて、早水満尭と萱野重実を急使として赤穂へ派遣した。

事件後、目付:多門重共等の取り調べがあった。
 結果は大目付:仙石伯耆守久尚や老中:小笠原長重・秋元喬知
 ・土屋政直・稲葉正往へ報告され、評議された。
 側用人柳沢吉保から将軍徳川綱吉に言上された。
 徳川綱吉は朝廷との儀式を台無しにされたとして激怒した(伝)。
 浅野長矩の即日切腹と赤穂浅野家の改易を命じた。


 浅野長矩は芝愛宕下(現在港区新橋4丁目)の陸奥一関藩主:田村
 建顕の屋敷にお預けとなった。
 

→その後、目付:大久保忠鎮らの取り調べをした。
吉良義央は
  「拙者何の恨うけ候覚えこれ無く、全く内匠頭乱心と相見へ申し
  候。且つ老体の事ゆえ何を恨み申し候や万々覚えこれ無き由」
  と答えた。
 
 徳川綱吉は吉良義央に対しては、殿中を憚り手向かいしなかった
 ことが殊勝であるとして咎め無しとした。


→浅野長矩は、即日切腹を命ぜられた。
  赤穂浅野家は断絶と決まったのだ。
切腹申しつけの文言に
「折柄と申し、殿中をはばからず、理不尽に切り付け候段、ふとどき
至極に思しめされ候」
と・・・・。


3月15日(1701年4月22日)
申の下刻(午後6時20分頃)
一関藩田村家より
「浅野長矩の遺体を引き渡したいから赤穂藩家臣を
 送るように・・・。」
という使者が浅野長広に伝えた。

六つ半(午後7時40分頃)
「風さそふ 花よりも猶 我はまた 
    春の名残を  いかにとか(や)せん」

大目付庄田安利(下総守)が検使正使である。
目付:多門重共・大久保忠鎮が検使副使として立会った。
浅野長矩は座敷ではなく白砂(庭先)で切腹した。
御徒目付:磯田武太夫によって介錯された(伝)。

赤穂藩:片岡高房、礒貝正久、田中貞四郎、中村清右衛門、糟谷
 勘左衛門、建部喜六らが田村邸で浅野長矩の遺体を引き取った。
泉岳寺で朝の長矩の葬儀を執り行った。
●泉岳寺の浅野長矩の墓
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とにかく浅野の殿様は切腹・赤穂の城は没収、家臣は失職離散。
一方、吉良上野介はあくまでもお咎め無し・・・
片手落ちだと仇討ちとなった。
実に1年9ヶ月を要することになった。
 

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 ●赤穂藩:家老大石良雄(内蔵助)以下、赤穂藩士の多くは、
 「喧嘩両成敗の武家の定法に反する。」
 と強い不満を持った。
 
  赤穂城での評定では幕府に対して
  @恭順して開城するか、・・・・
    大野九郎兵衛知房国家老650石は大石良雄と対立し、
    逐電した。
  A抗議して篭城か
  B国許で殉死か
 

※家老の大石内蔵助はあくまでも恩赦特赦によるお家再興を働き
 かけ続けた。・・・・虚しく日が過ぎていった。



・元禄15年(1702)
7月 浅野長広の広島浅野宗家への永預けが決まり、赤穂浅野家再興
は絶望的となった。


●円山会議・・・京都円山で会議を開いた。
大石良雄は吉良義央への仇討ちを決定した
 大石良雄は仇討ち決定に際して、同志の向背を確かめるべく義盟へ
 の誓紙を一旦返却させた。
  
 すると、高禄の者をはじめ半数以上の同志が脱落してしまった。
〜〜〜義盟に参加しなかった重役〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
・安井彦右衛門江戸家老650石
・藤井又左衛門宗茂家老800石。
・近藤源八正憲1000石。大石良雄の親戚。
・岡林杢之助直之組頭1000石。
・寺井玄渓藩医300石5人扶持。


〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
3月26日、吉良義央は高家肝煎職の御役御免願いを提出した。

8月13日 松平信望(5000石)の本所の屋敷に屋敷替えとなった。

8月21日 大目付の庄田安利・高家肝煎の大友義孝・書院番士
     の東条冬重などは罷免された。
目付多門重共の『多門筆記』によると、

9月3日 松平登之助の屋敷→吉良屋敷になった。
    入り口は東に変わった。


12月11日、吉良義央は隠居願いを提出した。
      養嗣子・義周が家督を相続した。


+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
・元禄15年(1702)
 7月
 松の廊下刃傷事件後に閉門となり、領地召し上げられた。
 浅野長矩の弟:長広は浅野本家(広島)に預かりとなった。

 大石良雄は吉良殺害を決意した。
大石良雄は殉死を希望する藩士たちから誓紙を取り、吉良義央
 の処断と赤穂浅野家再興を幕府に求める義盟を結んだ。
 誓紙の返却を拒んだ者にのみ仇討ちの真意を伝えさせた。
 
〜〜〜〜※途中で脱盟した元赤穂藩士〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
高田郡兵衛 江戸詰200石15人扶持。最初に脱盟した。
萱野三平重実 中小姓近習12両2分3人扶持。自害した。
橋本平左衛門 馬廻100石。大坂の遊女と心中する。
奥野将監定良 組頭1000石。円山会議の直後に脱盟した。
進藤源四郎俊式 足軽頭400石。円山会議後に脱盟。
小山源五左衛門良師 足軽頭300石。円山会議後に脱盟。
岡本次郎左衛門重之 大阪留守居400石。円山会議後に脱盟。
多川九左衛門持筒頭・足軽頭400石。 
 
 
●赤穂城は開城された。旧藩士たちは浪人となり、江戸や上方
の各地へ散った。

〜〜〜〜※増える脱盟者〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
・田中貞四郎 150石。浅野長矩の遺骸を引き取り埋葬した。
        討ち入りを前に逐電した。
・小山田庄左衛門江戸詰100石。・・金品を盗んで脱走。
・瀬尾孫左衛門  大石良雄の家来であるが、逐電。
・毛利小平太大納戸役20石5人扶持。 討ち入り直前に脱落。

最終的に同志は47人となった。
 
  


 ※ドラマでは、京都で芸者三昧だった。
 世間の目を欺く手段であったとか?
・・・

 大石内蔵助は家臣達からの仇討ちの督促・・・・
 世間かたの想定外の想像以上の期待・・・
 
 ・・・ついに
元赤穂藩筆頭家老:大石内蔵助良雄は決断をすることになった。
 「12月14日に討ち入りを決定した。殿様の命日であった。」
 浅野長矩の正室:瑤泉院に別れを告げた。


※さまざまなドラマ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
・元禄15年(1702)
12月14日(1703年1月30日)深夜
 大石内蔵助率いる総勢47名・・・
 めざすは、両国松坂町の回向院裏の「吉良邸」。
 旧主浅野長矩の敵:高家吉良義央の屋敷に討ち入った。

※ドラマでは・・・
 山鹿流陣太鼓が鳴り響いた。
隣の脇坂家にも声をかけた。

12月15日未明
  吉良義央および家人を殺害した。
  元赤穂藩士:大石良雄はじめとする47士である。



【1】吉良邸
吉良義周はじめ吉良家臣らは防戦にあたった。
吉良義央は炭小屋に隠れた。
赤穂浪士は吉良義央の捜索にあたったものの容易に見つけることは
できなかった。
吉田兼亮や間光興らが、台所横の炭小屋から話し声がしたため、中
へ入ろうとするや皿鉢や炭などが投げつけられ、2人の吉良家臣が
斬りかかってきた。
赤穂浪士が切り伏せたあと、奥で動くものがあったた。
間光興が槍で突いた。
吉良義央は脇差で抵抗しようとするも、武林隆重に斬り捨てられ、
首を討たれた。享年62(満61歳)であった。
激闘約2時間の末・・・・見事に御首を挙げた。
翌朝4時、まだ暗い。・・・
赤穂47士は、主君の眠る高輪泉岳寺まで凱旋した。

※吉良邸から凱旋コース・・・★本が見つからない。



●吉良義央の首は泉岳寺の浅野長矩の墓前に捧げられた。
箱に詰めて泉岳寺に預けられた。
僧2人が吉良家へ送り返した。
吉良家家老:左右田孫兵衛と斎藤宮内が首を受け取りに来た。


●世間は快挙に喝さいをした。
 徳川綱吉=犬公方様の「生類哀れみの令」で庶民はびくびく
 と暮らしていた。貨幣改悪のインフレに苦しんでいた。
この事件は、庶民の鬱憤を一挙に晴らしたのだった。
 たぶん・・・

・元禄16年(1703)
2月4日 赤穂46士の切腹
熊本細川家、松山松平家、三河水野家、長門毛利家の下屋敷に
 お預けとなっていた全員が切腹を命ぜられた。
・・・磔獄門ではなかった。
 47士は義士と認められたことになる。
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★徳川家は世間の悪評をとらないようにと複雑な気持ちで
 決断したのであろう。天皇下からの官位剥奪も気になっ
 たのであろう。
★地元:三河では新田開発など立派なお殿様だった吉良上野介は
 完全に悪役にされてしまった。なってしまった?
 ちょっとかわいそうな気もするが・・・。


【2】赤穂浪士・・・47士?・・46士?
@赤穂(播磨国赤穂郡)の出身者・・大石良雄を含め半数程度
A常陸国の真壁(真壁郡)や笠間(茨城郡)出身者・・半数弱。
  吉田兼亮・小野寺秀和・堀部金丸など

●泉岳寺・・・お墓がある。
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@大石内蔵助良雄  国家老1500石。
  討ち入りの指導者。享年45。
 「あら楽や 思ひは晴るゝ 身は捨つる 
         浮世の月に  かゝる雲なし」
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A大石主税良雄・・・大石良雄の長男。
 討ち入りの裏門の大将をつとめる。最年少の同志。享年16。
「あふ時は かたりつくすと おもへども 
別れとなれば のこる言の葉」

B原惣右衛門元辰  足軽頭300石。享年56。
「君がため 思もつもる 白雪を 散らすは今朝の 嶺の松風」

C片岡源五右衛門高房 側用人・児小姓頭350石。
  浅野長矩切腹の際に最後の対面をした。
  仇討ちを強硬に主張し独自の行動をとっていた。享年37。


D堀部弥兵衛金丸 前江戸留守居前300石、隠居料20石。
 「雪はれて 思ひを遂る あしたかな」


E堀部安兵衛武庸・・・馬廻、200石。 享年34。
 高田馬場の決闘→堀部金丸の婿養子=赤穂浅野家家臣。
 「梓弓 ためしにも引け 武士の 道は迷はぬ 跡と思はば」



F吉田忠左衛門兼亮・・・足軽頭・郡奉行、200石役料50石。
 大石内蔵助に次ぐ人物として補佐した。享年64。
辞世は「かねてより君と母とにしらせんと人よりいそぐ死出の山道」。


H吉田沢右衛門兼貞・・蔵奉行吉田兼亮の長男。享年29。


I近松勘六行重・・馬廻役。250石(譜代)。
   討ち入りの際に負傷する。享年34。

J 間瀬久太夫正明・・・大目付、200石 役料50石。
  享年63。

K 間瀬孫九郎正辰・・・間瀬正明の長男。享年23。

L 赤埴源蔵重賢・・・・・馬廻200石(譜代)。
   忠臣蔵では「徳利の別れ」で有名。享年35。

H 潮田又之丞高・・・・郡奉行、絵図奉行、200石(譜代)。
   享年35。
   辞世は「武士の道とばかりを一筋に思ひ立ぬる死出の旅路を」。

I 富森助右衛門正因 馬廻・使番、200石。享年34。
 「先立し 人もありけり けふの日を 
        つひの旅路の 思ひ出にして」。

J不破数右衛門正種  元馬廻・浜奉行、元100石。享年34。

K岡野金右衛門包秀(かねひで)
  「忠臣蔵」の物語では大工の娘を通じて吉良屋敷の図面を
   手に入れた。享年24。
  「その匂ひ 雪のあさぢの  野梅かな」

L小野寺十内秀和  京都留守居番150石役料70石。享年61。
 「今ははや 言の葉草も なかりけり 何のためとて 露結ぶらむ」

M小野寺幸右衛門 小野寺秀和の養子。享年28。
 「今朝もはや いふ言の葉も なかりけり 
  なにのためとて 露むすぶらん」。

N木村岡右衛門貞行  馬廻・絵図奉行150石。享年46。
 「おもひきや 我が武士の 道ならで 御法の ゑんにあふとは」

O奥田孫太夫重盛 武具奉行150石。中心人物。享年57。

P奥田貞右衛門行高  奥田重盛の養子。享年26。

Q早水藤左衛門満尭  馬廻150石。
  松の廊下刃傷事件の第一報を江戸から赤穂へ伝えた。享年40。
 「地水火風 空のうちより 出し身の 
     たどりて帰る もとのすみかに」

R矢田五郎右衛門助武 馬廻150石。享年29。


S大石瀬左衛門信清   馬廻150石。享年27。


21礒貝十郎左衛門正久 側用人150石。享年25。

22間(はざま)喜兵衛光延 勝手方吟味役100石。享年69。
「草枕 むすぶ仮寐の 夢さめて 常世にかへる 春の曙」

23間(はざま)十次郎光興  間光延の長男。
  吉良上野介に一番槍をつけ、首級をあげた。享年26。
 「終にその 待つにぞ露の 玉の緒の けふ絶えて行く 死出の山道」

24間新六郎光風 間光延の次男。享年24。
「思草 茂れる野辺の 旅枕 仮寝の夢は 結ばざりしを」

25中村勘助正辰(まさとき) 書物役100石。享年46。
「梅が香や 日足を伝ふ 大書院」

26千馬三郎兵衛光忠 馬廻100石。享年51。

27菅谷半之丞政利 馬廻・郡代100石。享年44。

28村松喜兵衛秀直 扶持奉行・20石5人扶持。享年62。
「命にも かえぬ???を うしなはば 逃げかくれても こゝを逃れん」

29村松三太夫高直 村松秀直の長男。享年27。
「極楽を 断りなしに 通らばや 弥陀諸共に 四十八人」

30倉橋伝助武幸 扶持奉行・中小姓20石5人扶持。享年34。

31岡嶋八十右衛門常樹 札座勘定奉行20石5人扶持。
原惣右衛門の弟。享年38。

32大高源五忠雄(ただお/ただたけ) 金奉行・膳番元方・腰物方
20石5人扶持。小野寺秀富の兄。
俳人宝井其角と交流があり、俳諧を好んだ。吉良家出入りの茶人 
 に接近して12月14日の吉良屋敷で茶会を聞きつけた。享年32。
 「梅で呑む 茶屋もあるべし  死出の山」

33矢頭右衛門七教兼 やとう えもしち のりかね
父:矢頭長助は仇討ち決行前に病死した。享年18。

34勝田新左衛門武尭(たけたか) 札座横目15石3人扶持。享年24。

35武林唯七(ただしち)隆重  馬廻15両3人扶持。
  吉良義央の養子:吉良義周を負傷させた。
  炭小屋に隠れていた吉良義央を討ち取った。享年32。
 「三十年来一夢中 
  捨レ身取義夢尚同 
  双親臥病故郷在 
  取レ義捨恩夢共空」


36前原伊助宗房 金奉行・中小姓10石3人扶持。
江戸で呉服屋を開き吉良屋敷を探索した。享年40。
「春来んと さしもしらじな 年月の ふりゆくものは 人の白髪」

37貝賀弥左衛門友信 蔵奉行10両3人扶持。
吉田兼亮の弟。享年54。

38杉野十平次次房 札座横目8両3人扶持。享年28。

39神崎与五郎則休 徒目付5両3人扶持。享年38。
「余の星は よそ目づかひや 天の川」

40三村次郎左衛門包常(かねつね) 台所奉行7石2人扶持。享年37。

41横川勘平宗利 徒目付、5両3人扶持。
12月14日に吉良屋敷で茶会があることを調べる。享年37。
「まてしばし 死出の遅速は あらんとも まつさきかけて 道しるべせむ」

42茅野和助常成 横目付5両3人扶持。享年37。
「天の外は あらじな千種たに 本さく野辺に 枯るると思へは
世や命咲野に かかる世や命」

43寺坂吉右衛門信行 吉田兼亮の足軽3両2分2人扶持。
足軽で討ち入り後に一行から立ち退いた。38歳。
 逃亡者であるのか、同志達の許可を得たのか不明である。
 事件後に幾つかの家に仕えた。・・・江戸で没。享年83。


●泉岳寺:浅野長矩の墓および赤穂義士の墓
@浅野長矩の墓
A泉岳寺の赤穂義士46人の墓地
 2月4日に切腹となった赤穂浪士=「赤穂義士」の墓がある。
B討入り以前に自害した萱野重実の供養塔
C間光風の供養塔
G寺坂信行の供養塔である。
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群馬県安中市秋間の「赤穂義士47士石像」
安中市市の東上秋間の岩戸山に赤穂義士:片岡源五右衛門の
下僕・元助が浅野長矩夫妻と四十七義士の供養のため、20年の
歳月をかけて建立した47の石像と石宮がある。
毎年3月25日には、供養祭が行われている。
★赤穂義士47士石像・・・★あれ、写真が見つからない。


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吉良家は吉良邸討ち入りにより改易となった。
上杉綱憲の実子:吉良義周は諏訪家にお預けになったまま若死にした。
後継ぎがいなかったので「吉良上野介の血をひく吉良家」は完全に
断絶した。後に上野介の弟の孫の家系が「御家再興」を果たした。

● しかし、吉良上野介は息子は養子に出した米沢4代藩主:
上杉綱憲である。血筋で見ていくと
吉良義央→米沢藩4代藩主:上杉綱憲→5代藩主:吉憲→8代藩主:重定
(9代:上杉鷹山は養子で血が繋がっていないが正室:上杉重定の娘:
幸姫&側室:上杉勝延の娘:お豊の方)→勝熙→11代藩主:斉定→
12代藩主:斉憲→13代藩主:茂憲(伯爵)→15代当主:憲章(伯爵)
→16代当主:隆憲→17代当主:邦憲(宇宙工学者)・・・となる。
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箕輪初心※『忠臣蔵』:吉良上野介義央&赤穂義士 城・陶芸・ハイキング・ダイビング・スキー・旅行/BIGLOBEウェブリブログ
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