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zoom RSS 箕輪初心★高崎を訪れた外国人:ブスケ(仏)&ボイル(AL)

<<   作成日時 : 2014/10/16 07:21   >>

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★高崎人物伝:吉永哲朗著には、明治初期に高崎に来た外国人
【1】ブスケ(仏)&【2】ボイル(アイルランド)は高崎を高く評価
した人物である。【1】のブスケは@富岡製糸場の首長:ポール
・ブリユーナを訪れた時、A日光を訪れた時の3回高崎を訪れ
た。教育の町:高崎を強調した。【2】ボイルは「高崎を日本経
済の発展のために「中山道幹線」が必要であると述べた。鉄
道交通の拠点としての高崎の発展に尽力したのだ。
画像

 (★高崎駅・・・中嶋宏氏の写真より) 


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箕輪初心◆高崎の国際交流2000年の歴史
http://53922401.at.webry.info/201310/article_24.html



箕輪初心★旧高崎の偉人伝:近代編
http://53922401.at.webry.info/201311/article_2.html
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【1】ジョルジュ・イレェル・ブスケ(仏) 
・(1843〜?)
※フランスの法学者でパリ控訴院弁護士だった。
ジョルジュ・イレェル・ブスケは3度、高崎に来ている。
@富岡製糸場のポール・ブリユーナを訪れた時の往復、
A日光を訪れた時・・・である。

・明治5年(1872) 官営富岡製糸場ができた。
ブスケはお雇い外国人法律家として来日した。
 明治政府の法律顧問となり司法省法学校などで法律などの
 指導に当たった。
 司法卿:江藤新平の要請で刑法・司法制・警察制度などの
 構築に貢献した。


・明治5年(1872) 26歳 高崎に訪れた。
 官営富岡製糸場が造られた。
  富岡製糸場の首長ポール・ブリユーナを訪れた時、 
高崎に寄ったのである。

・明治6年(1873) 東京〜高崎〜日光
「日本見聞禄」で、高崎10000戸の都市・・」
 「高崎には一万戸の家がある。したがって住民は25,000人
 であると推定できる。
  ・・・・(中略)・・・
 昔「シロ」があり、今は取り壊されているが、まだ500人の
 駐屯兵が住んでいる。
 ・・・・・(中略)・・・・
 私はあるとき、歩き回っているうちに一つの学校が開かれて
 いるのを見つける。私は子供の態度に心打たれる。空気と光
 とが至るところに流通している。この国には、普通の文字を
 読み書きできない一人の男も一人の女もなく、12歳を超え
 る子供でそれができないものは一人もいないということが信
 じられるだろうか。」
(★高崎人物伝:吉永哲朗著)
これは、ブスケが日光への旅の途中に記した明治6年の高崎で
ある。高崎は今大いに変ぼうを遂げようとしている。ブスケが
見たらどのような言葉を聞かせてくれるだろうか。
現代の日本社会の外ぼうは、ブスケの見た日本と比較でき
ないほど変わった。『日本見聞記』から察すると、ブスケ
は「外ばうは変わっても、日本人の心はほとんど変わって
いない」と言うであろう。つまり、精神の近代化は訪れて
いないということである。高崎が21世紀に向けて外ぼう
だけでなく、市民一人ひとりがその精神の変ぼうへの努力
をし、真の21世紀日本のシンボル都市を目指したい。
まずは、文化に関心を持つことから、それは始まる。
(★高崎新聞の記者のコメント)
(※高崎広報誌→「おはなし高崎人物伝」→高崎新聞)
日本は、鎖国の眠りから覚めて、西欧化に基本を求めて、近
代化への胎動をし始めた時であった。大激動期・大転換期で、
あった。ブスケは文化の著しい相違を鋭敏な感性でとらえ、
それらを明せきに分析して『日本見聞記』を著した。

●『日本見聞記―フランス人の見た明治初年の日本 1 』
 日本国内で触れ・経験した文化や風俗などは日記に纏められて
 出版され、明治初期の貴重な資料となっている。
     
・明治9年(1876)29歳 ブスケは帰国した。
 ※ブスケは4年間、日本に滞在した。
※明治5年、お雇い外国人の法律家として最初に来日し、9年
に帰国するまでの4年間、日本に滞在した。その間、日本の
法制度の近代化に大きな貢献をした。日本の法制度、特に民
法の近代化に大きな貢献をした。
ブスケは、仕事の合間に、未知の日本の文化の姿を求めて、
交通機関の未発達な状況下で四国・九州を除いた日本を踏破
した。3度、高崎を通ったのだ。
(★高崎新聞より)



【2】リチャード・ヴィカルス・ボイル(アイルランド)
Richard Vicars Boyle(1822〜1908)
※リチャード・ヴィカルス・ボイル
・アイルランドのダブリンで生まれた。
   世界各国の鉄道事業に従事した。

・明治3年(1870) ※明治政府東京〜京都間の幹線鉄道計画
  東海道と中山道の2つのルートで検討された。

6月 土木司員の小野友五郎、佐藤政養(与之助)は東海道ルート
の視察によって、在来の運送手段・・・東海道沿岸には東京
  −神戸間の蒸気船など舟運が機能していた。・・・
   内陸の地域開発の観点から中山道に幹線鉄道を計画すべきで
  ある。と考えていた。


・明治4年(1871)
1月「東海道筋巡覧書」を作成した。
3月 小野友五郎、山下省三らに中山道を踏査させた。


・明治5年(1872) ボイルは日本に来日し神戸に住んだ。
  日本の鉄道建設工事全般にかかわり統括した。
  特に中山道を日本の幹線鉄道として政府に建議した。

・明治7年(1874)
5月 京都〜大阪間に鉄道を開業させた。
 @リチャード・ボイルは建築士:ゴールウェーとキンドル
  らを伴い中山道線路選定のために、神戸から京都を経て
  中山道に入り高崎に来た。
  2人の建築士に、高崎から三国峠の踏査をさせた。
  約2か月半の踏査をして東京に着く。
中山道鉄道を計画した。


・明治8年(1875)
 9月 A鉄道局建築師長R.V.ボイルが、京都から高崎
  までを中山道に沿って往復した。
  4ヶ月半で実地調査を進めた。

・明治9年(1876) 
  4月に測量上告書
横浜から高崎を経て中山道を再調査して神戸に帰着する。
2回の調査を踏まえて「鉄道幹線は中山道が最適」と
  まとめた上告書を政府に提出した。
それによると、
[高崎ハ東京ヲ隔ツルコト凡ソ六十六哩ニシテ、前橋地方ノ
産絹杯、東京へ輸出スルノ途中、多クハ此ノ地ヲ経過シ百方
ヨリ通常、鄙道ヲ通り、此ノ地二輻輳スル運送品ノ取扱ヲ為
セル肝要ナル大市街ナリ。
 又高崎ノ地位ノ好良ナル及、商業ノ繁栄ナル、加之東京ヨ
リ此ノ地二至ルノ中間二於テハ工業ノ格別二容易ナル二拠テ
考フル二、此ノ線路ハ現時営業セル東京横浜問ヲ延長シ以テ
利スル所アラントスルニ付テハ、第一二着手スベキモノナリ。」
とある。
高崎の重要性を強調していることがよく分かる。
ボイルは中山道の未開不便な地方にこそ鉄道を敷き、運輸の
不便を解消する、このことが日本海沿岸の地方の開発につなが
り、ひいては日本経済の発展のためにも「中山道幹線」が必要
であるとしている。
(★・青い目の旅人たち:みやま文庫:丸山知良

9月 調査上告書を提出した。・・・・結果
※しかし、緊迫した国内外情勢(西南戦争・朝鮮への侵攻)
 による軍事費支出等の増加による建設資金不足のため中山道
 幹線建設計画は停滞することになった。

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・明治15年(1681)?
信州に鉄道の建設が計画されたのは、東京と京都を結ぶ中山道幹
 線鉄道の路線としてであった。
 明治維新後の日本の近代化のためには鉄道網の整備が不可欠で
 あり、鉄道の建設と地域の開発を同時に進めていくことこそが合
 理的な方法であると明治政府に進言した。そして中山道幹線鉄道
 を造るべきだを考えた。
 ・・・・開けている東海道に沿って鉄道を建設するよりも、まだ
 開発の進んでいない中山道に沿って鉄道を建設することが、より
 効果的な方法であることを力説した。
   明治政府はこの案を採用した。
・明治16年(1682)工事の開始を決めた。

・明治17年(1683)上野〜高崎間に鉄道がしかれた。
 
高崎駅は荒町の東の煙が出ても火事にならない場所
 であった。
 ※料金は1円〜約3円の3段階に分かれていた。
 ※高崎〜上野間は4時間で行けるようになった。
画像

画像

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 中山道幹線鉄道の県内ルートは、軽井沢〜小諸〜上田〜丸子
 〜保福寺峠〜松本〜木曽〜中津川ということであった。
★旧東山道の保福寺コース最終ラインと同じであった。
 すでに上野・高崎間は、私鉄の日本鉄道として明治17年に開通
 していた。

・明治18年(1883)高崎・横川間も開通した。
画像

 (★中嶋宏氏の写真より)


課題は上信国境の碓氷の難所であった。
 碓氷峠は今でこそ高速道路も新幹線も、トンネルによって短時間
 で通過してしまうが、明治のはじめここに鉄道を通すことは容易
 なことではなかった。特に鉄道建設の資材を峠を越えて運び上げ
 ることは、大量輸送機関のなかった明治の日本では至難の業だっ
 た。
  しかし、この中山道幹線鉄道は山間地を通るため莫大な建設費
 がかかることがわかった。

 明治19年(1884) 幹線鉄道の路線は東海道沿いに変更され、実現
することはなかった。
 
 中山道幹線鉄道は挫折したが、高崎と直江津を結ぶ信越線は重要
 路線と位置付けられ、そのまま建設がすすめられることになった。
 そこで考え出されたのが、船で資材を運ぶという案だった。
  横浜から直江津港まで貨物船で運び、そこから工事がはじめら
 れたのが現在の信越線なのだ。碓氷の難所が長野の鉄道建設を
 後押しした形となった。
 信越線の建設は決まったのだが、ここで問題となったのはそ
 のルートである。当初は松代経由で建設することが予定され
 ていた。しかし、地元松代の猛反対で長野経由に変更された
 のだという。
 その理由として、鉄の塊の化け物が町を通ることに町民が
 反対したからだとか、蒸気機関車の出す煙で桑畑が枯れてし
 まうからだとかいうことが今でもまことしやかに語られてい
 る。時代錯誤の理屈で反対したために、松代は幹線鉄道から
 見放されて、長野に遅れをとってしまったというのだ。
 しかし、現在記録として残っている限りにおいては、信越
 線が長野経由で建設されるようになった経緯は、そういうこ
 とではないようだ。
  
  信越線の計画は2案あった。
 @1案は現在の路線、直江津〜関山〜牟礼〜豊野〜長野を通る
   旧北国街道沿いのコース。
 A2案は、直江津〜水沢〜大滝〜木島〜浅野〜長沼〜大豆島
  〜松代〜屋代の千曲川沿いのコース
  であった。
  はじめは松代経由のコースが有力で、新聞にもそう報道され
 ている。北国街道コースに比較して、川沿いのコースであるため、
 平たんでトンネルも少なくてすむという利点があったためだ。
 しかし、平たんではあるが、千曲川が決壊した場合被害にあい
 やすいという大きな欠点もあった。結局それが決定的な要因と
 なって、鉄道は長野経由に決まったのだ。
 鉄道開業の頃、地元が反対したため鉄道が通らなかったとい
 う言い伝えは松代だけではなく全国各地にある。しかし、鉄道
 の路線というのは国の方針と経済効率で決められたもので、地
 元の反対だ賛成だなどというものが入り込む余地はほとんどな
 かったようだ。
 実際に鉄道建設に対する地元の反対というのはあったようだ
 が、それが考慮されることはほとんどなかったということである。


 パウネル→碓氷アプト式となった。



★参考文献
・高崎人物伝:吉永哲朗著
・高崎市史
・青い目の旅人たち:みやま文庫:丸山知良文責
★参考サイト
・高崎新聞
http://www.takasakiweb.jp/takasakigaku/jinbutsu/article/11.html
明治初期に高崎に着目したふたりの外国人

・リチャード・ヴィカルス・ボイル
・ジョルジュ・イレェル・ブスケ

・その他



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