城・陶芸・ハイキング・ダイビング・スキー・旅行

アクセスカウンタ

zoom RSS 箕輪初心●栃木県【益子城】&益子そば祭り

<<   作成日時 : 2014/01/09 07:31   >>

ブログ気持玉 0 / トラックバック 0 / コメント 0

益子には4回、益子焼を見に来ている。博物館にも行ってい
るのに、益子メッセが益子城がなんて、知らなかった。

「西明寺城が山城に居住して領国支配を行うことは不便である。
益子氏の平時の本拠は現益子市街地の陶芸メッセのある=益子
古城、あるいは益子館=益子小学校の地であった。」と以前お世
話になった余湖さんや北緯36・37度さんのHpから知った。

画像


〜〜〜栃木県シリーズ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
箕輪初心●栃木『板東20番:西明寺』&【西明寺城】=益子氏詰城 
http://53922401.at.webry.info/201401/article_10.html


箕輪初心●栃木【真岡城=芳賀城】=後北条氏と戦った芳賀氏の城
http://53922401.at.webry.info/201312/article_21.html

箕輪初心●足利氏館跡:足利尊氏を輩出した城&100名城
http://53922401.at.webry.info/201311/article_5.html

箕輪初心◆【足利初代〜8代足利尊氏】&栃木:足利氏館3回目
http://53922401.at.webry.info/201312/article_6.html

箕輪初心★足利8代目:足利尊氏=室町幕府を開幕
http://53922401.at.webry.info/201312/article_7.html

箕輪初心●栃木【唐沢山城】佐野氏→上杉謙信→北条氏→佐野氏
http://53922401.at.webry.info/201312/article_8.html

箕輪初心●栃木【佐野城】&佐野厄除け大師&佐野信吉
http://53922401.at.webry.info/201312/article_9.html

箕輪初心◆栃木:【例幣使街道の宿場町&水運蔵の街:栃木】&レイテ島
http://53922401.at.webry.info/201312/article_16.html

箕輪初心◆下野:古代都市【@琵琶塚古墳・B国府跡・D国分尼寺等】
http://53922401.at.webry.info/201312/article_17.html

箕輪初心★栃木【祇園城=小山城】&小山一族の栄枯盛衰の歴史  
http://53922401.at.webry.info/201312/article_10.html
  
箕輪初心○栃木[小山氏城跡A]=【鷲城】&小山義政
http://53922401.at.webry.info/201312/article_11.html

箕輪初心●栃木小山【中久喜城】=鉄道で真っ二つの城
http://53922401.at.webry.info/201312/article_12.html

箕輪初心●栃木【壬生城】=小田原で滅亡した壬生5代の城 
http://53922401.at.webry.info/201312/article_18.html

箕輪初心●栃木【児山城】=宇都宮氏の南を守る城
http://53922401.at.webry.info/201312/article_19.html

箕輪初心●栃木【上三川城】=近世城郭のような中世古城
http://53922401.at.webry.info/201312/article_20.html

箕輪初心●栃木【飛山城】=宇都宮一族の芳賀氏築城
http://53922401.at.webry.info/201312/article_22.html

箕輪初心●栃木:『宇都宮一族の歴史』&【宇都宮城&多気山城】
http://53922401.at.webry.info/201312/article_23.html

箕輪初心●栃木【中村城】:伊達政宗の先祖が築いた城
http://53922401.at.webry.info/201312/article_25.html

箕輪初心★栃木【益子焼】=濱田庄司・島岡達三などが発展に貢献
http://53922401.at.webry.info/201312/article_26.html

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜




■訪問日・・・平成20年(2008)11月23日
上三川で@児山城  A上三川城 B中村城 C益子城 
D西明寺城・・・を見学後、益子焼見学・・・の一日コースである。
 
【1】益子古城・・益子メッセ  
○案内板
画像



●復元長屋門・・・博物館であった。
画像


○おまけコース
画像




画像

画像


●益子古城の案内板
画像

「戦国期の益子氏の居城・・・。」と書いてあった。
 西明寺城、益子城、益子古城の3つが有機的に連携
 し合っていた。
・縄張り図
画像


○本郭
画像


○なんとか郭
画像


○南の寺
画像




●益子メッセの蕎麦祭り ・・・2つの蕎麦を食った。
画像

画像










【2】益子城・・・益子小学校
★余湖さんのHpに
「益子城(古館)・・・・益子城は、益子小学校を中心として、
北東に延びた尾根状に複数の郭を配置している。「根古屋」の地名が
残っている。・・・方が戦国期の領主の城としてはよさそうである。」
とあった。
行っては見たが、写真はない。



【3】益子焼 
「益子焼には、私の習っている安中自性寺焼の陶工達が、150年
ほど前の明治初期に益子に移り住んだ。茂木町の須藤窯というのが
その陶工である。・・・2009年7月21日には、益子焼のルーツ
を研究している陶芸家の方は、安中市の青木師匠を訪ねて来た
そうである。」

◆◆ 益子焼【須藤窯】
http://blog.livedoor.jp/jackie7/tag/%E7%A9%B4%E7%AA%AF
益子町史・第五巻(窯業編)の、“大羽・須藤窯”のところに、
こんな記述がありました。
「明治二〇年、須藤金五郎創業。金五郎は嘉永五年常習碓氷郡下秋間村
(現安中市下秋間)に生まれ、自性寺焼に従事していたと伝えられる。
…中略…金五郎はこの地に窯を築き、独立する以前は、明治一〇年頃より
真岡市道祖土の高松窯(道祖土窯)で陶工として働いていたが
明治一六年二月八日には城内(益子町)の大塚亀次郎方に附籍した。」
 (★ブログをコピーさせていただきました。)



◆◆ 益子城・益子氏の歴史 ◆◆
・平安時代・・・益子氏は紀氏を称した。
  
  紀姓益子正隆が、外孫:宗綱が宇都宮宗円の養子となり、
  宇都宮氏を相続してから益子氏は勢力を強化させた。


・文治5年(1189)源頼朝の奥州藤原氏征伐
  益子正隆の孫:正重は、宇都宮朝綱に従軍し、芳賀次郎大夫
  高親とともに戦った。
  

  →源頼朝から源氏のシンボル:白旗を贈られた。
※白旗城・・大田原市余瀬
   
  宇都宮氏の傘下では、芳賀城の清原氏の『清党』・益子氏の
  『紀党』
が大きく成長していった。

・鎌倉時代・・・宇都宮氏の傘下となって紀清両党は
       各地で武勲をたてた(伝)。 

・暦応2年(1339) 北畠親房は春日顕時を常陸国関城に派遣。
春日顕時は関城から下野に侵略、
   益子氏の西明寺城、八木岡城、上三川城が攻め落され
   た。






・文明9年(1477) 長尾景春の乱・・広馬場(群馬県)の戦い
   長尾景春に味方する古河公方:足利成氏の命を受け、
   宇都宮正綱は上野の総社〜白井(長尾景春の居城)に
   出陣した。山内上杉憲政&扇ヶ谷の太田道灌の軍勢と
   戦った。宇都宮正綱は川曲(現前橋市)の陣中で病死
   した。
   益子唯正・延正父子は宇都宮正綱に従って戦ったが、
   上野で討死した。


・天文5年(1536)宇都宮興綱が重臣:壬生綱房と芳賀
  高経らに詰め寄られ自刃させられた。  
宇都宮尚綱が宇都宮20代当主となった。
宿老・壬生綱房の専横が目立つようになる。


・天文8年(1539) 芳賀高経は壬生綱雄らと謀って、宇都宮忠綱の
遺児を宇都宮城主にしようとした。
 宇都宮尚綱は飛山城を急襲して高経を自害させた。
 芳賀氏を討った尚綱は、益子勝宗の三男に芳賀氏の家督を継がせ、
 高定と名乗らせた。

 芳賀高定は高経の遺児三郎を引き取って養育している。
  

・天文8年(1539) 説 
   宇都宮尚綱は壬生綱房と芳賀高経を討った。

・天文10年(1541)説 
  @宇都宮尚綱は 古河公方:足利晴氏、
  小田政治、佐竹義篤らと組んで芳賀高経を殺害。
  A最後は小田政治のもとへ逃れたのち殺害説
  B児山城に籠城して戦死説
 宇都宮尚綱は芳賀高照(高経の子)を追放して、芳賀家には、
  益子勝宗の3男:宗之を養子にを送り込んだ。
  芳賀高定と名乗らせた。  
  芳賀高定が宇都宮尚綱の腹心になっていった。
  
※宇都宮尚綱は結城政朝の娘を妻とした。  

・天文14年(1545) 宇都宮尚綱は中村城奪回のために
   水谷正村の久下田城を攻撃。                       
   →反撃で、中村城は廃城。
   →中村領は水谷氏の領地。
→水谷正村の上三川城攻撃。
今泉高光は上三川城を死守した。

・天文15年(1546)益子延正の曾孫:勝宗は、宇都宮氏に背
いて、結城氏麾下の水谷氏に属し、下館に居住した。




・天文18年(1549) 五月女(そうとめ)坂の戦い
   宇都宮尚綱2000 VS 那須高資300
那須軍の奇襲を受けて那須家臣:鮎ヶ瀬実光
  に射抜かれて絶命した(伝)。
  宇都宮尚綱が敗死。享年37歳。
  
  5歳の宇都宮広綱は芳賀高定(益子勝宗の3男:宗之)
  をに守られて真岡城に落ち延びた。
  
  那須高資側の芳賀高経の子:芳賀高照を宇都宮城に入城した。 
(★芳賀高経の娘は那須高資の妻だった。
 つまり、那須高資は那須高資の従兄弟だった。)
  宇都宮氏本流は一時宇都宮城を失った形となった。

・天文21年(1551) 宿老:壬生綱房が宇都宮城を乗っ取った。
壬生綱雄が北条氏康の命令であった。
   (★「関東の名城を歩く」では)
  壬生綱房は芳賀高経の子:芳賀高照を傀儡政権の当主に
  迎え入れた。
  壬生綱房や芳賀高照・塩谷義孝ら重臣団が宇都宮氏の実権を
  掌握した。
  壬生綱房は下野各地を侵攻し、統一に乗り出した。
  
  
・弘治元年(1555) 芳賀高定が芳賀高照を真岡城におびき出し、
   暗殺した。
  そして、壬生綱房が急死。〜〜〜ラッキー。

・弘治3年(1557) 古河公方:足利義氏の命で、佐竹義昭は
  芳賀領:飛山城に5000の軍勢で宇都宮広綱&芳賀高定
  (益子勝宗の3男:宗之)&益子勝宗を支援した。

 
  壬生綱雄がは宇都宮城を退却した。
  宇都宮広綱が宇都宮城に入った。
宇都宮氏21代当主となった。
★ちなみに古河公方足利義氏は北条氏康の娘が生んだ子どもで
 ある。
★ちなみに宇都宮広綱は佐竹義昭の娘婿である。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
・永禄3年(1560)長尾景虎(=上杉謙信)が祇園城を攻撃。

 宇都宮広綱は上杉謙信と同盟を結んだ。
 関東制覇を目指す後北条氏やその北条氏側の諸大名と
 徹底して対立した。

・永禄7年(1564) 小田城の戦い
  上杉謙信の同心になり、宇都宮広綱は、佐竹義重と共に北条
  方の小田城を攻撃した。
  小田氏治を敗走させた。
  
・元亀3年(1572) 宇都宮広綱が病になった。
  政務は母:南呂院:佐竹義昭の娘&広綱の妻の
  実父:佐竹義重

・天正4年(1576) 宇都宮広綱が病死。32歳。
  宇都宮広綱&佐竹義昭の娘の子:宇都宮国綱が22代目を
  継承した。 
  壬生氏や皆川氏などの反対勢力=北条側が活発化した。

・天正4年(1576) 小山秀綱が北条氏に降伏して開城。
   小山城は北条氏の手によって改修された。
   後北条氏の北関東攻略の拠点となった。

・天正5年(1577)後北条氏の関宿・古河着陣。
  後北条氏が下野に侵攻。      
  宇都宮国綱は佐竹義重(宇都宮国綱の叔父)と同盟を
  結んで、独立を保持した。
佐竹義重は当然、宇都宮氏を支援した。

・天正6年(1578)佐竹義重は壬生城を攻撃した。 

  益子勝宗の嫡男:益子信勝は那須の大関氏に仕えた。
  益子勝宗の次男:益子安宗は重臣:加藤上総の進言
   で幽閉された。
   益子安宗の後継者は家宗(君島高胤の次男?)だった。

   
〜〜〜 ※益子家宗が家督を継いだことから周辺諸氏との争いが
  激しくなった。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 
・天正9年(1581)
益子家宗が境を接する笠間綱家と戦いが始まった。
益子家宗(重綱)を庇護した結城晴朝は、加藤大隈守父子を
  大将に兵を派遣した。
 益子家宗の益子城支城:富谷城(現茨城県岩瀬町)を結城晴朝
 の援軍に預け、岩瀬城を加藤大隈守、加藤大蔵少輔らを守将と
 して笠間勢に備えた。

 
 2年続く。〜〜〜〜〜〜

・天正10年(1582) 織田信長と北条氏の取り決めで、
         小山城を小山氏に返還・・・。

・天正11年(1583)
 @宇都宮国綱が幼少であったため、重臣芳賀氏が後見して家政を
  執っていた。これに対して、益子家宗(重綱)は不満をもち、
  宇都宮氏に叛いた(伝)。 
  益子家宗の父:安宗は宇都宮氏からの独立を果たそうとして
  反対する重臣らに幽閉されたため、幼くして家督を継いだ。

  そのため、加藤大隈守や加藤大蔵少輔ら重臣が執政として
  一族を取り仕切ったとする説もある。

  笠間領と益子領は隣接していた。→紛争が絶えなかった。

  結城晴朝は笠間綱家と益子家宗の仲裁をしようとした。
  しかし、拒否した。
    
  笠間綱家は結城の仲裁を無視して益子に攻め込んだ。
  益子安宗、結城晴朝の軍が撃破した。

  益子家宗(重綱)は下館の水谷氏からの援軍を受けて、
  高塩伊勢守の山本古屋城を落城させた。
  益子家宗(重綱)は真岡郡西の台に進軍し、芳賀高照ら
  芳賀軍と戦った。


・天正12年(1584)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 北条軍の下野侵入。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 七井城主:益子勝忠(家宗の叔父)は宇都宮国綱に叛いた。
 益子勝忠は尾羽寺で毒殺されてしまった。


 笠間綱家は谷中玄蕃允の嫡男:孫八郎+家老:江戸美濃守を
 益子家宗(重綱)の討伐軍として出陣させた。
 
 笠間軍は、益子方の要害:富谷城を一気に乗っ取る計略を立て、
 城に近付いた。

 一方、富谷城からは5〜600人の兵が出動した。

 笠間軍は一斉攻撃を行い、益子軍を打ち破った。
   
 結城晴朝は、下館城主水谷勝敏に命じて笠間綱家を攻撃
 させた。

・天正13年(1585) 宇都宮国綱の弟:宇都宮高武が養子として
     真岡城の芳賀家を家督相続した。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 ※後北条氏の侵攻がさらに激化した。
  
北条氏直・氏照の児山城・多功城・上三川城の攻撃。
   →芳賀高武は援軍を出した。
・上三川城で北条氏照をくいとめた。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 益子家宗(重綱)は結城氏の武将羽石盛長が笠間綱家に
 内通したため、居城田野城を攻め落とした。


 しかし、益子家宗(重綱)が譜代家臣でありながら宇都宮
 一族:笠間綱家と数度に渡り争ったことに、主君:宇都宮
 国綱の逆鱗に触れた。

 
 益子家宗(重綱)は主家:宇都宮国綱と対立した。

・天正14年(1566)
  新福寺戦い
 益子勝忠の子:忠兼 VS 茂木山城守治良
 益子勝忠の子:忠兼が討死。
  
  益子家宗は復讐をしようと考えた。
   結城晴朝に千貫の地:冨田を献じて後詰を頼んだ。




・天正15年(1587) 
9月 茂木の佐夫良峠の戦い
益子家宗&結城軍 VS 茂木山城守治良&佐竹軍
  益子・結城の軍勢は矢口台に陣を敷いた。
  茂木治良の率いる軍に敗れて退却した。
  .

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
●宇都宮国綱の後北条氏対策
@下野国の芳賀高武(宇都宮国綱の弟・・真岡城)
A下総国の結城朝勝(宇都宮国綱の弟・・結城城)
B常陸国の佐竹義重(宇都宮国綱の母:佐竹義昭の娘
    &正室:佐竹義重の養女)
C甲斐国の武田勝頼
D豊臣秀吉・・・・・手を結んで対抗した。



・慶長2年(1597) 宇都宮家の嗣子問題
  宇都宮国綱には継嗣が無かったため、五奉行:浅野長政の
  3男:長重を養子として迎えようとした。
  宇都宮国綱の弟:芳賀高武が猛反対した。
  賛成派は今泉高光であった。

  
・天正17年(1589)
  宇都宮国綱は益子家宗(重綱)に堪忍袋の緒が切れた。
宇都宮国綱と芳賀高武は、水谷氏→結城氏→北条氏に
  内通していた益子家宗を攻撃したのだ。


3月 宇都宮国綱は芳賀高武・多功綱継・笠間綱家.塩谷由綱らと
   密かに謀って益子家宗(重綱)を攻めた。
 ※益子家宗(重綱)は討死し、益子氏は宗家は滅亡した。
(★『下野国誌』) 
◆◆益子氏の没落〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
  
  豊臣秀吉の小田原城攻撃直前には、真岡城(弟芳賀高武)
  鹿沼城、、壬生城・益子城などの周辺諸城が全て北条氏照
  に寝返っていた。


 宇都宮国綱は拠点を宇都宮城から多気城に移さざるを
 得なかった。
※佐竹義重の戦略的な意図もあった。
 (★「関東の名城を歩く:今平利幸文責)
★四面楚歌で、豊臣秀吉の出陣が頼みの綱だったとも言える。

〜〜〜豊臣秀吉の小田原攻撃〜〜〜〜
・天正18年(1590) 豊臣秀吉の小田原城:北条氏攻撃。
 佐竹義重&宇都宮国綱は豊臣秀吉に謁見。
 宇都宮国綱は豊臣秀吉に参陣し、石田三成の忍城攻撃など
 に参加した。
 小田原城落城・・

 豊臣秀吉は宇都宮城に滞在。
 関東・東北の大名配置を決めた。
 「宇都宮仕置」を行った。
 浅野長政は奥州仕置では実行役として中心的役割を担った。

 宇都宮国綱は豊臣秀吉により18万石を安堵された。
 北条氏照に寝返っていた真岡城の芳賀高武が再び宇都宮国綱
 の傘下になった。

・文禄元年(1592) 文禄の役
 宇都宮国綱&芳賀高武は豊臣秀吉に従い、文禄の役に参陣した。
 
   
益子勝宗(家宗の叔父)は大坂に上って、宇都宮国綱の養子
  をめぐって、芳賀氏と争って敗れた。
  流浪し、浅野長政の客となった(伝)。



・文禄2年(1593)益子勝宗が死亡。 
  益子勝宗の代で平安時代より連綿と家系を継いできた益子氏
  が戦国大名として完全に没落し、滅亡した。

◆◆益子氏の滅亡〜〜〜〜〜〜〜〜〜  
 

 芳賀高武は上三川城を夜襲・・・落城。
  第14代:今泉高光は上三川城を退き、菩提寺:長泉寺で自害。
  上三川城は落城して今泉氏も断絶した。
 「片目のどじょう」の伝説
  ※本丸の堀には、上三川城落城にまつわるが伝えられている
  そうである。

 宇都宮国綱の改易。
 @浅野長政が豊臣秀吉に讒言したことよる改易説。
  浅野長政は安井重継の子であったが、叔父:浅野長勝の
  娘:やや(彌々)の婿養子として浅野家に入った。
  浅野長勝の養女:ねね(寧々)は豊臣秀吉)に嫁いだ。
  豊臣秀吉に最も近い姻戚であった。
  浅野長政「何故、3男:長重を養子にしなかったのだ。
約束したのに・・・。」
 A宇都宮国綱が石高隠匿の罪で改易説。
※太閤検地は浅野長政が実行した。
  
→豊臣秀吉より宇都宮国綱が所領没収された。
  同時に、芳賀高武も芳賀城・上三川城&所領没収・追放。
 宇都宮国綱・・・宇都宮家は滅亡。
備前の娘婿:宇喜多秀家の預かりとなった。
しかし、豊臣秀吉から
 「朝鮮での戦功次第では再興を許す。」
  と言われた。

・慶長2年(1597) 同年、宇都宮国綱は慶長の役の参加した。
順天城の戦いで武功を立てた。

・慶長3年(1598) 豊臣秀吉の死
宇都宮国綱の再興の夢は秀吉の死により断たれた。
 ★なんと、アンラッキーな宇都宮国綱。
※宇都宮氏は約500年間にわたる下野支配が終了。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 


★明日は栃木県益子の西明寺城かな?

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
箕輪初心●栃木県【益子城】&益子そば祭り 城・陶芸・ハイキング・ダイビング・スキー・旅行/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる