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zoom RSS 箕輪初心★【黒田官兵衛孝高=黒田如水の生涯】後編

<<   作成日時 : 2014/01/07 05:58   >>

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「黒田官兵衛」は織田信長・豊臣秀吉・徳川家康の3人の天下
人に重用された軍師である。「織田がつき、羽柴がこねし天下
餅、座りしままに食らうは徳川。」「国盗り→天下盗り」に明け
暮れた戦国時代、黒田官兵衛は姫路の小大名の家老から福岡藩
52万石の藩祖の礎となった。「戦の天才:官兵衛」「智将:官兵衛」
「キリシタン大名:官兵衛」の良い評価のある一方、「狡猾な
策略家:官兵衛」「四国・九州で数千人を磔にした鬼の官兵衛」と
いう良くない評価もある。どちらが黒田官兵衛の実像だろうか?
 
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箕輪初心★【黒田官兵衛孝高=黒田如水の生涯】前編
http://53922401.at.webry.info/201401/article_6.html



【6】官兵衛の豊前国主時代&隠居=豊臣秀吉側近
・天正15年(1587)  
4月 島津が降伏した。=豊臣秀吉の九州平定
 
7月 黒田官兵衛は豊前国12万石=
     馬ヶ岳城&6郡を与えられた。
    中津城の築城を開始。


 ★豊臣秀吉は次に天下を狙うのは黒田如水であろう。
がから、九州に左遷しようと考えた。

 (★童門冬二)

 佐々成政が肥後国の仕置きに失敗。
 黒田官兵衛は黒田長政を援軍として差し向けた。
      
  肥後国人一揆・・・隈部親永ら
  豊前国人一揆・・・野中鎮兼、宇都宮(城井)鎮房ら
 →黒田長政&養子黒田一成(加藤重徳次男)は失敗した。
   
 その後、黒田親子は徐々に鎮圧し、和議・婚姻を結ぶ。

・天正16年(1588)
黒田官兵衛は本拠を中津城に移した。
4月 黒田官兵衛は長政に指示して、宇都宮(城井)鎮房を
    謀殺した。
    城井谷の一族郎党を磔にした。
 
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 (★日田の月隅城) 
黒田官兵衛は石田三成と博多の復興を監督した。


・天正17年(1589)
 5月 黒田官兵衛は家督を嫡男:黒田長政に家督を譲った。
  黒田官兵衛(如水)は44歳・・・
  豊臣秀吉の側近として仕えた。

豊臣秀吉は信頼していたからである。
   頼りにされていたのだ。


12月 豊臣秀吉は北条氏政・氏直に戦線布告



・天正18年(1590)
3月 豊臣秀吉は小田原攻撃に出陣
6月 黒田長政が従5位の下:甲斐守になった。

豊臣秀吉の小田原の攻撃〜〜〜〜〜〜〜
  山中城の戦い
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黒田如水は娘婿:一柳直末が山中城で戦死すると、
  松寿丸(一柳直末の息子)を黒田如水の養子&黒田長政の
  嫡男とした。

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黒田如水は石垣山一夜城の縄張りを担当した。
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箕輪初心●神奈川【石垣山一夜城】=秀吉の天下統一の城 
http://53922401.at.webry.info/201106/article_18.html

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黒田如水の策略F「お土産&褒め殺し作戦」
 小田原城に入って、北条氏政・氏直父子を説得し、
  無血開城させる功績を立てた。
※贈り物は「ホウボウの粕漬け」だった。
北条氏政はお返しに
 「鉛&火薬・・・徹底抗戦」
黒田官兵衛は一人で乗り込んだ。
「20万人も来ているのに・・・」
と、まず、褒めた。・・・開城へ 

(★歴史ヒストリアsp7問目)

  小田原城の開城
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箕輪初心●神奈川:小田原城=百名城
http://53922401.at.webry.info/201106/article_19.html
  
 ・徳川家康も豊臣軍の一軍として参戦。
    →関東移封100万石。



・天正19年(1591)
8月◆黒田如水は名護屋城の縄張りを担当した。
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箕輪初心●佐賀【名護屋城】=豊臣秀吉朝鮮出兵の城
http://53922401.at.webry.info/201112/article_15.html

 

・文禄元年(1592)
3月 豊臣秀吉の朝鮮出兵:文禄の役
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   徳川家康は名護屋城に在陣。
 ◆黒田官兵衛は総大将:宇喜多秀家の軍監として参加した。
  小西行長など諸将の暴走で思ったような采配を執れなかった。
  
9月  黒田官兵衛は病を理由に名護屋城に帰国した。
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(★名護屋城大手門跡)
  ※黒田官兵衛は石田三成との間に確執が生じた。


・文禄2年(1593) 明軍の参戦
3月 黒田官兵衛は再び朝鮮に渡った。
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 (★慶州の世界遺産) 

5月 朝鮮の東莱城より再帰国した。
    豊臣秀吉の怒りを買って追い返された。
   

6月 第二次晋州城攻防戦
 ◆黒田官兵衛は後藤又兵衛基次が用いた亀甲車の設計をした。
   
 ◆黒田官兵衛は和式城郭(倭城)の縄張りなどに携わった。
   
 ・黒田官兵衛は「如水円清」と号して出家した。



・文禄3年(1594)

・文禄4年(1595) 7月「秀次事件」
豊臣秀吉は諸大名に上洛を命じ、鎮静化を図った。


・慶長元年(1596) 豊臣秀吉により徳川家康が内大臣に叙された。

・慶長2年(1597) 豊臣秀吉の朝鮮出兵:慶長の役
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 徳川家康は渡海しなかった。
黒田如水は 総大将:小早川秀秋の軍監として釜山に滞陣。
  第一次蔚山城の戦い
   加藤清正の救援に向かった黒田長政が留守にした梁山城が
   8,000の軍勢に襲われた。
   黒田如水は 梁山城救援に駆けつけ1,500の兵で退けた。
   蔚山城・梁山城城にて日本軍は大勝した。
   
   黒田官兵衛は戦線の縮小を図った。
   福原長堯などの軍目付たちが豊臣秀吉に報告した。
   →小早川秀秋、黒田長政、蜂須賀家政などが叱責や
   処罰を受けた。




【7】関ヶ原の戦い〜晩年時代
箕輪初心◆豊臣秀吉の死〜徳川家康の小山評定〜関ヶ原の戦いへ
http://53922401.at.webry.info/201312/article_14.html

・慶長3年(1598)
7月 豊臣秀吉は病に倒れた。
  ・豊臣政権を磐石にするため、後継者:豊臣秀頼を補佐するための
   五大老・五奉行の制度を定めた。

■五大老・・・有力大名。
@徳川家康・・・関東を支配。五大老筆頭。
A前田利家・・・北陸を支配。豊臣秀吉の親友。
B毛利輝元・・・中国西部を支配。
C宇喜多秀家・・中国東部を支配。子飼い。
D上杉景勝・・・・越後→会津支配。
 
■五奉行・・・豊臣家の中で政務をしていた豊臣家幹部
@石田三成
A増田長盛
B浅野長政 
C前田玄以
D長束正家

※五大老&五奉行の中で、関ヶ原の戦いになる過程での
   主要な人物が徳川家康 と 石田三成である。





8月 豊臣秀吉が死去。
黒田如水は遠からず天下の覇権をめぐって最後の大乱
  が起きるであろうことを予想していた。


  五大老・五奉行は朝鮮からの撤退を決めた。

 
12月  黒田如水は伏見屋敷に居住した(伝)。
 





・慶長4年(1599)
1月 生前の豊臣秀吉が制限した大名間の婚姻と交流に
    徳川家康や福島正則らが約束を破った。
   
    前田利家を筆頭とした石田三成ら大老・奉行衆と緊張が
    高まった。
   
   黒田如水は蜂須賀家政や藤堂高虎らと共に、徳川家康
   方に参じた。

 
3月 前田利家が死亡。=仲裁役がいなくなった。
   豊臣家の内部分裂=徳川家康と石田三成の対立激化。
       
 ■武断派七将の石田三成の暗殺未遂事件
  石田三成と対立していた武断派の武将7名は
  福島正則・加藤清正・黒田長政・藤堂高虎
  ・細川忠興・加藤嘉明・浅野幸長である。
  
  石田三成は事前に察知し、襲撃前に姿をくらました。
  石田三成は徳川家康の屋敷に逃げ込んだとも、家康次男:結城秀康
   に仲裁を頼んで自分の屋敷に逃げたとも言われているが、
  徳川家康の屋敷であった。
  →ライバルである徳川家康が仲裁。
  石田三成は居城:佐和山城に蟄居(結城秀康が見張り番)
 (★NHK大河ドラマ「江〜」)
   
  黒田長政や蜂須賀家政の朝鮮での罪科は誤審と裁定された。
 
  ほかの五大老達も領地に帰った。
  政務の中心は徳川家康になった。



・慶長5年(1600)
1月 徳川家康は、各地の大名家に年賀の挨拶を求めた。
    上杉景勝だけは断った。
 
3月 越後:堀秀治、出羽:最上義光から、会津の上杉景勝に軍備を
    増強する不穏な動きがあるという知らせを受けた。
    
  上杉家臣で津川城代:藤田信吉が出奔し、徳川秀忠へ
  「内府様(家康)に上杉景勝が謀反の気配があります。」
  と報告した。
  →徳川家康は伊奈昭綱を正使として派遣した。 
  徳川家康は、釈明を求める手紙を上杉景勝に送った。

〜〜〜〜直江状〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜^^^^  
上杉景勝の重臣:直江兼続の『直江状』と呼ばれる書簡
「くだらない噂を信じて謀反を疑うなど子供のようなもので、
 釈明の必要もない。軍備を進めているのは東北の大名に対する
 備えをしているだけだ。そちらは京都で茶器でも集めているん
 だろうが、こちらは田舎者ゆえ武具を整えるのが武士だと思っ
 ている。だいたい自分が勝手に婚姻の斡旋などをしていたくせ
 に、人に違約違反を言うのはおかしい。前田家をお仕置きした
 らしいが、大層なご威光だ。あらぬ噂を真に受けて汚名を着せ
 ようというのなら、兵を率いて出迎えてやるから、いつでもか
 かってきなさい。」という勇ましいものであったそうだ。 
     
    
★徳川家康は激怒しまくった。
徳川家康 は、「上杉家の謀反の疑いはもはや確実、討伐する
 ために出陣する。」と会津征伐を宣言した。

 徳川家康に後陽成天皇から出馬慰労として晒布が下賜された。
豊臣秀頼からは黄金2万両・兵糧米2万石を下賜された。
 →これにより、朝廷と豊臣氏から家康の上杉氏征伐は
 「豊臣氏の忠臣:家康が謀反人の景勝を討つ」大義名分を得た。     
(★NHK大河ドラマ「天地人」)
   
★徳川家康は豊臣政権のために働くという考えより、
 自分が大阪を離れれば、石田三成が挙兵するだろうという
 考えがあった。              
(★NHK大河ドラマ「江〜」)
  
6月16日 徳川家康は大阪を出発。
 征伐は豊臣家の武断派の武将が多く従軍していた。
  黒田長政も出陣した。
 伏見城から、55000兵力で会津征伐へ向かった。
   
 徳川家康は江戸に行った。
 徳川家康は佐竹義宣に対する危険から江戸城に1ヶ月程留まった。
    160通近い書状を諸大名に回送した。
 
※徳川家康は西軍の小早川秀秋&吉川広家を味方に
     引き込んでいた。
  
※直江兼続と石田三成は同盟を組んでいた。
      (★NHK大河ドラマ「天地人」)

7月17日 石田三成は徳川家康の糾弾の書状を発送。
  
7月19日 徳川秀忠は江戸を出発。
  

【1】石田三成の挙兵
■石田三成は徳川家康の会津征伐に行って大阪にいない隙が絶好の
 チャンスと考え、親友:大谷吉継と相談し五大老の毛利輝元を
 総大将に迎えた。諸大名には徳川家康の弾劾文を送って味方を
  集めた。(西軍の成立)  
結果・・・中国・四国・九州の諸大名が約10万の兵力となった。
しかし、吉川広家や鍋島直茂は東軍への内応を画策した。

石田三成は会津征伐に従軍していた諸大名の妻子を人質に
  取る作戦を発動した。
@加藤清正や黒田如水の妻子が逃亡した。
A細川忠興の正室:細川ガラシャが自害した。

 結果・・細川忠興ら諸将を痛憤させた。

  
8月1日 西軍は宇喜多秀家、小早川秀秋、島津義弘ら4万の
     大軍に伏見城を攻撃。
   伏見城は陥落。→鳥居元忠が戦死。
 

石田三成は
 @丹後攻撃・・・小野木重勝を総大将に1万5,000
 A伊勢攻撃・・・宇喜多秀家を総大将に毛利秀元や鍋島勝茂など
         約3万の軍勢を、伊勢国平定に送り込んだ。
 B北陸攻撃・・・大谷吉継
C美濃攻撃・・・石田三成自身は美濃方面へ

8月10日 石田三成は佐和山城から西軍の大垣城に入った。
   岐阜城・・・織田信長嫡孫:織田秀信が豊臣秀頼の後見
   と美濃・尾張加増を条件に西軍へ入った。



【2】徳川家康の小山評定
7月21日 徳川家康は江戸城を出発した。

7月24日 下野:小山に到着。
徳川家康に鳥居元忠の使者
 「石田三成が挙兵し伏見城攻撃を開始した。」
  ことを知らされた。


7月25日 【小山評定】
徳川家康→黒田長政に命じた。
 @「福島正則に豊臣秀頼には害が及ばないこと」
 A「石田三成が豊臣秀頼のためにならないこと」
 を説明し、東軍につくよう説得した。


 ※この時点では、毛利輝元が大坂城で豊臣秀頼を擁して石田方の
  総大将になっていることは、知らなかった。

 小山の本陣において軍議を開いた。
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 (★祇園城パンフレットより) 

 →会津征伐を中止し、石田三成征伐のため大坂に向かう
      ことを決断。
徳川家康は
「妻子が人質になっているため、進退は各自の自由
である。」

〜〜〜反対派〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
@真田昌幸・幸村がすでに退転していた。
A美濃岩村城主:田丸直昌は西軍へ退転する。

〜〜〜賛成派〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜   
@福島正則が徳川家康に味方することを表明。
A黒田長政・徳永寿昌が続き、ほぼ全ての従軍諸将
  が家康に従うことを誓約した。

※徳川家康を総大将とした。・・・東軍の成立。
B山内一豊が掛川城の提供を申し出た。
 非常用兵糧20万石も家康に提供すると表明した。
※軍事展開と前線への兵力投入が容易となった。
   
  
〜〜〜〜上杉軍の動向〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜        
 ※直江兼続は、徳川家康を追えば、勝てるという自信があった
 といわれているが、上杉景勝に知らせ、白河・会津・米沢と
 引き返した。
 しかし、東北の関ヶ原「山形の長谷堂城の戦い」で、敗戦した。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

◆東軍の動き
東軍は徳川家康の徳川直属軍と福島正則らの軍勢→10万人。

7月26日以降〜〜〜続々と陣を払った。
大阪に先鋒隊を向かわせた。


7月27日 真田信之宛に徳川家康からの安堵状
      「小県郡(上田城・真田館)を安堵。」

@中山道隊・・・徳川秀忠が大将。
 榊原康政、大久保忠隣、本多正信など約3万8,000の軍勢
 を中山道よりの進軍を命じた。
 
・中山道隊は高崎城に3日間、滞在。
 烏川の増水で、行けなかった。

○第2次上田戦争
東軍 (真田信之=徳川家康の養女:小松姫夫←本多忠勝娘)
      Vs
西軍 (父:真田昌幸&弟:真田幸村)

9月5日 上田神川の戦い
   徳川秀忠38000 VS 真田昌幸2000? 
   ・真田昌幸は、徳川を上田城近くにおびき出しては鉄砲攻撃。
   ・真田昌幸・信繁(幸村)は、秀忠軍の侵攻を阻む。
       神川の増水で、大群が混乱。
   ・上杉景勝の配下:海津城須田氏が真田根小屋城に到着。

9月7日 徳川秀忠は撤退→関ヶ原へ
 真田昌幸&真田幸村2000 VS 徳川家忠・大久保忠隣20000
  →決着着かずに真田軍の勝利
   結果・・・徳川家忠は関ヶ原に遅刻

A関東防衛残留隊・・・結城秀康
  結城秀康を総大将に、里見義康、蒲生秀行、那須資景らを
   上杉景勝・佐竹義宣に対する抑えとして宇都宮城に
   駐屯させた。

B東海道隊・・・徳川家康本隊  
8月4日 徳川家康は出陣した。

8月5日 徳川家康は江戸城に戻った。
 そこから一歩も動かなかった。
 豊臣恩顧の武将の動向が見えなくなるからである。

9月1日  徳川家康は江戸を出発。

9月11日 福島正則らが清洲城に入城。
  →西軍の勢力下の美濃:岐阜城に侵攻。
   織田秀信が守る岐阜城を落とした。
   徳川家康は織田信長の嫡孫:織田秀信を助けた。

9月14日 関ヶ原に到着。赤坂に着陣。

 (★徳川家康の陣)

 軍議・・・佐和山城→大阪へ攻撃と決定。
 石田三成は、関ヶ原に兵を移動させた。
 石田三成の家臣:島左近と宇喜多秀家の家臣:明石全登が奇襲
  →東軍の中村一栄、有馬豊氏らが敗戦
 ■通説・・野戦を得意とする家康がわざと流させた情報である。
 徳川家康の戦略は両軍が関ヶ原で対峙した理由として知られている。
 →両軍は関ヶ原に陣を敷き、対峙したのである。

 (★石田三成・大谷吉継軍)       
      
黒田長政の兜・・・鉄板・強大な牛の角・  

9月15日 関ヶ原の戦い
午前8時・・決戦が開始。
   
9時頃・・・@東軍:福島正則・井伊直政が西軍:宇喜多に攻撃。
         高所を取った石田三成ら西軍が有利。

10時頃・・石田三成が小早川と毛利に進軍命令。
小早川秀秋は動かず。
毛利秀元も動かず。(吉川広家が本家の毛利を阻止)
※家康本陣攻撃ができず。

正午頃・・・徳川家康は松尾山の小早川の攻撃を促すため、
  小早川に向かって一斉射撃。
 A西軍の小早川秀秋軍が西軍を裏切って、
  西軍の大谷吉継軍を攻撃。
  →大谷隊は壊滅。→西軍の劣勢。

 B西軍の脇坂安治・朽木元綱・赤座直保・小川祐忠ら
    4000人の寝返り・離反。→平塚・戸田軍を攻撃。
       →西軍は総崩れ。      
午後2時・・・石田三成・宇喜多秀家は北国街道で逃げる。
3時・・・→東軍の勝利。
 C西軍の島津義弘軍1500が敵中突破の退却戦で、  
   徳川家康の本陣目前にまで突撃、中央突破。
   島津軍の生き残りは80名。

4時 D南宮山の毛利軍15000・吉川軍3000も退却。
      →近江・伊勢へ
5時  徳川家康は首実検。

6時   徳川家康は大谷善継の陣跡に宿泊 

www.youtube.com/watch?v=gnxk2sfpmdI
   ★You Tube を見ると、面白い。
   
 黒田長政は後藤又兵衛基次ら、軍の主力を率いて、
   関ヶ原本戦で武功を挙げた。 
   

9月18日 徳川家康は石田三成の居城:佐和山城を攻略。

9月21日 逃亡していた石田三成を伊吹山中で捕縛。

10月1日 石田三成・小西行長・安国寺恵瓊らを六条河原で処刑。

その後、徳川家康は大坂城に入城。
徳川家康は、西軍の諸大名を処刑・改易・減封に処した。
→召し上げた所領を東軍諸将に加増分配
→徳川領地も250万石から400万石に加増。
→豊臣秀頼、淀殿に対しては咎めず領地もそのままにした。
→豊臣氏の直轄地は諸将に分配した。
◆結果
@豊臣氏は摂津国・河内国・和泉国の3ヶ国65万石の一大名と
 なった。
  
A徳川家康は天下人としての立場を確立した。
=天下を掌握したのだった。



箕輪初心●岐阜:関ヶ原の戦い=天下分け目の合戦
http://s.webry.info/sp/53922401.at.webry.info/201109/article_12.html





〜〜〜中津に帰国していた黒田如水〜〜〜〜〜
黒田如水は徳川家康方に対し、前もって味方として中津城の留守居
を務める密約を結び、行動した。
「九州については切り取りかってたるべし」
井伊直政から無制限を約束を言い渡された。
 
 (★「黒田如水」童門冬二著)
★「攻略して、取った分だけ、自分の領地にしてよい。」と
いうものであった。


黒田如水は石田三成の挙兵の知らせを受け取った。
黒田如水は石田三成の誘いに対し、西軍に組する条件として
「九州7ヶ国の恩賞を求めた。」そして、九州の西軍の部隊を
素通りさせ、東軍の参加準備期間を稼いでいたという(伝)。
黒田如水は中津城の金蔵から領内の百姓などに支度金を与えた。
九州、中国、四国からも集まった9,000人ほどの即席の軍を編成
し上げた。


9月9日再興を目指して西軍になった大友義統(よしみち)が
 毛利輝元の支援を受けて豊後に攻めこんだ。
 東軍の細川忠興の飛び地:豊後(大分県)杵築城を包囲攻撃した。
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城将:松井康之と有吉立行は黒田如水に援軍を要請・・・
箕輪初心●大分:【杵築城】&昔の風情が残る城下町
http://53922401.at.webry.info/201110/article_9.html

 
 黒田如水は約1万の兵力を率いて出陣した。
 道中の諸城を攻略した。


9月13日(10月19日)、石垣原(現別府市)の戦い
  黒田如水 VS 大友義統軍
母里友信が緒戦で大友軍の吉弘統幸に破れ苦戦した。
 井上之房らの活躍もあって、黒田軍は大友軍に勝利した。
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9月19日(10月25日)黒田如水の富来城の攻撃
  攻略中に東上中城主:垣見一直からの密書を運んでいた
  飛脚船を捕え、西軍敗戦を知った。

 その後、黒田如水は藤堂高虎を通じて徳川家康に領地切り取り
 次第を申し入れた。

 太田一吉の臼杵城攻略
 熊谷直盛の安岐城攻略
 毛利高政の角牟礼城と日隈城攻略

箕輪初心●大分日田【月隅城】&【日田城】
http://53922401.at.webry.info/201110/article_14.html
 毛利勝信の小倉城攻略
 毛利信友の香春岳城攻略
 〜〜〜〜〜していった。
 黒田水軍が、国東半島沖で関ヶ原より引き上げ
 てきた島津義弘の軍船を焼き沈めた。


10月14日 黒田如水は兵5,000を柳川へ派兵した。
  黒田如水は西軍に参加した小早川秀包の居城:久留米城へ
  向かった。鍋島直茂と鍋島勝茂が32,000の兵で久留米城攻
  撃に参戦してきた。
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10月16日 柳川の支城である梅津城を後略。
  宇土城攻めを終えた加藤清正も参戦してきた。
  柳川城:立花宗茂は降伏し、黒田如水軍に加わった。

11月初旬 黒田如水は立花宗茂、鍋島直茂、加藤清正を加えた
   4万の軍勢で九州最後の敵勢力:島津討伐に向かった。


11月12日 肥後の水俣まで進軍した時、徳川家康と島津義久との
  和議成立による停戦命令を受け、
  黒田如水軍を退き解散した。


【8】晩年の福岡城&太宰府隠居生活時代
・慶長5年(1600)関ヶ原の合戦
黒田長政は父のいる会いに行った。

黒田長政が戦功(★小早川秀秋を徳川方に引き込んで勝利に
  導いた)として徳川家康から筑前国名島(福岡市)
  32万6,000石(検地後52万3,000石)への加増移封となった。

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 (★名島城の城門)

・慶長6年(1601) 黒田如水にも加増が提示されるが辞退した。

 黒田如水は隠居生活を送った。
 太宰府天満宮内に草庵を構えた。
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太宰府天満宮を700石から2000石にした。
歌会を1月・5月・9月に毎年開いた。


・慶長6年(1601)福岡城の築城開始。〜7年間〜〜〜


・慶長9年(1604)3月20日(4月19日)京都伏見藩邸で死去。59歳。

・慶長12年(1607)福岡城完成。
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 (★予想図・・現地案内板)
箕輪初心●福岡:『福岡城』=九州最大規模の城
http://53922401.at.webry.info/201112/article_17.html


★参考文献等
・歴史群像シリーズ38『黒田如水』学研
・別冊歴史読本『稀代の軍師 黒田如水と一族』新人物往来社
・歴史読本2013年5月号『徹底検証! 黒田官兵衛』
・『黒田如水』童門冬二著
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・上毛新聞の大河ドラマ紹介。
・徳川家康
・小山評定
・歴史読本別冊「黒田官兵衛」2014年1月 1200円
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・「黒田官兵衛」学研 780円


★参考サイト
・ウキペディア「黒田官兵衛」




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箕輪初心★【黒田官兵衛孝高=黒田如水の生涯】後編 城・陶芸・ハイキング・ダイビング・スキー・旅行/BIGLOBEウェブリブログ
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