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zoom RSS 箕輪初心★埼玉深谷【尾高惇忠】初代富岡製糸場長:富岡製糸場6−F

<<   作成日時 : 2014/09/14 05:21   >>

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★埼玉県深谷の尾高惇忠は富岡製糸場の初代場長である。
尾高惇忠(あつただ・じゅんちゅう・地元じんちゅう)は渋沢
栄一、韮塚直次郎ともに深谷の3大偉人と呼ばれている。
「富岡製糸場」に本当に貢献したのは埼玉県の深谷人だった。
酔いしれて、いいのか?群馬県人。深谷3偉人を知らなくて
いいのか、群馬県人と思ってしまった。当時、大きなレンガ
の工場は幾つもできた。でも、あれから150年余り経って
残っている工場は唯一富岡製糸工場だけだそうである。
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●平成26年(2014)6月21日
  世界遺産登録された。

 
●平成26年(2014)9月8日
大沢正明知事は「総額72億6975万円」にのぼる県の平成
26年度9月補正予算案を内示した。補正後の予算額は
7306億7783万円となる。
「富岡製糸場と絹産業遺産群」の世界遺産登録を受けた多様
な関連事業が目立った。個人や企業、団体などからの寄付金の
受け皿として新設する「世界遺産・ぐんま絹遺産継承基金」に
ついては、基金造成額として300万円が計上された。
世界遺産推進課は「世界遺産だけでなく県内に残る絹遺産の価
値伝承や保存活用、人材育成などに取り組む」としている。
(★上毛新聞)
★やっぱり、金が気になるよ。

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箕輪初心★【渋沢栄一の生涯】:「日本資本主義の父」
http://53922401.at.webry.info/201409/article_14.html

◆◆ 箕輪初心★小栗上野介D「横須賀造船所」 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201107/article_2.html

◆◆ 箕輪初心★富岡製糸場&絹遺産 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201108/article_10.html

箕輪初心■『富岡製糸場』6−@「世界遺産への疑問点」
http://53922401.at.webry.info/201209/article_24.html

◆◆ 箕輪初心■富岡製糸場A「5回目の訪問」 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201209/article_25.html

箕輪初心■富岡製糸場6−B「富岡製糸場・県立博物館の展示内容」
http://53922401.at.webry.info/201209/article_26.html

箕輪初心■富岡製糸場6−C『扇風機の歴史&群馬養蚕スポット』
http://53922401.at.webry.info/201209/article_27.html

箕輪初心■富岡製糸場6−D「上毛カルタ&群馬の養蚕の歴史」
http://53922401.at.webry.info/201209/article_28.html

箕輪初心★富岡製糸場6−E「日本絹の里」の展示内容
http://53922401.at.webry.info/201210/article_2.html

箕輪初心■群馬【下仁田町の特産品&山&名所・観光地】
http://53922401.at.webry.info/201204/article_20.html

箕輪初心★群馬『田島弥平宅』=世界遺産候補
http://53922401.at.webry.info/201303/article_28.html

箕輪初心◆神奈川『横浜開港物語』
http://53922401.at.webry.info/201210/article_8.html

箕輪初心◆神奈川『横浜開港物語』
http://53922401.at.webry.info/201210/article_8.html

箕輪初心★梶取素彦=群馬県令。吉田松陰の2人の
妹:寿&文が妻。
http://53922401.at.webry.info/201401/article_31.html
http://s.webry.info/sp/53922401.at.webry.info/201401/article_31.html

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◆訪問日・・・平成26年(2014)8月18日
@789本庄:産泰神社&四方田氏館&&光明寺→
A790本庄:小島氏館=長松寺&諏訪神社
B791本庄:畑時能館=八幡神社&陽雲寺
C792本庄:陽雲寺*畑時能の墓&武田信玄の正室:三条
夫人の墓&信玄書状&海軍大将:畑氏の墓
○番外・・・黛神社
D792本庄:金窪城:神流川戦いの北条拠点
○番外・・・立石寺
●渋沢栄一の生家→渋沢栄一博物館→尾高惇忠生家
E793深谷:皿沼城&諏訪神社
F794深谷:曲田城=咬心寺


【1】渋沢栄一の生家
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【2】渋沢栄一記念館
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●企画展「深谷の三偉人と富岡製糸場」
『世界文化遺産登録が決定した富岡製糸場』
「明治5年に操業された富岡製糸場の完成には、深谷出身の偉人
の力が必要だった!
渋沢栄一記念館では、舞台は富岡、主役は深谷の3偉人と称し
て、富岡製糸場の設立にかかわった本市出身の渋沢栄一、尾高
惇忠(じゅんちゅう)、韮塚直次郎を深谷の3偉人として取り上
げ、その偉業と富岡製糸場への関わりを紹介します。」
とあった。つまり、
※企画展のねらいは深谷の3偉人が富岡製糸場に深くかかわっ
た。
★簡単にいうと、深谷の3偉人なしでは、富岡製糸場は存在し
得なかった。といいたいのであろう。
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企画展「深谷の三偉人と富岡製糸場」の詳細
@渋沢栄一は明治政府において官営製糸場設置を推進した。

A尾高惇忠は富岡の地にフランス式の機械製糸場を竣工して
 初代場長として運営を軌道に乗せた。

B韮塚直次郎は富岡製糸場の巨大建築建設を支える煉瓦職人
 の頭として資材収集や建設に携わった。
  深谷市の永明稲荷神社奉賛会の韮塚直次郎が奉納した
  富岡製糸場を描いた絵馬を展示。

C尾高惇忠の長女「ゆう」は富岡製糸場の工女第1号として
 最新鋭の機械式糸繰りをフランス人から習得する伝習工女
 の先駆けとなったことから、深谷市や小川町など埼玉県近
 隣をはじめ全国から良家の子女がこぞって参集したため、
 富岡製糸場の操業は、世界に名を馳せるまでに至ったとい
 われている。
●渋沢栄一記念館のビデオ
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【3】尾高惇忠の生家
   埼玉県深谷市下手計943
江戸時代に尾高惇忠の祖父が建てた2階建ての建物で
 ある。
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 ガイドの真下さんがいらっしゃった。
 でも、5:10分・・・
 中に入ってみることはできなかった。
 外観の見学した。
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 ≪アクセス≫
 @JR高崎線の深谷駅からコミュニティバスの「くるりん」の
 深谷北コース西循環に乗り、下手計バス停で下車。
 徒歩で約5分程・・・。
A車の場合
  関越自動車道の本庄児玉ICから東方面に約25分程 
  関越自動車道の花園ICから北方面に約30分程。
駐車場は3台程・・・
●案内板
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【4】深谷3偉人&世界遺産
群馬県人の多くは、深谷3偉人など、ほとんど関係ないと
思っているのが実態であろう。
何故なら、世界遺産そのものに気を取られるからである。
私もいままでそうであった。

 
@荒船の風穴(下仁田町)・・・卵の全国からの受注
  冷涼な環境での蚕種貯蔵によって、春だけでなく夏から秋に
  かけての養蚕を可能にし、生糸生産量の増大にも貢献した。

A田島弥平旧宅(伊勢崎市)
「清涼育」と呼ばれる養蚕技術を確立し、養蚕農家の様式にも
 影響を与えた人物の住宅であった。

A高山社・・・・・養蚕技術の発展に寄与
「清温育」と呼ばれる養蚕技術を確立し、蚕業学校によって知識
  や技術の普及を図った組織の様子を伝えた。

C富岡製糸工場・・・良質の生糸の生産性の向上


一連の繋がりを求めるなら、このあとがあったはず
 であろう。
 世界遺産に、渋沢栄一生家や尾高惇忠の生家が
 あってもいい。





◆◆ 尾高惇忠の生涯 ◆◆
※文政13年(1830)7月27日(9月13日)〜明治34年(1901)1月2日

・文政13年(1830)7月27日(9月13日)
武蔵国榛沢郡下手計村(現埼玉県深谷市下手計)に生まれた。

通称:新五郎

・天保11年(1840) 2月13日
 渋沢栄一が武蔵国榛沢郡血洗島村(現埼玉県深谷市血洗島)
 で生まれた。

渋沢栄一の師:尾高惇忠は、1830年、渋沢栄一は1840年の
 生まれなので、渋沢栄一より10歳年長である。


・弘化4年(1847)
尾高惇忠は、自宅で私塾:尾高塾を開いた。
   近郷の人々に学問を教えた。
   ※1847年〜1868年ごろまで
渋沢栄一の7歳の時〜
  従兄弟:従兄の尾高惇忠の許に通った。
   四書五経や『日本外史』を学んだ。
水戸学が中心だったと家の説明に書いてあった。
 でも、ほかの資料では渋沢栄一が陽明学の「知行合一」
  の教えであった。と書いてあった。
  尾高惇忠は「知行合一」の文字を自ら書した軸を学舎に掲
 げ、尾高塾の基本方針とした。とあった。
 
 ★渋沢栄一の基本概念となった「論語」を教えていたのが、
  尾高惇忠であった。
 後に、渋沢栄一は、「論語」の精神を重んじて「道徳経済合
 一説」を唱え、各産業の育成や近代企業の設立に関わってい
 った。→「近代日本経済の父」とも呼ばれるようになった。

★従って、尾高惇忠は「近代日本経済の父の兄」と言っても
 過言ではない。


※論語の道・・渋沢栄一の生家「中の家」から尾高惇忠生家
  まで、論語を勉強する際に通っていたことから、両家の間の
  約1.3kmの道のことを「論語の道」と呼んでいるそうで
  ある。「論語の道」の周辺は「論語の里」と呼ばれ、日本
  の発展を支えた偉人が育った地域として、観光スポット
  になっている。
 ●鹿島神社もあった。
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・安政5年(1858)
  渋沢栄一19歳は尾高惇忠の妹:尾高千代と結婚した。
  名を渋沢栄一郎と改めた。


・文久3年(1863)
  渋沢栄一23歳・・・
 「尊王攘夷」思想の影響を受けた渋沢栄一郎や従兄弟
 渋沢喜作と共に倒幕を計画した。
 高崎城乗っ取りの計画を立てた
高崎城を乗っ取って武器を奪う計画を立てたのだ。
 ★渋沢栄一郎は尊皇攘夷の思想に目覚めたのだ。
 
 横浜を焼き討ちにした。
 長州と連携して幕府を倒すという計画も立てた。
 
 しかし、弟の長七郎・尾高惇忠の懸命な説得により
 中止した。

 ●新井慎一先生の話
「高崎が一番適していた。襲っても逃げられる。
 川越城ではすぐ捕まってしまう。・・・
 宇都宮城では遠すぎる。」

●映画では、
 「従兄弟と横浜に行くが、既に他の藩の武士が
  焼き討ちにしたあとだった。火で崩れる洋館を
  眺めた。・・・深谷に戻った。
  父が親族に累が及ばぬよう勘当した。」


・慶応4年(1868)
渋沢成一郎や渋沢喜作・尾高惇忠は彰義隊を創設した。
 小栗上野介の説得にも渋沢栄一がかかわったらしい。
 しかし、小栗上野介は参加しなかった。

 彰義隊は頭取:渋沢成一郎と副頭取:天野八郎の意見衝突
 により2つに別れた。
 渋沢成一郎の「尽忠報国の実践(君家の辱を一洗)」
 天野八郎の「反逆薩賊の戮滅」
  目的の違いであった。
 渋沢成一郎は彰義隊を離れ、振武軍を結成した。


5月1日
 渋振武軍は渋沢成一郎・尾高惇忠らは田無村(東京都田無市)
 西光寺を本陣とし、渋沢成一郎&尾高惇忠らと隊士を集めた。
 光蔵寺、太子堂、観音寺に集まった。
 
 そして、振武軍は軍資金調達のため村々に回状を廻した。
 軍資金調達の目的は「徳川氏再興」であった。

5月12日 上野の戦い
西軍 VS 彰義隊

5月15日 彰義隊が敗走。

5月16日 振武軍に敗退した彰義隊の一部が合流した。

5月17日、振武軍と彰義隊の合計1,5〜1,600人が田無村を
  出発し飯能へ向かった。

5月23日、飯能戦争(戊辰戦争)
 西軍3500 VS 振武軍1,5〜1,600
結果・・・西軍の勝利。
 渋沢成一郎は被弾して負傷した。
 尾高惇忠に助けられ、伊香保(現群馬県渋川市)に逃れた。
 
 参謀:渋沢平九郎(尾高惇忠の実弟&渋沢栄一の養子)は
 敗走し、黒山村(現埼玉県入間郡越生町)で西軍に捕捉さ
 れ負傷した。渋沢平九郎は割腹して自害した。22歳。

 渋沢成一郎と尾高惇忠はなおも徹底抗戦の主旨を貫き、
 密かに江戸に戻り榎本武揚の艦隊に合流した。
 最後は箱館まで転戦していった。五稜郭に立て籠った。

 榎本が降伏し、西軍に捕えられ3年間の牢獄生活を送った。
 その後は、渋沢栄一の推薦で大蔵省に出仕した・・辞職後は
 実業家としての道を歩んだ。
(★深谷市Hp)

・明治2年(1869)
  渋沢栄一29 歳はパリ万博・ヨーロッパから帰国し
  静岡で主人の一橋慶喜に会った。

・同年明治2年 「備前渠取入口事件」
  地元農民の先頭に立って民部省に提訴し、事件を解決へと
 導いた。これが縁で民部省に招かれ、官営富岡製糸場建設に
 計画当初から携わった。
 (★深谷市Hp)

10月 渋沢栄一は大隈重信に大蔵省入りを説得された。
   大蔵省に入省する。
   明治政府に仕え、民部省租税正となった。
  民部省改正掛掛長を兼ねた。

・明治3年(1870 )
渋沢栄一は官営富岡製糸場の設置主任となった。

 ※妻千代の兄:尾高惇忠は工事のまとめ役となった。
  民部省→大蔵省勧業掛の富岡製糸場掛となった。




尾高惇忠は建築の材木・レンガ・瓦・土台石を集める準備に
 取り掛かった。


●エピソード・・「尾高氏は説得の名人」
 工場建設に妙義神社にある500年杉が必要になった。
 その話を神主に頼みに行ったが、断られた。
 「妙義山は神様の山だ。天狗の山の木を切り倒したら、どんな
  祟りがあるかわからない。
 住民たちにも願いに行く。
 「妙義山は神様が守ってくれている。」
 「この木を外国人が使うなんて・・・」
 「絶対、反対だ。」
 と断られた。
 その後も繰り返し説得した。説得の繰り返しだった。
「日本の国を豊かにするためです。・・・天狗様が喜んで
  くださる。」
(★郷土の光をかかげた人々U巻:群馬県教育委員会 )

★建設資材の調達に尽力したのだ。

●富岡製糸場の特徴の一つは何か?
  木骨れんがづくりである。
  明治政府が設立した富岡製糸場の繭倉庫や繰糸場は、日本
  古来の木造の柱に西欧伝来のれんがを組み合わせた和洋折
  衷の「木骨れんが造」と呼ばれる構造で作られている。
  窓ガラスや蝶番(ちょうつがい)などはフランスから輸入
  された。

韮塚直次郎
・文政6年(1823) 深谷市明戸に生まれた。
富岡製糸場の建設において資財の調達のまとめ役を務めた。
主要な建築材料の煉瓦もまだその製造方法もわかっていない中、
直次郎は明戸の瓦職人たちを束ね、試行錯誤の末、煉瓦を焼き
上げることに成功した。

堀田鷲五郎
 尾高と同じ下手計に生まれた。
 富岡製糸場の建設において煉瓦を接着するためのモルタルを
 考案した

※韮塚直次郎の煉瓦造りと堀田鷲五郎の漆喰を利用するアイデア
 が功を奏した。



〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
★箕輪初心「バスチャン」の補足説明
 ・慶応3年(1866)横須賀製鉄所
 (→横須賀造船所)の造船工兼製図工として来日。
  フランスの設計技術者。
  ・明治4年(1871)
 1月  政府お雇いフランス人製糸技師:ブリューナ
  は製糸場の設計・・・
  給料は大臣より高かった。

  ブリューナは横須賀製鉄所の建設に携わった
  バスチャンに依頼。
  官営富岡製糸場の設計にあたる。
 
 ●尾高の資材の調達先
 @石材:礎石にする台石は現甘楽町小幡連石山
   (長厳寺の裏山)から採掘。
 A木材:杉材・欅材は妙義神社の山林、
    小材は近く山林。
    松材は中之条沢渡の官林。
    吾妻川→利根川→鏑川を遡上。
 B石炭:寺尾村(現高崎市)亜炭の採掘。
 C煉瓦:現甘楽町福島の笹森稲荷前に築窯。
 D煉瓦の目地材:下仁田町青倉産の石灰を漆灰として使用。
 E窓用のガラス:フランスから輸入。
 3月に着工。
 

・明治5年(1872)
2月 ブリュナがフランス人技師3名と女教師4名を
    など計13名を引き連れて富岡に戻った。
  
3月?政府は工女募集

7月 工事完了。構想から竣工まで、僅か2年数か月。
     バスチャン横須賀に帰着。

★富岡製糸のボランティアガイドの説明
「バスチャンは、酒と女を求め、度々東京に通った。」とか
・明治21年9月9日横浜で死去。49歳。シェルブール出身。
★箕輪初心■「富岡製糸工場とその関連施設」を検索

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

渋沢栄一・尾高惇忠の粘り強い存在なくして富岡製糸場
 は建たなかった。パリ万博でヨーロッパ諸国を視察して
 きた渋沢栄一や尾高惇忠・韮塚直次郎・堀田鷲五郎
 など深谷人がが絡むことで立派な煉瓦造りの工場が
 建立できた。

・明治5年(1872 )〜明治9年(1876)11月
7月 尾高惇忠は初代所長を務めることになった。

 工女の募集・・・「生き血を啜るフランス人」という
 噂が流れ、工女は集まらなかった。
尾高勇 
 自ら範を示すため、娘の「ゆう」14歳を伝習工女
 第1号として入場させ、工女の教育を熱心に行った。
 長女の勇(ゆう)は父の心中を察し、工女第1号となった。

 すると、同じ下手計村の松村倉17歳はじめ5人の少女が
 志願した。倉の祖母:和志は62歳での志願であった。
 ・・・後に工女取締役になった。
   
※工女を能力給を考え出した。
  
※教育者として力量も発揮した。
 官営富岡製糸場初代工場長の尾高惇忠は
 「至誠如神」(至誠神の如し)の4文字を大書した額を
 工場長室に掲げ、工場の運営方針とした。
 (★荻野勝正氏)
 

・明治6年(1873)
6月 ウィーン万博・・・第2等賞
岡シルクがヨーロッパで有名になった。

富岡製糸場で働いていた工女が各県に分かれていき、
養蚕の発達に貢献していった。

・明治8年(1875)
フランス人が帰国。
日本人経営になった。



・明治9年(1876)
はじめて、大きな利益をあげた。
11月 富岡製糸場場長の職を辞した


・明治10年(1877)
    国立第一銀行の盛岡支店に勤務した。
    経済発展に尽力した。
    製藍の製造と普及にも務めた。


・明治20年(1887)
第一国立銀行仙台支店支配人=支店長になった。

・明治25年(1892) 深谷に戻った。
       号は藍香。
 
   
・明治34年(1901)1月2日 死亡。71歳。



★参考資料
・郷土の光をかかげた人々U巻:群馬県教育委員会
・渋沢栄一記念館の冊子
・パンフレット

★参考サイト
・深谷市Hp




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