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zoom RSS 箕輪初心◆【高崎の古墳群9地区】復刻版

<<   作成日時 : 2014/10/09 07:15   >>

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群馬の巨大古墳は@高崎元島名将軍塚古墳→A高崎倉賀野の3古墳
→B太田の天神山→C高崎保渡田古墳群→D八幡古墳群・上小塙稲
荷山古墳・藤岡の白石古墳群→E前橋の大室古墳群→高崎の綿貫の
古墳に至る。高崎地区も大きな古墳の宝庫である。今回は以前掲載
した高崎の古墳群9地区を一挙にまとめてみた。
★平成11年(1998)3月11日、若狭徹先生の「高崎千年物語」の
初版が発刊された。若狭先生は明治大学を卒業後、旧群馬町教育委
員会に採用され、保渡田古墳群&三ッ寺遺跡&谷ッ古墳を解明した
のだ。合併後は高崎市教育委員会文化財保護課所属になった。
ドクター課程=博士号を持っている凄い方である。数回話したこと
があるが・・・。
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 (★若狭先生の講演会:将軍塚古墳)


★古墳は4世紀〜7世紀に造られた大王の墓である。
群馬県には1万以上の古墳があったと言われている。
大きな前方後円墳や豪華な副葬品が見つかった古墳も数多い。
群馬には巨大豪族やたくさんの小豪族がいたと考えられる。



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箕輪初心◆群馬の古墳@元島名将軍塚古墳
http://53922401.at.webry.info/201103/article_21.html

箕輪初心◆群馬の古墳A浅間山古墳172m=東日本bR
http://53922401.at.webry.info/201103/article_22.html


箕輪初心◆群馬の古墳C=保渡田古墳群
http://53922401.at.webry.info/201103/article_24.html
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箕輪初心■群馬高崎:再現劇『第6回王の儀式」2010年編
http://53922401.at.webry.info/201010/article_45.html

箕輪初心■群馬高崎:再現劇『第7回王の儀式』2011年編
http://53922401.at.webry.info/201110/article_24.html

箕輪初心■群馬高崎:再現劇『第8回王の儀式』2012年編
http://53922401.at.webry.info/201210/article_30.html
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箕輪初心◆群馬の古墳D「八幡古墳群&若田原古墳群」
http://53922401.at.webry.info/201103/article_25.html

箕輪初心◆群馬の古墳F「高崎:上小塙稲荷山古墳&箕郷の古墳」
http://53922401.at.webry.info/201103/article_27.html

箕輪初心◆群馬の古墳G「高崎:上小塙稲荷山古墳&箕郷の古墳」
http://s.webry.info/sp/53922401.at.webry.info/201103/article_27.html

箕輪初心◆群馬の古墳H「綿貫古墳群」=群馬最大の石室
http://53922401.at.webry.info/201103/article_29.html

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【1】箕輪初心◆群馬の古墳@元島名将軍塚古墳

群馬の古墳ランキングは以下の通りである
・1位・・・太田天神山210m(太田) 東日本1位
・2位・・・浅間山古墳172m(高崎) 東日本3位
・3位・・・別所茶臼山古墳168m(太田)東日本6位

★参考文献・・
群馬の古墳・多胡碑シンポジウムの資料・講演・群馬の歴史
群馬県史・高崎千年物語など多数。




1)4世紀後半
◆元島名将軍塚古墳
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 ■訪問記・・・大塚製薬の工場見学に行く途中に立ち寄った。
  古墳は高崎市東部の元島名町IC近く、高南中の北200mの
   所にある。前方後方墳である。
  群馬県の2位の172mの大きさの古墳である。
 2回目は、写真がないので、しかたなく3月20日に再訪問した。
 ついでに、元島名城(元島名中内出)に行った。
・1980年に発掘。
  全長96m、後方部の幅51m、前方部の長さは40m。
  墳丘は2段に築かれていて、葺石(ふきいし)や埴輪はなし。
・明治44年(1911) 後方部で粘土槨(かく)発見。
 人骨・鏡・石釧(いしくしろ:石の腕輪)や工具などの鉄製品が出土。
  →副葬品は東京国立博物館に保管。
・昭和55年(1980) 古墳の溝の中から底に穴のあいた壷などの
   土器出土。


◆高崎千年物語(若狭徹著)
 @「壺や瓶は、伝統的な群馬の土器ではなく、東海地方の
   土器だった。」
 A「弥生人が井野川下流域の低湿地を開発できなかったから
   である。」
 B「→3世紀後半に、東海地方の人が住み着いたのではないか?」
 C「伊勢湾から船出し、東京湾を遡上。利根川を遡上し、
   高崎へ?」 
 D「毛野(=穀物の実る土地の意味)の國になった。」
 D「灌漑施設の開発をした偉大な王の墓は将軍塚古墳である」
 
箕輪初心◆群馬の古墳@元島名将軍塚古墳
http://53922401.at.webry.info/201103/article_21.html



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箕輪初心■群馬の古墳A浅間山古墳172m=群馬bQ・東日本bR
★長良川・揖斐川・長良川の下流域の濃尾平野に住んでいた
 弥生人?達は伊勢湾から東京湾、そして、昔の古利根川を遡上
 して、高崎の井野川中流域の元島名(群馬県立博物館北2km〜
 3km)に水田を開発し、大王の死後、元島名将軍塚古墳を造
 った。子孫はさらに、南西の高崎倉賀野の地域を開発したと思
 われる。


2)4世紀末〜5世紀初期
 高崎市倉賀野町:大鶴巻古墳&浅間山古墳など
 ■訪問記・・・2007年、倉賀野城の見学後、3つの古墳
  めぐりをした。 
 @大鶴巻古墳:全長130mの前方後円墳
画像
.

 A小鶴巻古墳:
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 B浅間山古墳:全長172mの大きさ・・東日本3位・群馬2位
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 ◆高崎千年物語(若狭徹著)
 @「東日本ランキング・・・ 
  ・1位・・・太田天神山210m(群馬太田)
   ・2位・・・舟塚山古墳186m(茨城石岡)
   ・3位・・・浅間山古墳172m(群馬高崎)
 A「奈良の佐紀盾列(さきたてなみ)古墳の5分の4の縮尺
   である。」
 B「奈良のヤマト王権から、直接許されたのではないか?」
 C「元島名将軍塚古墳に眠る王の高崎での後継者ではないだ
   ろうか?」 
 D「烏川・井野川・利根川を掌握していたのではないだろうか?」
 E「江戸時代には中山道の観光名所だった。富士森と明記されて
   いる。」

 
◆同時期の古墳
●太田の別所茶臼山古墳・・・東国6位・群馬3位 
●白石稲荷塚古墳(藤岡)・・・前方後円墳
●長瀞西遺跡(高崎剣崎町)・・円墳(東山道の国府コース上。)
 
※高松塚古墳(奈良)・・・(★写真なし)
  ■訪問記・・・1980年頃、発掘後直後の見学であった。
   飛鳥めぐりの散策の一貫であった。
 
※キトラ古墳(奈良)
  ■訪問記・・・2010年8月9日、近くを遠目から見た。
   高取城に行っちゃった。
   蘇我馬子の墓も駐車場&入場料をとられるのでやめちゃった。


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箕輪初心◆群馬の古墳C保渡田古墳群=復活した古代様式

箕輪初心◆群馬の古墳C=保渡田古墳群
榛名山の南麓の旧群馬町の保渡田と井出に3つの巨大古墳がある。
井出二子山古墳・保渡田八幡塚古墳・保渡田薬師塚古墳である。
4世紀末に造られた元島名将軍塚古墳から井野川を遡ること
 10kmの所にある。
何十回と訪問した古墳である。
 「大王の儀式」も2014年秋には9回を迎える。

4)5世紀後半
◆高崎市:保渡田古墳群(旧群馬町・高崎市保渡田町)
■訪問記・・・母の実家が近くで子どもの頃から行っていた。
  二子山古墳の横に実家の畑があった。
 うっそうとして気味の悪い場所であった。
叔父は、国指定史跡になる前、区長らに古墳公園整備計画を
 訴えていた。
従兄弟は1町歩もある水田を引き継ぐのを拒んだからである。
近所の人たちも農業後継者がいないのだ。
歴史好きの叔父は、町長にも何回も掛け合った。
今の物産所も実家の土地だった。
 かみつけの博物館に土地も国に土地収用してもらえるように
 動いた。・・かなりの土地は叔父の家のものだった。
 実際に計画が進みようになると、前面には出なかった。
★しかし、かみつけの里博物館の元館長の近藤義雄先生や国分寺
 博物館の元館長:矢野先生や郷土史家の間庭先生・近藤芳寛先
 生や田島桂雄先生などの大先生方が叔父の私設博物館で、
 1月7日には、甘酒パーティをやっていた。
 歴史を語る会であった。土屋文明記念文学館元館長伊藤先生も叔父
と懇意だった。
 博物館・記念館には叔父の寄付した作品や初版本が置いてある。


1)井出二子山古墳108m 「一番古い古墳」
■訪問記・・・今はコスモス畑にの中に、芝生で覆われた古墳
  がある。子ども時代に見た気味の悪い古墳とは、全く別物
  である。
箕輪城:長野業政の花城寺砦の見張り台の役目をしていた。
  
   2003年発掘調査開始。
   2004年の発掘の当時の様子。
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◆高崎千年物語(若狭徹著)
@「最初に造られた古墳である。」
A「発掘は平成15年(2003)である。墳丘から約3mの舟形石棺
  が見つかった。」
  棺の中・・純金の飾りのついた木製の器物・金銅製でガラス玉
  をあしらった靴・金銅製の矢入れ・銀盤の刀剣・雲母製の垂れ
  飾り・金銅製の馬具・鉄の矛などがあった。ほかに、ガラス玉
  ・甲冑・刀剣・弓矢・鉄製の農耕具・石製の祭器具などがあった。
  ・・・これは、朝鮮南部の加那(後に新羅に統一)・新羅・馬韓
   (百済)の高級工芸品である。新羅王陵の古墳からしか出土
    しない製品が高崎へ?
   ・・上毛野氏の祖先が倭国の外交官として新羅に出張した。」 
 B「高崎は渡来人による最先端の治水・冶金・馬生産の国になっ
    た。」
 C「大量の80cmの大型円筒埴輪は藤岡の埴輪窯で焼かれた物
    だった。」
  大阪藤井寺のミサンザイ古墳240m(雄略天皇陵)の円筒
   埴輪と同じ大きさである。埋葬者はヤマト王権から優遇され
  た人物であったのだろう。」  
 D中島から出土した土器は王の葬式の飲食用の土器であったらしい。
  須恵器は失敗作が多いのは、1200℃の火力調整ができなか
  ったのではないだろうか? 
   この土は秋間丘陵・観音山丘陵の土が使われたと推理できる。
  つまり、二子山古墳の土器・須恵器類は飽間産の土の初窯だった。」
 ★箕輪初心の陶芸師匠は秋間の土を使って成形している。
  秋間の粘土層は亜炭層の上に約1m堆積している。師匠は、榛名
  と安中秋間の境:雉郷峠・雉郷城の200m下から採掘した粘土
  を購入して、作陶に当たっている。1250℃まで耐えられる
  上質な粘土である。
   奈良時代の国分寺の瓦も秋間=飽間・藤岡・太田金山で焼かれ
  た瓦を使用している。秋間では青木昇師匠が作陶。藤岡では藤岡
  瓦として生産されている。
  ちなみに国分寺瓦の秋間の窯は、八重巻窯・かんね窯など8つ
  あったらしい。

2)八幡塚古墳 96m
■訪問記・・・葺き石ではりめぐらされた古墳が見える。
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入り口付近には、かみつけの里博物館で体験作陶した形象埴輪の
 模造品が王の儀式・使われた馬などとともに展示されている。
 墳丘内部は頂上から中に入れ、ガラス張りの向こうに複製品の
 石棺が置かれている。北側に土屋文明記念文学館。北西には
 薬師塚古墳、遠くには榛名山が望める。南西方向に二子山古墳や
 戦国時代初期の長野氏の砦が見える。南には、博物館が見える。


◆高崎千年物語(若狭徹著)
 @「2番目に造られた古墳である。石棺は高崎の山名である。
  凝灰岩の石切場が山名の柳沢川の岸にあったのだ。根小屋城・
  金井沢碑・山名碑も近い。石切場で荒削りがすむと、烏川で
  筏に乗せられ、修羅で運ばれたのであろう。15kmも離れ
  たところにがんばって運んだのだろう。」
 A「形象埴輪・・踊る埴輪ではなく、馬の手綱を引く男であった。
 「鷹狩り・猪狩り・鵜飼いの埴輪があった。
 ★猪狩りは狩人と犬で、猪を追ったらしい。
  狩人は弓を持っている。
 ★鵜飼いは我が国最古の発見であった。
  これも若狭徹氏の発見であった。
「5人の男女の祭器シーンが展示されている。相撲とりもいる。
 高句麗では王が相撲を主催した記録が残っている。
 文化が伝わったのであろう。
 奈良時代には相撲節会(せつえ)が行われた。」
 ★大王の儀式では、若狭氏が脚本を書き、再現している。
  相撲取りに昨年扮したのは統括部長の経田氏である。
  箕輪城語り部の会で一緒である。
「他にあぐらをかく大王・座る女・盾を持つ武人などが出土した。」


3)薬師塚古墳105m
■訪問記・・・就職してまもなく、西光寺に行った。薬師塚古墳の
 ある寺には、お宝の出土品があるからだ。住職が桐箪笥の中から、
 ぎょうようなどの馬具の出土品を見せてくださった。金ピカだった。
 石棺もむき出しになっていた。現在では、見られないし、フェンス
 に囲まれた石棺になってしまっている。
帰って来て、父に話したら、住職は父方の遠い親戚だった
と分かった。


4)三ッ寺館「王の巨大な館」・・・水路も発見された。
 ■訪問記・・・発掘しているときに2回行ったが、よく分からな
   かった。
 ◆古代首長による開発と経営(若狭徹著・かみつけ塾講演会資料)
 「5世紀に招聘された渡来人の農業土木技術の結晶である。
 具体的には、
 貯水池・堤防の構築・掛樋の建設・大水路の掘削が行われた。」


5)箕郷の下芝谷ッ古墳「3古墳を作った朝鮮系の方墳」
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 ■訪問記・・・高崎市箕郷町カインズホーム東にある。
  現地の発掘調査の時に、見に行った。葺き石がそっくり出てきた。
  ★素晴らしかった。 
 *方墳約20m・・・積石塚
 *出土品・・・円筒埴輪、馬具、甲冑、装身具、飾履など。
  現地案内板
 ・30年前に発掘・・・見地研修会に参加。
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  ◆高崎千年物語(若狭徹著)
@「金銅製飾履(しょくり)=金ピカの靴は朝鮮の履き物である。
  20足しか日本にない。博物館に複製がある。30cmあり、
   金メッキされた薄い銅板4枚を銀製の鋲でとめてある。」
A「積石塚は朝鮮北部の文化である。保渡田古墳群を造った渡来人
  の墓と考えられている。」

6)かみつけの里博物館・・・埴輪づくりも開催されている。
 ■訪問記・・・月1回、かみつけ塾が開催されている。 
   会員は4月に募集・・・年会費1500円に値上げ?
 ★4月から、友の会の○○に就任依頼が黒崎会長からあった。
最近では、まったくない。


7)天子塚古墳・・
■訪問記・・・薬師塚古墳の北西200mの所にある。
  土屋文明の妻:塚越テル子のいた家の隣にあるが天子塚古墳
  である。塚越テル子は母方の遠い親戚である。テル子の母は
  住谷家から嫁いだ。
  かつて、箕輪城主:長野業政の保渡田砦であった。→
  武田信玄の24将の一人:内藤昌豊は保渡田城を拡大し、
 その時に楼閣=見張り台にした場所である。
  


8)北谷遺跡・・三ツ寺遺跡同様に豪族の館が発掘された。
■訪問記・・・・現群馬町イオンの北300mの「喜の蔵」という
 和食屋の駐車場東にある。
 隣が引間城=箕輪城主:長野業政の支城である。
 発掘調査中のブルーシートはよく見たが、歴史的に価値のある
 物とはその当時は知らなかった。
 1辺90m×90mの居館である。

 ◆古代首長による開発と経営+α
  (★若狭徹著・かみつけ塾講演会資料)
 @「5世紀に招聘された渡来人の農業土木技術の結晶である。
   具体的には、貯水池・堤防の構築・掛樋の建設・大水路の
   掘削が行われた。」
 A「馬生産と牧・水田耕作や畑作・石棺用石材の取得・窯業=
   須恵器生産などが行われた。」
 B「前橋総社の遠見山古墳80mと王恁テ墳80mの埋葬された
   人物の館であろう。」

※さきたま古墳群
   丸墓山古墳  稲荷山古墳  二子山古墳
   瓦塚古墳   鉄砲山古墳







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★次は「高崎の八幡古墳群」である。
箕輪初心◆群馬の古墳D「八幡古墳群&若田原古墳群」
5)5世紀後半〜6世紀後半の古墳群である。
八幡町には、古い順に平塚古墳・二子塚古墳・観音塚古墳がある。
1563年〜1966年は、武田信玄 VS 長野業盛の戦い
 の中心地であった。
旧東山道国府コース上にあったことにもよる。
 武田信玄の箕輪城攻略を防ぐため、長野氏家臣は、東の高崎市
 沖町の住吉城(沖郵便局南)や北の堂尾根砦&雉郷砦(里見一族
 の城)から出陣した。ちっとも有名にならない武田信玄と長野
一族の攻防戦の中心地であった。


●高崎市八幡町:観音塚古墳と博物館(八幡古墳群)
1)平塚古墳
  ■訪問記・・前橋安中線の南。板鼻から前橋に向かい、坂を登り
  切った右にある。雑木林になっているが、板鼻側から登ると、
  後円部に行ける。

2)二子山古墳  
 ■訪問記・・3回ある。
  冬は欅があるだけで、きれいになっている。


3)観音塚古墳
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■訪問記・・・7〜8回あるかな。
 *発掘調査現地見学会にも参加した。
 *前方後円墳全長100m、後円部径75m、高さ14m、
   前方部端幅91m、高さ12m
 *石室は横穴式の穴が開いている。
  15.3m,最大幅3,4m・・・約30個の石
 *銅鏡4・太刀・馬具類・銅椀・鉄鏃・工具類・金環・銅釧
  ・須恵器等が出土。 
★石舞台古墳(奈良)・・・蘇我馬子の墓
*石舞台古墳の構造と同じ・・・同じ形でそっくり=中央との結び
 つきが考えられる。蘇我の力が地方にも影響したのである。
 ・・・現地研修会にて。

○)観音塚古墳博物館 

◆高崎千年物語(若狭徹著)
 @「天井石は縦3,5m・横5m・・・推定50tである。」
 A「石の総重量は・・・推定300tである。」
 B「凝灰岩の石を高崎山名石切場から烏川を渡り、運んだ。」
 C「石切場選定→幅10mの運搬路開発→前方は100人で修羅
   =ソリを引き修羅の下にころを敷き、後ろでは、てこの棒で
   楫取りで運搬したのだろう。」 
 D「石の運搬は諏訪の御柱のように楽しいイベントではなかったの
   だろうか?」
 E「聖徳太子のブレーンの蘇我馬子の石舞台古墳(奈良)と同じ
    形で中央との結びつきや技術的な関連が伺える。」
 F「承台付銅碗は仏具の美術品である。仏教の伝来が予想できる。
   福岡大学の桃崎氏は隋の食器説を採っている。」
G「遣隋使・・・607年小野妹子が最初に遣隋使になった。
   小野妹子は初めての隋でのマナーや食事作法など対応にびっくり
   したであろう。日本に持ち帰った銅碗を観音塚古墳の主は、もし
   かしたら、聖徳太子にいただいたのではないだろうか?
   と想像する。」
F「青銅鏡・・・五鈴鏡・画文帯神獣鏡は中国の神仙思想が描かれて
  いる。古代の鏡はマジカルな呪術的な道具であった。しっかりした
  物は中国製である。
  ・・・平塚古墳の主が雄略天皇からもらったのであろう。」

●若田原大恁テ墳・・・6世紀後半の円墳である。
画像

■訪問記・・・八幡霊園の入り口から若田浄水場を右に見ながら、
 直進する。霊園の広い道路の正面にある。
 武田信玄と長野業盛の激戦地である。


◆同時期の古墳 
○安中市原市町:梁瀬古墳
■訪問記・・訪問は3回ある。
 1回目は原市の研修会で石室の中に入った。
2回目は個人で行った。
 3回目は武田信玄の八幡陣城のおまけで行った。



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箕輪初心◆群馬の古墳G「高崎:上小塙稲荷山古墳&箕郷の古墳」
 高崎市上小塙は、高崎市上小塙=長野郷の北にある。『八幡保墳群』
と『保渡田古墳群』の間にある古墳である。5世紀末の榛名山の大噴
火が起こった後、復興にかけた首長がいた。
榛名山の南麓の復興が成功すると、上小塙稲荷山古墳に埋葬された。
北上すると、箕郷の古墳群にあえる。
 斜めの道は、『東山道』の義経道が走る。

●上小塙稲荷山古墳・・・高崎市上小塙。
画像

 ■訪問記・・・砦として見学に10回近く行っている。
   お祭りにも行っている。
6世紀初頭・・榛名山の爆発後の復興。水田開発。
8世紀〜・・・東山道の国府コースの脇に当たる。
12世紀・・・義経道(伝)幅5m・・
  ★弁慶と平泉に向かったのだろうか?
13世紀・・・石上氏(=後の長野氏)が住み着いた。
  16世紀・・・長野業政家臣:八木氏の砦として使用。
  1566年・・・・武田信玄の家臣:大戸浦野氏が烏子稲荷神社
         で戦勝祈願。
  現在・・・・・高崎市の上小塙の烏子稲荷神社である。
         古墳は本殿の下にある。
@2003年の烏子稲荷の写真集

A2011年の烏子稲荷の写真集
◆高崎千年物語(若狭徹著)
 @「5世紀後半の榛名山の大噴火後に作られた古墳である。」
 A「災害復興を導いたリーダーが眠る古墳である。」
 B「北西向きに石室の穴がある。榛名山の噴火を神の怒りと信じ、
榛名山を望むこの向きに入り口を造ったのではないだろうか?」
 C「10mの羨道の奥に、玄室がある。石の幅は2mある。」
 
◆同時代の古墳や近くの古墳
●太子塚古墳(高崎市箕郷町和田山)・・
 ■訪問記・・・2007年頃?箕輪城の発掘調査をしていた高崎市教委
   田口一郎先生が中心になって発掘していた。
 ※水鋲や赤く装飾された武人や馬・巫女などの埴輪が発掘された。

●上芝古墳(高崎市箕郷町上芝1902番地)・・・(箕郷町誌)
■訪問記・・・箕輪町旧紺屋町。井野川沿いにあったが、
   現在は1929年の宅地造成のため、完全消滅した。
  ※発掘 1929年、箕輪城の福島武雄氏が発掘。
   帆立貝式前方後円墳。
   前方部2段・後円部2段、周濠(馬蹄形)、
   墳長15m、後円径12m、前方長3m、葺石は河原石、
出土品・・埴輪(円筒埴輪・朝顔形埴輪・動物埴輪=馬形埴輪2体)
       人物埴輪(武人埴輪+女子埴輪+男子埴輪))。 
  「襷(たすき)をかけ坏を持つ巫女(みこ)」が国立博物館にある。
2010年夏、群馬県立博物館に里帰りした。
    
●行人塚古墳(高崎市箕郷町東明屋)・・・箕郷町誌
■訪問記・・・箕郷で一番の隠れた桜の名所である。
  方墳の上に咲くのが樹齢300年以上という山桜である。
  花の咲く時期が里芋の植え付けの時期なので「芋植え桜」
  と言われている。
※1992年の調査により一辺約20mの方墳である事が判明。
  墳丘南側に開口する横穴式石室がある。





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箕輪初心■群馬の古墳H「綿貫古墳群」
「群馬の森」の近くには、綿貫古墳群がある。
 綿貫古墳群は北から、綿貫観音山古墳普賢寺裏古墳・不動山古墳
 ・消滅した岩鼻二子山古墳など4つからなる。
綿貫観音山古墳は群馬最大級の石室を持つ古墳である。
 古墳見物の後は、群馬の森でのんびり博物館&美術館見学もいい。



●高崎市綿貫町:綿貫古墳群の観音山古墳と群馬県立博物館
古い順に
1)5世紀末の「普賢寺裏古墳」 墳丘70m 前方部が低い墳丘
  なので、5世紀と推定された。
 ■訪問記・・・遠くから見ただけ。

2)5世紀後半の「不動山古墳」 墳丘94m  ★写真が不明。
■訪問記・・・国道354号線を玉村方面に向かうと、左に見える。
古墳の頂上に不動様が祀られている。お堂の裏に舟形石棺がある。

3)6世紀初めの「岩鼻二子山古墳」墳丘115m推定
■訪問記・・・原子力研究所の見学で、初めて存在を知った。
 ※かつては、井野川流域の最大の前方後円墳であった。
 ※戦前に、陸軍の岩鼻火薬製造所が造られた時、破壊され消滅
  したとのこと。
 ※現在は、舟形石棺が東京国立博物館にある。


4)6世紀後半の「綿貫観音山古墳」  墳丘97m 
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■訪問記・・・玄室には3回入った。
 @発掘調査現地見学会にも参加
  A高崎市の現地講演会で入った。
  B群馬県民の日(2008年10/28)に入室。

*普段は石室に入れない。
決められた日でなくても、群馬県教育委員会に予約すると入れる。
    
 *出土品
  1、獣帯鏡:朝鮮の武寧王陵と酷 
    傭もそっくりだそうである。
  2、水瓶:中国の庫てき廻洛墓(こてきかいらくぼ)酷似
    だそうである。
 3、朝鮮半島製の甲冑や装飾太刀・馬具
    (群馬県立博物館「羽ぬを越えた鏡と水瓶の縁」より
  4,埴輪類


◆高崎千年物語(若狭徹著)
 @「埴輪・・馬に多くの鈴が取り付けられていた。人も腰に鈴を
   つけていた。」
 A「古代人のアクセサリーは金ピカだった。」
 
○)群馬県立博物館&美術館
■訪問記・・・多数あるが、・・・。
綿貫観音山古墳の出土品が見られる。

★朝鮮の武寧王陵・・・■訪問は平成14年(2002)8月下旬





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箕輪初心◆【高崎の古墳群9地区】復刻版 城・陶芸・ハイキング・ダイビング・スキー・旅行/BIGLOBEウェブリブログ
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