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zoom RSS 箕輪初心★【渋沢栄一の生涯】:「日本資本主義の父」

<<   作成日時 : 2014/09/13 06:16   >>

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渋沢栄一は埼玉県深谷の3大偉人と言われている。家事手
伝い:染色の仕事&勉強&剣術修行→尊皇攘夷運動→幕臣
(一橋家)→ヨーロッパ視察→大蔵官僚→実業家の人生を歩
んだ。第一国立銀行や東京証券取引所などといった約500も
の多種多様な企業の設立・経営に関わった。また、約600の
教育機関 ・社会公共事業の支援並びに民間外交に尽力した。

真下さん、ありがとうございました。渋沢栄一
記念館の新井慎一先生の説明が非常に面白かったです。
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※新井慎一先生・・・実は、「上杉氏&深谷上杉氏の
第一人者であった。」
新井慎一先生が名刺を下さった。
いつか、お話をお聞きしたいが・・・。



箕輪初心○埼玉【深谷城】&『深谷上杉氏の歴史』
http://53922401.at.webry.info/201406/article_4.html

箕輪初心●埼玉深谷【人見氏館】=猪俣人見氏→庁鼻和上杉氏
http://53922401.at.webry.info/201406/article_5.html

箕輪初心★埼玉深谷【庁鼻和城】&4代上杉憲顕の子:
庁鼻和上杉憲英〜
http://53922401.at.webry.info/201405/article_25.html

箕輪初心●埼玉深谷【東方城】=深谷城の支城
http://53922401.at.webry.info/201406/article_6.html

箕輪初心●埼玉深谷:普済寺【岡部氏館】&岡部忠澄の墓
http://53922401.at.webry.info/201406/article_19.html


*******関東管領:上杉家関係**************************
箕輪初心★山内上杉16代@「初代〜7代」=足利尊氏の
母方系
http://53922401.at.webry.info/201405/article_23.html

箕輪初心★上杉家A『8代:憲実〜9代:憲忠〜10代:房顕』
http://53922401.at.webry.info/201405/article_26.html

*********上杉顕定の関係****************************
箕輪初心★太田道灌の生涯:長尾景春のライバル
http://53922401.at.webry.info/201312/article_1.html

箕輪初心★長尾景春:関東下克上で従兄弟:太田道灌と交戦
http://53922401.at.webry.info/201311/article_31.html

箕輪初心★【連歌師:飯尾宗祇】&関東管領:上杉&長尾
http://53922401.at.webry.info/201404/article_24.html

箕輪初心★『宗長の生涯』:世捨て人の彷徨
http://53922401.at.webry.info/201404/article_25.html


箕輪初心●群馬【平井城前編】:関東管領8代上杉憲実〜
16代上杉謙信
http://53922401.at.webry.info/201405/article_29.html
http://s.webry.info/sp/53922401.at.webry.info/201405/article_29.html

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●渋沢栄一コーナー
【1】渋沢栄一の生家
@門
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A銅像

B渋沢家
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C渋沢栄一の生家内部
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 ガイド:真下さんに説明いただいた。

D渋沢家・・・現在の家は妹夫婦が造った家だそうである。
左:1866年、右:1867年
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E正二位勲一等子爵。
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F妹:渋沢貞子
 渋沢栄一が故郷を出てからは妹:貞子が「中ノ家」を守った。
 須永家より市郎をむかえ4代目とした。
  渋沢貞子・市郎夫妻の長男:渋沢元治は初代名古屋大学
  総長となった。
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G本家「東ノ家」のフランス文学者の澁澤龍彦。
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H渋沢栄一と青い目の人形


I2番目の奥様:伊藤兼子



J藍・・・タデの染物
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Kタデ
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L米蔵

M石碑
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N雅号は青淵(せいえん)・・・裏に池があった。
 尾高惇忠が命名した。
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★渋沢家が武家屋敷のような気がしてならなかった。


★真下さんにお礼を言った。
 4:15分、急がなくちゃ。




【2】渋沢栄一博物館
@ビデオ10分「富岡製糸&深谷の3大偉人」
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A新井慎一先生の説明30分・・・
 ★こんな面白い講義は久しぶりであった。
  力が湧くんだよね。・・・
 渋沢栄一先生の履歴から始まった。
 
渋沢栄一だけを知って説明しても渋沢栄一は
語れない。必要なのは、歴史的背景と本人が
決めた人生観&国家観なのだろうか?

 

  

【3】尾高惇忠生家
 
※新井慎一先生の話 
  惇忠・・・・「あつただ」
    「とんちゅう」ではかっこ悪い。
  本人が名刺で「じゅんちゅう」と書いた。
  地元では「じんちゅう」と呼んでいます。



★★  渋沢栄一の生涯  ★★
・天保11年(1840)2月13日(3月16日)
〜昭和6年(1931)11月11日(満91歳没)


【1】渋沢家の出自
 ・・・山梨県北巨摩郡渋沢村か?
 
 ★武田信玄の家臣だったのかもしれない
川田谷歴史民俗博物館の橋本先生の話
 「埼玉は中山道を造った時に、宿場に武田家・北条家の
  落ち武者・浪人が多く住み着いた。・・・
  桶川本陣の??さんも武田家浪人だった。」

※江戸末期、血洗島村には渋沢姓を名乗る家が17軒あった。
このため、家の位置によって「東ノ家」「西ノ家」「中ノ家」
「前ノ家」「新屋敷」などと呼んで区別した。
渋沢栄一の父:市郎右衛門は「東ノ家」の当主2代目:宗助
の3男としてうまれたが、「中ノ家」に養子にはいった。
明暦年間の「中ノ家」は小農にすぎなかったが、渋沢栄一が
うまれるころになると村の中で2番目の財産家となっていた。
渋沢栄一は渋沢家の分家「中ノ家」の出だった。
※渋沢家は藍玉の製造販売と養蚕を兼営した。
 米、麦、野菜の生産も手がける豪農だった。
原料の買い入れと販売を担うため、商い用の店も
母屋の前にあった。もちろん、米倉もあった。
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◆誕生〜少年時代〜〜〜〜〜
・天保11年(1840) 2月13日
 武蔵国榛沢郡血洗島村(現埼玉県深谷市血洗島)で生まれた。
父:市郎右衛門
母:エイの長男として生まれた。
幼名は栄二郎。
(〜〜〜栄一郎、篤太夫、篤太郎。)
渋沢成一郎は従兄。


5歳の頃〜父から読書を授けられた。
7歳の時
 @従兄の尾高惇忠の許に通った。
   四書五経や『日本外史』を学んだ。
★水戸学が中心だったと家の説明に書いてあった。
※尾高惇忠の生家
 A剣術は大川平兵衛より神道無念流を学んだ。
 ※新井慎一先生の話
  大川平兵衛川越藩(★後に上野国前橋藩)剣術師範
  だった。・・・
大川平兵衛は晩年、婿に行った先の入間郡横沼(坂戸市)
 に戻り、道場を構えた。
  師範として門弟3000人を持った。
 そこから尾高惇忠や渋沢栄一など多くの志士を輩出した。

※渋沢家では算盤をはじく商業的な才覚が必要であった。
 渋沢栄二郎は父と共に信州や上州まで藍を売り歩き、藍葉
 を仕入れる仕事を手伝った。

14歳の時〜 単身で藍葉の仕入れに出かけて行った。
 ※この時の経験がヨーロッパ時代の経済システムを吸収しや
 すい素地を作り出したと言われている。
 後の現実的な合理主義思想につながったといわれる。
●新井慎一先生の話
深谷・・本庄・・・姫街道(藤岡・下仁田)・・
 佐久・東御・上田で藍玉を買い付け・・・
・・・碓氷峠・・・高崎・・・本庄・・
おそらくは、鳥居峠から群馬の吾妻にも行ったの
 あろう。現東吾妻町大戸には、加部安左衛門がいて、
 繭や岩島の麻などを扱っていたので、商売の話をしたので
 あろう。


・安政5年(1858) 19歳
 尾高惇忠の妹:尾高千代と結婚した。
  名を渋沢栄一郎と改めた。
尾高惇忠・・・後の富岡製糸の初代:工場長である。




◆江戸での遊学時代〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

・文久元年(1861年)21歳
 に江戸に出た。
@海保漁村の門下生となる。
●新井慎一先生の話
「海保は安中藩出身ですか?」と聞くと、
「海保漁村は千葉県出身です。」と教えて下さった。
 ※下谷久保町(現東京都台東区)に「掃葉軒」を開いていた。
  信夫恕軒・鳩山和夫・渋沢栄一などに儒学を教えた。
A北辰一刀流の千葉栄次郎の玄武館道場(お玉が池の千葉道場)
 に入門した。
★千葉栄次郎は父:千葉周作から、北辰一刀流を継いだ。
千葉栄次郎の門弟には水戸藩士も多かった。
 
●新井先生の話
 私を写真の所に連れて行き、
「どこから見ても、隙がないでしょう。」
とおっしゃった。

一橋家家臣・・・用人:平岡円四郎とも親交があった。
剣術修行の傍ら勤皇志士と交友を結んだ。





◆尊皇攘夷思想〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

・文久3年(1863年)23歳
 「尊王攘夷」思想の影響を受けた渋沢栄一郎や従兄弟
 たち(尾高惇忠の弟)は、高崎城乗っ取りの計画を立てた。
 渋沢栄一郎は尊皇攘夷の思想に目覚めたのだ。
 高崎城を乗っ取って武器を奪う計画を立てたのだ。

 横浜を焼き討ちにした。
 長州と連携して幕府を倒すという計画をたてる。
 しかし、尾高惇忠の弟:長七郎の懸命な説得により
 中止した。
●新井慎一先生の話
「高崎が一番適していた。襲っても逃げられる。
 川越城ではすぐ捕まってしまう。・・・
 宇都宮城では遠すぎる。」

映画では、
 「従兄弟と横浜に行くが、既に他の藩の武士が
  焼き討ちにしたあとだった。火で崩れる洋館を
  眺めた。・・・深谷に戻った。
  父が親族に累が及ばぬよう勘当した。」



◆京都時代〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
渋沢栄一郎は京都に上った。
八月十八日の政変直後であった。
勤皇派が凋落した京都での志士活動に行き詰まっていた。
●新井慎一先生の話
「??を切れ。」と言われたが、
新選組の土方歳三が
「危ないから、私達に任せて下さい。」
といったので、毅然とした態度で、
&土方歳三に
「私が頼まれた仕事です。」
と答えたという。
そういう責任感の強い男だったのです。
でなければ、500の会社に関わりなんて
もてません。人から信用される男だったのです。」



◆徳川慶喜の家臣→幕臣時代〜〜〜〜〜〜〜
・元治元年(1864) 24歳
  江戸遊学の折より交際のあった一橋家家臣
 :平岡円四郎の推挙により一橋慶喜に仕えることに
  なった。
 
※外国艦隊下関を砲撃


・慶応元年(1865) 25歳
  一橋家の歩兵取立御用掛を命ぜられた。
一橋家領内を巡回し、農兵の募集に携わった。


・慶応2年(1866 ) 26歳
  徳川慶喜が征夷大将軍となった。
  渋沢栄一は幕臣となった。
 ※長州征伐・・・薩長同盟・・・があった。


・慶応3年(1867) 27歳 パリ万博使節団
パリで行われる万国博覧会に将軍:徳川慶喜の名代として
 出席する15代将軍:徳川慶喜の実弟・・・後の水戸藩主。
 徳川慶喜の実弟:徳川昭武の随員となった。
 渋沢栄一は「御勘定格陸軍付調役」の肩書を得て、
 フランスへと渡航した。
 徳川昭武に従ってフランスへ出立〜〜〜〜。
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 @パリ万博を視察
 Aヨーロッパ各国を訪問
 渋沢栄一は先進的な産業・軍備を実際に見た。
 軍人将校と商人が対等に交わるヨーロッパ社会を見て
 感銘を受けた。
 渋沢栄一は通詞:シーボルトの長男:アレクサンダー
 からオランダ語を学んだ。
 
 フランス滞在中に、御勘定格陸軍付調役→外国奉行
 支配調役→開成所奉行支配調役になった。
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 パリ万博とヨーロッパ各国訪問を終えた後、
 徳川昭武はパリに留学するが。大政奉還に伴い、
 帰国命令が出た。

  ※大政奉還・・・王政復古

・慶応4年(1868) 28歳
5月 新政府から帰国を命じられた。
 9月4日(10月19日)マルセイユから帰国の途についた。
11月3日(12月16日) 横浜港に帰国した。

・明治元年(1868 ) 明治維新によりフランスより帰国した。
 渋沢栄一は、静岡で徳川慶喜に面会した。
 静岡藩に出仕することを命ぜられた。
徳川慶喜より
「これからは、お前の道を行きなさい。」
との言葉を拝受した。
※戊辰戦争(1868〜1869) の最中であった。


・明治2年(1869年)29 歳
 1月 静岡にて静岡藩に「商法会所」設立した。
フランスで学んだ株式会社制度を実践するためであった。
 また、静岡藩の新政府からの拝借金の返済のためだった。   
 
※東京遷都・・・岡谷繁美の建白。
※東京・横浜間に電信開通


●新井慎一先生の話
「小栗上野介から指導を受けたことはあるのですか?」
「小説にはそう書いている本もありますが、交流はなかった
と思います。」と断言されていた。



◆大蔵省時代〜〜〜〜〜〜
  大隈重信に大蔵省入りを説得された。
10月 大蔵省に入省する。
   明治政府に仕え、民部省租税正となった。
  民部省改正掛掛長を兼ねた。

・明治3年(1870 ) 30歳
※官営富岡製糸場の設置主任となった。
妻千代の兄:尾高惇忠は工事のまとめ役となった。
 ・・・後の富岡製糸の初代:工場長である。


・明治4年(1871) 31 歳
  紙幣頭となった。
 『立会略則』発刊。
 
 ※廃藩置県

・明治5年(1872) 32歳
大蔵少輔事務取扱となった。

●新井慎一先生の話
※「大蔵少丞・・・大蔵大臣に相当するのが、井上馨
 大蔵次官:・・・なくて、実質、bQだった。」
大蔵官僚として民部省改正掛・・・
(当時、民部省と大蔵省は事実上統合されていた。)
@民部省改革案の企画立案を立案
A度量衡の制定
B国立銀行条例制定・・
C抄紙会社設立出願。
しかし、予算編成で大久保利通や大隈重信と対立した。

★新橋〜横浜間鉄道開通

・明治6年(1873) 33歳
 井上馨と渋沢栄一は共に大蔵省を退官した。


◆実業界時代〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 退官後間もなく、第一国立銀行(第一銀行、第一勧業銀行→
 現:みずほ銀行)の頭取に就任した。
 以後は実業界に身を置くことになった。
 また、七十七国立銀行など多くの地方銀行設立を指導した。
 第一国立銀行・東京瓦斯、東京海上火災保険、王子製紙
(現王子製紙・日本製紙)・田園都市(現東京急行電鉄)、
秩父セメント(現太平洋セメント)、帝国ホテル、秩父鉄道、
京阪電気鉄道、東京証券取引所、キリンビール、サッポロ
ビール、東洋紡績など、多種多様の企業の設立に関わった。
その数は500以上といわれている。


第一国立銀行開業・・・・総監役。
抄紙会社創立(後に王子製紙会社・取締役会長)。

※ 国立銀行条例発布・地租改正条例布告


・明治7年(1874) 34歳
東京府知事より共有金取締を嘱託される。

・明治8年(1875) 35歳
¥ 第一国立銀行の頭取となった。
  ¥商法講習所創立。

・明治9年(1876) 36歳
¥東京会議所会頭。
 ・東京府養育院の事務長(後に院長)。
 ¥三井銀行を開業。

・明治10年(1877) 37歳
¥択善会創立(後に東京銀行集会所会長)。
  王子西ヶ原に別荘を建てはじめる。
  
 ※西南戦争が勃発した。

・明治11年(1878) 38歳
¥ 東京商法会議所を創立。・・・会頭
    (後に東京商業会議所会頭)

・明治12年(1879) 39歳
グラント将軍(元第18代米国大統領)の
   歓迎会・・・東京接待委員長となった。

・明治13年(1880) 40歳
     博愛社の創立(後に日本赤十字社常議員)。
通詞:アレクサンダー&弟:ハインリッヒがあった。

・明治14年(1881) 41歳

・明治15年(1882) 42歳
ちよ夫人が死去。
★渋沢栄一の妻:尾高惇忠の妹:千代がなくなった。
   ・日本銀行営業開始


・明治16年(1883) 43歳
大阪紡績会社工場落成・発起人(後に相談役)。
  伊藤かね(伊藤兼子)と再婚した。
  ※伊東兼子の父は武蔵国川越出身の大富豪:伊藤八兵衛
  である。
  伊藤八兵衛の実弟は画家の淡島椿岳は
  伊藤八兵衛の甥は作家の淡島寒月である。
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 ※鹿鳴館開館式

・明治17年(1884) 44歳
日本鉄道会社理事委員(後、取締役)。

  華族令制定

・明治18年(1885) 45歳
¥日本郵船会社を創立(後に取締役)。
  ・東京養育院の院長となった。
  ¥東京瓦斯会社を創立(後に取締役会長)

  ※内閣制度が制定された。

・明治19年(1886) 46歳
  ¥「竜門社」を創立。
  ¥東京電灯会社を設立。


・明治20年(1887 ) 47歳
  ¥日本煉瓦製造会社の創立・発起人(後に取締役会長)。
富岡製糸工場のレンガ造りの技術を生かした。
東京駅・前橋駅にも使用された。
  ¥帝国ホテル創立・発起人総代(後に取締役会長)。

・明治21年(1888 ) 48歳
¥札幌麦酒会社創立・発起人総代(後に取締役会長)。
★サッポロビール
   東京女学館開校の会計監督(後に館長)。

・明治22年(1889 ) 49歳
東京石川島造船所の創立(後に取締役会長)。
明治22年〜37年(1904)の15年間、深川区会議員を
  務め、区会議長にも選出された。
  深川の発展の為に尽くした。
 
  ※大日本帝国憲法は公布された。

・明治23年(1890 ) 50歳
貴族院議員に任ぜられる。
第一回帝国議会.

・明治24年(1891) 51歳
東京交換所創立・・・・・委員長。

・明治25年(1892 ) 52歳
¥東京貯蓄銀行創立・・・取締役(後に取締役会長)。
7月19日: 勲四等瑞宝章・・・民間人初の叙勲。

・明治26年(1893 ) 53歳

・明治27年(1894 ) 54歳
  ※日清戦争が勃発

・明治28年(1895 ) 55歳
¥北越鉄道会社創立・監査役(後に相談役)。
※日清講和条約が調印された。

・明治29年(1896 ) 56歳
¥日本精糖会社が創立・・・・取締役。
  ¥第一国立銀行が営業満期→第一銀行(頭取)。
  ¥日本勧業銀行設立委員。

・明治30年(1897 ) 57歳
澁澤倉庫部の開業。 ・・・金本位制の施行。

・明治31年(1898 ) 58歳

・明治32年(1899 ) 59歳

・明治33年(1900 ) 60歳
日本興業銀行設立委員。
男爵を授けられる。

・明治34年(1901 ) 61歳
日本女子大学校開校・・・会計監督。(後に校長)
   東京の飛鳥山邸を本邸とする。
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・明治35年(1902 ) 62歳
兼子夫人と同伴で欧米視察。
ルーズベルト大統領と会見。
※日英同盟協定の調印

・明治36年(1903 ) 63歳
  渋沢栄一は対印貿易の重要性を認識していたので
 渋沢は、大隈重信らとともに日印協会の設立に携わった。
 第3代会長をつとめた。


・明治37年(1904 ) 64歳
風邪をこじらせ長期に静養。
※日露戦争勃発。

・明治38年(1905) 65歳

・明治39年(1906) 66歳
東京電力会社の創立・・・・取締役。
京阪電気鉄道会社の創立(後に相談役)。
※ 鉄道国有法の公布

・明治40年(1907) 67歳
帝国劇場会社創立・創立委員長(後に取締役会長)。
恐慌、株式暴落

・明治41年(1908) 68歳
   アメリカ太平洋沿岸の実業家一行を招待。

・明治42年(1909) 69歳
多くの企業・団体の役員を辞任。
渡米実業団を組織し団長として渡米。
・・・タフト大統領と会見。

・明治43年(1910) 70歳
政府諮問機関の生産調査会創立・副会長。
※日韓併合

・明治44年(1911) 71歳
8月24日 勲一等瑞宝章を授与される。


・大正元年(1912 ) 72 歳
  ニューヨーク日本協会協賛会創立・・・名誉委員長。
  帰一協会成立。

・大正2年(1913) 73歳
  日本結核予防協会創立・・・・副会頭。(後に会頭)
 ¥日本実業協会創立・・・会長。

・大正3年(1914) 74歳
日中経済界の提携・・・中国訪問。
  11月10日: 勲一等旭日桐花大綬章

  ※第一次世界大戦の勃発


・大正4年(1915) 75歳
パナマ運河の開通博覧会のために渡米。
     ウイルソン大統領と会見。

・大正5年(1916) 76歳
第一銀行の頭取等を辞職・・・=実業界を引退。
   日米関係委員会が発足・・・常務委員。
道徳経済合一説
   『論語と算盤』を著した。
   「道徳経済合一説」という理念を打ち出した。
  幼少期に学んだ『論語』を拠り所に倫理と利益の両立を
  掲げ、経済を発展させ、国全体を豊かにする為に、富は
  全体で共有するものとして社会に還元することを説
  いた。
  備中松山藩の藩政改革にあたった陽明学者・山田方谷
  の門人「三島中洲」深く交わり、渋沢栄一は、三島の
  死後に三島が創立した二松学舎大学の経営に深く関わ
  った。

  渋沢栄一は「理化学研究所設立ニ関スル建議」を政府
 に提出した。大隈重信首相は理化学研究所の設立発起
 協議会開催した。



・大正6年(1917) 77歳
 財団法人「理化学研究所設立」
渋沢栄一を設立者総代として(財)理化学研究所の設立
を申請。
 皇室からの御下賜金、政府からの補助金、民間からの寄付
 金をもとに東京文京区駒込に設立された。
 →2014年 STAP論文調査委員の論文へ
 ★小保方さん、頑張れ・・・

日米協会創立・・・・名誉副会長。

・大正7年(1918) 78歳
『徳川慶喜公伝』渋沢栄一著(竜門社)を刊行。

・大正8年(1919) 79歳
協調会創立・・・・副会長。
  ※ヴェルサイユ条約調印。


・大正9年 (1920 ) 80 歳
     国際連盟協会創立・・・会長。
     子爵を授けられる。
    株式暴落(戦後恐慌)

・大正10年 (1921 ) 81 歳
排日問題の善後策を講ずるために渡米。
★特に、サンフランシスコが酷かった。
   ハーディング大統領と会見。
1912年〜「外人土地所有禁止法」・・・
  日本移民排斥運動などで日米関係が悪化した。
 対日理解促進のためにアメリカの報道機関へ日本のニュース
 を送る通信社を立案・・・成功はしなかった。
 ※現在の時事通信社と共同通信社の起源となった。

・大正11年 (1922 ) 82歳

・大正12年 (1923) 83 歳
関東大震災善後会創立・・・副会長。
関東大震災後の復興のために寄付金集めなどに
 奔走した。
 ※震災復興院委員:渋沢栄一、伊東巳代治、加藤高明


・大正13年 (1924) 84 歳    
日仏会館の開館・・・・理事長。
  東京女学館の館長。
   米国で排日移民法成立。

・大正14年 (1925) 85 歳
渋沢栄一は晩年を川越市で過ごした。

・大正15年 (1926) 86歳
日本太平洋問題調査会の創立・・・評議員会長。
  日本放送協会の創立・・・・顧問。

渋沢栄一はは1926年と1927年のノーベル平和賞
  の候補にもなった。

・昭和2年(1927 ) 87歳
  日本国際児童親善会の創立・・・会長。
  日米親善人形歓迎会を主催。
  日本人形とアメリカの人形(青い目の人形)を交換する
  などして、交流を深めることに尽力した。


★渋沢栄一は東京市からの要請で養育院の院長を務めた。
東京慈恵会、日本赤十字社、癩予防協会の設立などに携
わった。
財団法人聖路加国際病院初代理事長、
財団法人滝乃川学園初代理事長、
YMCA環太平洋連絡会議の日本側議長などもした。




※金融恐慌が勃発

・昭和3年(1928 ) 88歳
日本航空輸送会社の創立・・・創立委員長。
  日本女子高等商業学校の発起。

・昭和4年(1929 ) 89歳
中央盲人福祉協会創立・・・会長。
  ※世界大恐慌が始まった。

・昭和5年(1930) 90歳
海外植民学校顧問。

・昭和6年(1931 ) 91歳
  中国での水害のために、中華民国水災同情会会長を務め
  義援金を募った。
  民間外交の先駆者としての側面もある。

 11月11日 渋沢栄一が永眠。
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●新井慎一先生の話
『渋沢栄一の凄いところは・・「私利私欲に走らなかったこと
です。」「私利を追わず公益を図る」との考えを生涯に
貫き通した。ことです。」
とおっしゃった。
渋沢栄一が三井高福・岩崎弥太郎・安田善次郎・住友友純・
古河市兵衛・大倉喜八郎などといった明治の財閥創始者と
大きく異なる点は、「渋沢財閥」を作らなかったことにある。
渋沢栄一は財界引退後に「渋沢同族株式会社」を創設したが、
保有する株はほとんどの場合は数%〜20%にも満たないも
のであった。


★参考資料等
・現地案内板
・パンフレット等


★参考サイト
・渋沢栄一記念館Hp





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箕輪初心★【渋沢栄一の生涯】:「日本資本主義の父」 城・陶芸・ハイキング・ダイビング・スキー・旅行/BIGLOBEウェブリブログ
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