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zoom RSS 箕輪初心◆栃木【佐野の歴史と文化財】

<<   作成日時 : 2014/04/06 06:57   >>

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佐野市の文化財といえば、唐沢山城跡と例幣使街道が
浮かぶ。佐野市には69の城館跡があるそうだ。6ヶ所の城
跡が佐野市指定史跡となっているらしい。中でも「清水城」・
「唐沢山城」・「佐野城」が素晴らしい。中世の館→戦国の山
城→徳川の城の3つが連座しているからである。例幣使街
道では佐野市には天明宿と犬伏宿がある。
佐野郷土博物
館は佐野の歴史を知る上で素晴らしい博物館である。佐野
市の考古・歴史・民俗等に関する資料を展示&佐野出身の
田中正造関係資料を多く展示してある。学芸員の方が説明
が非常に上手である。ちょっと、佐野の歴史を自分なりに整
理したくなった。
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*****佐野一族関係**********************************
箕輪初心●栃木【清水城=興聖寺城】=佐野氏の最初の居城
http://53922401.at.webry.info/201404/article_3.html

箕輪初心●栃木【唐沢山城2回目】佐野氏→上杉謙信→
北条氏→佐野氏
http://53922401.at.webry.info/201312/article_8.html

箕輪初心●栃木【唐沢山城3回目】&佐野郷土博物館
http://53922401.at.webry.info/201404/article_4.html

箕輪初心●栃木【佐野城】&佐野厄除け大師&佐野信吉
http://53922401.at.webry.info/201312/article_9.html

箕輪初心◆日光例幣使街道:高崎〜境〜太田〜足利〜栃木〜日光
http://53922401.at.webry.info/201311/article_24.html

箕輪初心★『田中正造の生涯』=足尾銅山鉱毒事件を直訴した男
http://53922401.at.webry.info/201404/article_2.html


◆◆ 佐野の歴史 ◆◆
【1】旧石器時代

【2】縄文時代
  
【3】弥生時代
・出流原遺跡

【4】古墳時代
○鎧・・・佐野郷土博物館
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群馬の渋川の金島東遺跡の鎧に似ていた。

○米山古墳

○大日堂・・・瓦は佐野郷土博物館で見た。


【5】奈良時代
東山道


【6】平安時代
 文献上、「佐野」の地名が初めて登場するのは、「佐野庄」と
 いう荘園である。左大臣藤原頼長に寄進されていた。
・保元(1157)保元の乱
   後白河天皇の所有になったことが書かれてる。
  「兵範記」
  佐野庄は後白河天皇の側に立った藤原秀郷の子孫:藤姓足利氏
 (=佐野氏)によって治められるようになった。


【7】鎌倉時代
・治承4年(1180) 源頼朝が挙兵。
  佐野氏は頼朝に味方し、源平合戦や奥州平泉の藤原氏討伐に
  従軍した。
  鎌倉幕府から御家人になった。

○清水城
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【8】南北朝時代
  佐野一族は北朝方と南朝方に分裂してしまった。
  →佐野一族族内で対立した。


【9】室町時代
  北朝方についた佐野氏は関東地方北部を治めた古河公方に
  代々仕え、佐野を支配した。
  佐野一族から戦国大名:佐野氏に成長した。



【10】戦国時代
 佐野氏は、現佐野市と周辺を支配した。

○唐沢山城・・・築城時期は不明。
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 佐野は交通の要衝にあった。
 越後の上杉氏や相模の北条氏などにも攻められた。
 ・・・改修が加えられた結果、高石垣を備えた関東でも
 有数の山城になった。

 
 家老:若田部家の鎧
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※天命鋳物が盛んになった。
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・慶長5年(1600)7月27日 犬伏の別れ
 真田昌幸&次男:信繁(幸村)が西軍。
 長男:真田信之を東軍・・・・ 
 小山評定前に真田父子の別れ=犬伏の別れが
 犬伏街道沿いの犬伏新町の米山古墳・・・であった。


○犬伏の別れ
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※長野県上田城・・・真田昌幸の使用した鎧・文献・佐藤雪洞の作
 「真田父子犬伏密談図」が展示されている。



【11】江戸時代
・慶長7年(1602)3月、唐沢山城主佐野信吉は、佐野城(現城山
 公園)の地に移城するよう幕府から命じられた。
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・慶長19年(1614)佐野信吉は所領も没収され、佐野氏の支配は
   終わりを告げた。佐野信吉が改易となった。
   →佐野は幕府直轄地となった。

・元和2年(1616)譜代大名:本多正純の領地となった。

・元和8年(1624)本多正純も改易。
 佐野は再び幕府直轄地となった。

・寛永10年(1638) 彦根藩、古河藩、館林藩などに統治された。
  佐野は近江彦根藩井伊家の領地となった。
井伊家・・・彦根のひこにゃん・世田谷・佐野飛び地
  明治5年までの235年間、佐野領は井伊家にとって大切な
  土地であったため善政が敷かれたと言われている。
  彦根藩以外は長く続かず、堀田佐野藩や対馬藩、
  多くの旗本知行地に分割統治された。


日光例幣使街道・・・朝廷が日光東照宮に幣帛を奉納する
 ため派遣した勅使*日光例幣使が通った街道である。
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・正保4年(1647) 日光例幣使が通った。
 往来の際、京の香り&文化を漂わせてやってきた。
 短冊や色紙など数多くを各地に残したとも伝えられる。 
・正保4年(1647)〜慶応3年(1867)までの221年間、
毎年4月17日の徳川家康の忌日前に約50人の一行が
 派遣された。貧乏貴族にとって、いい旅行だったという。
 4月1日、京都を出発、中山道から例幣使街道に入る。
 日光例幣使街道は中山道の倉賀野宿を起点〜〜上野=群馬略〜〜
 @足利八木宿〜A梁田宿〜B佐野天明宿〜C犬伏宿〜D大平の
 富田宿〜E栃木宿〜F都賀の合戦場宿〜G西方の金崎宿の
 計8宿〜・・・楡木宿で壬生通りと合流する。
 壬生通り・・・日光街道に接する今市宿〜
 4月15日日光に到着。日光坊中へと至る。
 4月16日
4月17日 徳川家康の忌日前に約50人の一行が
日光東照宮を参詣。持参した幣帛を奉納した。
 4月18日 出発・・・帰りは江戸を経由して京都に戻った。

例幣使街道は足利の寺岡の出口から東北へ折れる
●佐野市内例幣使街道・・・
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○〜〜〜旗川・・・旗川を徒歩で渡る。
○現免鳥町・・実際には旧50号より北コースである。
 ・・・北へ行くと、旧旗川の田中正造宅
○〜〜〜才川・・・渡った。
○現大橋町
※須永元邸(漢学者)・・・現市営プール
○佐野西中学校から旧50号線を東進する。
※南に行くと佐野郷土博物館・・
○天明大橋〜〜〜秋山川を渡った。・・・
※出流山挙兵者処刑(戊辰戦争)・・・川沿い
秋山川を渡った。・・天明宿
●天明宿・・・
※惣宗寺=佐野厄除け大師・・・
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画像

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徳川家康の遺骨が1泊した。
 田中正造の墓
※観音寺・・・銅の阿弥陀如来座像
※天明宿本陣・・・松村家
・・・天明宿は現在のクロスビルを中心にして宿場本陣
 があった。
例幣使当番宿帳が保存されている。
(★郷土博物館)
※星宮神社・・・佐野城の西の外堀
※朝日森天満宮・・・菅原道真を祭っている。
  例幣使が詠んだ和歌や短冊、色紙、菊の紋入り茶わん
  など数々の品が奉納されている。
  京の文化を例幣使たちが伝わった。
※佐野駅
※佐野城本丸
○相生町交差点で北に折れる。
○両毛線を渡る。
○内堀米交差点・・・県道141号線に突き当たる。
○妙顕寺・・・若田部家菩提寺。
※唐沢山城主:佐野家家老若田部源五郎光盛公の鎧
 (★佐野郷土博物館)

○犬伏街道=141号線を東へ進む。
○唐沢山城を左に見ながら進む。
○犬伏宿・・・現在の犬伏小学校に本陣があった(伝)。
・嘉永6年(1853) 13代彦根藩主:井伊直弼が本陣に宿泊
 して6日間佐野領を巡視した。領民の声や代官の意見を
 聞いて改革を行い、江戸屋敷に戻ったという。
 ・・・群馬歴史散歩の会のメンバーが説明してくださった。 
○大庵寺・・・犬伏小学校の北
 2代将軍秀忠が休んだ。(伝)
○犬伏小学校前を東進する。
○米山古墳・・・犬伏の別れ
・慶長5年(1600)7月27日 犬伏の別れ
 真田昌幸&次男:信繁(幸村)が西軍。
 長男:真田信之を東軍・・・・ 
 小山評定前に真田父子の別れ=犬伏の別れが
 犬伏街道沿いの犬伏新町の米山古墳であった。

○天応寺・・堀米町
直孝、直澄、直弼の井伊家3代の墓が祭られている。
遺髪をおさめた。井伊直弼が巡視の際に立ち寄った。

○町谷町
〜〜〜岩舟町へとつながっていく。

※雛人形
※幟(のぼり)
※羽子板
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○一瓶塚稲荷神社・・・佐野市田沼町1404
高橋久敬さんの話
「「おぐら屋」で名物ラーメンを食べる前に、一瓶塚稲荷神社
 にお寄ります。長年、佐野市の総社であった歴史ある神社
 です。国指定重要美術品の銅製鳥居を見に行きます。」
・文治2年(1186)佐野讃岐守成俊は唐沢城再興の際に社領を
 寄進し、佐野荘百数十郷の総社とした。
・延亨3年(1746) 天明の人々によって銅製鳥居が奉納された。
・寛政3年(1800)「佐野総社一瓶塚正一位稲荷神社」の
親筆の額を奉献。
@山門
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A銅製鳥居
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B本殿・・・朱塗りの権現造りである。
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C句碑・・・
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【12】明治時代
・明治2年(1869)版籍奉還
 各大名に命じて領地を天皇に返上させた。
 藩主を知藩事に任命した。
・明治4年(1869)廃藩置県
  藩を廃止して県を置いた。
  彦根県や佐野県ができました。
  わずか4ヵ月で栃木県に統合された。

田中正造・・・足尾鉱毒事件
○佐野郷土博物館
「佐野」偉人:田中正造ゆかりの博物館である。
「真の文明は 山を荒らさず 川を荒らさず 村を破らず 
人を殺さざるべし」
・・・じっくり見学すべし・・・。



・明治22年(1889) 
  市制・町村制が施行された。
両毛鉄道が敷設された。
 
【13】平成時代
平成17年(2007)佐野市、田沼町、葛生町が合併し、現在の
佐野市が誕生した。


★石井琢朗・・・結構、好きな野球選手だった。
1970年8月25日 栃木県佐野市生まれ。
 栃木県立足利工業高等学校
 ドラフト会議では東洋大学への進学が決まっていた。
 指名されなかった。
 1988・・・・・・ドラフト外で横浜大洋ホエールズに入団。
 1989〜 2008・・横浜大洋ホエールズ・横浜ベイスターズ
 2009 〜2012・・広島東洋カープ
2012 〜現在・・広島東洋カープコーチ
 盗塁王:4回(1993年・1998年・1999年・2000年)
 最多安打:2回(1998年・ 2001年)


★佐野ラーメンはうまいy〜ん。加盟店69。
画像


★参考資料
・佐野市パンフレット多数



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コメント(25件)

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コメントではありません。教えてください。

(1)[栃木県大百 科事典](1980年)の「秋山川」の項( 吉村光右 氏執筆)に『古くは安蘇川と呼ばれていたが、鎌倉期に秋山川と名を変えた』とあります。

しかし、
(2)[栃木県の地名 (日本歴史地名大系 9)](1988年)編 集の「佐野市」の項(泉 正人氏執筆)には、「秋山川(旧佐野川)」とあります 。
  つまり(1)で吉村光右氏が言ってることは間違いだと言ってるわけです。

そこで、もし「秋山川(旧佐野川)」について何かご存知でしたらお教えください。


「室の八島」で検索すると、すぐ「歌枕室の八島の歴史の旅」が見つかると思いますが、そこにメールボタンがありますので、それにてお教えいただければ幸いに存じます。




八島 守
2016/04/18 14:29
ごめんなさい。私も分かりません。安蘇川→秋山川(旧佐野川)となるかもしれません。万葉集の安蘇山が桐生〜佐野にかけての山間地域をそう呼ぶというのが一般的だそうです。従って、安蘇川は佐野の川あるいは渡良瀬川の可能性もあるのではないでしょうか? 
八島 守様
2016/04/18 15:17
歌枕室の八島の歴史の旅が見つかりましたが、メールの入り方が分かりませんでした。私も「室の八島」も松尾芭蕉で書いています。万葉集の東歌の安蘇を榛名相馬山・浅間山(水沢山)の岡田説で考えています。
八島 守様
2016/04/18 15:32
このコメント欄トップの「教えてください」に対するご回答に対しまして、お礼の返事が遅れまして申し訳ございません。
メールで回答して頂けると思って待ってましたので遅れてしまいました。すいません。

丁寧なご回答ホントに有難うございます。

お蔭様で、「簡単に分かる事じゃないんだな」、つまり「秋山川(旧佐野川)」
も簡単に信じて良いものとは言えないんだなってことが分かりました。

これからどうやって調べるかなぁ。
[栃木県大百 科事典]に書いてあることが出鱈目であることは解析すれば推定できるんですが、出鱈目であるという確証が欲しいんです。

なお私のホームページの「メールボタン」の場所の件ですが、
実は、各ページの上下にボタンが数個並んでおりまして、それらの一番後ろに「MAIL」と書いたボタンがありますが、それが「メールボタン」なんです。説明不足ですいませんでした。




八島 守
2016/07/25 14:32
コメント3「私も「室の八島」も松尾芭蕉で書いていま。」に関しまして、

松尾芭蕉の[奥の細道]「室の八島の段」は完璧に解読しました。
興味が御座いましたら、[歌枕室の八島の歴史の旅]を読んで抱けましたら幸いに存じます。
八島 守
2016/07/25 14:53
もし、興味が御座いましたら、
[歌枕室の八島の歴史の旅]の「みかも山」の項の最後に有ります[「足利より佐野 へ入る道に三毳有り」の謎]を読んで頂けましたら、と存じます。
八島 守
2016/07/25 15:22
私は素人です。古東山道ルートを考えると、「遊行柳」も通り道です。★那須一族を探ると私には見えました。
@あその河原の川とは、おそらく渡良瀬川のことでしょう。
通説は渡良瀬川。でも、安蘇は韓国語の「浅間」の意味もあるようです。榛名の水沢山は明治まで浅間山であったらしいです。A三毳山(みかもやま)に三毳の漢字を当てはめたのは、幕末に書かれた[下 野国誌]の著者である。そして漢和辞典を調べても「毳」(音はセイ、ゼイ、訓は産毛) に「かも」の音や訓は無い。とありましたが、「かも」の漢字が羊をヤマト時代に輸入され、みかもとなったという説を群馬県立女子大の熊倉先生が公表しています。「毳」が韓国語から倭語になったという説のようです。元多胡碑発掘関係の大工原美智子先生は「多胡碑の羊は羊僧=へりくだるいい方
なので、・・・」という説は今後の有力説なりうる要素があると思います。現地吉井は勝手に嘘歴史・嘘伝説を確実の話としてを公表している。「室の八幡」・・・真田の「犬伏の別れ」・・これは東山道であったが、戦国時代には「大道あるいは??道」と呼ばれていたはずです。
なぜ、3毛=??・・再考の必要があると思います。我々は地方史の一研究者・愛好家であろうと思います。偉い人が決めた史実が発掘調査・有力1級資料からえることが伝わっていないことは多々あります。八島先生、自分調べた史料で、真実を進めましょうよ。偉い学者と言っても、現地に来ていないでいったかのように書いている人も結構いるのですから。特に真田の歴史学者は嫌いなのだ。足で稼いでない。

八島 守様
2016/07/25 19:26
すぐ上の貴コメント(?)につきまして

1.東山道ルートにつきまして
西行が1186年に2回目の奥州歴訪をしてますが、その頃の那須一族の史料があって、その史料によれば当時の主街道は芦野を通っていたということでしょうか?

インターネットホームページを調べますと、那須一族の史料はもうちょっと後の史料で、それを調べると芦野ルートがいつ頃メインとなったかが分かると書いてあったような?

もうひとつ。今はインターネットから消えましたが、芦野ルートがメインになったのは、白河の町の中心が西に移動した後だそうです。そして、それは1186年より後だそうです。

2.「あその河原の川とは、おそらく渡良瀬川のことでしょう。」 「通説は渡良瀬川。」につきまして

 佐野市民と思われる人のホームページを見る限り、通説は秋山川です、渡良瀬川であるなんていう通説は有りません。
 「あその河原の川とは、おそらく渡良瀬川のことでしょう。」の根拠は何ですか?

3.これ以降の数行は奇怪な「文字化け」らしのが起こったようで、内容が理解できませんでした。あしからず。

4.「偉い学者と言っても、現地に来ていないでいったかのように書いている人も結構いるのですから。」につきまして

 全くその通りだと存じます。それよりひどいのは、基本的な調査方法を知らない学者ばっかりなんで、「現地に来て」
の調査が誤解の原因になってることが多いんです。

5.「八島 守」は、かつて「あるメーカーのしがない実験屋」でした。
八島 守
2016/07/26 18:30
上のコメント1につきましては、前々から知りたいと思っておりましたので、ぜひお教えください。
私には那須一族の史料を調査する手段がありませんでした。

八島 守
2016/07/28 12:52
結論・・・東山道は八島様のご指摘通りでした。芦野→白河コースはかなり後のようです。安易に思い込みで答えてしまい、申し分けありませんでした。神田城・与一記念館・芦野城・遊行柳・奥の細道をブログ掲載した折、律令時代〜平安時代に芦野は東山道の宿駅であったと思い込んでいました。
@「飛山城で買った東山道の冊子」に足利〜・・南那須〜小川〜湯津上〜黒羽〜伊王野明神峠〜●白河の関に至る古代高速道路。とありました。
A長治2年(1105)説?天治2年(1125)説神田城築城、嘉応元年(1169)5代那須与一宗隆公は、那須資隆の11男として神田城)で生まれた(伝)。(★神田城案内版)1186年 西行法師=佐藤義清(のりきよ)は遊行柳で句を詠んだ。
B平安末期〜芦野居館ができた。建長(1249〜1256)「葦野地頭に対して奥の大道の警備を命じた。」(★『吾妻鏡』)
★那須一族芦野氏の史料で芦野ルートが整備されたことになる?


箕輪初心:「芦野城」
http://53922401.at.webry.info/201401/article_25.html
★結論・・・中世初期に芦野居館ができたが、西行が芦野→白河へ抜けたとはありませんでした。私の思い込みでした。
6代:那須宗資の時、稲積城に移った。
10代:那須資隆の時に、黒羽の高館城に移った。
(★烏山町史)
「文化財センター白河館」の学芸員の方が
「東山道はいくつかありましたが、伊王野→白河・後、伊王野→棚倉→白河の関」といっていたような気がします。史料や説明もあったかもしれません。
八島 守様
2016/07/29 09:39
2.「あその河原の川とは、おそらく渡良瀬川のことでしょう。根拠は何ですか?
結論・・・「通説:渡良瀬川」ではなく、最近の有力説「渡良瀬川」と言えばよかったかもしれません。
箕輪初心:生方▲2015高崎『万葉集東歌:エロい伊香保9首』
http://53922401.at.webry.info/201509/article_9.html
●【上野の阿蘇】
「上野の 安蘇の真麻群(まさむら) かき抱(むだ)き 
  寝れど飽かぬを  何(あ)どか吾がせむ」
「上毛野 安蘇山 やまつづら 葛野を広み延
  はひにしものを あぜか絶えせむ 」
※安蘇は栃木県安蘇郡の地名である。
安蘇が上野国歌として詠まれた理由がいくつか考えられる。
@昔は上毛野、下毛野両国に安蘇郡がわたっていた。
 ※本・Hpなどほぼ全員の意見。通説は「秋山川」
A下毛野国の安蘇郡は上毛野国に属していた。
 渡良瀬川が氾濫して境界が度々変わり、歌が詠まれた時には安蘇郡は上野国に属していた説もある。
 (★「上州文化」:前橋文学館)
B「下毛野」を「上毛野」と誤記した。
C下野の安蘇と上野の安蘇があった。即ち、阿蘇は浅間山(水沢山)。
・伊香保嶺(いかほろ)= 榛名山
・伊香保沼(いかほぬま)= 榛名湖
・阿蘇山→(阿岨山)→浅間山=水沢山である。
 5万分の1の地図では水沢観音の裏山が浅間山。
 箕輪城語り部の会会長の岡田氏。
D上野名跡志に「阿蘇の庄」があるが、伊香保嶺(いかほろ)
 =榛名山南東麓の高崎市箕郷町付近であろうとされている。隣の群馬町に
 国府があり、東山道国府道が通っていた。
★こんな回答でよろしいでしょうか?私も学者ではありません。
八島 守様
2016/07/29 10:40
1.2について、思い込みをしてしまいました。確認せず、
 返答してしまった事をお詫び申し上げます。八島さんの4と同じになってしまいました。3.「文字化けが起こったようで、内容が理解できませんでした。あしからず。」4.「現地に来ての調査が誤解の原因になってることが多いんです。」★途中から酒を飲んでしまいました。昼間の出来事で、違う方向に行ってしまいました。真剣に書いてくださっているのに、大変失礼しました。申し分けございませんでした。反省しております。
八島 守様
2016/07/29 11:06
[歌枕室の八島の歴史の旅]を読ませていただきました。何度読んでも、難しくて・・・でも、凄すぎます。安蘇のかわらは秋山川か渡良瀬川なのか「みかも山」の位置関係からも悩んでいらっしゃることが分かりました。2の返答では根拠が乏しいですね。すみませんでした。太田まで来ると、榛名水沢山が見えるのです。読んだ万葉集の2冊の本には安蘇の河原は渡良瀬川であろうとあり、気楽に信じてしまった次第です。
八島 守様
2016/07/29 11:41
那須一族の史料・・・大田原市の道の駅?与一記念館?の史料、那須町史・烏山町史など・飛山城の発行「東山道」など博物館の史料、万葉集の本などを使っています。栃木市や那須の博物館などに行っても、調べました。でも、奥が深いですね。
八島 守様
2016/07/29 11:54
秋山川・佐野川の件は、栃木県立図書館さんにE−mailして教えてもらいました。
江戸時代の前期・中期はまだ佐野川です。
18 00年作成の「佐野川・渡良瀬川筋河川図」があり、この時はまだ佐野川です。
秋山川に名前が変わるのは、江戸時代後期です。
それらが分かる史料はいくつも有るようです。
八島 守
2016/09/10 17:05
[歌枕室の八島の歴史の旅]は、解析・考察が細かいんで、自分が読んでもすらすら理解できず、頭が痛くなります。

[歌枕室の八島の歴史の旅]で、貴兄に是非読んで頂きたい箇所が二か所あります。

一つは、松尾芭蕉の[奥の細道]「室の八島の段」です。
これは、私が言うのもなんですが、絶品です。
でも、かなりややこしいです。

もう一つは、「みかもの山」の項の最後に書いた
(16)[下野風土記]の「足利より佐野へ入る道に三毳有り 」の謎
です。

この謎を解いてくれる方を探しています。
貴兄には、是非この謎を解いていただきたいです。

八島 守は栃木市出身ですが、今は神奈川県に住んでますんで、簡単に調査できないんです。




八島 守
2016/09/10 17:45
追伸
二つ前のコメントに書き洩らしました。

これで、
[栃木県大百 科事典](1980年)の「秋山川」の項( 吉村光右 /執筆)の『古くは安蘇川と呼ばれていたが、鎌倉期に秋山川と名を変えた』が、

出鱈目であることがわかりました。

と言うことを、栃木県内の全図書館に知らせたいんですが、その手段を知りません。

八島 守
2016/09/10 18:33
全然話は替わりますが、
近年、テレビが間違った言葉を流行らすんで、怒ってます。
テレビのせいばかりではありませんが。

計画停電、故郷納税、エト、イナバウアー、エコ、グルメ・・・
八島 守
2016/09/10 19:58
@松尾芭蕉の[奥の細道]「室の八島の段」)A[下野風土記]の「足利より佐野へ入る道に三毳有り 」の謎、どちらも私には難しいです。ごめんなさい。八島様の研究は凄いと思います。グルメ・・・私も使っています。
八島 守様
2016/09/11 08:59
「グルメ」って? 

だいぶ前から、この言葉は知ってたんですが、
「うまいもの」なんて意味は有りません。

これはフランス語で、「食通・美食家」って意味です。
「喜んでグルメを食べる」って、日本人は食人種か?

「うまいもの」を意味する英単語はなさそうです。
フランス語には単語が有って、「デリカテッセ」というようです。

日本でも「デリカテッセン」(複数形)とか「デリカ」(短縮形)
という言葉を聞きますよね。

つまり、「グルメ」と言わずに「デリカ」と言うべきなんです。



「うまいもの」
八島 守
2016/09/11 11:19
すいませんでした。
しちめんどくせえ文を読んでくれって、貴兄にお願いして。

私のホームページには、もっと気楽に読める記事もありますんで、そっちは是非読んで頂きたいと思います。

トップページの一番下に「リンク集・その他」の欄がありますが、次の二つの記事は分かりやすくて面白いですよ。

「スポーツにおける順位ルールの原則」
プロ野球やプロサッカーの「勝ち数」や「勝ち点」のルールがいかに間違いであるかが分かります。

「STAP細胞」問題
あまりにも先端技術の話過ぎて、何を言ってるんか全く分かりませんが、

実は、あの問題はそういう問題じゃないんです。
私の説明文を読めば、誰でも理解できる問題なんです。



八島 守
2016/09/11 11:44
佐野源左衛門に興味がありますんで、貴兄に調査して頂いて、ホームページに載せていただけませんか?
そしたら、是非読ませていただきます。

でも貴兄のホームページがどこにあるんか、なんか探しにくいですね。
実は、このページはいつも、「秋山川の歴史」のキーワードで見つけてんです。
八島 守
2016/09/12 13:47
すいません。今から「読書感想文」を書くのも遅すぎるんですが、
「我々は地方史の一研究者・愛好家であろうと思います。」につきまして

貴兄の心意気に期待しております。
いや、ちゃんと理由があって、期待できるんです。

既存の歴史書を参考にされると思いますが、それがどういう代物であるかお分かりの事と思います。

それで、「やっぱり自分で調べなきゃっ」てことなんだろうと理解いたしました。

私も、参考書の著者の考えは、すべて無視しました。
それに引用されている史料だけを参考にしました。
勿論、その史料の著者の考えも無視しました。



八島 守
2016/09/12 15:01
秋山川・佐野川の件
佐野市郷土博物館の説明では、明治時代に秋山川という名称になったらしいです。

ということは、
明治時代になって、県が秋山川を管理するようになってから、
上流や下流で川の名前が違っていては、管理しにくいので、
秋山川という上流域で呼ばれていた河川名に統一したってことではないでしょうか。

八島 守
2016/09/19 14:59
秋山川・佐野川の件、納得できる方向で進んだようですね。佐野市郷土博物館の学芸員の方から田中正造についての説明を聞いたことがありましたが、凄く熱心な方でした。よかったですね。
八島 守様
2016/09/21 14:00

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箕輪初心◆栃木【佐野の歴史と文化財】 城・陶芸・ハイキング・ダイビング・スキー・旅行/BIGLOBEウェブリブログ
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