城・陶芸・ハイキング・ダイビング・スキー・旅行

アクセスカウンタ

zoom RSS 箕輪初心▲埼玉秩父:「長尾景春の乱&逃走」

<<   作成日時 : 2014/10/03 06:40   >>

ブログ気持玉 0 / トラックバック 0 / コメント 0

・文明8年(1476) 長尾景春は武蔵国:鉢形城を築城した。
その後、長尾景春は一端は熊谷の西城城→東城に避難。
・文明12年(1480) 7月長尾景春は従兄弟:太田道灌に
鉢形城を追われた。鉢形城→奥秩父へ逃走した。長尾景
春の逃走ルートは、おそらくは鉢形城(寄居町)〜長尾城
(秩父市)〜高松城(皆野町)〜日尾城(小鹿野町)〜塩沢城
(両神村)〜熊倉城(秩父市)という周遊コースであろう。
日野城=熊倉城(秩父市)が事実上の太田道灌との秩父で
の最終決戦の場となったのであろう。長尾景春は日野城
(熊倉城)落城を最後に古河公方:足利成氏の下へ逃げ
去ったらしい。きっと、長尾景春は上杉顕定&太田道灌に
恨みを抱き、逃げ回ったのだろう。
画像








【0】長尾景春の秩父の城築
・文明8年(1476) 長尾景春は武蔵国:鉢形城を築城した。

  古河公方:足利成氏側に立って上杉顕定に復讐をし
 始めた。
 長尾景春は、おそらくは太田道灌との攻防戦が展開される前
 に、白井長尾氏の所領である秩父郡内に長尾城・高松城・
 日尾城・塩沢城・熊倉城を築城し、守りを固めたので
 あろう。
**************************************************
箕輪初心★長尾景春:関東下克上で従兄弟:太田道灌と交戦
http://53922401.at.webry.info/201311/article_31.html
***************************************************
箕輪初心●『鉢形城の歴史詳細』&47回寄居北條まつり2008
http://s.webry.info/sp/53922401.at.webry.info/201305/article_15.html
箕輪初心◆埼玉『第52回寄居北條まつり2013鉢形城』
http://53922401.at.webry.info/201305/article_14.html
箕輪初心●埼玉:鉢形城4回目:外曲輪〜三の曲輪〜
二の曲輪〜本曲輪
http://53922401.at.webry.info/201311/article_30.html
**************************************************
・文明9年(1477)
1月 長尾景春は2500騎を率いて五十子陣を急襲した。

  上杉顕定と上杉定正は大敗を喫して敗走した。
  18年に渡り、対古河公方戦の最大の防御拠点だった
  五十子陣は景春の僅かな兵によって落とされてしまった。
  上杉顕定と上杉定正は上野平井城にへ逃れた。

 4月 長尾景春は五十子を出陣して利根川を渡った。

箕輪初心○埼玉【五十子(いかっこ)の陣&五十子の戦い】
http://53922401.at.webry.info/201405/article_27.html

鉢谷原の戦い
   長尾景春 VS 上杉顕定と定正
長尾景春が撃退された。
  
 5月 太田道灌は上杉顕定・定正と合流して五十子を奪回。

  用土原の戦い
  太田道灌 VS 長尾景春
  太田道灌が長尾景春を撃破。
   鉢形城を囲んだ。
  
  足利成氏が8000騎を率いて古河から出陣したため
  太田軍は撤兵を余儀なくされた。

 太田道灌は長尾景春の本拠である上野:子持城へ侵攻。
箕輪初心●群馬渋川【白井城】=上杉謙信の同族の城
http://53922401.at.webry.info/201204/article_14.html

  塩売原(吉岡町?)の戦い
 1カ月間対陣した。
  11月に双方撤兵した。

・文明10年(1478)
正月 古河公方:足利成氏は上杉顕定と和睦し、成田に
    陣を引いた。
箕輪初心●埼玉熊谷『成田氏館』&行田『忍城』
http://53922401.at.webry.info/201409/article_8.html
 
 7月 古河公方:足利成氏は古河に帰った。

   この頃までには、 成田氏が忍城を築城された。

・文明11年(1479)
9月 長尾景春は一時、長井城(=妻沼西城城)に入った。
画像

箕輪初心▲埼玉熊谷旧妻沼【西城城】=成田氏→斉藤氏→長井氏
http://53922401.at.webry.info/201409/article_2.html
    太田道灌は久下(熊谷市久下)に出陣し、成田氏を
    救援した。

・文明12年(1480)
1月 太田道灌が長井城(=妻沼西城城)を攻略した。
画像

長尾景春は東城にいたが、ここから、鉢形城に
向かった。
箕輪初心▲熊谷上須久八幡神社&善ヶ島【東城】:幻の城砦発見
http://53922401.at.webry.info/201409/article_3.html


【1】鉢形城(寄居町)
・文明12年(1480) 7月長尾景春が従兄弟:太田道灌に鉢形城を
  追われた。鉢形城には上杉顕定が入城した。

長尾景春の逃走ルートは、長尾城〜高松城〜日尾城〜塩沢城
 〜熊倉城〜長尾城と言われているが、諸説ある。
 いずれにしても、太田道灌に鉢形城・日尾城を攻め落とされた
 ことは事実のようである。
 
◆◆ 長尾景春、秩父逃走伝説検証 ◆◆
★凄いので、参考にさせていただきました。
http://hya34.sakura.ne.jp/titibu/siozawazyou/kageharutousou.html


【2】長尾城(秩父市)
画像

箕輪初心▲埼玉秩父【長尾城=瑞岩寺城】:長尾景春の城
http://53922401.at.webry.info/201410/article_2.html

・文明10年(1478) 長尾景春が従兄弟:太田道灌に鉢形城を
  追われた。
説・・【息子:烏坊丸は妻女27人を連れて黒谷の地に隠棲し、
  父のために瑞岩寺を開基したという。】
  (★『鉢形城落哀史』)。
長尾景春の息子:烏坊丸の居城であった。
 ★長尾景春が死んだことになっているので間違いである。
 長尾景春が、瑞岩寺に逃げ込んだところを生け捕られ
 たというのは間違っている。長尾景春は逃げ延びて、古河城に
 入ったからである。
 ★となると既に、長尾城は築城されていたことになる。
長尾城は瑞岩寺という古刹の裏山にある。瑞岩寺が白井長尾
 家の屋敷であった。と考える方がよいであろう。
 裏山へ続く道を登れば、すぐに山頂に着く。細長い尾根の西
 端は秩父街道を見下ろす絶好の場所である。城というより、
 街道監視所・見張り台・烽火台といった方が適している。ここ
 での籠城戦はあり得ない。


【3】高松城・・皆野町日野沢字高松
※伝承・・「小地名龍ケ谷と云、山は古城跡ありて其麓を根小屋
 と云、長尾氏の住しは舷にて文明12年(1480)6月24日長尾
 景春入道伊玄が守処の秩父日野要害没落とあるも日野は日野
 沢にて此所なるべし」
  (★『北武蔵名跡志』)
 ★高松城が日野城であるとしているが誤りである。
  日野城は=熊倉城である。
 長尾景春の拠点の伝承があるが、小鹿野の日尾城→両神の
 塩沢城→日野の熊倉城に行く逃走コースの可能性が高い。


【4】日尾城(小鹿野町)
画像

日尾城と長尾景春のつながりが明確ではない。
しかし、秩父に逃げ込んだ城の一つとして記録に出てくる。
もちろん、どんな攻防があったかも不明である。

・文明12年(1480)
6月 長尾景春の最後の拠点:日尾城(埼玉県秩父市)を
  太田道灌に攻め落とされた。
  長尾景春は足利成氏を頼って落ち延びた。 
古河公方:足利成氏と長尾景春は、室町幕府に「両上杉家」
 との「和睦」調停を申し出た。
足利幕府の命により、「両上杉家」と「古河公方」の対立&
「長尾景春の乱」は、和睦で、一応終焉することになった。
※坂東31番札所の奧の山である。
画像



【5】塩沢城(両神村)
※伝承・・【長尾景春は塩沢城に籠城、そこへ太田道灌の軍勢
 が城を包囲した。薄の地頭:小沢左近と小森の地頭:嶋村
 近江守が手勢の兵を引き連れ、大谷の沢より夜討を掛けて
 落城させた。長尾景春は日野の熊倉城へと逃げ込んだ。
 逃走中、長尾景春の家臣:深井対馬守が殿を勤め、石上の
 切り所で防戦し、深手をおって自害した。】
 ★在地土豪らが夜討ちを仕掛けた。ということは、長尾景
 春の所領のなかで、太田道灌に寝返る者が出てきたことを
 意味する。
★塩沢城には登っていない。両神山には2回登った。
 塩沢城は登城を始めて40分程かかるそうである。
 最初の郭に出る。さらに登ると、途中、土塁状の土盛が
 ある。やや傾斜のある削平地が何段か過ぎると本郭に出る。
 最終拠点ではないかという推論もあるが、・・行ってない
 のでまるっきり分かんない。
 

【6】熊倉城=日野城(秩父市)
※伝承・・【長尾意玄入道景春は熊倉城に籠城、甲州勢?に
 熊倉城を攻め落とされ、黒谷の瑞石寺岩窟で自害する。」
 (★新編武蔵風土記)
※推測・・【熊倉城には井戸がなく籠城中に馬の背に白米をかけて水
 があるように見せかけて谷間の川まで水を汲みに行った
 所を道灌の兵に見つかり水を断たれ落城した。」
 (★埼玉県史・秩父市史)
 ※群馬の一郷山城伝説・長野の砥石城伝説など多数。
※伝承・・【太田道灌に熊倉城を攻められた長尾景春は秩父郡
 へと逃走・・・。】
★先に熊倉城→日尾城となる。
★長尾景春は塩沢城を太田道灌に落とされ熊倉城へ籠城した。
奥秩父は白井長尾氏の知行地であったので長尾景春に味方す
る武士も多数いたと思われるが、この時点では大半が太田道
灌方へ付いたであろう。熊倉城に籠城する兵力はほんのわず
かであったと考えられる。長尾景春と逃げ込んだ人数は2〜
300人位かなあ。いや50人もいなかったかもしれない。
※長尾景春の足跡が残る秩父の城の中でも、最も工夫された
城である。熊倉城は遺構がほぼ完全に残っている。北条時代
の遺構かもしれないが・・・
長尾景春は東からの上杉顕定&太田道灌を意識せざるを得な
かったのである。
熊倉城が簡単に落城し、長尾景春は逃走したのであろう。
日野城(熊倉城)落城を最後に古河公方足利成氏の下へ
逃げ去った。



【7】長尾城(秩父市)
※伝承・・【文明12年(1480) 長井城を攻め落とされた長尾景
 春は熊倉城に籠城、太田道灌に攻められ黒谷の瑞石寺へ妻子
 27人と共に逃げ込み、生け捕られて自害させられる。】
 ★しかし、長尾景春が、瑞岩寺に逃げ込んだところを生け捕
 られたというのには、疑問が湧いている。長尾景春は逃げ延
 びて、古河城に入ったからである。
長尾城築城・瑞岩寺の開基の年代が14年以上ずれて
  いる計算になる。基本が城が先で、寺が後である。



【●】日野城の決戦の後・・・
古河公方:足利成氏と長尾景春は、室町幕府に「両上杉家」
 との「和睦」調停を申し出た。
足利幕府の命により、「両上杉家」と「古河公方」の対立&
「長尾景春の叛乱」は、和睦で、終焉することになった。


〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

・文明14年(1482) 11月27日(1483年1月6日)
足利成氏と両上杉家との間で和議が成立。
 足利成氏は幕府から赦免された。

※30年にも及んだ享徳の乱は終結した。
 上杉顕定&上杉定正は対立したままだった。

・文明18年(1486) 太田道灌が殺害。
  太田道灌は、群を抜く大きな江戸城:扇谷の石垣修理しよう
  とした。
  主君の扇谷上杉定正は「謀反だ。」と思った。
  そこで、扇谷上杉定正は糟屋邸
  (相模国糟屋現:神奈川県伊勢原市)に誘い出し、殺害。
  ※扇谷家の台頭を恐れた山内家の策略だと言う学者・研究者や
   子孫の方もいる。

  大田道灌暗殺により、大田道灌の子:資康や扇谷上杉家に
  付いていた国人衆の多くが山内家へ走った。

  長尾景春も上杉定正に加担して、山内:上杉顕定と戦うこ
  とになった。

・長享元年(1487)  長享の乱が勃発
  山内上杉顕定と扇谷上杉定正は決裂した。
  「長享の乱」の抗争へと広がっていった。

・長享2年(1488)
両者の抗争は本格化した。
  「関東三戦」
 @実蒔原の合戦
 A須賀谷の合戦(比企郡嵐山町)
 B高見原の合戦(比企郡小川町)
  当初は上杉顕定は上杉定正に押されるが、抗争が長期化
  するにつれて、上杉顕定が次第に有利に立った。
 ★ぐちゃぐちゃの対戦になった
 足利成氏&長尾景春は扇谷上杉定正の陣へ参陣した。
 太田道灌の子:資康は山内上杉顕定に加勢した。
 父を殺されたから当然である。
 敵味方が入り乱れての合戦となった。
 この合戦以後、長尾景春は扇谷方に味方しちゃったので
 ある。管領山内上杉顕定とはずうっと対立関係になった。



・明応2年(1493) 伊勢宗瑞=北条早雲の伊豆侵攻。

・明応3年(1494) 両上杉氏の抗争が再発。
  上杉定正は伊勢宗瑞軍を相模・武蔵へ招き入れた。

  上杉定正が急死した。
  伊勢軍は撤退した。

  古河公方は一転して山内家方となっていた。

・明応3年(1494) 上杉顕定は東国における「古河公方&
  管領体制」の再構築を図っていた。
  特に足利政氏の弟を上杉顕実として養子として迎えた。
  密接な関係を築いた。
  上杉顕実は上杉憲房を差し置いて、上杉顕定の正統な
  家督後継者に据えられたと考えられる。
(★久保田順一先生の講演会)
  
・明応5年(1496) 上杉顕定の軍勢は相模国に進攻した。
 7月 宗瑞の弟:伊勢弥二郎の籠城する小田原城を
    攻略した。
   結果・・相模の西郡は「一変」した。

   東郡へ軍勢を進めた。
   扇谷上杉定正の跡を継いだ上杉朝良の出陣を受けて
   河越に軍を進めた。
伊勢新九朗宗瑞(北条早雲)が扇谷朝良&長尾景春
   の連合軍に参戦した。

・明応6年(1497) 上杉顕定は河越城に対する前線基地
   として武蔵上戸(現河越館跡)に陣を置いた。
   古河公方:足利政氏を招いた。
   足利政氏は数ヶ月の在陣の後に古河へ帰還した。
  上戸陣は7年にわたり山内上杉家の陣所として機能
  した。

・永正元年(1504) 立河原の戦い
駿河守護:今川氏親&伊勢宗瑞(北条早雲)
  VS
   扇谷上杉朝良
結果・・・上杉朝良 2,000人余りの死者を出して大敗。
北条早雲は上杉顕定と対陣し此れを破ります、
  しかし、越後上杉家の援軍を受けて反撃に転じた。


・永正2年(1505) 山内上杉顕定と扇谷上杉朝良は和睦した。
 今川&北条が上杉朝良の河越城を攻撃。
  結果・・・上杉朝良が降伏。朝良の江戸隠居を条件に
  和睦した。
  今川&北条は長享の乱で事実上の勝利宣言といえる。


・永正2年(1505) 長尾景春は上野国に戻って白井城に入った。
長尾景春は白井長尾氏の旧本拠地である白井城へ帰
  れた。しか〜し、
 上杉顕定の養子:憲房に攻められて白井城は落城した。

 長尾景春は柏原城(★群馬県東吾妻町)に逃亡した。
 長尾景春は引き続き、上杉顕定に対抗した。
箕輪初心●群馬:東吾妻【金原城】&【柏原城】&『荒巻一族』
http://53922401.at.webry.info/201202/article_14.html


・永正4年(1507) 関東管領山内上杉顕定の弟で、越後守護
:上杉房能が、守護代:長尾為景(上杉謙信の父)に
八海山の麓で殺害された。

・永正5年(1508)越後守護:上杉房能(ふさよし)が
守護代:長尾為景(上杉謙信の父)に八海山の麓で
殺された。長尾為景が佐渡の娘婿:本間氏の援助を
受けたのである
・・・関東管領:山内上杉顕定が越後に出兵した。

・永正5年(1508)北条早雲は越後栖吉城:長尾為景
 &武蔵:鉢形城:長尾景春(伊玄)と結んでいたため、
 これを契機として両上杉氏に反旗を翻した。

  上杉顕定は弟:房能の仇討ちを大義名分と
  して越後国に攻め入った。
  上杉顕定軍は越後府内(現上越市)を制圧した。

  しかし、上杉顕定の越後統治は国人の反発を受けた。


・永正6年(1509)
7月、古河公方の内乱を収めた。
  上杉顕定は養子:憲房と共に越後に攻め入った。
  上杉顕定は長尾為景(上杉謙信の父)に殺された越後の
  弟の弔い合戦のために、越後上田庄(新潟県六日町)に
  遠征し、長尾為景を府内(上越市)に退却させた。

  長尾為景(上杉謙信の父)と上杉定実を越中国(富山)
  に追放した。
  越後守護上杉家から上杉宗家の地位を奪還する意図
  があったと考えられている。

〜〜〜〜〜島田宗長の『東路の津登』〜〜〜〜
・永正6年(1509) 『東路の津登』
 (★『群書類従』・・・宗長『東路の津登』より)
「永正6年(1509)7月16日、白川の関を訪ねんと、丸子より
 出立。」
※出発は永正六年文月十六日とある。

 
●鉢形(埼玉県大里郡寄居町鉢形)
長尾孫太郎顯方の舘はちがた(埼玉県大里郡寄居町鉢形)と
いふ處につきぬ。政定馬上ながらくちずさびに。
  むさし野の 露のかきりは 分もみつ
秋の風をは しら川の關
この比。越後の國鉾楯により。
 武藏上野の侍進發のこと有て。
いづこもしづかならざりしかば。ひと夜有て。

**************************************************
箕輪初心★長尾景春:関東下克上で従兄弟:太田道灌と交戦
http://53922401.at.webry.info/201311/article_31.html
***************************************************
箕輪初心●『鉢形城の歴史詳細』&47回寄居北條まつり2008
http://s.webry.info/sp/53922401.at.webry.info/201305/article_15.html
箕輪初心◆埼玉『第52回寄居北條まつり2013鉢形城』
http://53922401.at.webry.info/201305/article_14.html
箕輪初心●埼玉:鉢形城4回目:外曲輪〜三の曲輪
〜二の曲輪〜本曲輪
http://53922401.at.webry.info/201311/article_30.html
**************************************************
★となると、長尾孫太郎顯方は鉢形城を築城した長尾景春
 の家系ではなく、上杉顕定に重用された長尾景春の叔父
 の系統ということになるのはないだろうか。
★いずれにしても上杉顕定の守護代として、長尾孫太郎顕方
 は鉢形に残っていたことになる。扇ガ谷上杉定正と対立し
 ていたからである。顕方の「顕」は上杉顕定から一字を
 貰ったのであろう。
●長井(埼玉県大里郡妻沼町)
〜〜〜〜利根川〜〜〜〜〜〜〜〜
●新田庄(群馬県新田郡)
●下野の足利庄●佐野  ●室の八幡(栃木市)  
●鹿沼●日光●鹿沼●佐野●足利
●新田之庄●太田●大胡(前橋市大胡)
9月〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
●青柳(前橋市青柳)●荒蒔(前橋市荒牧)
●浜河(高崎市浜川町)
「松田加賀守・・重陽(旧暦9月9日)の連歌会」
宗長は松田加賀守とは文通していた。
●大戸(東吾妻町)
●草津・・10日間滞在した。
●大戸
9月25日
●板鼻か後閑(安中市)
「きのふけふ(昨日今日)ふわけ出侍る。山中前後左右の
紅葉の興計なるべし。過諄九月廿五日、太守佳例の
法楽の連歌 依田中務少輔泊にして、
 菊さきて あらそふ秋の 花もなし 
 規懐紙を越後の陣へとなん。はま川並松別当(★古い字)
 にして
色かへぬ 松はくれ行 秋もなし 」

★依田中務少輔(しょうゆう)光幸の宿所で  
太守=上杉顕定主催の「法楽の連歌」に参加した。
連歌は越後上杉顕定の陣(新潟県六日町?)に送られた。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜



・やがて伊勢宗瑞(北条早雲)が関東に進出してきた。
 武蔵の権現山城(神奈川県鶴見)まで侵攻した。


・永正7年(1510)6月権現山の戦い
 北条早雲は、扇谷上杉朝良の被官:上田政盛を早雲側に
 寝返らせた。
 上田政盛が権現山で蜂起させた。
 北条早雲は、平塚の住吉城で呼応し、扇谷上杉領を脅か
す打ち込む形をとった。

 ところが、扇谷上杉朝良は今まで対立していた山内上杉
 顕定の養子憲房と和解する。
上杉顕定は武蔵に引き返した。
 
 そして両上杉氏は2万余の軍で、権現山城を包囲した。
7月19日、10日余の激戦・・・
両上杉氏は権現山城を落とした。
権現山城に籠もった上田蔵人政盛は
「本覚寺の地蔵堂をば根城に拵らへた」とある。
本覚寺山の根城は、藤田虎寿丸により攻め落とされた。

 ・伊勢宗瑞(北条早雲)は小田原城まで撤退した。

 そして、上杉顕定は再び、長尾為景を討つため越後に
 行った。 

・伊勢宗瑞(北条早雲)は三浦半島の制圧した。
やがて、権現山城を攻略した。多米周防守が
城将となった。
*****************************************************
箕輪初心●神奈川:【青木城】&神奈川宿
http://53922401.at.webry.info/201210/article_10.html
*****************************************************

・永正7年(1510) 長者原(新潟県六日町)の戦い
  長尾為景は佐渡の本間一族(娘婿)の力をかり、
  長者ヶ原で上杉顕定を攻撃した。
  上杉顕定は長野為景の信濃の援軍:高梨政盛に敗北
  し、自刃。享年57歳。

※越後(現六日町八海山麓)の管領塚

★上杉顕定はなんと、長尾景春の同族で越後守護代:長
 尾為景(上杉謙信の父)と戦って戦死してしまったのだ。
**************************************************
箕輪初心◆2013群県博:新潟県「上杉氏」関興寺・瀧澤寺
・雲洞庵・坂戸城・管領塚
http://53922401.at.webry.info/201310/article_21.html

箕輪初心◆2013年スキーbP【宝台樹スキー】&【水上石倉城】
http://53922401.at.webry.info/201301/article_5.html

箕輪初心★本間家の歴史;佐渡本間→酒田本間家日本一の地主へ
http://s.webry.info/sp/53922401.at.webry.info/201307/article_20.html
**********************************************

上杉顕定死後、上杉顕実が関東管領を継いだ。
  越後から帰還した上杉憲房VS 上杉顕実(足利政氏の子)
  結果・・・山内家の衰退に繋がった。

 長尾景春は白井城を奪還した。
 ★ようやく、白井長尾氏再興の願いが叶ったのである。

 長尾景春は伊勢宗瑞(北条早雲)と同盟を結んで、
 上杉憲房にさらに対抗した。

・永正11年(1514) 8月24日(9月説)長尾景春が死去。
  享年72歳。
文明8年(1476)〜42年に及ぶ長尾景春の闘争劇は
 ここに終演したのであった。あ〜あ、長かった。


 墓は上野国白井(現渋川市旧子持村):空恵寺。
・・・長尾景英が継いだ。妻は長野業政の妹である。

★伊勢宗瑞(北条早雲)は長尾景春のことを
「武略・知略に優れていた武将である。」
と尊敬してたというが、
 「長尾景春&長尾為景は関東管領家:上杉家の没落を推進し、
私の関東進出の足がかりを作ってくれた大恩人。
棚からぼた餅をありがとう。」
といった感じなのであろうか。 ・・・・・

やがて、後北条家3代目:北条氏康によって扇谷家は滅ぼさ
れ、山内上杉家も上野国:平井城を追われることになってい
った。



★明日は?

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
箕輪初心▲埼玉秩父:「長尾景春の乱&逃走」 城・陶芸・ハイキング・ダイビング・スキー・旅行/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる