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zoom RSS 箕輪初心★箕輪城121【長純寺】=長野業政の木造&供養塔&箕輪亭(きりんてい)

<<   作成日時 : 2014/03/27 20:04   >>

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金富山実相院長純寺は高崎市箕郷町にある曹洞宗の寺院で
ある。明応六年(1497)長野業政の父:長野信業が現高崎市箕
郷町上芝に創建した(伝)。しかし、明応6年(1498)長純寺
が(高崎市箕郷町上芝)榛名白川の洪水で流出した。墓は崖
の上に移したという。弘治3年(1557) 長野業政が菩提寺:
長純寺(高崎市箕郷町原山)を再建した。
(★長純寺文書)
僕んちは長純寺の檀家である。何回も行ったことがある。
武田信玄を9年間も撃退した長野業政の寺は、墓は来迎寺、
供養塔は長純寺、先祖は長年寺である。車なら3寺は箕輪
城見学後、半日で全部回れる距離にあるので是非セットで
どうぞ。
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※場所 〒370-3115 群馬県高崎市箕郷町富岡852
 027-371-3015


●高崎〜高崎市役所箕郷支所へ

●高崎市役所箕郷支所〜長純寺
徒歩・・・約30分程 
車・・・・約3〜4分程
バス停はない。

●参道前の駐車場
 自家用車等が3台・・・。
  ほとんど駐車可能である。


●説明板。

●石像・・・十王様&しょうつきばばあ
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●石柱
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●山門
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●山門脇の臣瓦・・・
 ★きっとぼくんちの先祖も寄付をした。
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●右に梵鐘。
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 説明板


●本殿
長野氏の家紋・檜扇(ひおうぎ)が記されている。
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寺宝:長野業政公の木造



●本堂を正面に見て左に向かう。

●家臣団の線香台

●案内版が見えてくる。
案内板では「墓所」となっているが、供養塔である。

●更に上に登る。

●案内板
 ★どこまで行けばいいんだ?と思うが、実は知ってい
  るので、箕郷梅公園から下ってきているので、最短距離10m。

  

●登る・・・
★どこまでと思うでしょうね。
 たぶん、私が知っているから、どうでもいいけど。

●緑色の鉄柵
●全景
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●案内板
「長野業政公は長野氏60年間の箕輪城主の中でも最も智・仁
・勇を兼ね備えた名将の誉れ高い城主であり、武田信玄の数度
にわたる猛攻にも屈せず、長野氏の全盛期を築き上げた武将で
ある・・・。」
ということなどが書かれている。
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※三つの石碑がある。
 ★江戸時代以降の物と歴史を知っている人なら分かる。
では、いつ?・・・
 ゴメンね。檀家なのに1回も聞いたことがない。



※長野業政は,業正とも書かれる。
中世文書からの有力な説は「 業正 」である。
 でも、いつも業政を使っちゃっている。
 長純寺も「業政」である。



●1)長野業政の供養塔
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 ★五輪塔の時代なので、すぐ後世のの物だと分かる。
@中央・・・当寺開基一盛長純大居士神儀
A右側・・・永禄四年辛酉年箕輪城主長野信濃守
          信業公之塔
★「信業」・・おそらくは自分の死を隠すために、自分(業政)
   の父親の名前を記したと考えられる。
黒田基樹先生は「信業の存在を否定している
B左側・・・六月後一日,当時十三代実山真叟造立之

●2)箕輪城主始武士団物故者塔
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  墓碑の右側の供養塔・・・
 ・昭和60年(1985)に長野業政墓前で供養した時の
  物である。

●3)????の供養塔。
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★★昔撮った写真・・・7年前?
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@長純寺・・・長野業政の供養塔
長純寺が一番箕輪城には近いが、墓ではなく供養塔で
  ある。しかし、ここに移転して創建した人物である。
  長純寺も現在「長野姓である。」
A来迎寺・・・長野業政の墓(伝)+35基の墓
B長年寺・・・長野業政の墓がなく、父までの6代の墓が
 ある。
※長野→武田→滝川→北条と支配が変わる中、長年寺や来迎寺
などとともに3つの寺が残っている。地元の人に愛されていた
からだとの考えもあるが、そうではない。他地区から入った
武田信玄や北条氏邦や井伊直政は旧長野氏の家臣団を大事に
したのである。



〜〜〜〜長野業政〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
・延徳3年(1491)または明応8年(1499)
長野憲業?長野信業?長野方業の子として生まれた。
 @憲業=信業は同一人物説。・・・・
  (★『箕輪城と長野氏』・箕輪町誌:近藤義雄)
 A憲業&信業は兄弟説・・・・・・
 B長野方業=長野業政同一人物説・・飯森康弘説
C長野方業の子:長野業政説・・・・黒田基樹
  諏訪明尚(松井田諏訪氏)以外の憲業の弟の存在を確認
  できないとして、信業の実在を疑問視し、憲業の後を
  長野賢忠(厩橋長野氏)弟:長野方業が入嗣し、業正は
  その子としている。
  長野業正の長野氏は箕輪城主の箕輪長野氏
  長野業氏の長野氏は鷹留城主の鷹留長野氏)で兄弟
  (★黒田基樹「戦国期上野長野氏の動向」
    『戦国期 山内上杉氏の研究』岩田書院)
 D長野業氏は長野業正の叔父説(『系図纂要』)
 久保田順一 『上野武士団の中世史』みやま文庫
『群馬県史』第1巻:群馬県教育会


・天文20年(1551) 山内上杉氏の上杉憲政が越後に逃れて
からは,西上野の武士団を糾合した。
  武田信玄の軍勢を撃退している。

・弘治3年(1557) 長野業政が菩提寺:長純寺(高崎市箕郷町
  原山)を再建した。(★長純寺文書)
梁14丁、柱78本のうち、
    @柱1本・・松田
    A柱1本・・源正右衞門尉
          松田右馬助
梁は出羽守3丁が一番多い。左衞門尉が出てくる。
松田は右衞門尉なので、身分が高い。

・永禄4年(1561)
『箕輪軍記』「長野信濃守卒去之事」
「終に永禄四年林鐘廿二日に御逝去されける。其形勢媿事也。
夫より藤井豊後守と内談して,往年の秋まで隠といへども,
終に信玄之洩聞。信玄大きに悦び
・・・中略)・・・・
長野業政一人箕輪に元住して猛威をふるひ,数万の軍兵を持
度々責るといへどもいまだ落ちず。
業政病死せば子息右京進父におとらぬ勇士なれ共,高教業政
に及ぶべからず。此時上野国を討取らずんば何の時か名を顕
さん。」
とある。

★何がなんでも上野が欲しい思った武田信玄はどんな手を使っ
てでも攻略したい城がとと思ったに違いない。
攻撃は6回説が通説であるが、私の調べでは、9回である。

でも、長野業政の死後、嫡男:氏業(業盛)は奮闘むなし
く、箕輪城で自刃した。あ^あ。





●●● 箕輪初心の近所のグルメ ●●●

箕輪亭(きりんてい)・・・高崎市浜川
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@焼き肉定食ランチ1300円…増田牛なのだ。
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・・・★これで、TV番組に紹介されたのだ。


A石焼きビビンバ+ラーメン1000円
 ★がっつり系の貴方に
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★明日は、箕郷の金竜寺かな?

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