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zoom RSS 箕輪初心★高崎:小栗上野介15【小栗上野介忠順の抹殺】

<<   作成日時 : 2014/10/17 05:29   >>

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小栗上野介忠順は私の最も尊敬する人物である。幕末期、徳川幕
府は、幕藩体制の疲弊&欧米列強からの圧力に崩壊寸前であった。
世界一周の旅から帰った小栗は、日本近代化の政策を打ち出した。
造船所建設・株式会社の設立・軍政改革などである。

★しかし、この動乱の時代に、江戸幕府と運命をともにした。
輝かしい功績も、明治政府の「薩長史観」のため、歴史からは、抹
殺された。・・・小栗の残した物の規模が凄すぎる。 勝海舟・坂本
龍馬だけでな く、小栗上野介を正当に評価し、歴史に取り上げる
べきだと思う。日本人の薩長史観から逸脱することが日本の歴史
の正しい歴史の認識になると思っている。
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◆平成26年(2014)5月26日 小栗祭り
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●遺品
※ネジ
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 ★横須賀で、ネジとワイヤーの生産が工業の
  発展に貢献したので、村上先生が展示している。


※童門冬二先生の講演会があった。
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〜〜〜箕輪初心:小栗全集〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

◆◆箕輪初心★小栗上野介@「先祖」 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201106/article_28.html

◆◆箕輪初心★小栗上野介A「遣米使節団」 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201106/article_29.html

◆◆箕輪初心★小栗上野介B「業績と提唱」 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201106/article_30.html

◆◆箕輪初心★小栗上野介C「権田での隠遁生活」 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201107/article_1.html

◆◆箕輪初心★小栗上野介D「ヴェルニー&東郷平八郎」 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201107/article_2.html

◆◆箕輪初心★小栗上野介E「東善寺&村上泰賢先生」 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201108/article_10.html

◆◆箕輪初心★小栗上野介F「道子夫人の会津への逃避行」 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201108/article_11.html

◆◆箕輪初心★小栗G「道子夫人の逃避行と北越戦争&会津戦争」 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201108/article_12.html

◆◆箕輪初心★小栗H「遣米使節VS咸臨丸」の歴史的意義 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201108/article_17.html

◆◆箕輪初心★小栗上野介I「東善寺訪問」 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201109/article_23.html

◆◆箕輪初心★小栗上野介J「佐賀の8人&大隈重信」 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201110/article_23.html

◆◆箕輪初心★小栗上野介K「大隈重信&三野村」 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201205/article_23.html

◆◆箕輪初心★小栗上野介L「名残」=築地 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201210/article_11.html

箕輪初心★小栗上野介M童門氏VS村上泰賢先生TV討論
http://53922401.at.webry.info/201212/article_18.html







◆◆ 小栗上野介の上州権田への移住と抹殺 ◆◆
・慶応 3年 (1867) 10月14日大政奉還が行われた。
 ※西郷隆盛は江戸の放火を命令
    →相良総三など500人が放火・強盗。 

12月25日 ●小栗は薩摩藩邸への焼き討ちを決行
→鳥羽伏見の戦いの火種に発展
★さらに、薩摩の恨みを買った。→倉渕で斬首へ発展。
 ※新田官軍(太田市の平安時代末期の新田一族)の動き
  ・大将・・・・・岩松俊純
  ・副大将・・・大館謙三郎
   新田官軍総帥達は相良総三と懇意で、幕府側:小栗の薩摩藩邸
   襲撃で、山形に敗走。
★新田官軍・相良総三の逃げ延び先は清河八郎の家かもしれない。
 ★勝海舟は相良総三の相棒:益満休之助と昵懇であった。

・慶応 4年 (1868) 42歳
 1月3日 ※鳥羽伏見の戦い・・・旧幕府軍が敗退。
 1月12日  ※徳川慶喜が京都から海路で横浜入り。
 1月15日  異国との抗戦論&薩長根への主戦論を主張→罷免。
※小栗上野介&榎本武揚は主戦論
●小栗の秘策・・「薩長軍を箱根峠で待ち伏せ、
洋式軍隊で攻撃。後続部隊を駿河湾から
新鋭艦8隻で攻撃・・・。」
※勝海舟は薩長に恭順の考え→徳川慶喜も恭順の意
    ●徳川慶喜の袖をつかんで説得した小栗だが→罷免。
※大村益次郎「実行されていたら、我らの首はなかった。」

※勝海舟と西郷隆盛が、江戸の洗足池の勝邸で密談
 西郷「幕府の金はどげんしたのか?」
     勝「わからない。小栗が隠したかもしれん。」
★★→勝海舟の安易な回答が、埋蔵金騒ぎに繋がった。
※江戸城の無血開城

1月28日●小栗・・幕府に、土着願い提出

2月 ●上野彰義隊の渋沢喜作(渋沢栄一従姉妹の訪問
小栗は官軍との交戦依頼を断った。
「大義名文はたたない。もうし群雄割拠なら、・・・」

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
箕輪初心★【渋沢栄一の生涯】:「日本資本主義の父」
http://53922401.at.webry.info/201409/article_14.html

箕輪初心★埼玉深谷【尾高惇忠】初代富岡製糸場長:富岡製糸場6−F
http://53922401.at.webry.info/201409/article_15.html

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

2月22日 徳川慶喜は上野寛永寺に居を移し謹慎の意を
     表した。
    これを機に関東の諸藩は一気に官軍へなびいた。

※「幕府の公金、数十万両を勘定奉行であった小栗上野介が
 持ち出した。」という噂が流れた。
★発信先は勝海舟の曖昧な西郷隆盛への答え方とも言われて
 いる。

〜〜〜高崎新聞〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
「赤城埋葬金伝説」が上州まで広がり、みなが小栗を狙ったの
である。糸井重里氏が進行するテレビ番組で有名となった
「徳川埋蔵金」伝説のルーツがここにある。幕府財政を神業的
にギリギリで凌いできたことにとっては失笑もので、墓の中で
笑っているに違いない。そんな大金が幕末の幕府の御蔵にあれ
ば、小栗も、もっと楽をできたことだろう。
★「徳川埋蔵金」の話を西郷隆盛に伝えたのは、勝海舟であっ
た。・・西郷隆盛がヤクザを使って、扇動させた説もあるにに、
 歴史の本質的なことをかいていないコラムには納得できない。
 馬鹿書いてる高崎新聞は・・・と思うこともある。
 報道陣・人なのに、原因の追及をしない軽々しい意見が気に
 なる。・・たまには、真剣に歴史を調べている人もいるのに。
 私みたいな素人ではない。「高崎新聞」の記者という看板を
 背負っているのに・・・。
 何故、★「徳川埋蔵金」の話が出たのか、ニュースソースや
 本質的な歴史考察が必要であろう。・・・ろくに、勉強してい
 ないのに、素人の私レベルの勉強で、適当なコラムを書くの
 は、控えて欲しい。


●●【権田村での隠遁生活の時代】〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
知行所上野国権田村に移住
   @初代:小栗??・・系図では、徳川家康の祖父の弟?。
   「安詳譜代」・・古くからの譜代で徳川の特権階級
領地・・2500石+200石=2700石 
      上総の稲葉村
下総の五反田村・堀内村・大川村・田辺村
下野の高橋村・大沼田村
上野の倉渕村375石・下斉田村・与六部村
◆東善寺・・5代:小栗政信が現在の地に建立


2月28日 
奉行を罷免された小栗上野介は、住み慣れた駿河台の屋敷
  を出て、上州の権田村(現群馬県高崎市倉渕町権田)へ向
  かった。
  小栗上野介は江戸幕府から帰農許可を得ており、野に下る
  ことを決意していたのである。
 小栗上野介は旗本という身分をあっさりと捨て、帰農を選
  んだ。 
 ★このときの彼の心境をどの理解したらよいのか難しい。
  ここに小栗の人間性を理解する鍵があるのであろうが
  私には理解は難しい。

江戸出発・・桶川泊・・・深谷泊・・高崎泊
(旧暦のままのため) 
  江戸から権田村に同道したのは、妻の道子、母の邦子、 
  養子の又一(またいち)、養女の鉞子(よきこ)の4人と、
  用人や従者、人足たちであった。
※総勢・・家族5人+家臣8人+権田足軽16人


3月 1日  権田村に土着。
      東善寺を仮住まいとして居住。

3月 2日  三ノ倉に暴徒が集結し、騒ぎを起こしているとの通報
     があった。
    隣村である暴徒の大将は長州の浪人・金井壮助といい、
   「世直し」を掲げて近隣の農民を巻き込み気勢をあげていた。
    集まった暴徒の数は2000人に達し、権田村に入った小栗
   を征伐すると息巻いていた。
 
  打ち壊し暴徒博徒:鬼定・鬼権が江戸から追従。
箕輪・金古・引間・有馬・渋川・などを襲撃。
★「徳川の持参金・埋蔵金めあて」だったらしい。
つまり、煽ったのは薩摩藩であろうという説が有力である。

家臣:大井は「500両は預かった。」と鬼定に伝えた。
さて、暴徒を諌めるために小栗上野介は、権田村生まれの
 家臣・大井磯十郎を三ノ倉に行かせた。話し合いでことを
 納めようと50両を差し出したが、暴徒たちは納得せず、
 交渉は決裂した。

3月 4日  暴徒7000人来襲(★群馬郡誌のみ)
     暴徒2000人来襲(★ほとんどの資料)
    

  →小栗上野介は洋式の鉄砲・軍隊で約20人+村人で撃退。
 ※一説には、小栗は、フランス式訓練を受けた歩兵10数名
  と村の若者100人ばかりで東善寺の周辺を固めた。そして、
  小栗は養子の又一と部下の歩兵20余名を率いて、暴徒の
  本陣椿名神社に先制攻撃を仕掛けた。訓練を受けた歩兵の
  力は絶大で、数十名で暴徒2000余りをあっさりと蹴散らし、
  倒した20人の首を東善寺の石段に並べた。この戦況に仰天
  した三ノ倉など近隣村の名主らが、この夜に詫び状を持参
  し、捕虜となったものたちを引き取りに来た。用人たちに
  歩兵訓練を受けさせていたことで、小栗は難を乗り越える
  ことができた。
  しかし、暴徒による襲撃は、薩長軍が仕組んだ巧妙な罠で
  あることに小栗は気付かずにいた。
     
 塚越家から避難していた妻:道子達が帰って来た。  
 ※先導者:金井荘助・・・西郷隆盛の雇われ大将説あり。
 ※勝海舟・・・・熊谷まで出向いて、東山道総督:岩倉に面会
    「関東には官軍に従わない不心得な旗本がいる。」
   と、わざわざ告げ口に行った。その後、板垣は近藤勇の
  甲陽鎮撫隊を撃破した。→江戸に向かった。
 勝海舟の情報提供による可能性が高い。・・・
 ★勝海舟はわざわざ、板倉退助に
 「官軍の敵は、小栗上野介&近藤勇である。」
 と知らせたのでは?   
   
  小栗上野介あh暴徒の反乱を鎮圧した。〜〜〜
  それから2か月余りを権田村で生活する。
  倉渕に永住を決めた小栗上野介は、観音山に住居の建設を始
  めた。また、山頂を開墾し、畑と水田を開く作業も開始した。
  母屋が完成すれば、家臣たちの住まいを建て、塾も開いて村
  の若者たちに学問を教えることも考えていた。


3月 5日 ●小栗「権田村から太政大臣を出すぞ。
 東善寺に勉強に来なさい。」と言ったとか?

3月 6日  ●観音山の邸宅予定地を下見。
   ※熊谷次郎直実の愛馬:権田栗毛を祀った観音堂の上


     (★マス重・・・これはおいしい)

     (邸宅の入り口は、マス重の看板の反対から)

     (邸宅は、群馬県前橋市総社町の都丸邸に移築)

     (浅間隠山を望む)
 
3月 11日
●邸宅の測量開始・・・フランス式
小栗又一と荒川祐蔵が測量・設計か?
       
●小高用水着手。※小栗は完成を見ないで斬首。

●アラビア馬で散策。
●「サンキュー」と度々使っていた。
●服装も西洋式だった。靴も履いていた。
       ★以外と西洋かぶれだった。

4月22日  
 東山道総督が高崎藩・安中藩・吉井藩に小栗の追補命令。  
 ※東山道総督:岩倉具定(具視の子17歳)
東山道福総督:岩倉具経(具視の子16歳)
参謀:板垣退助 & 伊知地正治・・・実質的な指令。 
「小栗上野介・・陣屋を厳重に相構え・・・。」
 先の小栗襲撃に加わった近隣の村の名主たちは、小栗が7000
の大軍を打ち破る兵力を以ち朝廷に対する反逆の意図をもって
いると、東山道軍(薩長軍)総督府に対して訴えた。
これを受けて総督府は、高崎、安中、吉井の三藩に小栗誅戮
(ちゅうりく)の厳命を下した。東山道軍総督は岩倉具定
(岩倉具視の子)で、参謀には板垣大助(土佐)、伊地知正治
(薩摩)がいた。

4月29日  東山道総督の命  神山宿で大井・沓掛が面会。
      →三藩は追補兵を三ノ倉に宿陣(全透院)。
高崎、安中、吉井の3藩の兵800余りが三ノ倉に集結した。
 話せば分かると踏んでいた小栗上野介は、2人の家臣を
 三ノ倉に派遣し、交戦する意志のないことを伝えた。
 しかし功を奏さなかった。

閏4月 1日  高崎藩の宮部八三郎らが兵を率いて東善寺を包囲
    した。
    小栗上野介は
  「観音山は自分が所持し、雨露を凌ぐ家作をなしただけで要害
   などなく、異心はないので、十分に見聞し、その旨を総督府
   に伝えてほしい。」
   と説明した。
    さらに大砲や小銃も使者に手渡し抵抗する意志のないこと
    を示した。
    観音山を視察した宮部らは謀反の企てはないと判断したが、
    養子の又一に高崎まで出頭すること求めた。

   又一が高崎に向かったあと、三ノ倉に再び三藩の兵が終結
   しているという不穏な情報が小栗の耳には入る。

    小栗は権田村の名主たちと相談した結果、会津への脱出を
   決意した。
    信頼のおける村年寄の中島三佐衛門の案内で小栗一家は諏訪
   山麓を抜け、湯治場の亀沢に入った。
   ここへ権田村の名主:佐藤藤七が駆け込んできた。
     藤七によれば、
   「東山道軍の先鋒:原保太郎に捕縛された藤七は小栗の脱出
    を吐かされ、小栗が戻らなければ村を焼き払う。」
    と脅され、小栗を連れ戻すために追ってきた。」
    というのである。
   小栗上野介は、人質になっている養子又一らのこともあり、
    家族を三佐衛門に託し、わずかな望みを頼りに村に引き返
    すことを決断した。


閏4月 2日  養子又一、用人塚本真彦、沓掛藤五郎、多田金之助を
       随員として高崎藩へ 無実弁明のため出向いた。

閏4月 3日 妻の脱出計画。・・・後。会津へ。

閏4月 4日 ※東山道鎮撫総督府軍監副巡察使:原保太郎・豊永貫一郎
「小栗上野介は大罪人であるから、追補せよ。」と激怒。
「従わない場合は、3藩に保証はない。」と脅迫。
 巡察使:大音龍太郎の意向もあった。(★村上氏)
 ★大音龍太郎・・・近江伊香郡木之本村大音(小谷城近く)
 の出身で、勤王浪人・・・箕輪村龍門寺(井伊直政建立の
 鬼門の寺)に2年程滞在・・巡察使・・初代:岩鼻県知事)

 (龍門寺19世に大音は世話になった。上野通なのだ。)

 

閏4月 5日 早朝、東善寺に戻った小栗を原保太郎ら東山道軍の
      兵1000人余りで進入。
     3藩の兵が東善寺裏山より侵入。
    小栗と二人の家臣を捕縛した。
     3藩は観音山等を検分。
     逆謀私心無き事を知り、銃5挺などを押収。
  
    小栗上野介らを捕縛
       →三ノ倉の陣屋(戸塚宅)に連行。

閏4月 6日  取り調べなく、水沼川原で家臣とともに斬殺。
大井礒十郎・渡辺太三郎・荒川祐蔵・・斬首。
小栗上野介を斬首。
・・安中藩徒目付:浅田五郎作が原に命じられ、斬首。



閏4月 7日  高崎藩牢屋敷処刑場で
       養子:小栗又一・用人:塚本真彦、
       沓掛藤五郎、多田金之助を斬首。
   ※勝海舟の陰謀説もあるが、不明である。
   ★でも、勝海舟は小栗が嫌いで、陰険な男で
     性格であった可能性も大いにある。
    つまり、幕府の中に、小栗の敵がいたことになる。


●=〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
・4月6日
   朝、小栗らは烏川の水沼河原に引き出される。
   何の取り調べもなく、切腹の名誉もなく、小栗は家臣と
   ともに斬首された。
    小栗忠順、享年42歳であった。

・4月7日 
   小栗の養子又一もまた、高崎城内で罪なくして斬首された。
   小栗と又一、主従の首は、非情にも梟首(きょうしゅ)された。


4月   大音龍太郎の届け出 
「小栗上野介は松平容保・小笠原壱岐守と結託し、碓氷峠で
   官軍の待ち伏せを計画するため、権田村に引き込んだ。
   百姓が蜂起すると、罪のない百姓を殴打した。
   官軍たりとも我が地に踏み込んだ者は取ってやる・・・
   そこで、高崎・安中・吉井の3藩を・・差し向けたところ
   機械を隠し・・・「中略」・・・鉄砲数十挺を土の中に・・
   上野介父子並家来六人を斬罪にしました。・・・」
   ★捏造だった。

●小栗道子・母:くに子・養女:よさ子・塚本家族の動向
  権田村・・・二度上峠経夕コース&大戸コース ・須賀尾に別れて・・
  六合村・・・(現野反湖)・・・1200年前の新田系里見一族の
  コース・・・・秋山郷・妻有・・・十日町・・・小千谷・・・新潟・・
  中条・・・会津へ

■東善寺の墓&遺品

※栗本鋤雲の像

■供養碑・・・・・・・「偉人小栗上野介罪なくして此所に切られる」
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★参考文献・資料
@『小栗上野介』市川光一・村上泰賢・小板橋良平共著 
   みやま文庫(県立図書館内)

A「遣米使節三船」東善寺住職村上泰賢著 \300円 
 
B週刊:日本の100人番外編「小栗忠順」  \560円

C「上州風」 29号 上毛新聞社
  特集「もっと小栗上野介を知りたい」 \840円 

D月刊「上州路」2003(平成15)年10月号
 特集「時空を超えて甦るー『小栗上野介と高井鴻山の夢』」
 小栗上野介と高井鴻山の「船会社」 村上泰賢
 波乱の幕末〜新しい日本に夢をかける高井鴻山 山嵜 實
 ※小布施の豪農:商高井鴻山は
  小栗上野介の日本最初の株式会社の「船会社」に大出資者。
 小布施の北斎館・・・北斎はたくさんの絵を残した。

E上州路344 復刻版  700円(税込み)  あさを社
  「上州倉渕村に眠る偉人
   ・小栗上野介忠順と小栗騒動   小板橋良平
   ・佐藤勘兵衛のアメリカ土産から 塚越真一
   ・埋もれ木をほる        市川八十夫
   ・小栗上野介略年表

F上州路346  700円(税込み) あさを社
  特集「小栗上野介史跡めぐり」

G『郷土に光をかがげた人々 U巻』 群馬県教育委員会
 「開国の先覚者」外国奉行 小栗上野介」

●小栗上野介企画展・・明治大学博物館 2008年4月 
  小栗上野介の業績を再評価。

●小栗まつり・・・2008年5月

H市川光一先生の講演会の資料(箕郷公民館) 2009年?月
 市川光一先生の講演会の資料(かみつけの里)2010年6月26日

I「小栗上野介と幕末維新の高崎」高崎市歴史民俗資料館
2010年10月1日〜11月24日

●倉渕の小栗散策             2010年5月

●「ヴェルニーと横須賀」&ヴェルニー博物館 2010年7月訪問

J小栗上野介展・・・高崎シティギャラリー 
2010年12月4日〜12月14日

K「小栗上野介」村上泰賢著 2011年1月

L島田先生:小栗ボランティアの資料2011年5月24日

M

N

O

P

Q

R

Sたつなみ・・・

★さらに、小栗上野介の本7冊以上は読んだ。








〜〜〜高崎新聞の内容をコピー〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
●小栗は、何故、殺されなければならなかったのか。
 戊辰戦争とは何であったのか?

小栗は“抹殺”された。
直接、手を下したのは、東山道軍総督府である。
 この東山道軍総督府は、薩長軍のなかにおいても、もっとも
過激で戦闘的な部隊であった。彼らが手を下したものには、
赤報隊を率いた相楽総三(さがらそうぞう)や、新撰組局長:
近藤勇などがいる。相楽総三は、西郷の指示のもとで、江戸薩
摩邸の浪士隊長として江戸市中を撹乱し、鳥羽伏見の戦いを誘引
した官軍の功労者である。東山道軍の先鋒まで務めた相楽とその
部隊を、総督府は“偽官軍”のレッテルを貼り殺戮する。相楽ら
は、東征の進軍道程で、弾薬や食糧を自力調達しなければならず、
そのために<年貢の半減>を宿泊地毎に掲げていった。薩長政権
の首をしめかねない年貢半減を無きものとするために、総督府は
相楽らを処断した。東山道軍総督府は、必要とあらば味方をも切
り捨てる冷酷さをもつ集団であった。
 4月25日には近藤勇が板橋の東山道軍総督府本陣において斬
首された。近藤の斬首を指示した総督府大軍監の香川敬三に対し、
近藤勇を逮捕した東山道軍斥候の有馬藤太は「朝廷に鉾を向けた
わけでもなく、神妙に官軍に降った近藤を斬首するとは何事か」
と難詰(なんきつ)している。

血に飢えていたとしか言いようがない東山道軍総督府。小栗が
捕縛された相手は、その東山道軍総督府であった。それが、小栗
の斬首の一つの要因であったことは間違いない。しかし、小栗惨
殺には、それ以上に大きな力が働いていた。
 総督府大軍監の香川敬三に小栗斬首を指示したのは、総督府
の参謀・板垣退助と言われている。しかし板垣は土佐藩である。
徳川幕臣の大御所の一人である小栗を、取り調べることもなく、
即座に斬首するだけの権限を持たされていたかといえば、それは
疑問である。やはり薩長の参謀の意志が働いたと見るべきだろう。

小栗は幕末における日本の国家的財政危機を様々な改革で切り
抜けた。小栗がいなければ、幕府はもっとはやい時期に瓦解して
いた可能性が高い。彼の財政手腕は、それほど抜きんでていたの
である。

1.外国商館の前貸支配から日本商人を脱出させるための金融の
道を開拓江戸市中荷物引当御貸付金システム

2.幕府の行政改革を断行
  役人の給与体系の合理化、幕府内の儀礼廃止や服装簡略化
など
  役人による汚職の厳禁、ワイロの追放など
3.新財源の開拓
  酒類、奢侈品への課税、富家に対する所得税の徴収
  日本初の兌換紙幣発行と、それに呼応する外債の募集

これらの改革による幕府の基盤の安定化を、桂小五郎(木戸
孝允)は、「いまや関東の政令一新し、兵馬の制頗(すこぶ)
る見るべきものあり」と、刮目していた。 
 自らの改革によって捻出した財源を背景に、小栗は日本の近代
化を強力に推し進めた。小栗が構想した近代化プランには次の
ようなものがある。

1.滝野川火薬製造所および反射炉、小石川大砲製作場の建設
2.騎歩砲“三兵”の編制、陸軍教育の充実
3.日本初の株式会社(兵庫商社)の設立、中央銀行の設立計画
4.商工会議所の前身(諸式会所)の設立
5.外国語専門学校(フランス語学校)の設立
6.新聞発行計画
7.ガス灯設置の建議
8.郵便、電信事業の建議
9.鉄道(江戸―横浜間)建設の提唱
10.郡県政度の提唱
11.森林保護の提唱

 近代化構想の一部は、小栗が存命中に実現したものもあるが、
その多くは明治新政府に受け継がれていく。
 
小栗の抜き出ていた炯眼(けいがん)を、後年、大隈重信は
次のように語った。
「小栗は謀殺されるべき運命にあった。なぜなら、明治新政府
による日本の近代化構想は、そっくり小栗のそれを模倣したもの
だったからである」

小栗抹殺に働いた“大きな力”を、これほど端的に表す言葉は他
にはない。すべてを語りつくしている。
 しかし、私には微かな疑問が残っている。

 薩長・官軍は、旧幕軍の士が野に下ることを、ある程度容認し
ていた。無論、会津や庄内藩などは別な問題であるが。また、勝や
榎本を明治新政府は登用している。まして、木戸は小栗の手腕を認
めていた。新政府としては小栗をいかようにでも活用する道があっ
たはずである。あるいは必要な人材であったはずである。それにも
関らず官軍は、小栗を抹殺した。何故なのか。

 官軍は確かに小栗を恐れてはいた。しかし、それ以上に小栗の
力を知り、彼を恐れていたものがいる。そのものは、小栗がフラン
スと強い絆を持つことを何よりも恐れていた。あるいはその絆を何
よりも邪魔なものと感じていた。小栗が新政権に入れば、おのずと
フランスとの関係が残る。それを嫌がるものとは、言うまでもない、
イギルス公使パークスである。小栗の宿命の敵、そして、西郷の江
戸総攻撃を中止させた戊辰戦争の陰のコンダクター、パークスこそ
が、小栗を抹殺した本当の「力」であったのではないか、それが私
の直感である。

どんな力が働いたにせよ、小栗は抹殺された。物理的に抹殺された
だけではなく、彼の為した業績もまた、小栗の名とともに人々の記
憶から抹殺された。抹殺の日から141年たった今日現在、明治維新
政府に罪なく殺された小栗の名誉は、いまだ回復されていない。
  (★高崎新聞)

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

文面は、小栗上野介に好意的である。
薩長史観を否定している文面には好感が持てる。 



★明日は倉渕の偉人かな?





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コメント(2件)

内 容 ニックネーム/日時
10/18はありがとうございました。

ご存知のことと思いますが、さいたま市大宮大成の普門院小栗家墓所に無銘ですが忠順の首塚があります。
先日行ってきたばかりでしたので、忠順のこともいろいろ伺いたかったです。
権田村東善寺は一昨年参りました。
大宮 sukapyon
2014/10/21 08:17
普門院小栗家墓所のことは知りませんでした。
小栗さんは凄い方だと思います。
ブログも16回書きましたので、お立ち寄りください。
   箕輪初心
大宮 sukapyon様へ
2014/10/22 19:48

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箕輪初心★高崎:小栗上野介15【小栗上野介忠順の抹殺】 城・陶芸・ハイキング・ダイビング・スキー・旅行/BIGLOBEウェブリブログ
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