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zoom RSS 箕輪初心▲神奈川【小田原城の歴史詳細】:大森氏→北条氏5代

<<   作成日時 : 2014/11/25 05:58   >>

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室町時代15C後半、西相模一帯を支配していた大森氏頼が現県立
小田原高校付近の高台=八幡山に城を築いた。1600年頃、伊勢宗
瑞(北条早雲)が小田原城を乗っ取った? 以後、北条氏が5代
約100年にわたって本拠地となった。上杉謙信や武田信玄が小田
原城幸田門に着陣し包囲したが。籠城し、落城しない堅城だった。
天正18年(1580) 豊臣秀吉の攻撃に備え、城下を囲む総延長9km
に及ぶ総構を構築した。豊臣秀吉の小田原攻撃により北条氏は滅
亡し、戦国時代が終焉を迎えた。北条氏滅亡後、徳川家康の家臣
:大久保氏が近世城郭に改修した。その後、大久保氏の改易時に
破却された。稲葉氏の入城の際に再整備された。貞享3年(1686)
に再び大久保氏が城主となった。
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〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
箕輪初心●神奈川:小田原城=百名城
http://53922401.at.webry.info/201106/article_19.html

箕輪初心▲神奈川【小田原城3回目】写真集前編
http://53922401.at.webry.info/201411/article_24.html

箕輪初心▲神奈川【小田原城3回目】:写真集後編
http://53922401.at.webry.info/201411/article_25.html

箕輪初心▲神奈川平塚 紫雲寺【大森氏頼の居館跡=矢崎城】
http://53922401.at.webry.info/201411/article_22.html

箕輪初心★北条早雲の生涯=伊豆・相模国盗り物語
http://53922401.at.webry.info/201309/article_25.html

箕輪初心●群馬【名胡桃城A】=北条氏滅亡のきっかけの城
http://53922401.at.webry.info/201202/article_22.html

箕輪初心●岩櫃城探検隊第8弾【中山城2回目】
http://s.webry.info/sp/53922401.at.webry.info/201311/article_13.html
 ★名胡桃事件を手引きしたといわれる中山氏



◆◆ 小田原城の歴史 ◆◆

【1】大森氏の時代
・15世紀後半・・・
  西相模一帯を支配していた大森氏頼が小田原城を築城。
  ※小田原城の位置は不明。
   県立小田原高等学校東の高台付近=八幡山・・・
 
  小田原に城下町を整備した。
  
  後に、大森氏頼嫡男:大森実頼に小田原城を譲って
  岩原城に入った。

・明応3年(1494) 大森氏頼が死去。
  家督は次男:大森藤頼が継いだ。

扇谷上杉派は相模の三浦氏と大森氏を支えとしていた。
 @扇谷上杉定正(糟谷・川越城&江戸城)・・・落馬事故死。
 A三浦時高(新井城)・・・・・三浦義堂の下克上で自刃。
 B大森氏頼(小田原城)・・・・・・病死。
 人が死去するという不運に見舞われた。
上杉定正の甥で養子:上杉朝良が扇谷上杉家の跡を継いだ。

 しかし、北条早雲=伊勢宗瑞と北条氏綱の侵攻に押され、
 扇谷家は徐々に所領を奪われていくことになる。
 

・明応4年(1495) 北条早雲は甲斐に侵攻。
 武田家の内紛
長男:武田信縄(山内側)  VS 次男:武田信昌(扇谷側)

 北条早雲は甲斐守護:武田信縄と戦った。
(★戦国・北条一族)
★だとすると、北条早雲は山内側から扇谷側に変わったことになる。 


******************************
小田原城陥落はいつか?
@明応4年(1495)か明応5年(1496)説
 伊勢宗瑞が大森藤頼をだまし討ちにして小田原城を
 奪取したと言われていた。・・・従来の通説
★軍記物の逸話
※北条早雲の夢
「鼠が二本の大きな杉の木を根本から食い倒した。やがて鼠は大き
 くなっていって虎になった。」
   (★『北条記』)
 二本の杉・・・山内上杉家と扇谷上杉家。
 鼠・・・・・・子の年生まれの北条早雲のことである。
 三島神社に願をかけに行った時のことであるとも言われている。
 北条早雲は後に虎の印判を使った。


「大森氏頼の没後に、伊勢盛時→宗瑞→北条早雲が大森藤頼に進物を
 贈った。伊勢宗瑞は友好関係を装って大森藤頼に接近し、油断させ
 た。
・北条早雲は大森藤頼に進物=贈り物を贈るようになった。
 「最初は警戒していた大森藤頼も心を許して北条早雲と親しく
  歓談するようになった。
 ・・・藤頼殿、お父上は立派な方であった。」
  とかなんとか言っちゃって・・・

ある日、北条早雲は
 「伊豆の鹿が箱根の山逃げ込んでしまったので、箱根での鹿狩り
 のために領内に勢子を入れさせてはいただけまいか?」
 と願った。大森藤頼は快く承諾した。
 北条早雲は屈強の兵を勢子に仕立てて箱根山に入った。
(★『北条記』・・・・漫画:北条早雲・戦国北条一族など)

「その夜、北条早雲は千頭の牛の角に松明を灯して、峠から
  牛を追い落とした。北条早雲の勢子に扮していた兵が小田原城
  へ迫り、兵は火を放った。城内では「数万の兵が攻め寄せてき
  た。」と、おびえ、無防備の大森の兵は大混乱になった。
  大森藤頼は命からがら逃げ出した。北条早雲は簡単に小田原
  城を手に入れた。」
 大森藤頼は山内上杉朝良を頼った。
(★『北条記』・・・・漫画:北条早雲・戦国北条一族など)


 伊勢宗瑞は勢子に擬装した兵の奇襲かけさせた。
 大森藤頼は奇襲を受け、
 小田原城を略取され追放された。」



〜〜〜黒田基樹説〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
明応5年(1496)  9月の小田原攻撃説
(★戦国関東の覇権戦争:黒田基樹著)
 大森氏は北条早雲に小田原城を奪われたのだ。
 ★先祖が一緒だった葛山氏広は複雑であっただろう。

〜〜〜〜〜北条早雲の侵略の意図〜〜〜〜〜
通説・・北条早雲は扇谷側の大森氏をだまし討ちにした。
9月、相模小田原の大森藤頼を討ち小田原城を奪取した。
 山内上杉顕定の圧迫を受けた扇谷上杉朝良の家臣:大森藤頼の
 居城:小田原城を謀略を使って攻めた。という考えである。
 根底には、勢力範囲を拡大しようとする意図がある。

新説・・黒田基樹氏
●根底には、勢力範囲を拡大しようとする意図があるだろうが、
@茶々丸の討伐を大義名分として、行動している。
A山内上杉定正&顕定の側について、行動している。
つまり、足利将軍継承問題である明応の政変→対立の中での
軍事行動であると考えられる。
足利義澄→細川政元→今川氏親→北条早雲&扇谷
足利義稙(茶々丸弟)→大内政弘→足利茶々丸→武田信縄・信虎&山内
足利茶々丸が山内側だった。・・・北条早雲の小田原城奪取は大森藤頼
が扇谷上杉氏から山内上杉氏にすでに寝返ったためであると考える説で
ある。


・明応7年(1497) 満39歳
   北条早雲は南伊豆(下田市堀の内)深根城で茶々丸を殺害した。
(★下田市教育委員会)

・明応8年(1498) 北条早雲は甲斐で茶々丸を殺害した。
(★ウキペディア)

・明応10年(1500)文亀元年(1501)
 北条早雲は既に小田原城下の伊豆山神社の所有地を自領の1ヶ村と
 交換した文書が残されている。
(★ウキペディア)
 北条早雲は伊豆韮山城を居城とし、小田原城は北条氏綱に任せた。
 
※北条早雲は塚原卜伝を家臣にしようとした。
 『塚原卜伝』(2011年、NHK時代劇&DVD)
  伊勢宗瑞=北条早雲を中尾彬が演じていた。 

・文亀年間(1501~1504)
  今川氏親&北条早雲の三河侵攻開始。
 岩付(岩津)城下の戦い
  松平長親(徳川家康の先祖)と戦って敗北。
  三河侵攻は失敗に終わっている。


 北条早雲は「茶々丸討伐」の大義名分がなくなった。
 相模方面への制圧に乗り出した。
 山内顕定が足利義澄・細川政元に接近した。
 →今川氏親・北条早雲は仲間ということになったので、
  裏切ることにした。
 北条早雲・今川氏親は、足利義稙=大内義広・扇谷上杉朝良
 の仲間になったのである。

・文亀4年(1504)満48歳
立河原の戦
 北条早雲は扇谷上杉家への援軍として今川氏親とともに武蔵国に出陣。 
 結果・・山内上杉顕定に勝利。
   
 上杉顕定は弟:越後の守護上杉房能&守護代長尾能景の協力で
  反撃に出る。相模の扇谷家の諸城を攻略。

●反対説〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
・明応5年(1496) 山内上杉顕定が扇谷上杉側の小田原要害を攻撃
 「大森式部少輔(藤頼?)が扇谷上杉方として、伊勢宗瑞の弟:
  弥次郎と行動をともにしていた。
小田原城に攻めたが、伊勢宗瑞(早雲)と三浦義同(道寸)の
 援軍に敗れた。」
(山内上杉顕定の手紙)
その後、大森藤頼は縁戚:三浦義同の支援を受けて大住郡実田
  城=真田城(現平塚市・・・佐那田の城)に逃れて戦った。

・明応7年(1498) 大森藤頼は敗れて自殺した(伝)。
  真田城で自殺した大森某は藤頼とは別人説がある。

A文亀元年(1501) まで説・・・・・・・・・・・・・・・・・
伊勢宗瑞(早雲)が小田原城を奪ったと考えられる説もある。
・明応7年(1497) 満39歳
   北条早雲は南伊豆(下田市堀の内)深根城で茶々丸を殺害した
(★下田市教育委員会)

・明応8年(1498) 北条早雲は甲斐で茶々丸を殺害した。
(★ウキペディア)

B明応10年(1500)文亀元年(1501)説・・・・・・・・・・・・・
 北条早雲は既に小田原城下の伊豆山神社の所有地を自領の1ヶ村と
 交換した文書が残されている。
(★ウキペディア)
 北条早雲は伊豆韮山城を居城とし、小田原城は北条氏綱に任せた。
 
※北条早雲は塚原卜伝を家臣にしようとした。
 『塚原卜伝』(2011年、NHK時代劇&DVD)
  伊勢宗瑞=北条早雲を中尾彬が演じていた。 



・永正元年(1504) 大森式部大輔宛の関東管領山内上杉顕定書状写
  「上杉顕定が扇谷上杉朝良・駿河今川氏親・伊勢宗瑞らと武蔵
   立河原(立川市)で対峙している最中に、大森式部大輔に
  甲斐武田信縄へ参陣するよう促した。」
 ※大森氏は扇谷から山内上杉氏に属していた。
  
・永正元年(1504) 立河原の戦い(立川市)
  山内上杉顕定・足利政氏連合軍 
VS
扇ヶ谷上杉朝良・今川氏親・伊勢宗瑞連合軍
  上杉顕定側は2000人以上の戦死者を出して潰走した。

・永正2年(1505) 上杉顕定軍に河越城を包囲した。
  上杉朝良が降伏して終結した。

・永正4年(1507) 上杉顕定の養子:上杉憲房と上杉朝良の妹の
   婚姻が成立し、両家は和解した。
   しかし、両家の勢力は弱体化した。

・永正6年(1509) 上杉顕定は大森式部大輔に贈物の礼状を出した。

C永正6年(1509)説・・・・・・・・・・・・・・・・・・
  その間隙をぬうように伊勢宗瑞が勢力をつけてくる。
  伊勢宗瑞が大森氏が小田原城を奪取したのは、この頃のことで
 あったと推定されるようになった。・・・有力説
 
★扇谷上杉家の衰退と相模における後北条氏の台頭に従い、大森氏は
 没落していった。
 大森一族の末裔が後北条氏に仕えた後、徳川氏に仕え江戸幕府
 の寄合旗本として存続した。


〜〜〜北条5代の城〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

・1500年頃 伊勢新九郎長氏(伊勢宗瑞・北条早雲)が大森氏を
  攻略し、小田原城を北条氏の本拠地とした。

・永正2年(1505)
 扇ヶ谷上杉朝良は河越城で降伏した。
 結果・・北条早雲は山内上杉家&扇谷上杉家と敵対することに
 なった。

・永正3年(1506) 満50歳
  北条早雲が相模で初めての検地を実施した。

・永正4年(1507)
  関東管領山内上杉顕定の弟:越後守護上杉房能が、守護代
  長尾為景(上杉謙信の父)に殺害された。
  上杉顕定は一時、長尾為景を越中に追いやった。
     
  北条早雲は長尾為景や長尾景春と組んで山内上杉顕定を
  牽制した。

  扇谷上杉家が山内上杉家と和睦。
〜〜〜〜長享の乱の終結〜〜〜〜〜


・永正6年(1509) 満53歳
※北条早雲の今川氏の総大将としての活動は見られなくなった。
 北条早雲は相模進出に集中するのだった。
   今川家の総大将→相模平定へと・・・

 山内上杉家&扇谷上杉家の領土に侵攻を開始した。
   (★黒田基樹氏)

 ・山内上杉顕定は大軍を率いて越後へ出陣。
   山内上杉顕定 VS 長尾為景
 結果・・長尾為景は佐渡へ逃亡。佐渡本間氏の力を借りた。
 
 北条早雲はこの隙をつき、権現山城(横浜市鶴見)の上田政盛を
 扇谷家から離反させた。  

長尾景春と北条早雲は、扇谷上杉朝良の被官:上田蔵人政盛を
 取り込み、権現山城で蜂起した。
 そして扇谷上杉朝良の本拠地:江戸城に迫った。


・永正7年(1510) 満53歳
  扇谷上杉朝良は、今まで対立していた山内上杉顕定の
        養子:憲房と和解した。
  山内家の援軍を得た扇谷家が反撃に出た。

7月19日→上杉朝良を大将とする2万の両上杉軍勢が
      権現山城を10日に渡って攻劇→落城。
  扇谷上杉朝良が権現山城を奪い返した。  
 山内家の援軍を得た扇谷家が反撃に出て、権現山城は落城し、
 奪い帰された。

 両上杉氏の力を見せつけられた早雲は両上杉氏と
  直接対決を回避した。
  →三浦半島に勢力をおく三浦氏を攻撃対象にした。

 三浦義同(道寸)が早雲の住吉要害(平塚市)を攻略して
 小田原城まで迫ってきた。
 
  北条早雲は敗北した。
 北条早雲は扇谷山内朝良と和睦して、切り抜けた。


・永正7年(1510) 長森原の戦い
  山内上杉顕定は越後に戻った。 
  佐渡の本間一族が長尾為景(上杉謙信の父)を応援したのだ。
  →上杉顕実 VS 上杉憲房 (2人の養子の争い)
  長尾為景、鉢形城の長尾景春(伊玄)と結んでいた。
  敵:高梨政盛・長尾為景(上杉謙信父)に敗北し、自刃。
  享年57

       
*********上杉顕定の関係****************************
箕輪初心★太田道灌の生涯:長尾景春のライバル
http://53922401.at.webry.info/201312/article_1.html

箕輪初心★長尾景春:関東下克上で従兄弟:太田道灌と交戦
http://53922401.at.webry.info/201311/article_31.html

箕輪初心★【連歌師:飯尾宗祇】&関東管領:上杉&長尾
http://53922401.at.webry.info/201404/article_24.html

箕輪初心★『宗長の生涯』:世捨て人の彷徨
http://53922401.at.webry.info/201404/article_25.html

*********上杉顕定の死********************************
箕輪初心★本間家の歴史;佐渡本間一族→酒田本間家
 日本一の地主へ
http://53922401.at.webry.info/201307/article_20.html
★長尾為景の協力者:佐渡本間家が上杉顕定を倒した。

箕輪初心◆2013群県博:新潟県「上杉氏」関興寺・瀧澤寺・
雲洞庵・坂戸城・管領塚
http://53922401.at.webry.info/201310/article_21.html
★上杉顕定の管領塚=戦死した場所

******************************************************        
       
   
※永正の乱 
 古河公方家
  父:足利政氏 VS 子:足利高基
 扇谷上杉朝良は2つの調停に追われた。

 三浦氏の傍流の相模の三浦義同(=道寸)は相模の岡崎城(現伊勢
 原市)を本拠とし、子:三浦義意が三浦半島の新井城(油壺)&
 三崎城(現三浦市)を守っていた。
 
 北条早雲の相模平定のためには、どうしても三浦氏を滅ぼさねばなら
 なかった。・・・10年前に助けた三浦義同が扇谷上杉家に従属して
 いて、北条早雲に敵対していたからである。
 相模国守護代の三浦道寸(義同)攻略を決意した。



・永正9年(1512) 満56歳
北条早雲は三浦勢が小田原城攻撃から兵を引いたので、
 急襲し壊滅させた。
 8月 岡崎城(伊勢原市)を攻略した。
 三浦道寸=義同を住吉城(逗子市)に敗走させた。
 さらに住吉城も落とした。
 三浦義同は子:義意の守る三崎城に逃げ込んだ。

 北条早雲は鎌倉に入った。相模の支配権をほぼ掌握した。
 上杉朝良の甥:朝興が江戸城から救援に駆けつけた。
 北条早雲は上杉朝興を撃破した。

10月 北条早雲は鎌倉に玉縄城を築いた。
相模国東部経営と三浦氏攻略の拠点にした。

  北条早雲と三浦義同はしばしば戦火を交えた。
  北条早雲は扇谷家も救援の兵を全て撃退した。


・永正13年(1516) 満60歳
7月 扇谷朝興が玉縄城を攻撃。
    北条早雲は打ち破った。
三崎城に攻め寄せた。
    三浦義同・義意父子は討ち死にする。
    三浦氏は滅亡した。
 ※北条早雲は相模全域を平定した。

 さらに、上総の真里谷武田氏を支援して安房=房総半島に
  渡り、転戦した。
  

・永正14年 (1517)
※今川氏親は引馬城を攻略し、遠江を制圧。
※足利義明が下総小弓御所に入る。小弓公方を名乗った。


・永正15年(1518) 満62歳
   北条早雲は家督を嫡男:氏綱に譲った。
北条氏綱が虎の印判状の使用を開始。
   扇谷上杉朝良が死去。

・永正16年(1519) 満63歳
  8月、北条早雲が韮山城で死去。
  享年数え64。従来は88。

  
・永正18年・ 大永元年(1521) 北条氏綱は菩提寺として早雲寺
  (神奈川県箱根町)を創建。




〜〜〜上杉謙信の小田原城攻撃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
・永禄3年(1560) 長尾景虎(上杉謙信)の第一次関東出兵
8月26日 安房の里見義堯・からの安房救援要請
(★正木家文書)
10月  上杉謙信は越後勢8000余りを率いて出陣。
10月初旬 猿ヶ京・・・岩下城→明間城→沼田城を攻略
  城主北条氏秀(沼田康元)を追うと、厩橋城を落と
  した。
  上杉謙信は厩橋城を関東攻めの拠点とした。
  那波氏の那波城を攻略
  武蔵に南下して羽生城も陥落させた。
  北条氏康は松山城(埼玉東松山)から小田原城へ退き、
  篭城策を選択した。
12月初旬 上杉軍謙信は河越城や古河御所を包囲した。 
  古河城の足利義氏・玉縄城の北条氏繁、滝山城の北条氏照や
  河越城の北条氏尭は篭城に徹した。
★小田原城攻めをした説もある。・・・群馬県史
※永禄3年(1560) 12月上杉謙信が10万以上の兵力で落とせなかっ
 た堅城であった。・・・・ 
 
・永禄4年(1561) 長尾景虎(上杉謙信)は厩橋城で年を越した。
 2月  越後にいた直江実綱も関東に召集された。
     足利義氏の古河御所を制圧した。
 2月下旬 武蔵松山城に着いた。
 2月27日 鎌倉鶴岡八幡宮に勝利の願文を捧げた。
   海沿いを進撃。藤沢、平塚を経由し小田原に攻め込んだ。

 3月 『関東幕注文』が完成した。
   上杉謙信は旧上杉家家臣団も含め10万人を超える大軍と
   なった。
   (★関八州古戦録では、11万3千人。)
   小田原城をはじめとする諸城を包囲、攻撃を開始した。

3月3日頃 上杉軍先陣は当麻(相模原市南区)に陣を取った。
3月8日  中筋(中郡)に陣を取った。
3月14日 大槻(秦野市)で、北条方の大藤秀信隊と激突した。
3月22日  曽我山(小田原市曽我)の戦い
3月24日  ぬた山(南足柄市怒田)の戦い 
3月下旬  上杉謙信本隊は酒匂川辺に陣を張った
      小田原城攻撃 
      太田資正の部隊が小田原城の蓮池門へ突入した。
     激しく攻め立て北条軍も粘り強い抵抗を見せた。
     (★『関八州古戦録』)
     小田原城下での両軍のぶつかり合いはなかった。
※上杉謙信は幸田門に着陣した。
(★ガイドの真下さん)
     上杉謙信は挑発のため小田原城下に放火をしても
     北条方は小田原城から討って出ることはなかった。
     (★上杉家文書)
閏3月初め、上杉謙信は諸将とともに鎌倉に移った。
   長尾景虎は関東管領:上杉政虎を名乗った。
群馬県史では・・2月  
4月 上杉謙信は越後へ帰還途上の、北条方へ寝返った上田朝直
 の武蔵・松山城を攻略し、城将:上杉憲勝を残した。
6月下旬 厩橋城を経った。
7月初旬 春日山城に戻った。
   10ヶ月に及ぶ関東遠征を終えた。



〜〜〜〜武田信玄の小田原城攻撃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
・永録12年(1569) 武田信玄の小田原城攻撃・・・
 ・永録12年(1569)武田信玄49歳。
8月24日 武田信玄は2万の軍勢を率いて甲府躑躅ヶ崎館を出立
 した。
   (★『甲陽軍鑑』)
西上野の碓井峠を越えて南下し、安中・・藤岡・・
 ★おそらく、箕輪城代:浅利信種と合流した。

  富岡国峰城主:小幡憲重・信貞も合流した。


 武田信玄・武田勝頼・武田信廉・
 山県昌景・内藤昌豊(松本城)・馬場信春
 ・曽根昌世・浅利信種・小幡信貞・・・・・etc。

9月10日  鉢形城を包囲し、北条氏邦を攻撃した。
  (★『上杉家文書』)

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
箕輪初心●箕輪城115「北条三鱗会に井伊直政の手作り
甲冑作成依頼」
http://53922401.at.webry.info/201311/article_29.html

箕輪初心●『鉢形城の歴史詳細』&47回寄居北條まつり2008
http://53922401.at.webry.info/201305/article_15.html

箕輪初心◆埼玉『第52回寄居北條まつり2013鉢形城』
http://53922401.at.webry.info/201305/article_14.html

箕輪初心●埼玉『鉢形城』&北条氏邦の箕輪城の大改修
http://53922401.at.webry.info/201305/article_16.html

箕輪初心■箕輪城シリーズS「第12代:北条氏邦」
http://53922401.at.webry.info/201010/article_34.html


9月26日 別働隊岩殿城主:小山田信茂1000が出陣し、
  小仏峠を越えた。
(★『甲斐国志』)
 北条家臣:横地監物・中山勘解由ら2000は檜原で、待ち
 受けた。

箕輪初心▲埼玉飯能市『中山家範館』:北条氏照の重臣
http://53922401.at.webry.info/201407/article_2.html

9月27日 武田勝頼が拝島から北条氏照の滝山城を攻撃した。
 1日で、攻撃をやめたが、滝山城は落城寸前だった。
箕輪初心▲滝山城:北条氏照の武蔵進出拠点の城
http://53922401.at.webry.info/201411/article_3.html

箕輪初心▲東京【八王子城】:北条氏照築城
http://53922401.at.webry.info/201411/article_4.html
http://s.webry.info/sp/53922401.at.webry.info/201411/article_4.html
 ★八王子城を造るきっかけになった。

9月28日 武田信玄は小仏峠から入った小山田氏らと合流した。
  牛ヶ渕の合戦・・・
 相模国へ進入した。・・・

10月1日 武田信玄は上杉謙信同様、幸田門(今の幸田門でない。)
 に着陣した。
  北条氏康の小田原城を囲んだ。
※小田原城は有名な惣構えが着工前であった。
 武田信玄は上杉謙信と同じく、幸田門(今の幸田門より二の丸
 より)・・小田原城を包囲し3度にわたって挑発した。

○箕輪初心●神奈川:小田原城=百名城
http://53922401.at.webry.info/201106/article_19.html

 しかし、北条側は小田原城を出なかった。

10月4日 小田原の守りが固いと見るやすぐさま撤兵した。・・・
 (★『上杉家文書』『甲陽軍鑑』)。

10月5日 小田原城城下周囲を放火して軍勢を引き上げた。
 小田原を出発し、平塚から相模川沿いに厚木→中津→角田
 →三増と進んだ。
 
 北条氏康は北条氏照・氏邦に先回りさせ、三増峠付近で待ち伏せ
 することとした
 (★『甲陽軍鑑』)。

※滝山城などの北条方
甲州街道守備軍の北条氏照・・・滝山城
秩父方面守備軍の北条氏邦・・・鉢形城
北条綱成 北条氏忠 高城蔵人 原胤栄
上田朝直
八王子片倉城で合流した。
箕輪初心▲東京八王子【片倉城】:カタクリの里
http://53922401.at.webry.info/201411/article_18.html

・軍勢2万が要所である三増峠
(相模原市緑区根小屋〜愛甲郡愛川町三増)に着陣した。

武田信玄は小幡重貞を迂回させて、三増峠の北側にある後北条
 氏方の津久井城の抑えとした。
 武田信玄は後詰の遮断と帰路の確保を目的に小幡憲重&
 信貞父子(国峰城)の軍に津久井城を囲ませた。
★小幡憲重は小幡信貞の父。重貞、重定ともされる。
   妻は長野業正の娘?妹とも?
★小幡重貞→信貞→信実→
  妻は長野業正の娘・・・長野正弘系図(高崎浜川来迎寺)
箕輪初心●相模:津久井城=三増峠の戦いの地
http://53922401.at.webry.info/201411/article_17.html

また山県昌景らに志田峠を越えさせて、待ち伏せする後北条軍の背後
に回らせた
(★『甲陽軍鑑』)。

10月6日 早朝、武田軍と北条軍が対陣した。
さらに北条氏政が2万余りを率いてやってきた。
北条氏照・氏邦の部隊と武田軍を挟撃し、殲滅する作戦であった。

 内藤昌豊は、小荷駄隊を中心にして志田峠を進んだ。
 (『甲陽軍鑑』)
 小荷駄隊が武田軍の先頭だった。
 北条氏照の攻撃を受けて被害を負っている。
 (『山吉文書』)。


10月7日 北条氏政本隊は到着前であった。
 北条氏照・氏邦の部隊は先手を打って奇襲攻撃を仕掛けようと
 していた。
 武田信玄はこれを察知して、部隊を3隊に分けた。
@本隊・・北条軍の攻撃を正面から受けて立つ
 A左翼・・浅利信種隊や浦野重秀(大戸城)隊・・・上野隊
 B右翼・・山県昌景隊 
 ・・・2部隊は北条軍を横から急襲する作戦であった。

10月8日 三増峠の戦い
現神奈川県愛甲郡愛川町の三増周辺・・・・

武田信玄2万  VS 北条氏照&北条氏邦 6,000〜2万
北条氏は甲斐に帰国しようとする武田軍相手に有利に展開した。
 武田軍は損害を受けた。
 北条綱成が指揮する鉄砲隊の銃撃により左翼の浅利信種や浦野
 重秀が討ち死にした。
浅利信種は鉄砲に当たって討ち死したのだ。
  (★『北条記』)
 浦野重秀(上野国大戸城)も戦死したのだ。
  一説には、武田側は200余人の犠牲者を出したとされる。

緒戦では、北条氏照の奮戦で、武田氏の先手衆を押し切り、成果を
 上げた
 (★『上杉文書』『北条五代記』『北条記』)。

しかし、山県昌景率いる武田の別働隊が志田峠 (三増峠南西約1km)
に機動した。高所から奇襲に出ると戦況は一気に武田に傾いた。
 山県昌景が突撃すると、挟み撃ちの形となり、北条氏は退却・敗北
 した。
  (★『甲陽軍鑑』『戦国合戦大事典』)

北条軍は背後の津久井城守備隊の内藤隊などの予備戦力が、武田軍別
働隊に抑えられて救援に出なかったこともあり、大きな被害を受けた。
左翼隊は戦死した浅利に代わって軍監:曽根昌世が代わりに指揮を
とった。
北条綱成の軍勢を押し戻すことに成功した。

緒戦では苦戦したものの、最終的には武田軍の勝利とされている。
先に三増峠に布陣したのは武田軍で、布陣をを知らなかった北条軍が
不意の攻撃を受け、敗退したという。
(★『北条五代記』『北条記』)

有利に戦いを進めていた北条軍に対し、武田信玄は伏兵で反撃をし、
形勢を逆転させた。

武田信玄は、北条氏康本隊の到着を恐れ、迅速に戦いを進めた。
武田信玄は自軍の勝利と見ると、軍勢を反畑(相模原市緑区)まで
移動させ、勝ち鬨を挙げた。その後、武田軍は甲斐に撤退した。
★武田信玄は賢明であった。
北条氏康&氏政父子の北条本隊2万は荻野(厚木市)付近に到着して
いたが、北条軍の敗北を聞いて小田原城に退いた。
 (★『甲陽軍鑑』)
結果・・・
@武田側・・・・1,000余(北条五代記)
900(甲陽軍艦)
A北条側・・・・ 2,000余(諏訪家文書・武田信玄書状)
         3,269(甲陽軍鑑)
しかし、本当に武田軍が勝ったのかは疑問である。

★もし、戦が長引いて、北条氏康&氏政父子の部隊が到着していたら、
武田軍は挟み撃ちにされて、大敗していた可能性があった。

★5回の川中島の戦いを期に上杉謙信との戦いをやめたのに続いて、
 三増峠の戦いを期に、後北条氏との決戦を避けているように
 感じられる。2年後には北条氏康が上杉謙信と手を切り、武田信
玄と再同盟するきっかけともなったのだ。
やがて、武田信玄は今川〜徳川〜織田へと戦いを挑んだ。



〜〜〜豊臣秀吉の小田原城攻撃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
          
・天正17年(1589)
?月 真田信之が徳川家康養女(本多忠勝娘)の小松姫と結婚。

 8月 関白豊臣秀吉の裁定
   ・沼田城を含む沼田領の三分の二が北条氏の領土.。
   ・名胡桃城を含む三分の一が真田氏の領土。+伊奈
   →真田信幸は沼田城を北条氏直に渡す。
       名胡桃城は真田氏に残す。
     矢沢頼綱は沼田城から退去。
   後北条氏は沼田城の城代に猪俣邦憲を配置。


10月 猪俣邦憲は南西の榛名峠城から名胡桃城を奪取(名胡桃事件)。
 北条氏邦の右腕で、沼田城主:猪俣邦憲は、名胡桃城主:
 鈴木主水の配下、中山城主:中山九兵衛を調略し、偽の
 真田昌幸からの手紙で、鈴木主水を城外に誘った。
南西の榛名峠城(=権現山城)から名胡桃城を奪取した。
鈴木主水は沼田の正覚寺で自刃した。(名胡桃事件)
※小田原征伐勃発の口火を切った城である。
{★名胡桃城の歴史・月夜野町(現みなかみ)教育委員会より}

●真田昌幸が徳川家康に苦情
    →豊臣秀吉は北条氏政に質問

11月21日 真田昌幸宛の豊臣秀吉からの書状
  「秀吉に上洛しない北条が、一部の部隊とはいえ、
   秀吉の裁断を破って真田領を侵した
   ことは〜〜〜。」と激怒。

 12月 北条勢:猪俣邦憲は3方向からの岩櫃城攻撃。
岩櫃城周辺に大戸から攻撃。
    @中山口→横尾八幡城の戦い
    A白井口→中之条古城の戦い
    B大戸口→手古丸城占領→仙人窟陣城で監視
          (群馬県東吾妻町大戸)

★★箕輪初心●【横尾八幡城】
http://53922401.at.webry.info/201202/article_12.html



★箕輪初心の調べ〜〜〜〜〜〜
名胡桃城は、沼田城からは5km程の距離で、利根川沿いの上流を
見れば、谷川岳の手前に見える。沼田城を守る猪俣邦憲からすれば、
名胡桃城は「目の上のたんこぶ」である。ついつい攻略したくなっ
てしまったのでだろう。北条氏邦の沼田城代:猪俣邦憲は、中山城
主:安芸守の2男:中山九郎兵衛に、「貴殿は中山城主であって当
然だ。北条につけば、名胡桃城&小川城は貴殿のものになる。」と
言葉巧みにそそのかした。中山九郎兵衛は姉婿の名胡桃城代:鈴木
主水(重則)に「伊那郡(もう一つの豊臣秀吉の分与地)の城取り
の相談あるから、上田に来るよう。」と偽りの真田昌幸の書状を出し、
鈴木主水を城外におびき出した。鈴木主水が異変に気づいて名胡桃
城に戻ったときには、中山九郎兵衛が名胡桃城を乗っ取ってしまっ
た後だった。鈴木主水は妻子を沼田城に取られたので、北条の味方
になるふりをしたが、鈴木主水は真田昌幸から預かった名胡桃城を
乗っ取られた責任からか、腹を掻っ切って果てるしかなかった。沼
田の正覚寺で自刃したという。この年に結婚した真田信之の妻:小
松姫(徳川家康養女)の墓のある場所である。話が出来すぎの感が
あるが、とにかく、猪俣邦憲は簡単に名胡桃城を手に入れた。きっ
と北条氏邦が「でかした。」と褒めたであろう。その後、北条氏邦は
真田昌幸の岩櫃城に総攻撃をかけようと、中山口・白井口・大戸口
から岩櫃城に向かった。中山口は猪俣邦憲が大将で、中山・尻高・
富永が攻撃開始をし、中之条の横尾八幡城で戦った。白井口は北条
氏邦の本隊軍で、中之条古城で戦った。大戸口からは上田を大将に
手古丸城を落とし、大戸の仙人窟陣城から様子を伺っていた。★も
しかしたら、箕輪城代:多米周防守や倉賀野城代:塀和伯耆守も応
援していたかもしれない。・・・・しかし、真田昌幸から、これを
聞いた豊臣秀吉は烈火のごとく怒り、北条氏政&氏直に宣戦布告状
を叩き付けた。・・・北条一族は、岩櫃城攻撃を断念した。猪俣邦
憲は名胡桃城の乗っ取り作戦の成功が原因で北条氏を滅亡に追い込
むなんて思ってもいなかったのである。(★上毛古戦記の要約等)

◆◆ 名胡桃事件の発端に関する諸説 ◆◆
@猪俣邦憲の独断説=通説多数説
  (★鉢形城開城:鉢形城博物館)
 猪俣邦憲は猪武者で、虚突猛進型の軽率な人間と評価する説
◆多くの方は、猪俣邦憲は名前どおりの猪武者で軽率な行動を
  したという説をとっているようだ。
★職場に猪俣邦憲の子孫がいて、びっくりだった。歴史的な流
 れも知っていたのだった。「あれまっ〜〜〜〜。」

A北条氏邦の命令説
猪俣邦憲は北条氏邦の命令を受けて、名胡桃城を攻撃した説
・・・北条氏邦が真田昌幸の岩櫃城に総攻撃をかけようと、
 3方向から、攻撃したこと考えると、猪俣より直情型の氏邦
 が命令したと解釈する方が当たり前だろう。何故なら、氏邦
 が小田原城の籠城より、武蔵国(埼玉県寄居町)の籠城を考
 え、すぐに鉢形城に戻ったような戦術優先型の人物である。

B徳川家康の陰謀説(★真田太平記)
 徳川家康の手紙を忍者に持たせた。この時点では、徳川家康は
 自分から、上杉景勝に真田信繁(=幸村)を人質だして、反抗
 する真田昌幸をなんとか自分の配下にもう一度なびかせたかっ
 た可能性がある。天正17年(1589)・・この年に結婚した真田
 信之の妻:小松姫(徳川家康養女←本多忠勝の娘)を内偵の役
 目をさせたかったのかもしれない。そして、1年後には、真田
 信之は沼田城主になったのだ。・・・できすぎだなあ?
 

C豊臣秀吉の計略説(★箕輪初心の勝手な妄想)
 なかなか自分になびかない北条氏政&伊達政宗が気になって
 いたのではないだろうか?・・・つまり、沼田領の分配計画
 は大規模な北条氏抹殺&真田封じ込め計画があったのでは?
 私のような歴史無知蒙昧の人物想像の妄想型の考えである。
 でも、・・・こんな考えの方はいませんか?もともと、真田に
 反感を買わせるような作戦ではなかったのではないだろうか?


★さあ、4説のどれを貴方は採用するのか?貴方次第である。
 真実は不明である。
  

 
→豊臣秀吉の小田原征伐の口実・豊臣秀吉は北条氏追討の指令。
  猪俣邦憲が兵を撤退させた。


・天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原攻撃。
 →北条氏は山の中腹や海岸線などに総延長9kmに及ぶ土塁や
空堀を構築。
  町屋や農地も城下に取り込んだ巨大な城構を建造した。
★日本最大の中世城郭だった
  30000人(関東1の城下町)で籠城。
 ※箕輪城は井伊直政の兵力逆算で約22000〜25000人
・・・関東2位)

3月 豊臣秀吉は小田原攻撃に出陣
6月 黒田長政が従5位の下:甲斐守になった。

豊臣秀吉の小田原の攻撃〜〜〜〜〜〜〜
  山中城の戦い
黒田如水は娘婿:一柳直末が山中城で戦死すると、
  松寿丸(一柳直末の息子)を黒田如水の養子&黒田長政の
  嫡男とした。



黒田如水は石垣山一夜城の縄張りを担当した。

箕輪初心●神奈川【石垣山一夜城】=秀吉の天下統一の城 
http://53922401.at.webry.info/201106/article_18.html

箕輪初心★【黒田官兵衛孝高=黒田如水の生涯】後編
http://53922401.at.webry.info/201401/article_7.html

黒田如水の策略「お土産&褒め殺し作戦」
 小田原城に入って、北条氏政・氏直父子を説得し、
  無血開城させる功績を立てた。
※贈り物は「ホウボウの粕漬け」だった。
北条氏政はお返しに
 「鉛&火薬・・・徹底抗戦」
黒田官兵衛は一人で乗り込んだ。
「20万人も来ているのに・・・」
と、まず、褒めた。
・・・小田原城の開城 
(★歴史ヒストリアsp7問目)

  
  
 ・徳川家康も豊臣軍の一軍として参戦。
    →関東移封100万石。
 
  
→江戸城の西の守りとして重視。大久保忠隣が入城。
 本丸や二の丸、三の丸の一帯が近世城郭に改造された。

・寛永9年(1632)〜貞享2年(1685)まで  
  稲葉氏・・・幕府からの援助。

・貞享2年(1685) 大久保氏が再び城主。
  震災による建替えや修復を繰り返した。

・幕末まで・・・。

・明治3年(1870) 廃城。

・明治5年(1872)まで 城内の多くの建物が解体された。
 後に、小田原・足柄県庁・神奈川県支庁の所在地となり、さらに

・明治34年(1901) 二の丸に御用邸が建てられた。

・大正12年(1923)9月1日  関東大震災
   御用邸や石垣もほぼ全壊した。

・昭和9年(1934) 隅櫓が再建された。

・昭和13年(1938) 二の丸・三の丸の一部が国史跡となった。

・昭和34年(1959) 本丸と二の丸の残りが国史跡に指定された。

・昭和35年(1960) 天守閣が復興された。

・昭和46年(1971)3月 常盤木門が再建された。

・平成9年(1997) 銅門が再建された。

・平成21年(2009) 馬出門が再建された。


◆参考文献
・漫画:北条早雲:伊東章夫著学研
・小田原城跡案内板
・パンフレット
・戦国北条一族:相川司著
・戦国北条五代: 黒田基樹著
・戦国関東の覇権戦争:黒田基樹著
・土肥の富永一族:土肥町教育委員会
・伊豆水軍物語:永岡治著
・小田原市史・・・など。

◆参考Hp・サイト
ウキペディア:北条早雲など。







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