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zoom RSS 箕輪初心●埼玉【雉ヶ岡城】=上杉顕定の城→北条氏の城

<<   作成日時 : 2014/05/29 04:53   >>

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文正元年(1466) 関東管領&上杉11代:上杉顕定が平井城
を拡張した。平井城にいた上杉顕定の家臣:夏目氏の支配に
なった。文明12年(1480)長尾景春が八幡山(雉ヶ岡城付近)
で蜂起したが、やがて鎮圧された。永禄年間(1558~1570)に
北条氏邦は雉ヶ岡城に家臣:横地左近忠春を配置して児玉方
面を鉢形領に組み込んだ。天正18年(1590)豊臣秀吉によ
る小田原城攻撃の時、前田利家・上杉景虎の攻撃により落城
した。最終的には松平家1万石の城となったが江戸時代前
に廃城となった。しかし、約150年近い歴史がある。

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*******関東管領:上杉家関係***************************

箕輪初心★山内上杉16代@「初代〜7代」=足利尊氏の母方系
http://53922401.at.webry.info/201405/article_23.html

箕輪初心★埼玉【庁鼻和城】&4代上杉憲顕の子:庁鼻和上杉
憲英〜
http://53922401.at.webry.info/201405/article_25.html

箕輪初心★上杉家A『8代:憲実〜9代:憲忠〜10代:房顕』
http://53922401.at.webry.info/201405/article_26.html

*********上杉顕定の関係****************************
箕輪初心★太田道灌の生涯:長尾景春のライバル
http://53922401.at.webry.info/201312/article_1.html

箕輪初心★長尾景春:関東下克上で従兄弟:太田道灌と交戦
http://53922401.at.webry.info/201311/article_31.html

箕輪初心★【連歌師:飯尾宗祇】&関東管領:上杉&長尾
http://53922401.at.webry.info/201404/article_24.html

箕輪初心★『宗長の生涯』:世捨て人の彷徨
http://53922401.at.webry.info/201404/article_25.html

*********上杉顕定の死********************************
箕輪初心★本間家の歴史;佐渡本間一族→酒田本間家
 日本一の地主へ
http://53922401.at.webry.info/201307/article_20.html
★長尾為景の協力者:佐渡本間家が上杉顕定を倒した。

箕輪初心◆2013群県博:新潟県「上杉氏」関興寺・瀧澤寺・
雲洞庵・坂戸城・管領塚
http://53922401.at.webry.info/201310/article_21.html
★上杉顕定の管領塚=戦死した場所

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箕輪初心●群馬「平井城」=関東管領:上杉憲政の城
http://53922401.at.webry.info/201107/article_7.html

箕輪初心●群馬【平井城前編】:8代上杉憲実〜16代上杉謙信
http://53922401.at.webry.info/201405/article_30.html
http://53922401.at.webry.info/201405/article_29.html

箕輪初心●群馬【平井城後編】関東管領:【15代:上杉憲政 】
http://53922401.at.webry.info/201405/article_31.html

*******猪俣邦憲の関係********************************    
箕輪初心●埼玉【猪俣4城】&猪俣邦憲=北条氏滅亡へ?
http://53922401.at.webry.info/201405/article_18.html

箕輪初心■箕輪城シリーズ21「第13代:猪俣邦憲」
http://53922401.at.webry.info/201010/article_35.html

箕輪初心●群馬【名胡桃城A】=北条氏滅亡のきっかけの城
http://53922401.at.webry.info/201202/article_22.html

箕輪初心●岩櫃城探検隊第8弾【中山城2回目】
http://s.webry.info/sp/53922401.at.webry.info/201311/article_13.html

箕輪初心■箕輪城シリーズS「第12代:北条氏邦」
http://s.webry.info/sp/53922401.at.webry.info/201010/article_34.html

*******埼玉の城************************************
箕輪初心●埼玉【第53回寄居北條まつり後編:攻防戦】&
『鉢形城の歴史詳細』
http://53922401.at.webry.info/201405/article_15.html

箕輪初心○埼玉【第53回寄居北條まつり前編@準備〜パレード】
http://53922401.at.webry.info/201405/article_14.html

箕輪初心●埼玉:鉢形城4回目:外曲輪〜三の曲輪〜
二の曲輪〜本曲輪
http://53922401.at.webry.info/201311/article_30.html

箕輪初心●埼玉『鉢形城』&北条氏邦の箕輪城の大改修
http://53922401.at.webry.info/201305/article_16.html

箕輪初心●『鉢形城の歴史詳細』&47回寄居北條まつり2008
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箕輪初心◆埼玉『第52回寄居北條まつり2013鉢形城』
http://s.webry.info/sp/53922401.at.webry.info/201305/article_14.html

箕輪初心●箕輪城115【赤備え】&北条三鱗会の井伊直政
手作り甲冑@」
http://53922401.at.webry.info/201311/article_29.html

箕輪初心○埼玉【花園城】=鉢形城の支城
http://53922401.at.webry.info/201405/article_17.html

箕輪初心●埼玉【天神山城】=鉢形城の支城
http://53922401.at.webry.info/201405/article_16.html

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箕輪初心◆埼玉県の歴史
http://53922401.at.webry.info/201405/article_22.html

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■訪問日・・・平成20年(2008)5月30日
○埼玉県の本庄市の散策に来た。
雉ヶ岡城・塙保己一・御嶽山城・本庄宿・本庄城に行った。

●児玉高校の東門・・学校の回りが外堀だった。


●正門に廻って、堀・土塁を確認。
 後で3の丸だと分かった。

●児玉中学校の新築現場に行った。
 後で本丸だと分かった。
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●塙保己一博物館の入口に「城郭の地図」「歴史」
 の看板があった。

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■塙保己一博物館の館長の話
 「ここは小田原攻めの時、上杉景勝に滅ぼされた。」 

●地形を確認し、二の丸の高台に行った。
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●泣き石と深い空堀を確認した。
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●後で、山ア一氏の縄張り図で確認した。
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◆◆ 雉ヶ岡城の歴史 ◆◆   
・鎌倉時代     ■■が居住していた?


・長禄年間頃(1457〜60)
 ※五十子の陣の支城として築城されたと推定される。 
  山内上杉氏が児玉郡八幡山の独立丘陵に築城。
  関東管領上杉家の最前線地となっていた五十子陣
  (児玉郡北部)への兵を確保する目的であった。
  鎌倉街道上道の交通要衝を押さえであった。


・文正元年(1466) 関東管領:上杉顕定が平井城を
拡張し、平井金山城を造った。
上杉顕定は上州平井城に移ったのはこの時期
  かもしれない。
  山内上杉氏の居城として築かれたが、土地が狭かった
  ので、上杉家は上州平井城へ移ったものと考えられて
  いる。
 

 平井城に在城していた家臣:赤松則村(円心)
 の裔孫:有田豊後守定基を雉ヶ岡城主として配備した。
 城主となってからは夏目定基と称した。
(★ 『武蔵国児玉郡誌』『新編武蔵風土記稿』)
夏目氏は定基、定盛の2代に渡り在城した。


・文明9年(1477) 長尾景春の乱
関東管領・山内上杉家の執事職跡目問題が起こった

長尾景春に襲撃され、五十子の陣は解体した。
   五十子は約20年の歴史に幕を閉じた。
 

・文明10年(1578)
 7月 長尾景春が鉢形城に篭城して、太田道灌に敗れた。
太田道灌は長尾景春の鉢形城を攻略した。
   上杉顕定の居城とした。
   長尾景春は武蔵国を追われてしまった。

・文明12年(1480)
1月 長尾景春が八幡山(雉ヶ岡城付近)で蜂起した。
(★太田道灌状・・)
鉢形城落城後も児玉郡付近には長尾景春の勢力が残っていた
  雉ヶ岡城が長尾景春方の城であったのか不明であるが、
  児玉郡は山内上杉氏の所領である。
  ★山内家には相当数の長尾景春の支持者がいたのでは
  ないだろうか?

・文明11年(1479)
 太田道灌は甥:資忠と千葉自胤(千葉氏の上杉方)を房総
 半島へ派遣した。
 
12月 境根原合戦
 太田道灌は、和議に反対する足利成氏の有力武将:
 千葉孝胤籠る臼井城(千葉県佐倉市)を攻略した。
 しかし、太田資忠は戦死した。
 さらに、真里谷武田氏、海上氏を降し、房総半島から反対勢力を
 一掃することに成功した。
 
・文明12年(1480)
6月 長尾景春の最後の拠点:日尾城(埼玉県秩父市)を
  太田道灌に攻め落とされた。
  長尾景春は足利成氏を頼って落ち延びた。

 古河公方:足利成氏と長尾景春は、室町幕府に
  「両上杉家」との「和睦」調停を申し出た。
  足利幕府も命により、「両上杉家」と「古河公方」の対立&
  「長尾景春の叛乱」は、和睦で、終焉することになった。


・文明14年11月27日(1483年1月6日)
足利成氏と両上杉家との間で和議が成立。
 足利成氏は幕府から赦免された。
※30年にも及んだ享徳の乱は終結した。
 上杉顕定&上杉定正は対立したままだった。

・文明18年(1486) 太田道灌が殺害。
 太田道灌は、群を抜く大きな江戸城:扇谷の石垣修理しよう
  とした。
主君の扇谷上杉定正は「謀反だ。」と思った。
 そこで、扇谷上杉定正は糟屋邸
(相模国糟屋現:神奈川県伊勢原市)に誘い出し、殺害。
※扇谷家の台頭を恐れた山内家の策略だと言う学者・研究者や
子孫の方もいる。

 大田道灌暗殺により、大田道灌の子:資康や扇谷上杉家に
 付いていた国人衆の多くが山内家へ走った。

 長尾景春も上杉定正に加担して、山内:上杉顕定と戦うことに
 なった。

・長享元年(1487)  長享の乱が勃発
  山内上杉顕定と扇谷上杉定正は決裂した。
  「長享の乱」の抗争へと広がっていった。

・長享2年(1488)
両者の抗争は本格化した。
  「関東三戦」
 @実蒔原の合戦
 A須賀谷の合戦
 B高見原の合戦
  当初は上杉顕定は上杉定正に押されるが、抗争が長期化
  するにつれて、上杉顕定が次第に有利に立った。
 
・明応2年(1493) 伊勢宗瑞=北条早雲の伊豆侵攻。

・明応3年(1494) 両上杉氏の抗争が再発。
  上杉定正は伊勢宗瑞軍を相模・武蔵へ招き入れた。

  上杉定正が急死した。
  伊勢軍は撤退した。

  古河公方は一転して山内家方となっていた。

・明応3年(1494) 上杉顕定は東国における「古河公方&
  管領体制」の再構築を図っていた。
  特に足利政氏の弟を上杉顕実として養子として迎えた。
  密接な関係を築いた。
  上杉顕実は上杉憲房を差し置いて、上杉顕定の正統な
  家督後継者に据えられたと考えられる。
(★久保田順一先生の講演会)
  
・明応5年(1496) 上杉顕定の軍勢は相模国に進攻した。
 7月 伊勢宗瑞の弟:伊勢弥二郎の籠城する小田原城を
    攻略した。
   結果・・相模の西郡は「一変」した。

   東郡へ軍勢を進めた。
   扇谷上杉定正の跡を継いだ上杉朝良の出陣を受けて
   河越に軍を進めた。

・明応6年(1497) 上杉顕定は河越城に対する前線基地
   として武蔵上戸(現河越館跡)に陣を置いた。
   古河公方:足利政氏を招いた。
   足利政氏は数ヶ月の在陣の後に古河へ帰還した。
  上戸陣は7年にわたり山内上杉家の陣所として機能
  した。

・永正元年(1504) 立河原の戦い
駿河守護:今川氏親&伊勢宗瑞(北条早雲)
  VS
   上杉朝良
結果・・・上杉朝良 2,000人余りの死者を出して大敗。

  しかし、越後上杉家の援軍を受けて反撃に転じた。

・永正2年(1505) 今川&北条が上杉朝良の河越城を攻撃。
  結果・・・上杉朝良が降伏。朝良の江戸隠居を条件に
  和睦した。
  今川&北条は長享の乱で事実上の勝利宣言といえる。


・永正2年(1505) 長尾景春は上野国に戻って白井城に入った。

 上杉顕定の養子:憲房に攻められて白井城は落城した。

 長尾景春は柏原城(★群馬県東吾妻町)に逃亡した。
 長尾景春は引き続き、上杉顕定に対抗した。

・永正4年(1507) 関東管領山内上杉顕定の弟で、越後守護
:上杉房能が、守護代:長尾為景(上杉謙信の父)に
八海山の麓で殺害された。

・永正5年(1508)越後守護:上杉房能(ふさよし)が
守護代:長尾為景(上杉謙信の父)に八海山の麓で
殺された。長尾為景が佐渡の娘婿:本間氏の援助を
受けたのである
・・・関東管領:山内上杉顕定が越後に出兵した。

・永正5年(1508)北条早雲は越後栖吉城:長尾為景
 &武蔵:鉢形城:長尾景春(伊玄)と結んでいたため、
 これを契機として両上杉氏に反旗を翻した。

  上杉顕定は弟:房能の仇討ちを大義名分と
  して越後国に攻め入った。
  上杉顕定軍は越後府内(現上越市)を制圧した。

  しかし、上杉顕定の越後統治は国人の反発を受けた。

・永正6年(1509)宗長はこの付近にきた。
【東路の津登】

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・天文15年(1546) 河越の合戦
   北条の勢力下。
   北条氏那は鉢形城在城。
鉢形城の支城となった。

  北条氏康の3男鉢形城主:北条氏邦は夏目氏の
  雉ヶ岡城を攻略した。


・天文21年(1552) 北条氏康の平井城攻撃
  関東管領平井城主:山内上杉憲政は越後国の長尾景虎
 (=上杉謙信)のもとに逃れた。
@沼田説
A水上建明寺説
B中之条説
  上野国人勢や上杉憲政の馬廻まで北条に寝返っていた
  ためである。
関東管領:山内上杉憲政の秩父、児玉方面の勢力が衰退し
  した。北条氏による実質的支配体制が始まった。

・永禄年間(1558~1570)
  北条氏邦は雉ヶ岡城に家臣:横地左近忠春を配置して
  児玉方面を鉢形領に組み込んだ。

・永禄12年(1559) 武田信玄による秩父侵攻
武田信玄が雉ヶ岡城を攻略した?
  長泉寺には武田家の高札が残っているそうである。

・天正10年(1582)信長の死→神流川の合戦。
     北条氏邦 VS 滝川一益 
雉ヶ岡城・御嶽山城は北条方の拠点。

・天正18年(1590)豊臣秀吉による小田原城攻撃
   小田原の役
前田利家・上杉景虎の攻撃により落城した。
→前田利家・上杉景勝軍に雉ヶ岡城も開城。
   
徳川家康の関東入封。
   八幡山藩が立藩。
   雉ヶ岡城に松平清宗が1万石で入封した。


・慶長5年(1600) 松平家清は三河吉田3万石に入封。
   雉ヶ岡城は廃城。  
   (★案内板要約)       

・慶長6年(1601) 



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