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zoom RSS 箕輪初心★上杉家10代:上杉顕房&11代:上杉顕定

<<   作成日時 : 2014/05/26 05:46   >>

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上杉家11代:上杉顕定は@五十子(本庄)の陣で、
活躍した人物、A上野国:平井城の修築。平井金山城
の築城した人物、B長尾景春が乱を引き起こした人物、
C連歌を愛した人物として私の心に存在している。

しかし個人的には、長尾景春派の私は、上杉顕定の有
能さはちょっと好きになれないでいる。

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 (★上野国平井城:上杉顕定が大改修)
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 (★平井城の説明板)




*********上杉顕定の関係****************************
箕輪初心★太田道灌の生涯:長尾景春のライバル
http://53922401.at.webry.info/201312/article_1.html

箕輪初心★長尾景春:関東下克上で従兄弟:太田道灌と交戦
http://53922401.at.webry.info/201311/article_31.html

箕輪初心★【連歌師:飯尾宗祇】&関東管領:上杉&長尾
http://53922401.at.webry.info/201404/article_24.html

箕輪初心★『宗長の生涯』:世捨て人の彷徨
http://53922401.at.webry.info/201404/article_25.html

*********上杉顕定の死********************************
箕輪初心★本間家の歴史;佐渡本間一族→酒田本間家
 日本一の地主へ
http://53922401.at.webry.info/201307/article_20.html
★長尾為景の協力者:佐渡本間家が上杉顕定を倒した。

箕輪初心◆2013群県博:新潟県「上杉氏」関興寺・瀧澤寺・
雲洞庵・坂戸城・管領塚
http://53922401.at.webry.info/201310/article_21.html
★上杉顕定の管領塚=戦死した場所

*******関東管領:上杉家関係***************************

箕輪初心★山内上杉16代@「初代〜7代」=足利尊氏の母方系
http://53922401.at.webry.info/201405/article_23.html

箕輪初心★埼玉【庁鼻和城】&4代上杉憲顕の子:庁鼻和上杉
憲英〜
http://53922401.at.webry.info/201405/article_25.html

箕輪初心★上杉家A『8代:憲実〜9代:憲忠〜10代:房顕』
http://53922401.at.webry.info/201405/article_26.html

***************************************************



【10】上杉房顕
上杉房顕は、関東管領:山内上杉家10代当主。
 上杉憲実の次男である。上杉憲実は房顕以外の子供を
 出家させた。
 上杉房顕は越後守護:上杉房朝の元に置かれた。

・文安元年(1444) 越後と丹波の所領を与えられた。
  8代将軍:足利義政の近臣として仕えた。

・享徳3年(1454)=1455年1月15日に兄:上杉憲忠が
 鎌倉公方足利成氏によって暗殺された
・享徳3年(1454)12月27日(1455年1月15日)享徳の乱
上杉憲忠は足利成氏の鎌倉の西御門邸に招かれた。
 上杉憲忠は、足利成氏の命を受けた結城成朝の家臣:
 多賀谷氏家・高経兄弟によって謀殺されてしまった。
 享年22。
 鎌倉公方:足利成氏が上杉憲忠を暗殺したので、
  享徳の乱が始まった。
  
 岩松持国が率いる別働隊が管領屋敷を襲撃し、
 長尾実景・景住父子を殺害した。

 関東管領は上杉憲忠の弟:上杉房顕が継いだ。

※五十子の陣が構築された。
 ・享徳3年(1454)〜文明9年(1477)

・享徳4年(1455) 
3月 関東管領に任命された
    足利成氏の討伐軍の大将として関東へ下向した。
 4月 上野平井城(現群馬県藤岡市)へ入った。
享徳の乱が勃発した
   
  足利成氏は鎌倉から古河へと拠点を変えた。
足利成氏は古河公方を名乗った。

足利成氏は栗橋城・関宿城・騎西城などを味方に
していった。

・康正2年(1456) 足利成氏は上杉憲忠の殺害に対する弁明
  の書状を幕府に対して提出した。

・長禄2年(1458)足利幕府は足利義政の弟:政知を
  下向させた。しかし、伊豆の修善寺に滞在した。
堀越公方と呼ばれた。


・長禄3年(1459) 武蔵太田庄の戦い
上杉房顕は足利成氏軍に大敗を喫した。

〜〜〜〜飯尾宗祇の五十子訪問〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
・寛正2年(1461) 40歳?
宗祇は『萱草(わすれなぐさ)』を編集し始めた。
※第一自選句集・・・寛正2年(1461) 〜文明5年(1473)
「 武蔵五十子(いかっこ)といへる所
   にて 千句に
   きへなはきへぬか かゝる 罪科 」

★五十子(埼玉県本庄市)は関東管領:山内上杉顕定
  が常駐した。
家宰は白井城(群馬渋川)主:長尾景信であった。

・文正元年(1466)45歳
宗祇は五十子(埼玉県本庄市)を再び訪れた。
五十子の長尾景信の館(陣所)で連歌会があった。
 →『老葉(わくらば)』の編集を開始した。
→『老葉(わくらば)集』
「長尾左衞門尉のもとへ始てまかり
  待しとき、 九月侭
  秋をせけ 花はおいせぬ 菊の水 」

宗祇は長尾孫六(景信)に手紙を出した。

・文正2年(1467)宗祇は『吾妻問答』を編集した。
宗祇は長尾孫七郎(景春)に『吾妻問答』を送った。
★長尾景春は連歌を学び始めた。25歳頃だった。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜


・寛正4年(1463) 山内上杉家の家宰:長尾景仲が病没した。
  上杉房顕は関東管領からの辞意を表明した。
  足利義政に拒絶された。

・寛正7年(1466) 上杉房顕が五十子にて陣没した。
    享年32歳。

  関東管領は従兄弟の甥:越後の上杉顕定が継いだ。

  山内上杉家 VS 古河公方:足利成氏
  関東の覇権をかけて五十子の戦いなどで争っていた。




【11】上杉顕定
・寛正7年(1466)
2月 関東管領:上杉房顕が武蔵五十子陣にて陣没した。
   しかし。男子がいなかった。
   家宰:長尾景信は長尾景仲の遺言であるとして
   上杉房顕の従兄弟で越後守護:上杉房定の子に
   上杉房顕の跡を継がせようとした。
   上杉房定は拒否した。
 10月 室町幕府8代将軍:足利義政から上杉房定の子を
   後継とするよう命じられた。
   上杉房定の次男:龍若=上杉顕定が山内上杉家の
   家督を継いで当主となった。

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  (★本庄五十子の陣本丸) 

・長禄3年(1459)〜文明9年(1477)五十子の戦い
    断続的に続けられた合戦である。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
・寛正2年(1461) 宗祇40歳?五十子への1度目の訪問
宗祇は『萱草(わすれなぐさ)』を編集し始めた。
★第一自選句集・・・寛正2年(1461) 〜文明5年(1473)
「 武蔵五十子(いかっこ)といへる所
   にて 千句に
   きへなはきへぬか かゝる 罪科 」

・文正元年(1466)宗祇45歳
宗祇は五十子(埼玉県本庄市)を再び訪れた。
宗祇が連歌を指導しに五十子陣へ訪れたのだ。
五十子陣に足利成氏との対戦中にあった長尾孫六
 (長尾景棟が有力説)を見舞いに宗祇が訪れている。
 千句の連歌を興行した。

 五十子の長尾景信の館(陣所)で連歌会があった。
 →『老葉(わくらば)』の編集を開始した。
→『老葉(わくらば)集』
「長尾左衞門尉のもとへ始てまかり
  待しとき、 九月侭
  秋をせけ 花はおいせぬ 菊の水 」

 
 長尾孫六が連歌の指南書を求めてきたので、
 宗祇は長尾孫六(景信)に手紙を出した。
 『長六文』を与えたと言う。
 『長六文』は宗祇の最古の連歌学書とされる。
 また、鉢形城を去った長尾景春も五十子陣にいたので
 宗祇に指導を受けていたと考えられている。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜


・文正元年(1466) 上杉顕定が平井城を拡張した。
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3の丸・総曲輪も増築した。
 
 その際、平井金山城を詰め城
として築城した。
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 (平井金山城は真ん中の山である。)
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上州平井城に移ったのはこの時期かもしれない。
また、長野氏の箕輪城&鷹留城が同様な関係で
参考に、・文明9年(1477)〜長尾景春の乱以前に
築城されていたと考える説は私だけである。尚、
久保順一先生は「長野郷広域説から、鎌倉時代に
長野氏が箕輪にいた説を採っている。」
 山内上杉氏の居城として五十子が築かれたが、土
 地が狭かったので、上杉家は上州平井城へ移った
 ものと考えられる。
 
 
 平井城に在城していた家臣:赤松則村(円心)
 の裔孫:有田豊後守定基を雉ヶ岡城主として配備した。
 城主となってからは夏目定基と称した
(★『武蔵国児玉郡誌』『新編武蔵風土記稿』)
夏目氏は定基、定盛の2代に渡り在城した。

・文正2年(1467)宗祇は『吾妻問答』を編集した。
宗祇は長尾孫七郎(景春)に『吾妻問答』を送った。
★長尾景春は連歌を学び始めた。25歳頃だった。
宗祇の自撰句集『萱草(わすれぐさ)』は寛正2年(1461)
〜文明5年(1473)頃であるが、内容から五十子で詠ま
れた千句とされる。短期間とはいえど、五十子が東国に
 おける文化的中心地の一つであったと言われている。


・文明3年(1471) 上杉顕定は古河御所を占領して
         勝利している。

・文明5年(1473) 父:長尾景信が死去。
 白井長尾家の家督は嫡男:長尾景春が継いだ。
 ★長尾景春は、当然、家宰職も継げると思っていた。
 しかし、山内上杉家:上杉顕定の家宰の地位は叔父:長尾
 忠景(総社長尾氏)が継ぐことになった。上杉顕定は家宰を
 長尾景春の叔父:長尾忠景(総社長尾氏)に与えてしまった
 からである。つまり、上杉顕定は白井長尾家の力が強くなり
 すぎることを嫌ったのである。

★長尾景春は 上杉顕定を深く恨んだ。憎んだ。
 長尾景春は扇谷家上杉家の家宰:太田道灌に同心(仲間)
 になるようを頼んだ。
 長尾景春の叔母は太田道灌の母だったのだ。つまり、
 長尾景春&太田道灌は従兄弟だったのだ。
 
 しかし、太田道灌は拒否した。
 太田道灌は五十子陣にいた山内家上杉顕定と主君:扇谷家上杉
 定正のもとへ向かった。
 太田道灌は顕定と定正に
 「長尾景春を武蔵守護代に任じ、長尾忠景を一時退けて下さい。」
 と進言した。
 しかし、上杉顕定は受け入れなかった。
 「それならば、直ちに出兵して長尾景春を討つ方がよいのでは
  ないでしょうか。」
 と進言した。
 上杉顕定は
 「古河公方成氏と対峙している状況では、長尾景春を討つなど
 できない。
 と断った。
 
 ★簡単に説明すると
 太田道灌は「これはマズイ事態発生。」と思った。
 上杉定正と上杉顕定に
 「長尾景春と仲直りするか、それとも潰すか・・・
 早く手を打たねば・・・。」
 と、進言した。
 上杉顕定&上杉定正は、古河公方との決戦をひかえて
 いた。
 「武蔵(埼玉県)五十子(いかっこ)に布陣の真っ最中・・・
 長尾景春なんぞ、相手してられるか。
 古河相手に必死なんじゃよ。」
 と、断った。
 と言ったところであろうか?
 ある意味、上杉顕定は白井長尾家を嘗めていたのだ。
 優先順位が古河公方、長尾景春だった。

 ※長尾景春はこれに対してますます、不満を抱き・・・
やがて、主家:上杉顕定や叔父の長尾忠景を憎悪する
 ようになった。


・文明7年(1475)  長尾景春の乱
  従兄弟の扇谷上杉家家宰:太田道灌は勢力を拡大し、
  山内家と並ぶ勢力となった。
  以来、山内と扇谷の両家は関東管領の座をめぐって
  抗争を続けた。

・文明8年(1476)
  上杉顕定は長尾景仲の死後、長尾景春に家宰&守護代
  の地位を継がせなかった。
  
  山内上杉家は関東管領の地位を守ったが、越後守護代
  :長尾為景の反乱と上杉顕定の戦死による家督争いが
  発生した。
  伊豆・相模を平定した新興勢力:後北条氏の圧迫を受
  けるようになった。
★当然であった。有力家臣:長尾景春が古河公方と
  結んで離反したのであるから、」苦境に陥いった。

・文明9年(1477)〜長尾景春の乱が最大の五十子の戦いである。

五十子陣からも撤退せざるを得なくなった。
 乱の背景に上杉氏の内部矛盾=権力闘争があった?
山内上杉顕定が敗退し、東国における戦国時代の幕開けへ
 と繋がっていった。

・文明7年(1475)〜文明8年(1476)
  長尾景春が 武蔵:鉢形城を築城(伝)

・文明8年(1476)
 足利成氏との和睦交渉が続けられる中、長尾景春は秩父郡
 &児玉郡で抵抗を続けていた。長尾景春は鉢形城から
ゲリラ戦により、上杉方の城を落城させた。

古河公方が後ろで糸を引いて房総半島の「千葉孝胤」が
「長尾景春」に呼応し、上杉顕定に反旗を翻した。
   
 
「長尾景春の乱」
  6月 五十子(現本庄市いかっこ)の戦い
  長尾景春は主家:山内上杉顕定に反乱を起こした。
   五十子の陣に、2500騎が奇襲をかけたのだった。
  上杉顕定は、長尾景春の力を軽視していた。
  2代続けて家宰職を継いだ白井長尾氏の力は他の長尾氏
  よりも強かったのだ。・・
  五十子陣の上杉方の武将達は動揺し、勝手に帰国する者が
  続出した。
  長尾景春は上杉顕定軍を五十子陣において打ち破ったのだ。

  上杉定正と上杉顕定命からがら上野:平井城に逃げた・・・・
 
調子こいた長尾景春に、関東の国人や地侍が次々と味方になった。

相模小磯城(神奈川県大磯町)の越後五郎四郎
相模小沢城 (神奈川県愛甲郡愛川町)の金子掃部助
相模溝呂木城(神奈川県厚木市)の溝呂木正重(景春の被官)
相模小机城(神奈川県横浜市)の矢野兵庫が呼応した。
多くの関東の国人、地侍が景春に味方した。


・文明9年(1477)
1月 五十子の戦い 
  長尾景春 VS 上杉顕定
 長尾景春は2500騎を率いて五十子陣を急襲した。
 上杉顕定と上杉定正は大敗を喫して敗走。・・・
 顕定と定正は上野平井城に逃れた。
 18年間、上杉氏の対古河公方戦の最大の防御拠点だった
 「五十子陣」は長尾景春に落とされてしまったのである。
 
 長尾景春は、上杉氏と敵対する豊島泰経・豊島泰明
 ・千葉孝胤・那須明資・成田正等らとも同盟を結んだ。
 特に旧領を太田氏に奪われていた南武蔵の豊島氏は喜んだ。
 ★豊島氏はかつて、新田初代:新田義重の母になった
 一族で、鎌倉時代の名門であった。
 石神井城と練馬城(練馬区)に豊島泰経、平塚城
 (東京都北区)に弟の泰明が太田道灌の領地をとって
  返り咲いた
 豊島一族は江戸城と河越城・岩槻城との連絡線を断った。
 
 太田道灌は今川氏の内紛介入のために駿河に滞在していた。
 太田道灌は相模、房総地方の鎮圧にも奔走せざるえなくなった。
 太田道灌は長尾景春と戦うざるを得なくなったのだ。
 
※戦線は相模国から下総国に至る関東一円にと拡大していった。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
扇谷上杉家の家宰:太田道灌が武蔵に攻め込んできた。

3月 太田道灌は溝呂木城と小磯城を落とした。
 さらに小沢城を攻撃・・
 長尾景春が援兵を送った。
 太田道灌は一旦兵を引いた。
 小机城の矢野兵庫が出陣して、太田道灌の河越城攻撃した。
 太田資忠(道灌の甥)と上田上野介が撃退した。

4月 江古田・沼袋原の戦い
太田道灌 VS 豊島一族
  太田道灌は上杉朝昌:三浦高救らの援軍を得た。
  平塚城城下を焼き払った。
  豊島泰経・泰明を待ち伏せて50騎で200騎の豊島勢を
  打ち破り、泰明を討ち取った。
  太田道灌は泰経を追って石神井城を囲んだ。
  豊島泰経の石神井城を攻め落とした。
★石神井城もそのうち掲載予定。

 鉢谷原の戦い
  長尾景春 VS 上杉顕定と上杉定正軍
 長尾景春は五十子を出陣して利根川を渡り、鉢谷原で攻めるが
 撃退された。

  5月13日  
 太田道灌は上杉顕定・上杉定正と合流した。
   五十子(埼玉県本庄市)を奪回。
 太田道灌は五十子に着陣した。
 長尾景春は鉢形城にひとまず退却した。
 
 5月14日未明、太田道灌は上杉軍を率いて鉢形城へ向けて
  移動を開始した。
  
 長尾景春は「五十子の陣」を奪還した上杉軍を迎え撃つべく
 出陣した。景春は上杉勢の進路を防ぐため、用土原:針ヶ谷
 に移動した。
 
 しかし、これは太田道灌の陽動作戦であった。 

 用土原(埼玉県寄居町)の戦い
  長尾景春 VS 太田道灌・上杉顕定・上杉定正・長尾忠景
  
 太田道灌軍・両上杉軍・長尾忠景軍は一気に長尾景春軍
 をめがけて突撃した。
 長尾景春軍は完全に意表をつかれた。
 ★長尾景春の戦いの中で「用土原の合戦」は最も激しい合戦
 であった。多数の死者を出して大敗した。
 長野為兼も戦死した。
 ★私見:長野家の「兼」のつく一族がいた。
  おそらくは厩橋=前橋系?と推測している。
 
 長尾景春は鉢形城に逃げ込んだ。

 太田道灌の参戦で長尾景春軍は各地で敗れた。
 次第に、長尾景春の勢威は衰退していった。 
 しかし、長尾景春は足利成氏の支援を受け、
  太田道灌と戦い続けた。


7月 荒巻の合戦
 長尾景春の要請により、古河公方:足利成氏が長尾景春
 への援軍として、那須・佐々木・柳田・一色の諸将を
 「群馬郡滝」に布陣させた。
★私見「群馬郡滝」=船尾滝(現榛東村〜伊香保への途中)
※長尾景春の白井城&上杉軍がいる五十子の陣の間の説
  
 古河公方は、「児玉の陣」と「白井城」との連絡を遮断する
 作戦を計画たてた。
 
 太田道灌は、上杉軍主力を白井城に向けた。
 太田道灌は荒巻(★前橋市:群馬大学付近)に布陣した。
 古河公方の行動を牽制した。 
 長尾景春は同族の越後の長尾為景(上杉謙信父)にも援軍を
 要請した。

 塩売原の合戦
 長尾景春は、結城、那須、佐々木、横瀬らを率い、太田道灌の
 荒巻の陣に進軍を開始した。 
 太田道灌は決戦を避けるべく「塩売原」に陣を移動した。
 ※「塩売原」・・・現在では特定できていない。
★おそらくは前橋市惣社か吉岡町の一部であろう。
 
 長尾景春も「塩売原」に布陣した。
 

広馬場(群馬県榛東村)の戦い
山内上杉+長野業尚 VS 長尾景春
(★関東古戦録:久保田順一訳)

★関係ないけど、箕輪城から4km。・・・
つまり、藤岡の平井城&渋川の白井城はちょうど中間地点で
ある。・・・もしかして、箕輪城はこの年に、長野業尚の
よって、築城されていたのではないかとう勝手な説を
私は考えている。上杉顕定が10年前に平井城の修築
 &詰め城:平井金山城を築城したように・・・・
  

1ヶ月間対陣するが、決着がつかなかった。
※足利成氏も古河から前橋の惣社付近まで、応援に駆けつけた。

11月 双方撤兵。

長尾景春は鉢形城に戻った。
  「古河公方」が軍を引いた。
  
  長尾景春は孤立してしまった。

  太田道灌は「鉢形城」に総攻撃を加えた。
  長尾景春は必死で抵抗した。
  しかし、太田道灌軍の攻撃を支えきれず、
  長尾景春は鉢形城を放棄して秩父へ落ち延びた。 

しかし、再び足利成氏が8000騎を率いて出陣したため、
  太田道灌は撤退した。


・文明10年(1478)  
1月 足利成氏が簗田持助を通じて山内上杉家家宰:長尾忠景へ
   和議を打診した。
   20年以上の戦いに飽いた足利成氏は足利幕府の関東管領
   との有利な条件での和睦を望んでいた。
   上杉氏と足利成氏の間で和議が成立。
   太田道灌の裏工作であった。
   20年間、対立していた。・・・
  長尾景春は足利成氏の後ろ盾を失った
 
 
 3月 長尾景春が河越城へ攻撃した。
    上杉定正と太田道真が撃退した。

   豊島泰経が平塚城で再挙。
   太田道灌は鎮圧・・・
   豊島泰経は敗走して小机城に逃れた。 
 

  長尾景春は「鉢形城」を奪還し、再び、抵抗を始めた。
  
  太田道灌は小沢城を攻め落とした。
 
 4月 太田道灌は小机城を攻略。
   小机城に匿われていた豊島泰経は行方知れずとなり、豊島氏は
   歴史上から姿を消した。

   太田道灌は相模の長尾景春方の諸城を駆逐していった。
 
7月 太田道灌は長尾景春の鉢形城を攻略した。
   上杉顕定の居城とした。
   長尾景春は武蔵国を追われてしまった。

12月 境根原合戦
 太田道灌は、和議に反対する足利成氏の有力武将:
 千葉孝胤を打ち破った。


・文明11年(1479)
 太田道灌は甥:資忠と千葉自胤(千葉氏の上杉方)を房総
 半島へ派遣した。
 千葉孝胤の籠る臼井城(千葉県佐倉市)を攻略した。
 しかし、太田資忠は戦死した。
 さらに、真里谷武田氏、海上氏を降し、房総半島から反対勢力を
 一掃することに成功した。

 
・文明12年(1480)
6月 長尾景春の最後の拠点:日尾城(埼玉県秩父市)を
  太田道灌に攻め落とされた。
  長尾景春は足利成氏を頼って落ち延びた。

 古河公方:足利成氏と長尾景春は、室町幕府に
  「両上杉家」との「和睦」調停を申し出た。
  足利幕府も命により、「両上杉家」と「古河公方」の対立&
  「長尾景春の叛乱」は、和睦で、終焉することになった。


・文明14年11月27日(1483年1月6日)
足利成氏と両上杉家との間で和議が成立。
 足利成氏は幕府から赦免された。
※30年にも及んだ享徳の乱は終結した。
 上杉顕定&上杉定正は対立したままだった。

・文明18年(1486) 太田道灌が殺害された。
  太田道灌は、群を抜く大きな江戸城:扇谷の石垣修理しよう
  とした。
  主君の扇谷上杉定正は「謀反だ。」と思った。
  そこで、扇谷上杉定正は糟屋邸
  (相模国糟屋現:神奈川県伊勢原市)に誘い出し、殺害。
  ※扇谷家の台頭を恐れた山内家の策略だと言う学者・研究者や
   子孫の方もいる。

  大田道灌暗殺により、大田道灌の子:資康や扇谷上杉家に
  付いていた国人衆の多くが山内家へ走った。

  長尾景春も上杉定正に加担して、山内:上杉顕定と戦うことに
  なった。

・長享元年(1487)  長享の乱が勃発
  山内上杉顕定と扇谷上杉定正は決裂した。
  「長享の乱」の抗争へと広がっていった。

・長享2年(1488)
両者の抗争は本格化した。
  「関東三戦」
 @実蒔原の合戦
 A須賀谷の合戦
 B高見原の合戦
  当初は上杉顕定は上杉定正に押されるが、抗争が長期化
  するにつれて、上杉顕定が次第に有利に立った。
 
・明応2年(1493) 伊勢宗瑞=北条早雲の伊豆侵攻。

・明応3年(1494) 両上杉氏の抗争が再発。
  上杉定正は伊勢宗瑞軍を相模・武蔵へ招き入れた。

  上杉定正が急死した。
  伊勢軍は撤退した。

  古河公方は一転して山内家方となっていた。

・明応3年(1494) 上杉顕定は東国における「古河公方&
  管領体制」の再構築を図っていた。
  特に足利政氏の弟を上杉顕実として養子として迎えた。
  密接な関係を築いた。
  上杉顕実は上杉憲房を差し置いて、上杉顕定の正統な
  家督後継者に据えられたと考えられる。
(★久保田順一先生の講演会)
  
・明応5年(1496) 上杉顕定の軍勢は相模国に進攻した。
 7月 宗瑞の弟:伊勢弥二郎の籠城する小田原城を
    攻略した。
   結果・・相模の西郡は「一変」した。

   東郡へ軍勢を進めた。
   扇谷上杉定正の跡を継いだ上杉朝良の出陣を受けて
   河越に軍を進めた。

・明応6年(1497) 上杉顕定は河越城に対する前線基地
   として武蔵上戸(現河越館跡)に陣を置いた。
   古河公方:足利政氏を招いた。
   足利政氏は数ヶ月の在陣の後に古河へ帰還した。
  上戸陣は7年にわたり山内上杉家の陣所として機能
  した。

・永正元年(1504) 立河原の戦い
駿河守護:今川氏親&伊勢宗瑞(北条早雲)
  VS
   上杉朝良
結果・・・上杉朝良 2,000人余りの死者を出して大敗。

  しかし、越後上杉家の援軍を受けて反撃に転じた。

・永正2年(1505) 今川&北条が上杉朝良の河越城を攻撃。
  結果・・・上杉朝良が降伏。朝良の江戸隠居を条件に
  和睦した。
  今川&北条は長享の乱で事実上の勝利宣言といえる。


・永正2年(1505) 長尾景春は上野国に戻って白井城に入った。

 上杉顕定の養子:憲房に攻められて白井城は落城した。

 長尾景春は柏原城(★群馬県東吾妻町)に逃亡した。
 長尾景春は引き続き、上杉顕定に対抗した。

・永正4年(1507) 関東管領山内上杉顕定の弟で、越後守護
:上杉房能が、守護代:長尾為景(上杉謙信の父)に
八海山の麓で殺害された。

・永正5年(1508)越後守護:上杉房能(ふさよし)が
守護代:長尾為景(上杉謙信の父)に八海山の麓で
殺された。長尾為景が佐渡の娘婿:本間氏の援助を
受けたのである
・・・関東管領:山内上杉顕定が越後に出兵した。

・永正5年(1508)北条早雲は越後栖吉城:長尾為景
 &武蔵:鉢形城:長尾景春(伊玄)と結んでいたため、
 これを契機として両上杉氏に反旗を翻した。

  上杉顕定は弟:房能の仇討ちを大義名分と
  して越後国に攻め入った。
  上杉顕定軍は越後府内(現上越市)を制圧した。

  しかし、上杉顕定の越後統治は国人の反発を受けた。


・永正6年(1509)
7月、古河公方の内乱を収めた。
  上杉顕定は養子:憲房と共に越後に攻め入った。
  上杉顕定は長尾為景(上杉謙信の父)に殺された越後の
  弟の弔い合戦のために、越後上田庄(新潟県六日町)に
  遠征し、長尾為景を府内(上越市)に退却させた。

  長尾為景(上杉謙信の父)と上杉定実を越中国(富山)
  に追放した。
  越後守護上杉家から上杉宗家の地位を奪還する意図
  があったと考えられている。

〜〜〜〜〜島田宗長の『東路の津登』〜〜〜〜
・永正6年(1509) 『東路の津登』
 (★『群書類従』・・・宗長『東路の津登』より)
「永正6年(1509)7月16日、白川の関を訪ねんと、丸子より
 出立。」
※出発は永正六年文月十六日とある。

 
●鉢形(埼玉県大里郡寄居町鉢形)
長尾孫太郎顯方の舘はちがた(埼玉県大里郡寄居町鉢形)と
いふ處につきぬ。政定馬上ながらくちずさびに。
  むさし野の 露のかきりは 分もみつ
秋の風をは しら川の關
この比。越後の國鉾楯により。
 武藏上野の侍進發のこと有て。
いづこもしづかならざりしかば。ひと夜有て。

**************************************************
箕輪初心★長尾景春:関東下克上で従兄弟:太田道灌と交戦
http://53922401.at.webry.info/201311/article_31.html
***************************************************
箕輪初心●『鉢形城の歴史詳細』&47回寄居北條まつり2008
http://s.webry.info/sp/53922401.at.webry.info/201305/article_15.html
箕輪初心◆埼玉『第52回寄居北條まつり2013鉢形城』
http://53922401.at.webry.info/201305/article_14.html
箕輪初心●埼玉:鉢形城4回目:外曲輪〜三の曲輪
〜二の曲輪〜本曲輪
http://53922401.at.webry.info/201311/article_30.html
**************************************************
★となると、長尾孫太郎顯方は鉢形城を築城した長尾景春
 の家系ではなく、上杉顕定に重用された長尾景春の叔父
 の系統ということになるのはないだろうか。
★いずれにしても上杉顕定の守護代として、長尾孫太郎顕方
 は鉢形に残っていたことになる。扇ガ谷上杉定正と対立し
 ていたからである。顕方の「顕」は上杉顕定から一字を
 貰ったのであろう。
●長井(埼玉県大里郡妻沼町)
〜〜〜〜利根川〜〜〜〜〜〜〜〜
●新田庄(群馬県新田郡)
●下野の足利庄●佐野  ●室の八幡(栃木市)  
●鹿沼●日光●鹿沼●佐野●足利
●新田之庄●太田●大胡(前橋市大胡)
9月〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
●青柳(前橋市青柳)●荒蒔(前橋市荒牧)
●浜河(高崎市浜川町)
「松田加賀守・・重陽(旧暦9月9日)の連歌会」
宗長は松田加賀守とは文通していた。
●大戸(東吾妻町)
●草津・・10日間滞在した。
●大戸
9月25日
●板鼻か後閑(安中市)
「きのふけふ(昨日今日)ふわけ出侍る。山中前後左右の
紅葉の興計なるべし。過諄九月廿五日、太守佳例の
法楽の連歌 依田中務少輔泊にして、
 菊さきて あらそふ秋の 花もなし 
 規懐紙を越後の陣へとなん。はま川並松別当(★古い字)
 にして
色かへぬ 松はくれ行 秋もなし 」

★依田中務少輔(しょうゆう)光幸の宿所で  
太守=上杉顕定主催の「法楽の連歌」に参加した。
連歌は越後上杉顕定の陣(新潟県六日町?)に送られた。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜



・やがて伊勢宗瑞(北条早雲)が関東に進出してきた。
 武蔵の権現山城(神奈川県鶴見)まで侵攻した。


・永正7年(1510)6月権現山の戦い
 北条早雲は、扇谷上杉朝良の被官:上田政盛を早雲側に
 寝返らせた。
 上田政盛が権現山で蜂起させた。
 北条早雲は、平塚の住吉城で呼応し、扇谷上杉領を脅か
す打ち込む形をとった。

 ところが、扇谷上杉朝良は今まで対立していた山内上杉
 顕定の養子憲房と和解する。
上杉顕定は武蔵に引き返した。
 
 そして両上杉氏は2万余の軍で、権現山城を包囲した。
7月19日、10日余の激戦・・・
両上杉氏は権現山城を落とした。
権現山城に籠もった上田蔵人政盛は
「本覚寺の地蔵堂をば根城に拵らへた。」とある。
本覚寺山の根城は、藤田虎寿丸により攻め落とされた。

 ・伊勢宗瑞(北条早雲)は小田原城まで撤退した。

 そして、上杉顕定は再び、長尾為景を討つため越後に
 行った。 

・伊勢宗瑞(北条早雲)は三浦半島の制圧した。
やがて、権現山城を攻略した。多米が城将となった。

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箕輪初心●神奈川:【青木城】&神奈川宿
http://53922401.at.webry.info/201210/article_10.html
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・永正7年(1510) 長者原(新潟県六日町)の戦い
  長尾為景は佐渡の本間一族(娘婿)の力をかり、
  長者ヶ原で上杉顕定を攻撃した。
  上杉顕定は長野為景の信濃の援軍:高梨政盛に敗北
  し、自刃。享年57歳。

※越後(現六日町八海山麓)の管領塚

★上杉顕定はなんと、長尾景春の同族で越後守護代:長
 尾為景(上杉謙信の父)と戦って戦死してしまったのだ。
**************************************************
箕輪初心◆2013群県博:新潟県「上杉氏」関興寺・瀧澤寺
・雲洞庵・坂戸城・管領塚
http://53922401.at.webry.info/201310/article_21.html

箕輪初心◆2013年スキーbP【宝台樹スキー】&【水上石倉城】
http://53922401.at.webry.info/201301/article_5.html

箕輪初心★本間家の歴史;佐渡本間→酒田本間家日本一の地主へ
http://s.webry.info/sp/53922401.at.webry.info/201307/article_20.html
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上杉顕定死後、上杉顕実が関東管領を継いだ。
  越後から帰還した上杉憲房VS 上杉顕実(足利政氏の子)
  結果・・・山内家の衰退に繋がった。

 長尾景春は白井城を奪還した。
 長尾景春は伊勢宗瑞(北条早雲)と同盟を結んで、
 上杉憲房にさらに対抗した。

・永正11年(1514) 8月24日(9月説)長尾景春が死去。
  享年72歳。
 墓は上野国白井(現渋川市旧子持村):空恵寺。
・・・長尾景英が継いだ。妻は長野業政の妹である。




★伊勢宗瑞(北条早雲)は長尾景春のことを
「武略・知略に優れていた武将である。」
と尊敬してたというが、・・・・・・・・
★ 「長尾景春&長尾為景は関東管領家:上杉家の没落を推進し、
私の関東進出の足がかりを作ってくれた大恩人。
棚からぼた餅をありがとう。」
といった感じなのであろうか。 ・・・・・

やがて、後北条家3代目:北条氏康によって扇谷家は滅ぼさ
れ、山内上杉家も上野国:平井城を追われることになってい
った。

・永禄4年(1561) 上杉憲政は長尾景虎に間道管領の地位を
 与え、長尾景虎は上杉政虎と名乗った。
★ああ〜無情。





★参考文献
★上杉家:久保田順一先生の資料
★「太田道灌」黒田基樹著
★戦国史
★東国の戦乱・・・群馬県歴史博物館


★明日は、12・13・14代上杉家かな?

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