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zoom RSS 箕輪初心★梶取素彦=群馬県令。吉田松陰の2人の妹:寿&文が妻。

<<   作成日時 : 2014/01/31 07:30   >>

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最初の妻:寿に先立たれた後、久坂玄瑞の未亡人:美和子(文)
と再婚したのである。
約10年間の群馬県令であった。
「教育に心血注ぐ 楫取素彦」と新群馬カルタにあるが、群
馬県令の時代に編纂した「修身説約」が修身の教科書として
販売され、「学問のすすめ」と並ぶ明治のベストセラーとなっ
た。(★群馬県議:小山氏)また、群馬県を全国屈指の教育県・
産業県(養蚕→製糸業)を発展させた。草創期の群馬県政に
大きく貢献した人物である。

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★★ 梶取素彦の生涯 ★★
・文政12年(1829) 3月15日 長州藩医:松島瑞蟠の
次男として生まれる。

・天保5年(1834)6歳?  
儒学者:小田村家の養子となった。
小田村伊之助となった。

・天保6年(1834)
  ●萩の明倫館に入門。

・天保11年(1840)12歳

・弘化元年(1844)   16歳

・弘化4年(1847)19歳
  ●明倫館司典助役兼助講に抜擢。

・嘉永元年(1848)20歳

・嘉永2年(1849)21歳

・嘉永3年(1850)22歳
 ●大番役として江戸藩邸に勤務。
 ●小栗忠順宅居候

 ●佐藤一斎に師事。
 ●昌平坂学問所「安積良斎」に入門。
  
◆◆箕輪初心★小栗上野介@「先祖」 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201106/article_28.html

◆◆箕輪初心★小栗上野介A「遣米使節団」 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201106/article_29.html

◆◆箕輪初心★小栗上野介B「業績と提唱」 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201106/article_30.html

◆◆箕輪初心★小栗上野介C「権田での隠遁生活」 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201107/article_1.html

◆◆箕輪初心★小栗上野介D「ヴェルニー&東郷平八郎」 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201107/article_2.html

◆◆箕輪初心★小栗上野介E「東善寺&村上泰賢先生」 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201108/article_10.html

◆◆箕輪初心★小栗上野介F「道子夫人の会津への逃避行」 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201108/article_11.html

◆◆箕輪初心★小栗G「道子夫人の逃避行と北越戦争&会津戦争」 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201108/article_12.html

◆◆箕輪初心★小栗H「遣米使節VS咸臨丸」の歴史的意義 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201108/article_17.html

◆◆箕輪初心★小栗上野介I「東善寺訪問」 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201109/article_23.html

◆◆箕輪初心★小栗上野介J「佐賀の8人&大隈重信」 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201110/article_23.html

◆◆箕輪初心★小栗上野介K「大隈重信&三野村」 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201205/article_23.html

◆◆箕輪初心★小栗上野介L「名残」=築地 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201210/article_11.html

箕輪初心★小栗上野介M童門氏VS村上泰賢先生TV討論
http://53922401.at.webry.info/201212/article_18.html





*******昌平坂学問所の教授:安積良斎(福島出身)の話*****
 開国論者。門弟2282人。
 高杉晋作(奇兵隊)・岩崎弥太郎(土佐三菱)・福地源一郎
 ・清河八郎(浪士隊)・吉田松陰楫取素彦(群馬初代県知事)
 ・小栗忠順・栗本鋤雲(じょうん)など。
*************

・嘉永4年(1851)23歳

・嘉永5年(1852)24歳

・嘉永6年(1853)25歳 ★ペリー来航@
 「太平の 眠りをさます 上喜撰 
    たった四杯で 夜もねられず」


・嘉永7年(1854)安政元年26歳
  ペリー来航A
 ★日米和親条約の締結。

・安政2年(1585)27歳
  ●明倫館舎長書記兼講師見習

・安政3年(1586)28歳
  ハリス下田に来航
  ●相模出衛。

・安政4年(1587)29歳
  ハリスが江戸城で将軍と謁見
日米修好通商条約に調印

箕輪初心★幕末偉人【岩瀬忠震】=日米修好通商条約に調印
http://53922401.at.webry.info/201212/article_1.html

  ●帰国・・・明倫館都講役兼助講。明倫館で教授。
    明倫館で指導した。
  ●楫取素彦は吉田松陰の妹:寿と結婚。
○久坂玄瑞は吉田松陰の妹:文と結婚。
(★楫取素彦は久坂玄瑞の死&寿の死後、文と結婚)

   吉田松陰の松下村塾の教育事業にも参加。。

・安政5年(1588)30歳
   ■井伊直弼が大老。
   下田奉行:井上清直と目付:岩瀬忠震(ただなり)を罷免。

  ●松下村塾・・・閉鎖?
  ★日米修好通商条約
  将軍は一橋慶福 
  ■安政の大獄
   吉田松陰・佐久間象山が伝馬町に投獄。
  ●楫取素彦は吉田松陰の投獄後、松下村塾でも教育した。
 
 ★開港・・・横浜・長崎・函館
 メキシコ銀の大量入荷。
 外国(金1:銀15)・・・日本(金1:銀5)

・安政6年(1589)31歳
13代長州藩藩主:毛利敬親の側儒に抜擢された。

・安政7年(1860)万延元年(1860)32歳
  ●山口講習堂・三田尻越氏塾塾で教授。


・文久元年(1861)33歳 〜
  ●藩主:毛利敬親に従って江戸・京都・萩・周防
  の間を東奔西走・・・随行し、藩政中枢に参与していった。

・文久2年(1862)34歳
長州藩の宍戸たまき・久坂玄瑞、土佐藩の中岡慎太郎らが
  松代藩で謹慎中の佐久間象山を訪問。
  長州藩へ招聘が叶わなかったが、国際情勢や国防論につい
  て薫陶を受けた。

・文久3年(1863)35歳
下関事件・・・


 八月十八日の政変
   長州藩勢力が京都を追放されていた、

・文久4年・元治元年(1864)36歳
  ●長州藩の恭順派のため、野山獄に入獄。

  禁門の変=蛤御門の変
  長州藩内の「様子・・・・・・
  積極策派・・・来島又兵衛、真木保臣ら
         福原元|・益田親施・国司親相の家老
  慎重策派・・・桂小五郎(木戸孝允)、高杉晋作、久坂玄瑞ら
  6月5日の池田屋事件・・・新選組に藩士を殺された。
  積極派は、「藩主の冤罪を帝に訴える」ことを名目に挙兵
  6月24日、久坂玄瑞は嘆願書を朝廷に奉った。
  禁裏御守衛総督:徳川慶喜は長州藩兵に退去を呼びかけるが、
  一貫して会津藩擁護の姿勢を取る孝明天皇に繰り返し、
  長州掃討を命じられ、最終的に強硬姿勢に転じた。

  久坂玄瑞らは来島、真木らの決意に押されやむなく賛成。
  会津藩主・京都守護職松平容保らの排除を目指して挙兵。
 
 7月19日、京都蛤御門(京都市上京区)付近で、
  長州藩兵と会津・桑名藩兵が衝突・・戦闘が勃発。
結果・・・長州藩勢は敗北。
  御所内で来島又兵衛、久坂玄瑞、寺島忠三郎らは自害した。
  徳川慶喜・会津藩・桑名藩が京都を主導した。

  長州藩は「朝敵」となった。
  第一次長州征討

  四国艦隊下関砲撃事件
・・・長州藩の敗北。

・慶応元年(1865)37歳
  長州藩は恭順派の牛耳るところとなった。
  恭順派の高杉晋作・伊藤博文らの挙兵によって
  赦免される。
 ●宍戸たまき・楫取素彦が出獄。
  →藩命により、太宰府滞在中の五卿を訪問。
  ●長州征討
  四境戦争・・広島へ幕軍総督正使:宍戸備後助たまき
(長州藩安田→山県→宍戸家:家老の養子・・・→)
   ・副使:楫取素彦であった。
  広島の国泰寺で幕府問罪使・永井尚志に応接した。
幕府側との交渉にあたった。
  交渉の長期化に伴い、広島藩に拘留された。

・慶応2年(1866)38歳
 ●長州戦争(四境戦争)直前に、広島に、宍戸・楫取は
  一時拘留された。
●第二次長州征伐の開戦
  幕府側の敗戦の調和策として放免された。

薩長同盟・・・坂本龍馬の仲立ち=活躍。


・慶応3年(1867)39歳
  ●長州藩命で、「楫取素彦」と改名。
 ●長州藩兵の上京の命を受け、諸隊参謀として出征。
  公卿諸藩の間を周旋。
●土佐の坂本龍馬、薩摩の西郷隆盛らと倒幕に活躍した。

・慶応4年・明治元年(1868)40歳
  ●明治維新後は新政府に出仕した。

・明治2年(1869) 41歳
  ●

・明治3年(1870) 42歳
 ●

・明治4年(1871) 43歳
 ●

・明治5年(1872) 44歳
 ●神奈川県・足柄県参事(現神奈川県足柄村知事)

・明治6年(1873) 45歳
 ●

・明治7年(1874) 46歳
 ●熊谷県令。

・明治8年(1875) 47歳


〜〜〜楫取素彦の群馬県時代約10年間〜〜〜
・明治9年(1876) 48歳
  熊谷県改変→新設:群馬県の発足。
   明治政府は上州に楫取素彦を送り込んだ。
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 ●楫取素彦は初代県令(現県知事)となった。
  第2次群馬県最初の県令・・・開始である。
     〜在任期間は9年+α・・・。
     
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・明治10年(1877) 49歳
 ●楫取の在任中の仕事
  @群馬県庁移転問題・・・前橋が正式な県庁所在地と決定。
    →高崎から、楫取は反発。
  A明治の3労農・・・船津伝次衛に
    「駒場農学校へ奉職するよう」勧奨。

箕輪初心◆◆「労農:船津伝次平」&剣豪:疋田文五郎
http://53922401.at.webry.info/201106/article_11.html

 ●伝統産業の養蚕・製糸業を奨励した。
箕輪初心■富岡製糸場6−B「富岡製糸場・県立博物館の展示内容」  http://53922401.at.webry.info/201209/article_26.html


・明治11年(1878) 50歳

・明治12年(1879) 51歳

・明治13年(1880) 52歳

・明治14年(1881) 53歳

・明治15年(1882) 54歳

・明治16年(1883) 55歳
 結果・・・楫取は高い学識と優れた指導力で、教育の充実と
  産業の発達に多大な貢献。
 →群馬県を全国屈指の産業県・教育県に発展させた。
  ●楫取素彦は近代群馬の基礎をつくった最大の功労者である。
群馬県令の時代に編纂した「修身説約」が修身の教科書と
  して販売され、「学問のすすめ」と並ぶ明治のベストセラー
  になった。
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〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

・明治17年(1884) 56歳
  ●元老院議官・高等法院陪席裁判官に就任。

・明治18年(1885) 58歳

・明治19年(1886) 59歳
 ●貴族院議員・宮中顧問官。
 ●皇室養育係。

・明治20年(1867) 60歳
 男爵授受。
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・大正元年(1912) 84歳。
 ●8月14日 山口県三田尻((現防府市)で死去。


・現在の県庁
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★資料・参考文献等
・楫取素彦:群馬県
・群馬県史がベース。

★参考Hp等
・ウキペディア等


★明日は吉田松陰かな?

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