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zoom RSS 箕輪初心★「堤金之丞」&下仁田戦争の悲劇

<<   作成日時 : 2014/03/31 06:31   >>

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★堤金之丞は下仁田戦争で戦死された「ちょんまげ時代の高崎」
の著者:堤克政さんという方の御先祖様である。堤克政さんが
「堤金之丞は高崎藩の目付をしていました。高崎藩の兵士の
活躍を見張る役目でした。新しいふんどし、新しい服の上に
鎧&兜を着用していました。天狗党は今のふるさと学習館から
約30mの距離から鉄砲を撃ってきました。指揮官ではなかっ
たのに、大砲の指示をしていたので、きっと大将だと思ったの
でしょうね。狙撃された銃弾で兜に直角に当たってしまいまし
た。兜は刀槍を受けるもので、銃弾を避けるものではなかった
ので、貫通しました。息が残っていたので、その場で味方の○
○さんに『首を切って、家に届けてくれ。』と頼んで、首を刎
ねてもらったそうです。家に兜と頭が届きました。槍や鎧は天
狗党が持っていってしまったのでしょう。」とおしゃっていた。

だいたい、このような説明であった。今回は堤先生からの
情報をいただいたので、「下仁田戦争の復刻版」とした。
堤先生、ありがとうございました。
でも、、はじめてお話い
ただいたのにずうずうしく堤先生の個人蔵の兜や文章や説明を
多く入れてあり、失礼に当たると思い恐縮しております。お気に
触るようでしたら、下記にて御連絡下さい。

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 (★堤家個人蔵・・・なので)
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◆◆ 箕輪初心◆水戸天狗党1『挙兵〜下仁田戦争直前』 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201303/article_25.html

箕輪初心◆水戸天狗党3の2『下仁田戦争の詳細編』
http://53922401.at.webry.info/201303/article_26.html

箕輪初心◆水戸天狗党3の3「信濃→越前:処刑」
http://53922401.at.webry.info/201303/article_27.html

◆◆ 箕輪初心★下仁田の特産品・名所・偉人・有名人 ◆◆
 ★里見哲夫先生=「シダ植物研究」の 第一人者
http://53922401.at.webry.info/201204/article_20.html

箕輪初心◆群馬安中「磯部ガーデン」&展示品:大手拓次&櫻井家
http://53922401.at.webry.info/201403/article_30.html
*********************************************************


★★ 堤克政先生の説明書き ★★
画像

1)水戸天狗党
水戸藩士の一部が尊王攘夷を叫び筑波山に天狗党と名乗って
決起しましたが、同時に反対勢力(守旧派の諸生党)が対抗し、
更に、幕府からも天狗党追討令が出されました。
その為、水戸藩内では2派の戦争が始まりましたが、やがて
天狗党が劣勢となり、水戸に居つらくなった天狗党は、京都に
在していた一ツ橋公に決起の心情を訴えようと行動しました。
この行動は、西を目指した部隊移動でありましたから「天狗
西上」と言いますが、出発地点は水戸藩大子村で途中幕府追討
軍及び追悼の幕命を受けた通過地点の藩と戦ながらの過酷な長
旅でありました。
 特に、群馬県高崎市の「下仁田」を通りました時には、天狗
党追討の幕命を受け、武力を用いた高崎藩軍の攻撃と妨害を受け、
たちまち戦争が始まってしまいました。

2)高崎藩士 「堤金之丞」
 堤金之丞は、高崎藩の江戸詰目付けでありましたが、1863年
(文久3年)高崎に戻りました。
 1864年(元治元年)11月16日の下仁田戦争には、高崎藩
第一番手の使番兼目付として出陣し、本陣で指揮をとっている
際に、熊野山より天狗党に狙撃され戦死しました。
 
3)堤金之丞使用の兜
 「黒塗り六十二間筋兜」と言い高崎藩のクリ半月の前立て
 がついています。
 前面左側上方に天狗党が放った銃弾が貫通した跡が
のこっています。
使わせていただきました。ありがとうございます。



〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
★★ 高崎藩士:「堤金之丞」 ★★
堤金之丞の父は高崎藩の江戸家老である。
 御子孫:堤克政さんの話だと
「はじめは800石だったけれど、400石になった。」
 
○堤金之丞の砲術の師は勝海舟だった。
堤金之丞は高崎藩の江戸詰目付けであった。
 「120石取り?」とおっしゃった記憶があるが・・・
・文久3年(1863) 高崎に戻った。
・元治元年(1864)11月16日 下仁田戦争
 高崎藩第一番手の使番兼目付として出陣した。
里見哲夫先生宅の前の畑で陣をはった。

 高崎藩は甲州流の陣立てであった。
第一線・・・足軽小銃隊
第二線・・・徒士組刀槍小銃隊
第三線・・・一番隊隊長:会田&上級武士抜刀隊&
   大砲隊隊長:堤金之丞であった。
大砲は4門あった。
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下仁田
高崎藩士207名 VS 天狗党925名
天狗党925名は徒歩15分位の櫻井家に本陣を置いた。
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武田耕雲斎の話
武田耕雲斎の先祖は武田信玄家臣:跡部資勝
である。子孫・・水戸藩士:跡部正続の子として生まれた。
跡部正房(跡部家の宗家300石)の養嗣子となった。
跡部資勝の長篠の戦いは悪評だと考え、武田信玄
にちなんで、武田耕雲斎と名乗った。ちなみに、
箕輪城代になった内藤豊後守昌豊(昌秀)の養子
:内藤昌月(まさあき)も跡部資勝の子である。
滝川一益が来るまで、箕輪城主だった。

武田耕雲斎の泊まって本陣とした櫻井家は
櫻井はまさんの先祖様ではなかろうか?・・・
磯部ガーデンの大女将:櫻井さんが名主だったと
言っていたので、武田信玄の家臣の子孫同士だっ
たと勝手に思いこんでいるが・・・・・。
  
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その他の家に別れて宿泊した。
・・・未明から戦争を始まった。



天狗党別働隊2は伊勢山から進軍してきた。
 小幡藩の旗をかかげ、「加勢にきた。」と油断させた。
 そして、熊野山=現ふるさとセンターから高崎藩兵に
 一斉射撃を浴びせた。
画像

画像

本陣で指揮をとっている際に、熊野山より天狗党に
 狙撃されたのだった。
 
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きっと、里見家=高崎藩本陣は集中砲火を浴びたの
  だろう。

高崎藩の堤金之丞の兜に丸い銃丸が当たった。
 銃丸が貫通した。
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 息が残っていたので、その場で味方の○○に
 『首を切って、家に届けてくれ。」
 と頼んで、首を刎ねてもらった。
 堤家に兜と頭が届いた。42歳だった。
 


高崎藩本陣は多勢に無勢・・・集中砲火を浴び敗走した。

画像

 (★弾痕の残る里見邸の蔵)


結果・・・
高崎藩は戦死者36名+捕縛者8名を出した。
 捕縛者8名は下仁田の青岩河原で処刑されてしまった。
 合計44名が戦死した。

天狗党は戦死者4名であった。
 


**************************************************
箕輪初心◆水戸天狗党3の2『下仁田戦争の詳細編』
http://53922401.at.webry.info/201303/article_26.html
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この前、書いた掲載した内容を添付した。

★平成25年(2013)3月24日、里見哲夫先生宅に伺った。
蔵の壁には鉄砲の弾痕が残っている。近くには、勝海舟の書
という「高崎藩士戦死の碑」がある。島ア藤村も訪れたという。
10mの崖上は、天狗党が里見邸前にいた高崎藩を攻撃した場
所であり。現在はふるさとセンターである。下仁田戦争の激戦
地だった場所である。



◆◆ 箕輪初心◆水戸天狗党1『挙兵〜下仁田戦争直前』 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201303/article_25.html


◆◆ 箕輪初心★下仁田の特産品・名所・偉人・有名人 ◆◆
 ★里見哲夫先生=「シダ植物研究」の 第一人者
http://53922401.at.webry.info/201204/article_20.html
http://53922401.at.webry.info/201205/article_15.html





11月15日
吉井→七日市→宮崎・一ノ宮を経て・・支障なく下仁田に
入った。
▲小幡藩兵は家老:小倉など300人?
 が馬山に行ったが水戸天狗党の大砲によって、神農原
まで撤退した。

▲七日市藩用人:横尾鬼角は死に装束で、武田耕雲斎に
 面会して、「間道を行くように・・・」と依頼した。
 七日市藩兵は南蛇井(なんじゃい)から中沢に進んだ。
 しかし、大砲の音で中村から動かなかった。
 水戸天狗党が、横尾鬼角の案内で鏑川を渡った。

 一ノ宮(現富岡市一ノ宮)に入った。
 貫前神社で戦勝祈願をした。

▲高崎藩城代家老:宮部兵右衞門(★たぶん宮部譲の父)は、
高崎藩兵を4班に分けた。
1班・・高崎城の備え
2班・・1番隊:会田孫之進周幸(かねゆき)109人
3班・・2番隊:浅井隼馬92名
4班・・3番隊:深井忠之丞景忠(★深井英伍先祖?)132名


▲幕命を受けた高崎藩・小幡藩・七日市藩は
 宮崎(富岡市)で会議を持った。
会田孫之進は小幡藩・七日市藩に先峰を頼んだが、
「武器がないため、・・。」とことわられた。
高崎藩は藩兵3隊320人余りの追撃隊を下仁田に向かわせた。

◎その頃、桜井弥右衞門宅では、有賀・杉原・富永・長野
 ・小林らが集まって会議を持った。
「女子どもは山に避難させ、若い者は村の警護をする。」
「下仁田には泊まらないで欲しい。」と懇願することになり、
長野見意(★箕輪城主:長野業政の子孫)と小林多治見が水戸
水戸天狗党に会いに宮崎に向かった。
 宇芸神社で水戸天狗党とであった。

二人は懇願したが、滝平主殿は
「我等は、高崎藩・小幡藩・七日市藩と戦うためにここに来
 たのではない。京へ行くためだ。是非、下仁田で泊めて欲
 しい。」
と、言われてしまった。
二人はしかたなく、下仁田に急いで帰った。


▲高崎藩の1番隊:会田隊はは梅沢峠を越えて、下小坂の関口
先回りし下仁田の先の下小坂に本陣を構えた。
高崎藩士207名の本陣は名主:里見治兵衛宅であった。
★里見治兵衛は里見哲夫先生の先祖である。
寺子屋もやっていて20人程の子どもに教えていた。
(★大恊ュ義氏) 


前の桑畑の木を切って、高崎藩士が陣取った。
 大砲4挺も据えた。


15日の夕方、小坂峠を越え、水戸天狗党925名・・・
葵の旗を先頭に、馬は207匹・大砲15台・旗10・馬印89
・小荷駄50・大釜・・が下仁田に入って来た。
武田耕雲斎は、出迎えた村の名士達に先に声をかけた。
「わしは武田伊賀じゃ。今夜は世話になる。宜しく頼むぞ。」
と・・
礼儀正しいので、村人は少し安心した。
     (★大恊ュ義氏)


水戸天狗党925名の本陣は、櫻井家であった。
※里見家&櫻井家は徒歩15分程度の距離である。
櫻井宅・・・武田・田丸・山国など数十人



杉原宅・・・藤田・竹内など
富永宅・・・春日など
杉原宅・・・荘司など
有賀宅・・・難波など
倉田宅・・・高橋など
脇坂宅・・・島田など
富永宅・・・薄井など
石井宅・・・熊谷など
櫻井宅・・・滝平など
民家・・・・それぞれ・・・

老人・女・子どもが戻って来て、食事のしたくをした。

櫻井はまは武田に
「どうか村で戦を起こさないで下さい。」
と頼んだ。武田は
「高崎藩が近くにいる。避けたのは山々だが・・
村での戦は避けよう。」
と答えた。


【4】 「下仁田戦争」水戸天狗党 VS 高崎藩  
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・元治元年(1864年)11月16日未明、
  天狗党925名 VS 高崎藩207名

水戸天狗党の攻撃は軍師:山国兵部の立てた「三方包囲作戦」
であった。
本隊・・・・本街道から
別働隊1・・西牧川の対岸から
別働隊2・・伊勢山→尾根→熊野山(ふるさとセンター)から

 ★実際はここから登ったのではない。


高崎藩は甲州流の陣立てであった。
第一線・・・足軽小銃隊
第二線・・・徒士組刀槍小銃隊
第三線・・・一番隊隊長:会田&上級武士抜刀隊&
       大砲隊隊長:堤金之丞

『下仁田戦争』が開始された。
 高崎藩は先制攻撃をかけた。
 高崎藩が優位に立った。
 
 一進一退の攻防戦であった。
 
 天狗党別働隊2は伊勢山から進軍してきた。
 小幡藩の旗をかかげ、「加勢にきた。」と油断させた。
 そして、熊野山=現ふるさとセンターから高崎藩兵に
 一斉射撃を浴びせた。

 ★きっと、里見家=高崎藩本陣は集中砲火を浴びたの
  だろう。
 高崎藩の堤金之丞の兜に銃丸が当たった。
  
 
 ★堤金之丞の父は高崎藩の江戸家老である。
 堤金之丞は 勝海舟に砲術を学んだ。
 ★4代後の御子孫堤克政(よりまさ)氏が「ちょんまげ
  時代の高崎」を執筆された。  

 西牧川からも天狗党が攻めてきた。
 天狗党の三面奇襲が勝敗を分けた。
 
足軽大将:深井景命も戦死した。
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深井景命の子孫は身内の子孫には日銀総裁に
  なった深井英伍がいるらしい。

(★群馬県立博物館の73回企画展の表紙は深井氏の
 子孫が着た甲冑姿だそうである。)
 
▲高崎藩は次第に後退していった。
 
※安導寺の戦い
  
→総崩れになって敗れた。
 高崎藩本陣付近での激戦は午前4時から6時頃まで続いた。
 残兵は中山道を高崎に敗走した。
画像


結果・・

@高崎藩は36名の戦死者

高崎藩士の捕縛者8名はは青岩河原で処刑された。
  翌日、戦死者と共に遺族に引き取られた。
 
 高崎観音山の清水寺田村堂に木像が安置されている。

 (★ふるさとセンター写真・・掲載許可済み
  神戸先生から・・・)


A天狗党4人の戦死者
 天狗党の戦死者は村内の寺に厚く葬られた。
重傷者の中には信州への峠を越えて絶命した者もあった。
 (★下仁田歴史資料館)



◆◆ 下仁田町の『下仁田戦争関連史跡』一覧 ◆◆

@高崎藩士戦死の碑
画像

  :明治26年11月16日、下仁田戦争30周年を記念して
   最大の激戦地となったこの地「岩下」に建立されている。

  ※「高崎藩士戦死之碑」は勝海舟の書による。
★堤金之丞の砲術の師は勝海舟だった。
画像


 島ア藤村の碑


A高崎藩本陣里見家 
画像

  蔵の弾痕:高崎藩は小坂村名主里見治兵衛宅前に陣を構えた
  が、水戸天狗党の三面奇襲を受ける。蔵には当時の弾痕が残る。
★刀の切り跡もあったと記憶しているが・・・蔵の弾痕だった。


B水戸天狗党本陣櫻井家:
  本陣には総大将武田耕雲斎、山国兵部、田丸稲之衛門ほか
  幹部数十名が宿営。

C高崎藩士切腹の場=青岩河原
  捕えられた高崎藩士七名が処刑された場所

D野村丑之助の墓
  初陣の丑之助は13歳。田丸稲之衛門の小姓、右手を切り落と
  される重傷を負ったことから、願って自害、首を討たれた。


E義烈千秋の碑・・・・稲荷神社
画像

  てん額「義烈千秋」は小松宮彰仁親王の書。
  碑文は依田百川による。
  明治33年旧水戸藩士が下仁田警察署長に赴任した際、
  資金を募集し建立。


F本誓寺の墓:久保田藤吉、斎藤仲次の墓
  水戸天狗党の久保田、斎藤の身分や年齢は不詳。
  安導寺の戦いで戦死し本誓寺に埋葬された。
  

G大曾根繁蔵の墓:安導寺の戦いで戦死。水戸天狗党


Hふるさとセンター下仁田歴史資料館
  下仁田戦争で水戸天狗党が高崎藩本陣を攻撃する際、
  この松周辺から発砲したことから、それ以降「狙いの松」
  と呼ばれた。第二次世界大戦末期に松根油を採取する
  目的で伐採されてしまった。

◆◆ 下仁田歴史資料館Hp ◆◆
http://www.town.shimonita.lg.jp/kyouiku/m02/m06/02.html
(★「水戸天狗党と下仁田戦争」群馬県立歴史博物館)

・水戸天狗党の行程
 

・「兵士行軍図」

・戦争の時飛来した弾丸、弓の矢
  高崎藩本陣=里見家から。

・下仁田戦争の絵地図・・・里見哲夫先生蔵


〜〜〜〜等

※高崎藩士「堤金之丞」の兜
「黒塗り六十二間筋兜」
 高崎藩のクリ半月の前立てがついている。
堤金之丞は高崎藩の江戸詰目付けだった。
高崎藩第一番手の使番兼目付として出陣し、本陣で指揮を
とっている際に、熊野山より天狗党に狙撃された。
 (42歳)

★里見哲夫先生の家が大変だったことが分かった。
★高崎藩もつらかったであろう。




★参考図書・資料等
・水戸天狗党と下仁田戦争百五十話:大恊ュ義著
以前のベースにさせていただき、ありがとうございました。
・群馬県立博物館の73回企画展冊子
・堤克政先生の説明・パンフレット
堤克政先生、ありがとうございました。
・下仁田歴史資料館の資料&里見哲夫先生の資料
里見哲夫先生、ありがとうございました。
神戸先生、ありがとうございました。


★参考サイト




★明日は栃木:佐野清水城かな?

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