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zoom RSS 箕輪初心★高崎【高崎英学校で学んだ人物】

<<   作成日時 : 2014/10/17 05:31   >>

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★明治3年(1870)、高崎藩知藩事:大河内輝聲は鞘町に「高崎英学校」
を開校した。高崎城跡に隣接する柳川町の西は高崎藩の上級武士
の屋敷町だった。大河内輝聲の命で50人の藩士が無理矢理に入学
させられた。若き日の内村鑑三や尾崎行雄といった人々が学んだ。
後に彼らは日本や世界を舞台に活躍していった。偉人だらけのような
・・・。
画像







【0】プロローグ
・江戸幕末・・・高崎藩は優秀な人材を求めて「藩校」を設置した。
  松平輝和は「遊芸館」や松平輝声「文武館」を開設した。
  大河内輝聲は西洋の砲術も家老の浅井の反対を押し切って
  推進した。
・慶長2年(1866) 大河内輝聲は内村善次郎を大鳥圭介の英語塾に
 通わせた。
・慶長3年(1867) 銚子の有本毅斎・藤田栄親を横浜に英語を
 習わせに行かせた。
さらに、深井藤弥を大学南高(現東京大学)に行かせた。

・慶応4年=明治元年の小栗上野介忠順の斬首、三国戦争や
 北越戦争への出兵・・・・。

・明治2年の高崎五万石騒動の勃発となった。
  高崎藩には幕末維新の動乱の火種がくすぶり続けた。

・明治3年は高崎藩の台所は火の車だったはずである。



【1】大河内輝聲が「高崎藩英学校」設立&英語教師
・明治3年(1870)、高崎藩知藩事:大河内輝聲は鞘町石上寺に
「高崎藩英学校」開校した。石上寺は、長野氏の鬼門の寺であ
ったが、井伊直政が箕輪から移した。時の鐘があった寺である。
今の電電公社の場所にあった。隣接する柳川町の西は高崎藩
の上級武士の屋敷町だった。高崎ビューホテルの西には、内村
鑑三の父の屋敷もあった。

「 明治三年八月某日静岡藩士作楽戸痴鴬ヲ雇ヒ英学教員ト為シ
仮英学校ヲ檜物町ニ設置ス、因テ士族五十人ヲ選抜シテ以テ
生徒ト為ス知事公モ亦痴鴬ヲ召シテ之ヲ学ブ、 其後チ故有リ
痴鴬ノ雇ヲ解キ士族藤田栄親ヲ英学大助教ニ任ズ、栄親嘗て
藩費ヲ似テ横浜二遊学セル者ナリ、 後チ又、柏原藩士小泉敬
二ヲ雇フ、語学益々行ル、栄親其後チ私塾ヲ銚子二開ク勧徴
舎是ナリ」
(★高崎藩近世史略「幕末維新期動乱の高崎藩」:清水吉二著)
★清水吉二氏は場所を特定していないが・・・・。




【2】英語教師
1)作楽戸痴鶯(さらくど ちおう)=桜田百衞?
「明治3年(1870)8月には高崎藩立の英学校が、静岡藩士作楽戸
痴鴬(さらくど・ちおう)を教師として檜物町に設立された。藩校
文武館とは異なり英語を教授する専門的な藩校である。なお、この
学校は群馬県における初めての英学校であった。
★大河内輝聲は静岡藩士:作楽戸痴鶯静岡藩士を雇ってまで英語を
学ばせたということは、いかに西欧の文化・文明の吸収が急務であ
ったか知っていたのであろう。
6ヶ月の給金は600両であった。・・・★高すぎた。

2)藤田栄親・・・高崎藩士
※英語を習って4年目であった。

3)小泉敬二・・・柏原藩士(兵庫県)
大正2年(1913)発行の「高崎藩近世史略」には、
 小泉敬二の名前がある。
 榎本武陽の艦隊8隻の一つ「美加保丸事件」が難破した。
  美加保丸事件で国元へ戻された郡奉行:土方景尉に代わ
 り、菅谷清允が飯野陣屋に銚子民政総裁として着任した。
  難破したフランス船に乗っていたのはイギリス人のダ
  ラスだった。菅谷清允に頼まれて、清允の養嗣子:菅谷
  正樹・菅谷みさ子(後飯野みさ子) 英語を教え始めた。
  菅谷正樹は、東京へ出たダラスの下でも英語の教えを受
  けた。そこでダラス門下の小泉敬二と出会った。
  ダラスが大学南校(現東京大学)を去り、米沢藩英学校の
  教師として採用された後も、正樹はダラスの家に寄寓し
  て英語を学んた。
 明治4年(1871)菅谷清允は銚子民政総裁の職を勤め上げ、
高崎に戻って高崎藩少参事になった。
小泉敬二が「高崎藩英学校」の教師となるについては、
 菅谷正樹を通じて父:菅谷清允に斡旋を依頼したのであ
 ろう。(★飯野みさ子)

「高崎藩英学校」での小泉敬二は生徒にはなかなか人気があ
 ったようである。
小泉の就任後2、3年で英学校は廃止されてしまった。
その後、三重県伊勢山田の英学校へ移る小泉と共に、転校する
生徒も何人かいたという。

小泉敬二が着任することで「高崎藩英学校」の教職を解かれた
藤田栄親は銚子で私塾「勧徴舎」を開設している。




【3】生徒
「藩士50人を選んで生徒とし、藩主:大河内輝聲も学んだという。
生徒の中には高崎藩士出身で日本を代表するキリスト教思想家の内
村鑑三や、明治から昭和前期にかけての政党政治家で「憲政の神様」
と称えられた尾崎行雄らがいた。
・・・(中略)・・・・
高崎藩英学校は、当初藩士のみを対象としていが、明治政府から高
崎県大参事として派遣された安岡良亮により、藩士以外にも門戸を
開いた。
・・・(中略)・・・・・
高崎藩英学校は明治6、7年には廃校となった。」


生徒は
・明治3年(1670) 高崎藩校助教:長済(長三石)の記録によれば、
69名であった。

1)大河内輝剛:教育者、実業家、衆議院議員、歌舞伎座社長。 
・安政元年(1855)1月16日(11月28日)
高崎藩主:松平輝聴の次男として生まれる。
・明治3年(1870) 高崎英学校に入学。
・明治4年(1871)頃 宮部譲らと共に脱藩し鹿児島に行こうとした。
江戸で藩兵に捕らえられ、高崎の威徳寺に幽閉された。
・明治6年(1873) 慶應義塾に入学。
    その後塾監教師となった。
・明治19年(1886) 広島師範学校校長に任命された。
・明治25年(1892) 日本郵船会社へ勤務。
近藤廉平の代理として大本営の御用を務めた。
・明治29年(1896) イギリス、ドイツなどを視察。
・明治35年(1902) 衆議院議員に当選。
        以後当選2回・・・・。
・明治35年(1906) 歌舞伎座社長となった。
・明治42年(1909)10月9日 死去。勲六等。




2)深井英伍?五:国際金融専門家→第13代日銀総裁。
※歴代日銀総裁で最も経済理論に精通し、金融恐慌時は副総裁として
井上準之助をサポートした」。ぎりぎりのところで日本経済を救った
立役者として知られている。・第13代日本銀行総裁・貴族院議員。
・明治4年(1871) 高崎藩士:深井景忠の5男として高崎市に生まれる。
  父の深井景忠は高崎藩の要職についていたが、深井家は明治維新
  ともに没落していた。
母「ゆひ子」の祖父は菅谷帰雲、外祖父は市川寛斎、叔父は市川
 米庵である。★超頭脳集団家系であった。
・小学生時代・・高崎藩家老→小学校の校長:高崎藩家老:堤辰二の
  勧めにより、英語を勉強することにした。
新体詩や西洋思想・・・
・明治16年(1883) 12歳 私塾「猶興学館」入塾。
  山下善之に英語を学んだ。
・明治17年(1884) 西群馬教会の牧師:星野光多から英語を学んだ。
・明治18年(1885)12月6日 西群馬協会で星野光多の洗礼を受け
て、キリスト教に入信した。
  経済的に恵まれず師範学校進学を断念。
・明治19年(1886) 新島襄がブラウン夫人から託された奨学金の受
   給者に選ばれ、同志社英学校普通科に入学。
  毎月1度、新島襄から手渡しで奨学金を受け取った。
  新島襄と直接話し、新島襄から大きな影響を受けていた。
  新島襄は多忙だったが、手渡しにすることで、深井英五に接する
  時間を自ら作っていたという。★期待していたんだろうね。
・明治23年(1890) 1月23日に新島襄が死亡。
  深井英五は奨学金の件で新島八重の元を訪れた。
  新島八重に、奨学金の継続について尋ねた。
  新島八重は「奨学金のことは襄から聞いています。」
  と言った。
  新島襄の死後も深井英五に学費の援助を続けた。
  ※同志社在学中は抜群の成績であった。
   特に語学力は群を抜いていたという。
同志社には、安部磯雄・徳冨蘆花・山室軍平らがいた。

・明治24年(1891)同志社大学を卒業。
  徳富蘇峰が主宰する国民新聞社に入社。
★徳冨蘆花の兄・・・
  ★新島襄や湯浅治郎の援助で設立された。
★内村鑑三のここに勤めていた。 
 『The Far East』(英文版『国民之友』)の編集を任された。
・明治27年(1894)7月〜から明治28年(1895)3月
日清戦争中に、一時、大本営嘱托を務めた。
日清戦争の取材。
トルストイを訪問。
・明治27年(1896)〜翌年
   徳富蘇峰の欧米巡航に随行して列強の現状を視察した。
・明治32年(1900) 年7月 外報部長
  同誌が廃刊。国民新聞社を退社。
  徳富蘇峰の推薦で大蔵大臣:松方正義の秘書官になった。
 3ヵ月後・・・・松方正義の大蔵大臣辞任により失職。

・明治34年(1901) 松方正義の推薦により日本銀行に入行する。
・明治37年(1904) 〜明治40年(1907)
海外出張の増加。
日露戦争の外債調達のため、 副総裁高橋是清の海外
出張に同行した。
外債募集額は戦費15億円の大半を占めた。
・昭和3年(1928) 日本銀行副総裁に昇格。
・昭和6年(1931) 金輸出再禁止政策が採られ、管理通貨制度に
移行したことにより国内でインフレが進行していった。
  厳しい経済状勢の中、円滑な金融政策の実行に努めた。
★群馬銀行がつぶれないように画策した。

・昭和10年(1935) 第13代総裁に就任。
・昭和11年(1936) 二・二六事件
    後見人:高橋是清が殺害されてしまった。
金融界の動揺を抑えた。
・昭和12年(1937) 軍事費増大による赤字国債の増発
時代の流れに・・・辞職。
     貴族院議員
     枢密顧問官
・昭和20年(1945) 8月15日の枢密院の会議に病躯を押して出席
日本の敗戦を見届けた。
・2ヵ月後に逝去した。


3)新井領一郎
 元駐日アメリカ大使夫人:ハル・松方・ライシャワーさんの
母方の祖父が新井領一郎だった。
「小泉篤の跡を追って、伊勢に行った。」
  (★「絹と武士」ハル著)
  実兄が星野長太郎である。
・12歳 桐生の絹織物業者などに生糸を販売する問屋
    新井系作の養子となる。
・明治3年(1870) 高崎英学校に入学。
・明治7年(1874) 開成学校に入学。
・明治8年(1875) 東京商法講習所(現一橋大学)に入学した。
・明治9年(1876) ニューヨークへ渡って、星野長太郎の製糸所の
     生糸を輸出販売した。
・明治14年(1881) 横浜同伸会社の取締役ニューヨーク支店長に
就任した。





4)長三石:名古屋大学創設に関与
・天保2年(1831) 長玄同の3男として生まれた。
・安政6年(1859) 長崎のポンペ医学伝習所へ入学。
松本良順もいた。
・文久3年(2863) 幕府医学所:長官 松本良順宅に
  居候。
・明治3年(1870) 高崎英学校に居候:準教授のような?。
   高崎藩英学校には少ししかいなかった。
蘭学関係の医学所の教師になった。
・明治4年(1871)名古屋仮病院の教師となった
(名古屋大学の基礎))
 


5)内村鑑三:キリスト教思想家
画像

・途中入学者に、内村善次郎の甥:内村鑑三がいた。
・1861年2月13日
江戸小石川鳶坂上(文京区本郷四丁目)の高崎藩江戸中屋敷で
藩士の父:内村宜之と母:ヤソの長男として生まれた。
維新の変革や父の転勤により、
5歳から8歳、10歳から12歳にかけての幼少期を高崎で過ごした。
・明治3年(1870) 高崎英学校に入学。
高崎英学校で学んだこと、夏に友達とアユやハヤを捕った
 (★¥「嗚呼幸福なりし時よ」)と回想。
1873年、12歳で上京して東京外国語学校に学び、
1877年に札幌農学校(北海道大学)の二期生として入学し、
  水産学を専攻しました。
 「余の天然物の愛は、烏・碓氷両川の天然物の観察を以て
 始まれり」と語っている。
 「青年よ大志を抱け」で知られる初代教頭クラーク博士は
 すでに帰国していました
 キリスト教精神に基づく全人教育の校風は強く残っており、
 同級生の新渡戸稲造らとキリスト教に入信しました。
内村鑑三は「小泉先生に英語を学び、福音に役だった。」
 と言った。

箕輪初心★新島襄周辺『内村鑑三の生涯『&「高崎の内村鑑三の碑」
http://53922401.at.webry.info/201302/article_23.html

6)尾崎行雄:立憲政友会
安岡良亮の秘書・・・大参事にくっついてきた。


7)中村真澄&弟:中村勝弥
 

8)松本亦太郎
   原口鶴子の先生だった。




●)宮部襄(のぼる):広島師範学校長・自由民権家・・・
  ★もしかしたら、謹慎中?


○その後、石上寺に中央小学校の前身である鞘町小学校
 ができた。



◆参考図書
・高崎市史通史編4 近代現代
・「幕末維新期 動乱の高崎藩」:清水吉二



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