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zoom RSS 箕輪初心◆長野堰B「染色のまち高崎に流れる長野堰:高崎広報」

<<   作成日時 : 2014/10/11 07:44   >>

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【高崎広報】2014年の秋号の最終ページは「染色のまち高崎に流
れる長野堰」とあった。ぐぐっと閃いた。原稿の執筆は中嶋宏氏
ではないだろうか?・・・私も中嶋宏氏の長野堰を重要性を広め
る会の会員になっている。長野氏時代の長野堰が農業用水から発
展し、次第に生活用水として・・・井伊直政の高崎城時代からは、
長野堰は高崎城のお堀の水・生活用水・農業用水・工業用水と
して、高崎を大いに発展させた用水路であった。

箕輪城祭りの日、中嶋さんに確認したら、熊井土工業の
 副社長が書かれたとのことであった。熊井土・・・といえば、
 小幡信貞の家老:熊井土…後に、井伊直政家臣となっ
た岡本半助宣就である。同じ系統なのだろうか?
 熊井土工業さん、ごめんなさい。
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(★中嶋宏氏所蔵の地図集)
  ★素晴らしい長野堰研究です。





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箕輪初心◆群馬:高崎の用水路B「長野氏の用水路編A」
http://53922401.at.webry.info/201104/article_6.html

箕輪初心◆高崎の長野堰=西新波堰の歴史
http://53922401.at.webry.info/201310/article_12.html
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〜〜原稿にコメント・補足・感想等〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
【1】【高崎広報】2014年の秋号
高崎城下と領内を潤す16q水路
 
@高崎の中心市街地の北を流れる用水路「長野堰」は、武田信玄の進行を防
いだ箕輪城主・長野業政が16世紀初頭に開削したことから、その名を名付け
らたという。
★@『武田信玄の進行を防いだ』・・・弘治3(1559)〜永禄9年(1566)なので、
7年かもしれません。
・弘治3年(1559)、長野業政が本郷堰(高崎市箕郷町善地駒寄〜榛名町十
  文字〜榛名町本郷)から、菩提寺:長純寺に水を送るための工事をした。
・天文20年(1551) 箕輪城主4代目:長野業政は長野堰を開発。
長野堰の開発ももっと早いのではなかりうか?
・早瀬川堰の工事は、もっと早くから行われていたはずである。
なぜなら、井野館・石神砦(うなぎ神社)・新波砦・満勝砦
・北爪砦(浜川町ローソン北隣)・寺内館と水が必要である
からである。


Aしかし、伝説によれば実は平安時代に長政の先祖、上野国守・
長野康業がもともと開いた用水で、千年の歴史を持つとも言われている。
★ A『長野康業』・・・長野正弘氏系図にあるが、他にはなかったと思う。


B長野堰は、榛名山のすそ野、箕輪城にも近い高崎市本郷町の烏川から取水
された・・・
★ B烏川から取水されたとあるが、長野郷は西に榛名白川&
 烏川に接し、東は井野川に挟まれた地区であった。

★ B烏川からの取水ではなく、榛名白川の取水であったと
 と考えるのだ妥当である。何故なら、榛名白川の本流が
 戦国時代には、現在の高崎市沖町の町中を流れていたと
 考えられる。現在の沖町の十字路が一番低い所にある。
 すなわち、榛名白川の本流であったと考えられるから
 である。江戸時代には、ここに宿がひらかれ、置屋=
 飯盛り宿が形成されていたからである。



C田園地帯から市街地へ至る用水で、岩鼻町で再び烏川に合流している
(烏川は利根川の支流)。
長野氏の時代に岩鼻に行っていたかは不明である。
 


D長野氏が開いた長野堰は現在よりもはるかに小規模と考えられ、
★自分たちの地区開発が長野地区である。
 狭義の長野郷は現在の長野郷である。
 広義の長野地区は、久保田順一先生によれば、現長野郷
 &箕郷地区&榛名本郷〜榛名神社地区と考えられている。
 

E水路の延長は1598年(慶長3年)に箕輪から高崎へ城を移した初代
 高崎城主・井伊直政が進めた。
★井伊直政は箕輪城から高崎城移転に際し、生活用水として
 農業用水として、高崎城の守りとして、長野堰からの取水
 工事をさせた。
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F水路事業は歴代城主によってその後も引き継がれ、
特に安藤家は大日堰(井野川〜高崎市緑町の水田)・三ツ寺
 の堤(唐沢川〜堤〜旧群馬町菅谷の水田)などの水田開発に
 力を注いだ。高崎城の天守閣・城下長野堰水路の拡張工事
 などを進んで手がけた。

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箕輪初心◆群馬:高崎の稲作と用水路C「江戸時代」
http://53922401.at.webry.info/201104/article_7.html
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G現在の水筋が徐々に整えられていった。
総延長16qに及ぶと、高崎藩領のほぼ全域約1、700ヘクタールを潤すことが
できた。現在でも取水量が流れている。 


H江戸時代は、西新波堰、もしくは大川と呼ばれた。高崎藩以前の武将の名が
付く「長野堰」の呼び方は、その頃の城主には面白くなかったのかもしれない。
箕輪側からは「十二堰」と呼ばれる祭戸用水&早瀬川の延長
 であった。







榛名湖から取水を計画した輝貞公
 
I長野堰の水は高崎城下に引かれ、お城や城下町の用水に使われた。
火災に対する用水としても使われた。
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J領内の新田開発が進むと、水量が足りなくなり対策が迫られた。
すでに、水争いは頻繁にあった。


K元禄時代の城主・大河内右京大夫輝貞公は、長野堰の改良に熱心で、榛名山
にトンネルを掘って、榛名湖から水を引く計画に着手した。ところが吾妻側から猛
反対を受け、幕府の判断で工事は中止になってしまった。榛名湖南の摺臼岩下に
は、掘りかけのトンネルが今も残っており「右京濠」と言われるが、「右京のただ濠」
「右京の泣き濠」など、ずいぶんな呼ばれ方もされている。
右京の「泣き堀」・「ばか堀」とも呼ばれている。榛名のするす
岩から箕郷松之沢〜長野郷〜高崎へと続く用水路の計画である。
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箕輪初心★高崎藩8代・10代松平輝貞&「右京の泣き堀」
http://53922401.at.webry.info/201310/article_14.html
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Lそれから200年後の明治37年、ようやく榛名湖からの取水工事は実現された。
榛名天神峠からの取水である。


●高崎の染物を支え育てた長野堰
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M井伊直政は箕輪城から高崎城へ城下町も移し、高崎城下に染め職人
口は壮観で、豊かな水る紺屋の町が誕生した。高崎の染物は江戸時代
からの歴史があり、西上州一帯から集まる高崎絹を染め、「高崎に来れ
ば染物の仕事が間に合う」とまで言われたそうだ。染物職人の多くは、
長野堰とそこから城下に引いた支流の水を利用した。旧市の北部には、
戦後に至るまで長野堰に沿って多くの染工場があり、染物の洗い場が
長野堰に張り出していた。護岸は石積みで長野堰の川流しは、昭和20
年代まで盛んに見られた風景である。
箕輪城時代の紺屋町は群馬銀行箕輪支店・現金屋・
 箕輪タクシー・長島屋のある付近である。・・・
 井伊直政の高崎城への移築に際し、職人と町名をそっくり
 移転させた。

※「本紺屋」→元紺屋町
 高崎旧城下の職人町の一つで、旧市街地の東に位置する。  
 「元紺屋」は、箕輪城下で紺屋職人の長をしていた宇佐見氏
 が、高崎への移城にともなって紺屋町に移住し、高崎藩から
 紺屋支配を命じられた。
初期の中山道で、紺屋町&東隣の北通町の間を南北に通っていた。
 中山道は、わずかの期間であった。染物店や漬物店などがあって、
 往時の面影を残している。
 ・延享年中(1744〜48)に町名主が交代した。
 中紺屋町・新紺屋町の「紺屋町」の一部であった。
 中紺屋町・・・紺屋職人が多くいた。
 元紺屋町と新紺屋町の間にあった。
 旧城下の職人町で、市街地のほぼ中央に位置している。
 中紺屋町から「西ノ横丁」、「東ノ横丁」と呼ばれていた。
 「東ノ横丁」は「古着屋横丁」とも呼ばれていた。
 高崎は中山道の要衝にあり、高崎絹の集散地として絹問屋、
 絹宿が軒を並べていた。高崎田町の絹市場は五の日、十の日
 に六斉市が立ち賑わいを見せていた。
 http://www.npogunma.net/shouto-takasaki/district/2_walk/1_chimei_05na_ma.html
 東三条通りの寿司屋「五万石」近くに染物屋があった。
 長野堰の川幅も今より広く、桟橋が渡され、洗い場になっていて
 反物を水洗いしていた。という。
 この先は、城東小学校の校区で円筒分水がある。
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(★高崎織・・・蒲原宿)

 

N長野堰の水利権は高崎藩や村同士の話し合いでルールが作られていたが、
日照りになると水争いが起こり、時には凄惨な状況にも発展した。長野堰の
支流には「地獄堰」と名付けられた用水があり、水争いの激しさが伝わって
くる。水利の問題は明治以降も続き、・・・
井野川流域・長野堰流域は水論が多かった。



O昭和37年に地獄堰を含む4つの用水に平等に湧き上がる「円筒分水」が、
高崎市立城東小学校の近く(高崎市江木町)に設けられた。サイフォンの原理
で水が湧き上がる円筒分水は、全国でも珍しい施設で、水の流れも美しく、
農林水産省の「疏水100選」に選ばれている。
実に工夫された施設である。
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   (★写真は下敷きより)





〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜〜〜以前の原稿〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
●長野堰サイクリングロードコース
 @「長野堰頭首工」・・・・烏川から長野堰にへと取水。
   最大時、6.797立法メートル取水。
   ※高崎市榛名町本郷・・・「頭首工竣工記念碑」  
     昭和47年
 A高崎市沖町・・・・・・・養魚場に給水。
 B高崎市沖町・・・・・・・沖町郵便局・岡田邸・・・・
  長野堰が見える。長野時代は、住吉砦であった。
  従って、当時、榛名白川は高崎市沖町の繁華街の北:現在の
  取水口付近で烏川に合流していたため、本来の取水口は、
  高崎市沖町上沖の諏訪神社北付近だと。想像できる
 C現榛名白川を渡るサイフォン・・・
   水門とサイフォンの入り口
   榛名白川の手前で再びサイフォンが設置されており、
   川を伏せ越している。
 D榛名白川左岸。。。長野堰の流れは新波橋を左岸の伏せ越の
   対岸フェンスの裏に水路
 E県道26号を離れて200mほど暗渠。
   再び水路。石柱には「水神宮」。
 F第一我峰堰・・・・・長野堰サイクリングロード。
   美しいカーブを描きつつ水路が続く。
   田んぼの中を?、のんびりと?、自
   転車道が続いている?
 G高崎市下小塙JR前・・・・水路沿いを行く。
   長野郷中学校南を東に進む。周囲の景色は一面の田んぼ。
 H高崎環状線と交差。・・・・歩行者用の地下道が整備。
 I高崎市上小塙・下小塙の堺を進むと、流れはだんだんと
   高崎住宅街へと変わっていく。
 J長野堰改修記功碑・・・・信越本線と交差地点には歩道橋設置。
 K高崎市「サイク長野堰リングロード」・・・
  「高崎市総合文化センター」で長野堰サイクリングロード
   は終端。
   実際には長野堰最大の見所と大きな分水工「請地堰」
   が先にある。
 ●五万石義人堂五万石義人堂。
    明治維新の頃減税を訴えて蜂起した五万石騒動の際に、
   総代が捕らえられ処刑された場所。
 L佐野堰へ分流
 M「長野堰円筒分水堰」・・・中央のサイフォンからあふれ
   出た水が、4つの水路に分かれる場所。 
  地獄堰、矢中堰、倉賀野堰・上中居堰の4堰に分岐・・・
  正確に受益配分される分水施設である。 
  ※分水堰付近の石碑には
 「恐ろしや 地獄の関と 思ひしが 悟ればここぞ 極楽能堰」
   かつての水利争いを地獄、分水堰ができてからは極楽と
  いう意味である(伝)。



【2】長野堰の歴史(中嶋宏氏の資料&近辺市史・町史)
●長野堰
(高崎沖町→高崎農業普及所南→高崎飯塚町→高崎大類→
 烏川合流)

※延長6年(928)   長野康業が長野堰を開発開始? 
    (★中嶋宏氏の「長野堰の水と光」より) 

・天文20年(1551) 箕輪城主4代目:長野業政は長野堰を開発。
  ★当時、榛名白川は高崎市沖町の繁華街の北:現在の
    取水口付近で烏川に合流していたため、本来の取水
    口は、高崎市沖町上沖の諏訪神社北付近だと。
   想像できる

・永禄9年(1566)〜 箕輪城主は武田信玄家臣:甘利・浅利・
    内藤らが水路整備?(資料なし)

・天正10年(1582)〜箕輪城主:北条氏邦・猪俣邦憲などが
   水路整備?(資料なし)

・天正18年〜慶長年間1600年頃・・・
   箕輪城主8年→高崎城主:井伊直政が拡張工事完成?

・文政年間(1818〜)・天保年間(1830〜)・嘉永年間(1848)
  長野堰をめぐる水争い

・明治23年(1890) 長野堰組合が発足

・明治26年(1893) 上並榎に佐賀野川用水が開設。・
  ・・水車4基。

・明治37年(1904) 榛名湖より天神峠トンネルから引水し
   長野堰へ補助用水。

・大正3年(1914) 板紙製紙工場が長野堰の水を使用。
高崎板紙が資本金8万円で創設された。
    井上保三郎は社長に、取締役に青木勘之助、荒木仙十郎、
    小島弥一郎、櫻井伊兵衛等が就任。
    工場は八島町に置かれた。
    板紙は麦ワラのほうが稲ワラより安いので主原料と
    した。問屋で使用した俵・縄などの廃物が当時一日
    500貫(約2,000kg)も出たのでリサイクルした。
   (★高崎新聞)

・大正12年(1924) 下小塙堰の完成。

・昭和2年(1927)   長野二段締め切り頭首口
    (高崎市金井淵町)→堰・・・烏川横断・・・
     高崎市我峰町→高崎市新井団地→環状線新井の
     信号東を横断→高崎市立北部小北面を東へ
     →真木病院西で本長野堰に合流・・・
     (後に、本長野堰+貝沢堰新築・・・・)

・昭和6年(1931)  長野堰の石積み工事開始。

・昭和28年(1953)〜昭和43年(1968)
     長野堰の三面コンクリート工事。
     色業の染色原料の芳流が長野堰・一貫堀川増加。

・昭和35年(1960) 上並榎に瀧谷不動近くにポンプ堰を建設。

・昭和37年(1962) 円筒形分水工事。

・昭和47年(1972) 高崎市旧榛名町本郷に長野堰頭首口が完成。

・昭和49年(1974) 〜昭和54年(1954) 水質汚濁解消工事。

・平成20年(2008) 長野堰の感謝祭イベント実施。     
  

◆参考資料等
・中嶋宏氏の本などを編集
・観光高崎の文章




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