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zoom RSS 箕輪初心○埼玉【五十子(いかっこ)の陣&五十子の戦い】

<<   作成日時 : 2014/05/25 06:53   >>

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武蔵国五十子(現埼玉県本庄市)は上杉房顕&顕定
が古河公方:足利成氏(しげうじ)と約20年に渡って対
峙しつづけた場所である。当時は関八州の中心地だっ
たのである。五十子の陣の中心地は本庄の「てんぐ茶
屋」&城山館である。五十子の戦いは、享徳の乱の激
戦の一つで、長禄3年(1459)〜文明9年(1477)にかけて
断続的に続けられた合戦である。文明9年(1477)〜長
尾景春の乱が最大の戦いであった。山内上杉顕定が
敗退し、東国における戦国時代の幕開けへと繋がって
いった。

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 (★埼玉の城祉めぐり:西野博道著より)
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 (★山崎一氏の縄張り図より)


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 (本庄:てんぐ茶屋)

※五十子城址=埼玉県本庄市東五十子字城跡736ー1




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箕輪初心★太田道灌の生涯:長尾景春のライバル
http://53922401.at.webry.info/201312/article_1.html

箕輪初心★長尾景春:関東下克上で従兄弟:太田道灌と交戦
http://53922401.at.webry.info/201311/article_31.html

箕輪初心★上杉家A『8代:憲実〜9代:憲忠〜10代
:房顕』★上杉10代:房顕が五十子の陣を造った。
http://53922401.at.webry.info/201405/article_26.html

***************************************************


〜〜〜〜五十子の陣の構築〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
★享徳3年(1454)享徳の乱は長期化した。上杉房顕に追われ
た足利成氏(しげうじ)が下総国古河を拠点にして反撃を開
始した。関東地方は利根川を境界として、東は古河公方陣営、
西は関東管領陣営に事実上分断された。関東管領:上杉房顕
が、古河公方:足利成氏との対決に際して、長禄元年(1457)
頃、五十子に陣を構えた。五十子は足利方に対する最前戦の
基地であった。寛正6年(1465)上杉房顕は古河公方:足利成
氏と対峙した。しかし、文正元(1466)年2月に上杉房顕は
この陣中で没した。文明3年(1471)、山内上杉顕定・長尾
景信が古河城を攻めた。文明4年(1472)には足利成氏は、
逆襲に転じて五十子城を攻撃した。五十子の戦いと呼ば
れている戦いである。文明8年(1476)長尾景春が太田道灌の
留守を狙って乱を起こした。長尾景春は山内上杉顕定・扇ヶ
谷上杉定正の拠る五十子城を攻撃した。文明9年(1477)1
月にも再度五十子城を急襲した。上杉方は支えきれず上野国
那波に退却した。長尾景春に攻め落とされ、陣が解体するま
で山内上杉家の拠点であった。五十子の戦いで山内上杉家の
敗退し、東国における戦国時代の幕開けへと繋がっていった。

*******上杉家の鎌倉〜南北朝時代**************************

箕輪初心★山内上杉16代@「初代〜7代」=足利尊氏の母方系
http://53922401.at.webry.info/201405/article_23.html

箕輪初心★埼玉【足利基氏館】&『足利基氏&上杉4代:憲顕』
http://53922401.at.webry.info/201405/article_24.html

箕輪初心★埼玉【庁鼻和城】&4代上杉憲顕の子:庁鼻和上杉憲英〜
http://53922401.at.webry.info/201405/article_25.html

*******猪俣邦憲の関係********************************    
箕輪初心●埼玉【猪俣4城】&猪俣邦憲=北条氏滅亡へ?
http://53922401.at.webry.info/201405/article_18.html

箕輪初心■箕輪城シリーズ21「第13代:猪俣邦憲」
http://53922401.at.webry.info/201010/article_35.html

箕輪初心●群馬【名胡桃城A】=北条氏滅亡のきっかけの城
http://53922401.at.webry.info/201202/article_22.html

箕輪初心●岩櫃城探検隊第8弾【中山城2回目】
http://s.webry.info/sp/53922401.at.webry.info/201311/article_13.html

箕輪初心■箕輪城シリーズS「第12代:北条氏邦」
http://s.webry.info/sp/53922401.at.webry.info/201010/article_34.html

*******埼玉の城************************************
箕輪初心●埼玉【第53回寄居北條まつり後編:攻防戦】&
『鉢形城の歴史詳細』
http://53922401.at.webry.info/201405/article_15.html

箕輪初心○埼玉【第53回寄居北條まつり前編@準備〜パレード】
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箕輪初心●埼玉:鉢形城4回目:外曲輪〜三の曲輪〜
二の曲輪〜本曲輪
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箕輪初心●埼玉『鉢形城』&北条氏邦の箕輪城の大改修
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箕輪初心●『鉢形城の歴史詳細』&47回寄居北條まつり2008
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箕輪初心◆埼玉『第52回寄居北條まつり2013鉢形城』
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箕輪初心●箕輪城115【赤備え】&北条三鱗会の井伊直政
手作り甲冑@」
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******鉢形城の支城***********************************
箕輪初心○埼玉【花園城】=鉢形城の支城
http://53922401.at.webry.info/201405/article_17.html

箕輪初心●埼玉【天神山城】=鉢形城の支城
http://53922401.at.webry.info/201405/article_16.html

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箕輪初心◆埼玉県の歴史
http://53922401.at.webry.info/201405/article_22.html

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■訪問日・・・平成26年(2014)4月26日 
○高崎〜〜〜関越道で20分ほど走り、本庄児玉で降りる。

○西五十子
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○村社&増国禅寺
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 ★古墳は櫓台にひったし?
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「五十子の陣はどこですか?」
と場所を聞いた。
「てんぐ茶屋さんと所が五十子の陣のあった場所
 です。前の道を行き、17号線を右に曲がります。・・・」

○17号線の手前を右折した。
 本には「五十子の陣は広い範囲で書かれている。

○畑・・・御陣場
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○水道局
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●身馴川・・・外堀の役目か?



●てんぐ茶屋
ランチを注文し、五十子の陣について訪ねた。
店長さんがインターネットを2種印刷して下さった。
店長さんが案内してして下さった。
「ここも五十子城の一部です。」
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●隣の城山館・・・
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「城山館の建っている場所が突端の曲輪です。」
※関東の名城を歩く:森田真一文責・・・武蔵志の縄張り図
本庄台地の突端に曲輪が中央に・本丸&稲荷がL字型に
位置している。現在のてんぐ茶屋&城山館の建っている場所
が突端の曲輪である。

●ロータリー=真ん中が築山


●本庄カルタの石碑
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 城山館前の築山の本庄カルタの碑が、城址であること
 を示している。
『 桑繁る 五十子合戦 古戦場 』
「表示はこれだけですか?」
「そうです。」
★重要な城址であるにもかかわらず、この表示しかない。
 城址碑もないのが残念である。
「東五十子(いかっこ)字城跡です。土地の人は「いかっこ」と
 発音していて、五十子城址とよんでいます。
城跡は小山川と女掘川に囲まれています。」
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「現在は城址は国道17号線に分断されていて原型を
 留めていません。」

○城山館の裏の方へ
★縄張り図では城山館は笹曲輪?
鉢形城の笹曲輪を思い出した。
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●ゾウのいるミニ公園
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「ここが本丸です。」
★公園のある場所が本丸なのであろうか?
 私には一番高いので、櫓台があったのでは
 ないかと思われた。

●本丸下切岸・・・河岸段丘をうまく利用している。
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●女堀川
※縄張り図・・・城址は本庄から続く台地の突端に位置して
いる。三方が3〜5mの河岸段丘で囲まれている。

▼戻って、食事をした。
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ロースカツランチ・・・880円
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★★★★旨かった。

●「東五十子城跡遺跡は古墳時代の集落跡があり、
  それが出土した物です。」
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●大手口探しをした。
※『武蔵志』には、本丸等の図が記されている。
 大手は北向きにあったものとみられる。
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●本丸南端付近


●城山館・・・笹曲輪

●本丸公園・・・★櫓台を監察した

●城址・・・東面

●城址笹曲輪?

※縄張り図・・・東五十子城跡の北には東流する女掘川
の侵食により、段丘崖が形成され、その北方には利根川
の低地帯が広がる。
南には身馴川があり、南東800m地点で死度川と合流し
ている。北・東・南の三方を河川の段丘崖に画された
自然の要害地となっている
★2つの川がY字状に流れ、その間の河岸段丘の五十
子陣が築かれたのだった。
河岸段丘の崖の比高差は3〜7mにもなる。
城山もない五十子になぜ上杉氏の本陣があったのかは、現地
へ行ってみれば理解できる。
鎌倉街道=大道=鎌倉上道は武州の南から北西部にかけて続いて
おり、上州にまで至る。山内上杉家にとって、鎌倉&上野国を
五十子で分断されることは戦力に大きな影響がでるのである。
武州本庄の辺りで、鎌倉上道、児玉道、本庄道という三筋の
鎌倉古道があった交通の要衝であり、高崎・越後方面、児玉
方面・前橋・新田への分岐点が本庄にあった。大道を守る必
要性が生じたことも五十子の陣が築造されることなった理由
である。江戸時代も大道と同様に「岡」→「堀田」→「牧西」
→「傍示堂」→「本庄」と繋がっていた。
五十子から約1キロも北へ行くと流域面積日本一の利根川が
あるのだ。
軍事上、武蔵国の北西部国境沿いに位置した本庄&五十子は、
山内上杉家と古河公方家が対立する最前線の地の一つとなっ
たのである。

○女堀川と城山橋

○鵜森(うのもり)浅間神社遠望
 五十子の陣の北西にある。
 高さ6m程の塚がある。
 神社から西に幅広い土塁が延びている。
 五十子の陣の土塁と考えられているそうである。

○本庄市・・・国道17号線を岡部に向かった。



◆◆ 「五十子の陣&五十子の戦い」の歴史 ◆◆
・正長元年(1428)室町幕府五代将軍足利義持が死去。
義持の弟:義教が6代将軍へ就任した。
 関東の鎌倉公方:足利持氏は自分が室町幕府将軍となる
 ことを望んでいた。
 足利義教に討伐され自害させられた。
、〜〜〜〜10年間、鎌倉公方職は空白状態となった。


・宝徳元年(1449) 足利持氏の子:永寿王=足利成氏が
 鎌倉公方職に就いた。
 足利成氏は関東での鎌倉府体制の勢力拡大を図った。
 上杉氏の重臣:太田氏、長尾氏にそれを阻止された。
 その報復に関東管領山内上杉憲忠を殺害した。

足利成氏は今川範忠の追討を逃れるため鎌倉を出て下総
 古河に入り、古河公方と称した。
 宇都宮、小山、結城、佐竹、小田氏ら関東北部の有力武
 士団から支援された。
 太田道灌は河越城・江戸城・岩槻城・五十子城の防衛
 戦を固めた。

・享徳3年(1454)享徳の乱
  長期化した。
  上杉房顕に追われた足利成氏(しげうじ)が下総国
  古河御所を拠点にして反撃を開始した。
  関東地方は利根川を境界として、東は古河公方陣
  営、西は関東管領陣営に事実上分断された。

  関東管領軍は武蔵国分陪河原、騎西城で足利成氏に
  敗北した。


・康正2年(1456) 利根川沿いの武蔵国岡部原(現埼玉県深谷市
 旧岡部町)で古河軍と上杉軍が衝突した。
 この頃、利根川流域において、忍城・深谷城・関宿城など
 が次々と築かれるようになった。


・康生2年(1456)・長禄元年(1457)頃
  上杉房顕が五十子に陣を構えた。=五十子城を築いた。
  長禄元年(1457)には「五十子陣」と見られる
 からこの頃には築かれていたものと考えられている。
  (★『鎌倉大草紙』)
★五十子陣・・・陣城・東五十子城・東本庄館・六反田
  遺跡などの砦郡の総称である。

関東管領:上杉房顕は、五十子の城砦に持朝・房定・教房
 ・政藤ら一族の主だった者たちを結集させた。 

  足利成氏は五十子に攻撃を加えようとして出撃した。
  10月14日、両軍は近くの太田庄(現埼玉県熊谷市)
  で交戦した。
  結果・・・上杉教房が戦死するなどの打撃を受けた。

  上野の岩松家純・持国が上杉軍に味方するとの報を得
  た上杉房定・政藤は
  10月15 利根川を渡って上野側に陣地を張る古河軍を
羽継原(現群馬県館林市)・海老瀬口(板倉町)で
  攻撃をしかけるが、再度敗戦した。
   上杉軍は大打撃を受けたが、古河軍も撤退したため
  五十子は上杉軍の手に確保された。
  以後、関東管領:上杉房顕は五十子を拠点として長期
  戦の構えを見せ始めた。古河公方:足利成氏との対決
  に際して、五十子は足利方への最前戦の基地になって
  いった。
  更に、利根川を隔てて古河公方と対峙し、小競り合いを
  くり返した。
 
  室町幕府は五十子に援軍を派遣する予定だったが、斯波
  義敏が内乱=長禄合戦を引き起こし、責任を取らされ
  て追放されたために中止となった。

・寛正2年(1461) 宗祇40歳?五十子1度目の訪問
宗祇は『萱草(わすれなぐさ)』を編集し始めた。
★第一自選句集・・・寛正2年(1461) 〜文明5年(1473)
「 武蔵五十子(いかっこ)といへる所
   にて 千句に
   きへなはきへぬか かゝる 罪科 」

★五十子は関東管領:山内上杉顕定が常駐した。
家宰は白井城(群馬渋川)主:長尾景信であった。


・寛正6年(1465)上杉房顕は古河公方:足利成氏と対峙した。
  上杉房顕の要請で室町幕府将軍足利義政の異母兄:足利
  政知が新しい鎌倉公方となるべく伊豆まで下向したもの
  の伊豆堀越に留まって堀越公方を名乗っていた。
  足利政知に仕えていた上杉政憲(氏憲の孫、上杉教朝の
  子)は、足利成氏(しげうじ)排斥こそが政知の鎌倉入
  りに向けての最大の説得材料になると考えた。
  上杉政憲は伊豆から出陣し、関東管領上杉房顕や越後
  守護の上杉房定&子:顕定と合流すべく五十子に向かった。

  足利幕府は駿河の今川義忠・甲斐の武田信昌のに上杉政憲
  の救援を命じた。
  古河成氏は上杉政憲・今川・武田軍の五十子到着前に
  上杉房顕を潰そうと再び太田庄から五十子に進出した。

・文正元年(1466)2月 上杉房顕は陣中で急死した。
 子供がいなかったため急遽顕定を養子として関東管領の
 家督を越後の上杉顕定を継承させた。
 これによって、戦闘は一旦休戦となったのである。


・文正元年(1466)宗祇45歳
宗祇は五十子(埼玉県本庄市)を再び訪れた。
宗祇が連歌を指導しに五十子陣へ訪れたのだ。
五十子陣に足利成氏との対戦中にあった長尾孫六
 (長尾景棟が有力説)を見舞いに宗祇が訪れている。
 千句の連歌を興行した。

 五十子の長尾景信の館(陣所)で連歌会があった。
 →『老葉(わくらば)』の編集を開始した。
→『老葉(わくらば)集』
「長尾左衞門尉のもとへ始てまかり
  待しとき、 九月侭
  秋をせけ 花はおいせぬ 菊の水 」

 
 長尾孫六が連歌の指南書を求めてきたので、
 宗祇は長尾孫六(景信)に手紙を出した。
 『長六文』を与えたと言う。
 『長六文』は宗祇の最古の連歌学書とされる。
 また、鉢形城を去った長尾景春も五十子陣にいたので
 宗祇に指導を受けていたと考えられている。


・文正2年(1467)宗祇は『吾妻問答』を編集した。
宗祇は長尾孫七郎(景春)に『吾妻問答』を送った。
★長尾景春は連歌を学び始めた。25歳頃だった。

・文正2年(1467) 連歌論書『吾妻問答』を与えられている。
宗祇の自撰句集『萱草(わすれぐさ)』は寛正2年(1461)
〜文明5年(1473)頃であるが、内容から五十子で詠ま
れた千句とされる。短期間とはいえど、五十子が東国に
 おける文化的中心地の一つであったと言われている。


・応仁元年(1467) 応仁の乱が始まった。
   約10年間にわたって継続した内乱。
   8代将軍:足利義政の継嗣争い・・・・
    細川勝元 VS 山名持豊(山名宗全)
全国に拡大した。
  足利幕府や守護大名の衰退・・・・
  戦国時代に突入していった。
  京都は壊滅的な被害を受けて荒廃した。


・文明2年(1470)太田道心&道灌は宗祇を河越城に招いた。
『河越千句』・・・
大胡修茂(のりしげ)もいた。


・文明3年(1471)山内上杉顕定・長尾景仲、景春親子&
 太田道灌、資忠兄弟が出撃して古河城や館林城を攻略した。
 ★長尾景春&太田道灌は従兄弟同士である。


・文明4年(1472)足利成氏は逆襲に転じて五十子城を
  攻撃した。
  五十子の戦いと呼ばれている戦いである。

新田岩松氏は五十子を裏切るという噂が流れ、
家老:横瀬が足弱(老人子ども)を人質に差し出した。

・文明5年(1473)白井:長尾景仲が死亡。
山内上杉顕定は白井:長尾景仲から家宰を
 長尾景信の弟:尾張守忠景を執事職とした。
 長尾景春は、山内上杉氏の家宰の人事に不満を持った。
 長尾景春は、密かに古河公方方と内通して五十子を離れ、
 白井城(渋川市旧子持村)で兵力を整えた。


上杉政真が五十子で古河公方軍と戦って戦死した。

・文明4年(1474)
長尾景春は太田道灌にも上杉顕定を亡き者にする協力を得る
ため、五十子陣城へ向かう途中の寄居町飯塚の太田道灌の
元へ馬を飛ばして面会した。
太田道灌は長尾景春の陰謀に驚き、上杉顕定に
「景春を即座に誅すべき。」と進言したが、
上杉顕定や叔父:長尾忠景は聞き入れなかった。


※『太田道灌状』
 太田道灌が文明12年(1480)11月28日に山内家家臣
高瀬民部少輔に送った書状である。
「道灌は文明6年(1474)に江戸城を出て五十子へ参陣しよ
うとしたところ、長尾景春が数回にわたって使者を送り、
無益だから思い止まる様にと伝えてきた。道灌はこれを無
視して出発し、上田上野介がいた小河(現比企郡小川町)
で一泊した。翌朝、景春が飯塚(現花園町から寄居町)
から駆け付け、上杉顕定と憲房の父子を討ち取りたいと
思うので五十子参陣を中止するようにと謀反を打ち明けて
きた。それでもなお道灌は景春の勧告を無視して五十子へ
参陣し、この陰謀を飯塚次郎左衛門尉を通して上杉家へ知
らせた。」
 (★ウキペディアより)
★太田道灌が五十子へ参陣する以前から、駆け引きがすで
に生じていた。また、長尾景春が乱を起こす2年前から謀反
を計画していたことも解る。長尾景春は太田道灌に味方にな
るように手紙を出したが、太田道灌は協力しなかったのだ。
太田道灌が長尾景春の勧告を無視して五十子へ参陣した。
そのまま長尾景春の陰謀を上杉顕定・定正へ伝えたのだった。

・文明8年(1476) 
 長尾景春の多くの在地領主たちを味方にした。
6月 長尾景春は武州鉢形城に移った。
 
堀越公方軍:上杉政憲と扇谷上杉軍:太田道灌が今川氏の
 内紛仲裁のために兵を率いて駿河国に入っていたために
 上杉顕定は援軍を得られなかった。

 長尾景春が太田道灌の留守を狙って乱を起こしたのだ。
6月 2500騎をひきいて五十子陣へ押し寄せ、主君
  上杉顕定へ反旗を翻した。
  長尾景春は山内上杉顕定・扇谷上杉定正の拠る五十子城
 を攻撃したのだ。
長尾景春は山内上杉軍が駐留している五十子を囲んだ。
 
・文明9年(1477)1月 再度五十子城を急襲した。
 「五十子陣下へ出入ノ諸商人之往復通路を指塞」がれ
「糧道」を断たれて、上杉氏方は陣から撤退した。
 (★松陰私語)
  ★五十子城の補給路を断ち、五十子陣城を孤立化させた。
   五十子城は陥落した。
3日間、陣の火は消えなかった。
 (★松陰私語)
  上杉顕定は辛うじて上野国に退却した。
  長尾景春は上杉顕定を上州那波荘(伊勢崎市)へ
  追い払ったのである。

  約20年長きにわたった五十子の陣は解体したのである。

 長尾景春の乱が本格的に始まった。
 長尾景春を前に、上杉一族は逃げまわった。
 しかし、従兄弟の太田道灌が真っ向勝負をいどんだ。
駿河国より江戸に戻った。
 長尾景春方を撃破しながら、関八州を駆け巡った。
 太田道灌は長尾景春に反撃した。
 長尾景春は五十子城を退いた。
 5月 上杉顕定は五十子城へ戻ることができた。
 長尾景春と太田道灌の戦いは4年後の
  長尾景春が立て篭もる熊倉城落城に至るまで武蔵国の
  各地にて抗争を繰り広げた。
 長尾景春の反乱を抑えたのは扇谷上杉家の当主:
 上杉定正を補佐する太田道灌であった。
  
 上杉顕定は扇谷上杉家の台頭を危惧して、足利成氏との
 講和を望むようになった。
 
 以後、戦局は山内・扇谷両上杉家の対立へと次第に構造を
 変え始めようとしていたのである。 
 道灌は崩れかけた関東管領軍を立て直し、乱を鎮圧した。
 山内顕定の中傷から主君:扇谷上杉定正に殺害された。
 山内上杉家、扇谷上杉家は分裂し、関東は戦国乱世へと
 向かって行ったのであった。

・永正6年(1509)「松陰私語」(新田長楽寺の僧) 
五十子の陣・・・合戦書き表した。
関東管領:上杉・新田岩松・桃井讃岐守・上条上杉氏
八条上杉氏・犬懸上杉政憲・七沢上杉朝昌・扇谷上杉
 武蔵や上野の武士
 相模衆・庁鼻和上杉氏・・・都合7000騎
 五十子近辺の榛沢・小波瀬・・・・に陣取る。
(★関東戦国の大乱)

・善・山上が3年滞在した。
    (★由良文書)




★参考資料・図書
・第92回企画展 『関東戦国の大乱〜享徳の乱、
  東国の30年戦争〜「戦国は関東から始まった・・・」
   群馬県立歴史博物館 2011年

・関東の名城を歩く:南関東編:森田真一文責

・戦国史:上毛新聞社・・
   森田真一先生・久保田順一先生など共著

・久保田順一先生の講演会「上杉氏」の資料

・太田道灌:黒田基樹著
 
・関東の覇権戦争:黒田基樹著


★参考サイト
・ウキペディア


★明日は上杉顕定かな?

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