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zoom RSS 箕輪初心★箕輪城140【秋本太郎先生の箕輪城→高崎城+城下町】

<<   作成日時 : 2014/10/07 07:10   >>

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★平成26年(2014)9月8日、秋本太郎先生が箕輪城語り部の会
のため出前講座【高崎城の紹介】を開いてくださいました。秋本
太郎先生は、合併前から、箕輪城の発掘調査に長くされてしまし
た。3年前には箕輪城シンポジウムで講演会もされました。現在
も箕輪城の整備計画の中心となって、活動されています。今回は
秋本先生の講演会の内容をレジメに沿って、加筆させていただき
ました。秋本太郎先生、ありがとうございました。
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  (★秋本先生作成の鳥瞰図)
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 (★10月26日第12回箕輪城祭り)


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箕輪初心★箕輪城103川野辺寛「高崎誌」&井伊直政
http://53922401.at.webry.info/201310/article_8.html

箕輪初心★「高崎の文化人19+α」江戸時代編
http://53922401.at.webry.info/201310/article_19.html

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T、高崎城の縄張りと城下町
【1】和田城
1)従来説:山崎一氏の「和田城説」(1978)
@西田美英・・・宝暦5年(1755)『高崎寿奈子』
「 馬上宿(今城ノ二ノ丸南中門ノ内ナリ)、
   金井宿(今城ノ二ノ丸赤坂中門ノ内ナリ)」

A川野辺寛・・・寛政元年(1789)「高崎志」
では、中世鎌倉道のルートは近世高崎城の
二の丸付近を通過する。
 B【和田城並びに興禅寺境内古絵図】
  おおむね一致。
 ★興禅寺は新田義重が新田から高崎寺尾に来て、開いた寺で
  ある。興禅寺は現在の龍広寺の北にあった。現在は、
  東の興禅寺地蔵堂しか残っていない。

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●秋本説・・・鎌倉道の西に属すると推定された。
@「馬上宿」(ばじょうじゅく)から「金井宿」となっている道
  です。ばじょうじゅくと秋本先生は言っていた。
 ★「ばじょうじゅく・うまあげじゅく・ばあげじゅく」
 どう読むのでしょうね。
「現在の高崎総合医療センター辺りから、高松中学校にかけて
 鎌倉街道が通っていたようです。
A最初の中山道はバス通りより1本東の道でした。
  本町:椿町→九蔵町→北通町→通町を経由していた。
B新しい中山道は高崎駅西口からの道は、「信濃屋旅館」と
  「新町交番」で突き当たって、中山道との丁字路になっ
  ていました。今のバス通りです。
1本西の田町を通るように変更しました。
 

田町・本町・新町が伝馬役(てんまやく)をつとめるよう
 になった。・・・「高崎宿の三伝馬」の成立。


★「嵜繁昌記」・・・明治30年(1897)発行の古地図
  図中に「鎌倉道」という文字がある。
★「和田宿古繪圖」・・・昭和2年(1927)「高崎市史」
★「高崎市史」
「抑々本市ハ今ヨリ六百八十餘年前、和田義盛ノ六子義信、
 白川郷二墊居シ、其子正信、寛元年中此ノ地ニ移リ住シ
 和田ト稱ス、當時既ニ鎌倉街道ノ一驛トシテ稍々市街ノ
 形ヲナシタルモノノ如シ・・・
 鎌倉開府以來、鎌倉街道タリシ時ハ、金井宿、馬上宿、
 植横宿ノ名アリ、和田氏ニ至リ和田宿ノ名起リ、市街ヲ
 形成セリ、當時ノ通路トシテハ、後世ノ赤坂門ヲ置カレシ
 所ヨリ、現今ノ榮内烏川ニ沿ヒ、公園地内ヲ通過シ、
 小万坂ニ出シト云フ、」






【2】箕輪城&高崎城の縄張り
@山崎一氏・・・「箕輪城の郭馬出は高崎城の梅ノ木郭の原型」
(1990)
A箕輪町誌・・・「箕輪城の曲尺馬出(かねじゃくうまだし)と
         箕輪城の曲尺馬出は関係が深い。」

B石守氏・・・・「箕輪城・前橋城・高崎城(赤坂城)は似た
    ような郭の構造になっている。」(2005)


【3】高崎の城下町
・『高崎寿奈子』『高崎志』・・・
  連雀町・田町・椿町(本町)・鞘町・新紺屋町・鍛冶町・
本紺屋町・磬撃町であった。

@連雀町
箕郷町では、箕輪小学校前の北西の信号〜南にあった。
森下美容店・旧戸塚両店・川浦床屋・旧高橋漬物店・
森下自転車・加納さんち、旧成瀬魚店などがあった。
・慶長3年(1598) 箕輪から高崎への移城の際に、箕輪城下に
あった「連雀町」を移した。


A田町(たまち)
箕郷町では、バス通り・・信号がある。
 竹腰徳蔵家〜戦争中、箕輪城の大半の土地を持っていた
(テニスの清水善造の後押しをした)田中家から
旧友鶴の酒造:竹腰家などのある場所・・・・
・慶長3年(1598) 箕輪から高崎への移城の際に、箕輪城下に
あった「田宿」を移し、「田町」としたことによる。
北は九蔵町(北爪九蔵・・長野時代は浜川に館があった。)
 西は新紺屋町、寄合町、中紺屋町、鞘町 ●田町 
 東は北通町、元紺屋町、白銀町
 南は連雀町
・慶長5年(1590) 頃 最初な中山道
本町:椿町→九蔵町→北通町→通町を経由していた。

・慶長7年(1602) 中山道の変更
  田町は1丁目から3丁目まであった。

・明治時代・・四丁目もできた。
  高崎藩は、田町以外での絹、綿の売買を禁じていたため、
五・十日にたつ市は西上州最大の市場となった。
昔の珍竹:林画廊の西奥に、江戸期から続く絹市場が戦後
  しばらくまであったという。

B椿町(本町)
箕郷町では椿山が現箕輪小学校の校庭(椿名沼)の南東に
 あった。椿山には法華寺・津波岐那神社(←椿山)が
 あった。
※椿町・・・高崎の旧城からみて、東北方に位置している町で、
  北は山田町、西は本町、南から東は九蔵町となっている。
●『高崎寿奈子』
 「城主井伊直政が、箕輪から高崎へ城を移すに際し、箕輪城
 の鬼門除けであった椿山権現を、新しい城の東北方にしよう
 と、「椿町」の町割りをし、地取りをした。
・慶長5年(1600) 関ヶ原の合戦
従軍し、戦後は、西軍ににらみをきかせるため、
近江国佐和山城主となった。
  椿町は、社殿を移さずじまいになった。」
 というふうに記されている。
※坂和

C鞘町


D新紺屋町


E鍛冶町
箕郷町では、東向八幡社の南東地区に当たる。
 私の従兄弟の家も含まれている。


F本紺屋町
箕郷町では、箕郷群銀支店・現金屋・光徳寺
長島靴店・・・・松山寺・・
 侍大将の「町田一族のここにいたと末裔からうかがった。
間に井野川が流れている。


G磬撃町



【4】最盛期の高崎城下町
H白銀町
 江戸時代には、高崎宿の問屋場が白銀町入り口近くにあった。
 『高崎寿奈子』・・・問屋場は
 「当国第一繁昌の大市なり、商売物造酒屋、酢醤油屋、呉服、
  絹綿、太物、穀問屋、肴問屋、小間物問屋、鋳物、其他品
  々卸、小売見世」とある。
  「お江戸見たけりゃ高崎田町」
 といわれたように、商店が建ち並び、買物客などで大変なにぎ
 わいをみせていた町であったことが伝えられている。

・享保8年(1723)
京都高麗屋島田善左衛門の支店「袋屋」が開店。
使用人は100人余といわれるほどであった。
幕府公許で東日本元締の江戸の秤屋:守随彦太郎の出店、
  三井出店、
 近江商人市田孫兵衛出店、越後米、信州米を扱う穀物問屋
 などがあった。

・宝暦2年(1752) 島屋佐右衛門が企業した。
中里見家の子孫の起業であった。親戚ははここの重役に
なっていた。本家のとみちゃんが重役だった。
村の友達の中ちゃん・・里見義成4男系列・・
農大二校の吹奏楽:樋口君も子孫か?

・宝暦4年(1754)京屋弥兵衛の飛脚問屋の出店もできた。
・明治4年(1872) 合併
・明治5年(1873) 陸運会社
・明治8年(1876) 通運会社となった。


〜〜〜箕輪初心〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
箕輪初心●群馬の城「和田城→高崎城」
http://53922401.at.webry.info/201012/article_16.html
http://s.webry.info/sp/53922401.at.webry.info/201012/article_16.html

◆◆ 箕輪初心●箕輪城「井伊直政」 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201010/article_40.html

http://53922401.at.webry.info/201011/article_25.html

◆◆ 箕輪初心●井の国千年物語前編 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201212/article_3.html

◆◆ 箕輪初心●井の国後編:「井伊直政」 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201212/article_4.html

◆◆ 箕輪初心●井伊直政の箕輪城時代の家臣団 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201212/article_15.html

◆◆ 箕輪初心●静岡:井伊直政の井伊谷城 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201212/article_5.html

◆◆ 箕輪初心●井伊直政の造った町:高崎&彦根 ◆◆
高崎高校 VS 近江高校
http://53922401.at.webry.info/201203/article_28.html

◆◆ 箕輪初心●中村達夫氏の「井伊軍志」 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201212/article_14.html

◆◆ 箕輪初心●小和田哲夫氏の「井伊直政」 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201212/article_13.html

箕輪初心★箕輪城103川野辺寛「高崎誌」&井伊直政
http://53922401.at.webry.info/201310/article_8.html

〜〜〜〜箕輪初心〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
【1】川野辺寛 「高崎誌」の中の高崎
@井伊直政のつけた「高崎」の名の云われ。
「和田の地も箕輪に属す、慶長3年戊戌、中山道を開かれしに及びて
和田の緊要の地なればとて、直政の仰せ、城を築きしめてこれを賜ふ、
この時、直政地名を更め、松か崎と云わんと、竜広寺の住持持白あん
に語られしに、白あん曰く『尤も然るべく候、去ながら、諸木の栄枯
の時あり、物に■のあることはめつらしからすと候、公既に命を奉て
此城を築き玉へるは、所謂盛事大名也、されは成功高大に義に取て、
高崎とし玉はんはいかか(いかが)』と云ふけえは、直政大に悦びて
『高崎』となつけられ、且つ「高崎」の二字をもって竜広寺の山号
となすへきよしを命せらる、
里老の説に恵徳寺の開山英たん?なりと伝へたるは■誤也、今竜広
寺の古記に従ふ、又一説に直政命を奉て松枝(松井田)、安中、和田、
倉賀野の地を検するに、決定したかなりし故、試に鷹を放て此其集
る所を城地と定むへしとて、一もとの鷹を放さる、其鷹飛て今の本
城に地にとどまる。因て其地に定て鷹野城と名つけらる、後高崎と
改む、

A高崎の町
連雀町は、初箕輪にあり、慶長3年戊戌箕輪より此に移る、箕輪に
於て大手門前に在し町なるを以て此に移りても、亦城主より命じて
大手門前に置、旧名を不更と云、田町は、連雀町より北に続けり、
是も慶長3年此地に徒る、箕輪にては田宿と名つく、・・・」

@城下町は、城の大手前から東に延びる道=慈光通りを中心に町割
 が行なわれた。大手前に箕輪から移した連雀町を配した。
 慈光通りに直角に結ばれる横道を配した町割を行なった。
家臣団(約5000の武士団の家族/工業系の職人/商家/民家)
関ヶ原の戦いには、5000人の兵がいた。家族や町人を想定すると、
 23000人〜25000人いた。
 高崎には1000人程度の家臣の住居+4000人程度の部下が集まる
 居城+寺などが必要であった。
・箕輪から町家や社寺を移築。高崎城と城下町が誕生。
@11の寺+3寺・・石上寺(現在はない)・正法寺(現在妙福寺)
  ・慈上寺(長野業政時代の修験道の寺)・大雲寺
  ・法華寺・慧徳寺・安国寺・大信寺(徳川忠長の墓)・金剛寺
  ・龍広寺・延養寺
A5の神社・・・津波岐那神社(←椿山)・布留明神(←石上寺)
       ・八幡宮(←真応寺)・上諏訪神社・下諏訪神社

*箕郷には東明屋・西明屋の町名があるが、「空き屋」が転化した
 呼び名では?

B地名を高崎と改名。・・・箕輪の龍門寺白あん和尚のアドバイス。
※町名・・・・・・連雀町・田町・紺屋町・鍛治町
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箕輪初心★高崎藩2代酒井家次→3代松平戸田康長→4代松平信吉
http://53922401.at.webry.info/201310/article_10.html

箕輪初心★高崎藩5〜7代安藤3人&徳川忠長
http://53922401.at.webry.info/201310/article_13.html

箕輪初心★高崎藩8代・10代松平輝貞&「右京の泣き堀」
http://53922401.at.webry.info/201310/article_14.html

箕輪初心★高崎藩9代:間部詮房(あきふさ)=正徳の治
http://53922401.at.webry.info/201310/article_15.html

箕輪初心★高崎藩主11代〜18代:松平家
http://53922401.at.webry.info/201310/article_16.html

箕輪初心■東京&群馬:小栗上野介C「権田村での隠遁生活」
http://53922401.at.webry.info/201107/article_1.html

箕輪初心◆水戸天狗党3−1『水戸〜下仁田戦争直前』
http://53922401.at.webry.info/201303/article_25.html

箕輪初心◆水戸天狗党3の2『下仁田戦争の詳細編』
http://53922401.at.webry.info/201303/article_26.html

箕輪初心★高崎藩最後の藩主19代:松平大河内輝聲
(てるな)
http://53922401.at.webry.info/201310/article_17.html


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【2】発掘調査と出土品
※秋本先生・・・H25年まで22回の調査
15連隊の設置で遺構は改変された。溝は残存。
@堀・・19次調査
 箕輪城本丸堀・・幅40m、深さは当時20m 
 高崎城本丸堀・・上幅23.8m、下幅5.8m、深さ8m
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A障子堀・・秋本先生「北条氏だけではない。」
  箕輪城・・・大堀切の8段畝堀のみ。
高崎城・・・(畝堀の進化形の)障子堀
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B石樋・・・
箕輪城・・なし
 高崎城・・堀と堀を結ぶ石垣水路・・・天明3年以降に
石樋に変更した。
C石垣
箕輪城・・・橋台2ヶ所、三の丸門、三の丸石垣4m、
鍛冶曲輪の門の石垣、大堀切りの土の中の
7つの石垣
高崎城・・・「御門御櫓両刎橋武者雪隠図」での虎口石垣
→発掘で野面積みと判明。井伊の時代か?
D出土異物
箕輪城・・・楽焼=豊臣秀吉から拝領か?
高崎城・・・鍋島焼・家紋瓦・一部金など
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【3】箕輪城から高崎城への移築
 「高崎志」・・・「槻門(つきのきもん)は箕輪城の大手門
 他築城の時此(高崎城)に移す・・」
※秋本先生
箕輪城槻門・・・丸戸張りの先にあった。
高崎城槻門・・・箕輪城の2倍の幅の門
箕輪城の部材を利用して建築した。
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 (★高崎歴史民俗資料館所蔵)



【4】箕輪城廃城後の城下町
@西明屋・・・井伊氏の支配下だが、不明
  ・承応年間(1652~1654)安中水野氏・・・・・
・天和2年(1682)安房勝山藩酒井忠国の飛び地
元長野氏家老:下田氏が代官=白川陣屋

 A東明屋・・・
分裂分断支配が続いた。

B白川・和田山・西明屋・富岡・・・箕郷分
  白岩・高浜・本郷・・・榛名分
安房勝山藩酒井忠国の飛び地であった。

C箕輪城のその後
「山吹日記」(群馬県史資料第6巻)

箕輪初心★奈佐勝皐(かつたか)『山吹日記』武蔵・上野・下野旅行
http://53922401.at.webry.info/201405/article_34.html

箕輪初心★箕輪城126【奈佐勝皐の「山吹日記」の箕輪城】
http://53922401.at.webry.info/201404/article_28.html

箕輪初心★『塙保己一』と【「群書類従」の箕輪城】
http://53922401.at.webry.info/201405/article_33.html




【5】高崎城歴代城主の功績・特色

箕輪初心★箕輪城103川野辺寛「高崎誌」&井伊直政
http://53922401.at.webry.info/201310/article_8.html


箕輪初心★高崎藩2代酒井家次→3代松平戸田康長→
4代松平信吉
http://53922401.at.webry.info/201310/article_10.html

箕輪初心★高崎藩5〜7代安藤3人&徳川忠長
http://53922401.at.webry.info/201310/article_13.html


箕輪初心★高崎藩8代・10代松平輝貞&「右京の泣き堀」
http://53922401.at.webry.info/201310/article_14.html

箕輪初心★高崎藩9代:間部詮房(あきふさ)=正徳の治
http://53922401.at.webry.info/201310/article_15.html

箕輪初心★高崎藩8代・10代松平輝貞&「右京の泣き堀」
http://53922401.at.webry.info/201310/article_14.html

箕輪初心★高崎藩主11代〜18代:松平家
http://53922401.at.webry.info/201310/article_16.html

箕輪初心★高崎藩最後の藩主19代:松平大河内輝聲(てるな)
http://53922401.at.webry.info/201310/article_17.html


【6】明治時代の高崎城
@明治3年(1671)・・・高崎城塀・櫓など取り払い願書
A明治5年   
    陸軍省から高崎城塀・櫓など6ヶ所が払い下げられた。
50両・・大工町の福島大恤カ五郎に・・・
648両3分2朱・・内堀を埋める工事は福嶋村の大嶋
 文五郎が・・・
さらに、陸軍省から、赤坂御門、・・・11棟が
 
565両3分2朱77文・・立木の売却
B明治7年
三の丸住居が立ち退いた。
櫓4棟、大手門、他3〜4棟が払い下げられた。
内1つは矢島八郎が買った。
 (★「柴田日記」)   
・・・・・・・など
 ※昭和51年 下小鳥の名主:梅山宅(私の祖父妹嫁ぎ先)
  から高崎城東門・乾櫓が移築された。
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★秋本太郎先生、ありがとうございました。


上野4:箕輪城
http://www.hansu.sakura.ne.jp/gunma4.html



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