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zoom RSS 箕輪初心●栃木:『宇都宮一族の歴史詳細』&【宇都宮城&多気山城】

<<   作成日時 : 2013/12/23 06:31   >>

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★下野の3名族は、@小山、A宇都宮、B那須である。多くは
この3家の一族の末裔である。今回は、宇都宮一族の宗家の
歴史をもう少し深く探ってみたいと思っている。●栃木【宇都宮
城】&【多気山城】のリニューアル版である。
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箕輪初心●栃木【宇都宮城】&【多気山城】初詣2013
http://53922401.at.webry.info/201301/article_4.html
★初日の出は、箕輪城。初詣は宇都宮城&宇都宮二荒山神社
&宇都宮餃子&大谷観音&多気山神社&多気山城であった。
マーちゃん&中ちゃんとの約束で宇都宮に行くことになった。
何と中ちゃんは宇都宮大学の乗馬部出身である。でも、宇都
宮城には行ったことがなかった。

〜〜〜栃木県シリーズ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

箕輪初心●栃木【真岡城=芳賀城】=後北条氏と戦った芳賀氏の城
http://53922401.at.webry.info/201312/article_21.html

箕輪初心●足利氏館跡:足利尊氏を輩出した城&100名城
http://53922401.at.webry.info/201311/article_5.html

箕輪初心◆【足利初代〜8代足利尊氏】&栃木:足利氏館3回目
http://53922401.at.webry.info/201312/article_6.html

箕輪初心★足利8代目:足利尊氏=室町幕府を開幕
http://53922401.at.webry.info/201312/article_7.html

箕輪初心●栃木【唐沢山城】佐野氏→上杉謙信→北条氏→佐野氏
http://53922401.at.webry.info/201312/article_8.html

箕輪初心●栃木【佐野城】&佐野厄除け大師&佐野信吉
http://53922401.at.webry.info/201312/article_9.html

箕輪初心◆栃木:【例幣使街道の宿場町&水運蔵の街:栃木】&レイテ島
http://53922401.at.webry.info/201312/article_16.html

箕輪初心◆下野:古代都市【@琵琶塚古墳・B国府跡・D国分尼寺等】
http://53922401.at.webry.info/201312/article_17.html

箕輪初心★栃木【祇園城=小山城】&小山一族の栄枯盛衰の歴史  
http://53922401.at.webry.info/201312/article_10.html
  
箕輪初心○栃木[小山氏城跡A]=【鷲城】&小山義政
http://53922401.at.webry.info/201312/article_11.html

箕輪初心●栃木小山【中久喜城】=鉄道で真っ二つの城
http://53922401.at.webry.info/201312/article_12.html

箕輪初心●栃木【壬生城】=小田原で滅亡した壬生5代の城 
http://53922401.at.webry.info/201312/article_18.html

箕輪初心●栃木【児山城】=宇都宮氏の南を守る城
http://53922401.at.webry.info/201312/article_19.html

箕輪初心●栃木【上三川城】=近世城郭のような中世古城
http://53922401.at.webry.info/201312/article_20.html

箕輪初心●栃木【飛山城】=宇都宮一族の芳賀氏築城
http://53922401.at.webry.info/201312/article_22.html

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【1】宇都宮城

■訪問日@・・・平成19年(2007)5月26日
下野で、@下野国府 A国分寺 B国分尼寺 C二荒山神社城 
D宇都宮城車中&遠望を見学後、大谷の見学の一日コースである。
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■訪問日A・・・平成25年(2013)1月1日
@宇都宮城 A二荒山神社 B宇都宮餃子 C多気山神社
 &多気山城であった。
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◆◆ 宇都宮城&宇都宮氏の歴史 ◆◆
※関東七名城の一つとして名を馳せた宇都宮の築城に関して
は諸説があり、はっきりしていない。
・天慶3年(940) 平将門の乱をおさめた藤原秀郷(俵藤太)
 により築かれた(伝)

・康平6年(1063) 宇都宮氏の祖:藤原宗円が築城(有力説)
    
※芳賀氏は天武天皇皇子:舎人親王の後裔説。
※宇都宮氏&芳賀氏・・藤原道兼→藤原宗円説・石山寺
 の僧説。

・文治5年(1189)宇都宮氏初代宗円が、前九年の役の功により
   二荒山神社の社務検校職に任命。
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宇都宮朝綱は3代宇都宮氏当主である。
 源頼朝から「関東一の弓取り」と言われた。
「宇都宮左衛門尉朝綱従紀権守・波賀次郎太夫(高親)己下7人」
  (★『吾妻鏡』)

※宇都宮氏の居城(館)。
 200m×200m四方であったと考えられている。
 宇都宮氏が勢力拡大や城が改修・拡張。

 
 →芳賀高澄が郡内に土着し、御前城=御殿城を築城。
 ※芳賀氏は宇都宮氏に従属。

・建暦4年(1215) 5代宇都宮頼綱(藤原頼綱)は園城寺
  (現三井寺)再建に尽力した。

・承久2年(1220) 〜伊予国守護に任じられた。


・文永11年(1274) 文永の役

・弘安3年(1281) 弘安の役・・・蒙古襲来。
  8代宇都宮貞綱は鎌倉幕府による討伐軍の総大将として九州に
  赴いた。
  蒙古に襲来に勝利
  →執権:北条時宗から鎌倉幕府引付衆に任じられた。

・永仁元年(1293)〜 芳賀高俊が飛山城を築城。
  宇都宮貞綱は鎌倉幕府の引付衆となった。

・元弘3年(1333) 四天王寺の戦い・・・・
  9代宇都宮公綱は討伐軍に参加。
  
  楠木正成が宇都宮氏を「坂東一の弓取り」と言った。
    (★『太平記』)

   
・元弘3年・正慶2年(1333)5月22日。鎌倉幕府滅亡・・・
・建武元年(1334) 後醍醐天皇の建武の新政
9代宇都宮公綱は雑訴決断所を務めた。

・建武3年(1335)・南北朝の動乱
後醍醐天皇の新政
  貴族中心の政治運営に不満を持った武士は光厳天皇の弟:
  豊仁親王を新たに天皇に擁立した
  豊仁親王=光明天皇は足利尊氏を征夷大将軍に任命。
  ・・・天皇家がふたつ並立した。
  「南北朝」の時代は60年〜〜〜も続いた。
  
 10代宇都宮氏綱&旗下:芳賀高名は
     北朝方(足利尊氏)に所属。

・暦応4年(1341)  春日顕国の飛山城攻撃
   →飛山城は落城。
   まもなく芳賀高名は氏は城を奪還。

・正平6年(1351) 観応の擾乱・・・
足利尊氏 VS 足利直義・・・異母兄弟対決
  宇都宮氏綱が活躍・・・武功があった。
  →宇都宮氏綱は上野・越後の守護職。
  芳賀高貞&高家父子は守護代となった。
  北関東での支配的地位を磐石なものとした(薩埵山体制)。

  芳賀高家が飛山城を修築した。
  その子:芳賀高清は勝山城に移住。
  
箕輪初心★足利8代目:足利尊氏=室町幕府を開幕
http://53922401.at.webry.info/201312/article_7.html   

箕輪初心○栃木[小山氏城跡A]=【鷲城】&小山義政
http://53922401.at.webry.info/201312/article_11.html

・延文3年/正平13年(1358)4月30日 足利尊氏が死去。
  合戦で受けた矢傷がもとで、京都二条万里小路第で
  死去した。享年54歳。

  鎌倉公方:足利基氏(尊氏の子)は足利尊氏と敵対した
  前上野・越後守護職上杉憲顕を関東管領に復帰させた。
  上杉憲顕が上野・越後守護職を宇都宮氏綱から強引に
  返還させようとした。
  宇都宮氏綱が拒否した。
  足利基氏は関東管領への反抗を理由に氏綱を追討した。

しかし、下野国は3大勢力があった。
@新下野国守護・・小山義政
A旧下野国守護・・宇都宮氏、
B鎌倉幕府の高官・・那須氏
 家柄・勢力の面でも拮抗状態にあった。
小山義政は守護職補任に伴い、勢力を拡大していった。
近隣の豪族:宇都宮氏との間の覇権争いに発展していった。
足利氏満は勢力の大きくなった小山氏に不満を持っていた。
宇都宮氏と争い→鎌倉公方に3度の反乱となった。


■「小山義政の乱」
・康暦2年(1380)〜永徳2年(1383) 小山義政の乱
 鎌倉公方足利氏満と小山義政の3度の戦いのことである。

11代小山義政の拠点は
※「祇園城」=小山城説・・・祇園城
※小山氏の古住居:神鳥谷曲輪説
※鷲城説
鷲城案内板では、小山義政の本城は鷲城である。
★文献資料に鷲城、岩壺城(中久喜城?)、新々城、祇園城、
 宿城(神鳥谷曲輪?)が記されている。

・天授6年・康歴2年(1380) 雀宮の茂原の戦い
  小山義政 VS 宇都宮基綱
 小山義政は宇都宮基綱を討ち取り勝利。
宇都宮満綱が宇都宮氏12代当主となった。
  幼少であったため、叔父の宇都宮氏広が職務を代行した。

  下野守護職:小山義政に11代宇都宮基綱が殺害されると
  鎌倉公方は宇都宮氏を支援した。

 鎌倉公方・足利氏満は鎌倉府にて小山義政の追討命令を
 出した。追討軍が結成され、まもなく追討を受けた。
 
 @足利氏満は関東8国から大軍を率いて鷲城攻撃。
  →小山義政は宇都宮氏との合戦で兵力を消耗していたため、
     すぐに鎌倉公方に降伏。
 小山義政は家督を子:若犬丸に譲り隠居した。
   
  →小山義政は鷲城の各支城の大改修をし、戦闘の準備を整備。

・弘和元年・永徳元年(1381)
 A足利氏満は再び関東8国+伊豆、相模、奥州まで触れを出し、
   大軍で鷲城攻撃。
   →小山義政は、半年の篭城の末、降伏。
    鷲城は合戦で戦火・・・焼失。
   →小山義政は、50万石以上の所領と、
     5000を超える一族郎党を失った?

・永徳2年(1382) →小山義政は中久喜城近くの北山万年寺で
   隠居し「永賢」と号した。
  小山義政は体勢を立て直して鎌倉公方に反旗を翻した。
 B小山義政の軍は、足利氏満の関東・南東北地方の連合軍に
  追討され敗退・・・
 鎌倉公方の大軍により、上都賀の粕谷城(現栃木県上都賀郡
  粟野町粕尾)で自刃・自害?。

・至徳3年(1386) 小山義政の嫡子:若犬丸が祇園城で挙兵。

・応永4年(1397) 嫡子若犬丸は会津で自害。
 →小山氏の嫡流は滅亡。
     
足利氏満は室町幕府創設に功のあった小山家の断絶を惜しみ、
小山一族の親縁にあたる結城基光の次男:結城泰朝を小山氏を
 継承させることにした。つまり、家督相続を許したのだった。
 →小山一族の結城泰朝が小山氏を継承。
結城泰朝を小山城に居城させた。
  小山城=祇園城が本城となった。
下野国守護職は結城基光のものとなっていた。
 (★祇園城パンフレット)
      
・永享10年(1338)第3代鎌倉公方:足利満兼(氏満の子)が就任。
足利満兼から宇都宮満綱や結城基光や小山泰朝などとともに
  関東八屋形に任じられた。
  足利満兼から「満」の字を授かった。

・永享11年(1339)祇園城が那須氏に落とされた。
  

・永享12年(1440)結城合戦
結城軍が那須氏のいる祇園城を攻撃。
那須氏が撃退。

  栗原郡三迫の戦い
   鎌倉公方 VS 叔父:宇都宮氏広
 
 男子がなく、後継には一族の武茂氏から持綱を婿養子を迎えた。

・応永14年(1407 ) 宇都宮満綱が鎌倉で32歳で病没。
  武茂綱家の3男で、12代宇都宮満綱の婿養子。
  宇都宮持綱が宇都宮氏13代当主となった。
  鎌倉公方:足利持氏から「持」の字を授かり、持綱と名乗った。

・応永23年(1416)上杉禅秀の乱
前関東管領である上杉氏憲(禅秀)が鎌倉公方:足利持氏に
 対して起した反乱である。

13代宇都宮持綱が足利幕府から上総国守護職に任じられた。
 鎌倉公方:足利持氏の警戒し討伐をかけてきた。
 宇都宮持綱は室町幕府直属の京都扶持衆に加わって鎌倉公方に対
 して抵抗を続けながら勢力挽回を図った。

・応永30年(1423) 宇都宮持綱は同族宇都宮一族の塩谷教綱によっ
  て殺害された。
鎌倉公方:足利持氏に擁立された?宇都宮家綱
  家督を奪われた。
  藤鶴丸は足利持氏と対立していた篠川公方足利満直の庇護下
  に入った。

・永享3年(1431) 宇都宮家中が2分した。
  宇都宮家綱派・・塩谷氏や芳賀氏が支持。
  藤鶴丸=宇都宮等綱派・・・武茂氏が支持。

・永享10年(1438)〜永享11年(1439)永享の乱
6大将軍:足利義教は上杉憲実に討伐を命じた。

・永享11年(1439) 上杉憲実は持氏と叔父:稲村公方足利満貞
を攻撃。足利持氏が自害した。
宇都宮等綱は宇都宮に復帰した。


・永享12年(1440)結城合戦
 結城氏朝が足利持氏の遺児:安王・春王を奉じて挙兵した。
 宇都宮等綱は戦功を挙げた。
 結城方についた宇都宮家綱が討ち死にした。
 宇都宮等綱の地位が確固たるものになった。


・文安3年(1446) 足利持氏の遺児:足利成氏が鎌倉公方再興を
許され、鎌倉府を復活させた。
※足利成氏は古河公方として後に上杉氏と対立した
 享徳の乱を起こした。


・文安4年(1447) 鎌倉府再興
足利持氏の遺児:春王丸と安王丸の下弟の足利成氏が第5代
鎌倉公方に就任した。
足利幕府は前管領の畠山持国の支援があり、足利持氏旧臣に
よる鎌倉府再興の要望を受け入れたのだった。
尚、関東管領は上杉憲実の子:憲忠が継承した。

しかし、小山氏・結城氏・宇都宮氏・千葉氏・那須氏・小田氏等の
豪族=関東八屋形と、関東管領山内上杉家・扇谷上杉家との緊張
関係は改善される訳がなかった。
永享の乱や結城合戦で敵対したメンバー&その子孫や血縁者が再び
鎌倉府において集結することになり、衝突の起こるのは時間の問題
だった。
足利成氏の家臣は梁田満助・持助父子や結城成朝、里見義実らで
あった。

箕輪初心★古河公方5代:足利成氏→政氏→高基→晴氏→義氏&氏姫
http://53922401.at.webry.info/201312/article_15.html

梁田持助が相模国鎌倉郡長尾郷を押領する事件を起きた。
 長尾郷は、上杉氏の有力被官:長尾氏の地であった。

・宝徳2年(1450) 江の島合戦
 山内上杉家家宰:長尾景仲&扇谷上杉家家宰:太田資清が
 500騎の軍勢で足利成氏の居座する鎌倉の御所を襲撃した。
 足利成氏は鎌倉江ノ島へと退避した。
 長尾・太田勢は追撃した。
 しかし、足利成氏方の武将:小山持政・千葉胤将・小田持家
 ・宇都宮等綱らの迎撃にあって敗走した。

  上杉憲忠や上杉持朝・顕房父子は七沢の要害に移って抗戦の
 構えを取ったが、膠着状態となった。

 足利成氏は両者の処分を幕府に訴えた。

・享徳元年(1452) 細川勝元は鎌倉公方の訴えを却下した。

・享徳3年(1454)享徳の乱が勃発
 足利成氏が関東管領上杉憲忠の謀殺した。

・享徳4年(1455) 分倍河原の戦い・小栗城(筑西市)の戦い
 室町幕府は足利成氏の討伐を命じた。
 宇都宮等綱に足利成氏討伐令が下されると、父の恨みを
 晴らすために、足利成氏討伐の兵を挙げた。
上杉氏援軍の今川範忠・宇都宮等綱が鎌倉を制圧。

※足利成氏は怒りまくった。
那須資持に対して宇都宮等綱を批難する書状を送っている。
(『那須文書』)

・康正2年(1456) 足利成氏は古河公方となった。
 足利成氏が宇都宮城を包囲。
 宇都宮等綱は足利成氏軍の圧力と重臣の裏切りによって
 宇都宮城から追放された。
 14代宇都宮明綱に譲って出家した。

・長禄2年(1458) 宇都宮等綱は奥州白河:結城直朝に保護された。
・長禄4年(1460)宇都宮等綱は41歳で没した。
宇都宮明綱は足利成氏方の傘下に入った。
 宇都宮家の再興に専念した。

・寛正4年(1463) 宇都宮明綱は21歳の若さで没した。
宇都宮氏15代正綱は明綱の従兄弟であった。
  芳賀氏出身の正綱(成綱の父)が後継になった。
  であった。
15代宇都宮正綱は古河公方足利成氏VS関東管領上杉氏
宇都宮正綱の足利成氏方について転戦した

・文明9年(1477) 長尾景春の乱
 宇都宮正綱は長尾景春を支援する足利成氏に従軍して
 上野で陣没した。享年31歳。
 宇都宮氏17代当主に宇都宮成綱がなった。
 古河公方足利成氏より「成」の字を賜った。

 17代宇都宮成綱は宇都宮氏の支配体制、家臣団を
 再編した。
 佐竹氏や那須氏など近隣の大名と争い大きく勢力を伸ばし、
 北関東最大の勢力にまで成長させた。
 宇都宮氏の最盛期を築き上げた。
宇都宮成綱は、古河公方足利成氏の孫娘(上杉顕実の娘)を
 妻とした。
 宇都宮成綱は、娘の瑞雲院を古河公方足利高基の正室に嫁が
 せている。

・長享元年(1487)  長享の乱が勃発
  山内上杉顕定と扇谷上杉定正は決裂した。
  「長享の乱」の抗争へと広がっていった。
  足利成氏が鎌倉に戻ることはなかった。
 
・長享2年(1488) 山内上杉顕定が扇谷勢へ攻撃を開始した。
  扇谷定正は古河公方成氏&政氏の支援を得て反撃した。
 相模実蒔原・武蔵須賀谷原・武蔵高見原の合戦で
  優勢に立った。

・明応3年(1494) 扇谷定正が陣中で急死。
  上杉朝良が家督を継承した。
  駿河国の今川氏親や伊勢宗瑞(北条早雲)らの支援を得た。

※山内上杉顕定は悩んだ。
  「堀越公方の滅亡」〜〜〜
  &「上杉朝良と伊勢宗瑞の結びつき」・・困った事態発生。
  「そうだ。いい方法がある。」〜〜〜
上杉顕定は古河公方との結びつきを強化するため、関東管領と
  して足利政氏に出仕した。さらに、足利政氏の弟を養子に迎え
  て後継者に足利顕実→上杉顕実とした。
  関東管領家がを古河公方「御一家親戚一同」と成ることで、
 「公方&管領体制」の再構築と秩序回復を進めたのだ。

・永正元年(1504) 武蔵立河原の戦い
   扇谷上杉朝良が大勝した。

・永正2年(1505) 山内上杉顕定が扇谷上杉朝良の本拠;河越城
  を攻撃した。
  扇谷上杉朝良は山内上杉顕定に和睦を申し出て、
  長享の乱が終結した。


・永正3年(1506)永正の乱の勃発=古河公方家内紛
  :第二代足利政氏VS第三代足利高基
  足利政氏の嫡子:高基は、父:足利政氏との不和が原因で、
  義父の宇都宮成綱を頼って下野宇都宮に移った。
  足利公方家の内紛が始まった。
 @足利高基と山内上杉顕定のトラブル説
 A足利政氏が山内上杉顕定重視VS 足利高基は北条早雲を重視。
 B足利高基の正室:宇都宮成綱の娘原因説
宇都宮成綱は古河公方足利高基の正室に娘の瑞雲院を
  嫁がせていたのだ。

・永正6年(1509) 上杉顕定の調停
  足利高基と足利政氏と和解
  足利高基は古河に帰ってきた。
※永正の乱では、同盟関係の結城政朝、小田成治・政治父子
 とともに足利高基派の中心人物として活躍した。

・永正7年(1510) 上杉顕定の戦死。
 長尾景春の同族で越後守護代:長尾為景(上杉謙信の父)と戦って
  越後の長者原で戦死してしまった。

 足利高基は再び古河城を離れ、古河公方家重臣:簗田高助の
 関宿城へ移座した。

 山内上杉家でも家督争いが始まった。
 足利政氏は実弟:上杉顕実を支援
 足利高基は上杉顕定のもう一人の養子:上杉憲房を支援。
 ※足利公方家と関東管領家にまたがる内紛に拡大していった。
 長尾景春は、白井城を奪還した。
  長尾景春は北条早雲と同盟を結んだ。
 上杉憲房と対抗した。

・永正9年(1512) 上杉憲房が上杉顕実本拠:武蔵鉢形城を
  攻略した。
  上杉顕実は兄:足利政氏を頼って古河城に敗走した。

  足利政氏も小山成長を頼って小山祇園城に移座した。
  足利高基が古河城に入り、第3代古河公方の地位を確立した。
 結果・・・「足利公方&関東管領体制」は、
 足利高基&上杉憲房体制に代わった。

 上杉憲房が足利高基の子:憲寛を養子に迎えて、関東管領の
  後継者とした。

・永正9年(1512年)鎌倉は相模守護:扇谷上杉氏の支配下
  であったが、伊勢宗瑞=北条早雲の支配下に置かれた。


・永正13年(1516) 縄釣りの戦い
 @足利高基の義父:宇都宮成綱が足利政氏の支持派:佐竹義舜
 ・岩城由隆に勝利した。
 A足利政氏支持派の那須氏が宇都宮氏と同盟を結んだ。
 B足利高基支持派:小山政長が小山氏の主導権を握った。
 →父:足利政氏の敗北した。
  足利政氏は扇谷上杉朝良を頼って岩付城へ移った。

17代宇都宮成綱は宇都宮氏の戦国大名化に努めたため、宇都宮氏の
中興の祖と呼ばれている。しかし、晩年は家臣芳賀氏との対立の
中で隠居をして18代宇都宮忠綱が家督を継いだ。
実際には宇都宮成綱が実権を握っていた。



・永正13年(1516) 宇都宮成綱が没した。
  宇都宮忠綱が叔父:塩谷孝綱の補佐を受けていたた。
  勢力拡大の戦いに奔走したが、家臣の反発を生むことになった。

・大永3年(1523)猿山合戦
 芳賀高経が結城氏や壬生綱房と通じて、弟:興綱を擁立した。
 芳賀高経の策謀により宇都宮城を奪取された。
 鹿沼城の壬生綱房を頼ったが失意のうちに没した。享年31歳。

〜〜〜〜後北条氏の侵攻〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
・大永4年(1524) 北条氏綱の侵攻。
 扇谷上杉氏は、江戸城と岩付城を続けて失った。

・天文6年(1537) 扇谷上杉氏は本拠の河越城も失った。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

・大永3年(1523) 宇都宮興綱が芳賀高経によって幽閉された。

・天文元年(1532) 宇都宮興綱が家臣の壬生綱房と芳賀高経
 &高孝に迫られて隠居されられた。
  宇都宮俊綱が19代当主となった。
 
・天文5年(1536)宇都宮興綱が重臣:壬生綱房と芳賀
  高経らに詰め寄られ自刃させられた。  
宇都宮尚綱が宇都宮20代当主となった。
宿老・壬生綱房の専横が目立つようになる。

・天文8年(1539) 説 宇都宮尚綱は壬生綱房と芳賀高経を討った。

・天文10年(1541)説 
  @宇都宮尚綱は 古河公方:足利晴氏・
  小田政治・佐竹義篤らと組んで芳賀高経を殺害。
  A最後は小田政治のもとへ逃れたのち殺害説
  B児山城に籠城して戦死説
 宇都宮尚綱は芳賀高照(高経の子)を追放して、芳賀家には、
  益子勝宗の3男:宗之を養子にを送り込んだ。
  芳賀高定と名乗らせた。  
  芳賀高定が宇都宮尚綱の腹心になっていった。
  
※宇都宮尚綱は結城政朝の娘を妻とした。  

・天文14年(1545) 宇都宮尚綱は中村城奪回のために
   水谷正村の久下田城を攻撃。                       
   →反撃で、中村城は廃城。
   →中村領は水谷氏の領地。
→水谷正村の上三川城攻撃。
今泉高光は上三川城を死守した。

・天文18年(1549) 五月女(そうとめ)坂の戦い
   宇都宮尚綱2000 VS 那須高資300
那須軍の奇襲を受けて那須家臣:鮎ヶ瀬実光
  に射抜かれて絶命した(伝)。
  宇都宮尚綱が敗死。享年37歳。
  
  5歳の宇都宮広綱は芳賀高定(益子勝宗の3男:宗之)
  をに守られて真岡城に落ち延びた。
  
  那須高資側の芳賀高経の子:芳賀高照を宇都宮城に入城した。 
(★芳賀高経の娘は那須高資の妻だった。
 つまり、那須高資は那須高資の従兄弟だった。)
  宇都宮氏本流は一時宇都宮城を失った形となった。

・天文21年(1551) 宿老:壬生綱房が宇都宮城を乗っ取った。
壬生綱雄が北条氏康の命令であった。
   (★「関東の名城を歩く」では)
  壬生綱房は芳賀高経の子:芳賀高照を傀儡政権の当主に
  迎え入れた。
  壬生綱房や芳賀高照・塩谷義孝ら重臣団が宇都宮氏の実権を
  掌握した。
  壬生綱房は下野各地を侵攻し、統一に乗り出した。
  
  
・弘治元年(1555) 芳賀高定が芳賀高照を真岡城におびき出し、
   暗殺した。
  そして、壬生綱房が急死。〜〜〜ラッキー。

・弘治3年(1557) 古河公方:足利義氏の命で、佐竹義昭は
  芳賀領:飛山城に5000の軍勢で宇都宮広綱&芳賀高定を
  支援した。
 
  壬生綱雄がは宇都宮城を退却した。
  宇都宮広綱が宇都宮城に入った。
宇都宮氏21代当主となった。

ちなみに古河公方足利義氏は北条氏康の娘が生んだ子どもで
 ある。

ちなみに宇都宮広綱は佐竹義昭の娘婿である。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
・永禄3年(1560)長尾景虎(=上杉謙信)が祇園城を攻撃。

 宇都宮広綱は上杉謙信と同盟を結んだ。
 関東制覇を目指す後北条氏やその北条氏側の諸大名と
 徹底して対立した。


・永禄7年(1564) 小田城の戦い
  上杉謙信の同心になり、宇都宮広綱は、佐竹義重と共に
  北条方の小田城を攻撃した。
  小田氏治を敗走させた。
  
・元亀3年(1572) 宇都宮広綱が病になった。
  政務は母:南呂院:佐竹義昭の娘&広綱の妻の
  実父:佐竹義重

・天正4年(1576) 宇都宮広綱が病死。32歳。
  宇都宮広綱&佐竹義昭の娘の子:宇都宮国綱が22代目を
  継承した。 
  

  壬生氏や皆川氏などの反対勢力=北条側が活発化した。

・天正4年(1576) 小山秀綱が北条氏に降伏して開城。
   小山城は北条氏の手によって改修された。
   北関東攻略の拠点となった。

・天正5年(1577)後北条氏の関宿・古河着陣。
  後北条氏が下野に侵攻。      
  佐竹義重(宇都宮国綱の叔父)と同盟を結んで、独立を
  保持した。
佐竹義重は宇都宮氏を支援した。

・天正6年(1578)佐竹義重は壬生城を攻撃した。 

・天正10年(1576)織田信長と北条氏の取り決めで、
   小山氏に返還・・・。

・天正13年(1585) 宇都宮国綱の弟:宇都宮高武が養子として
     真岡城の芳賀家を家督相続した。

※後北条氏の侵攻がさらに激化した。
宇都宮国綱の後北条氏対策
@下野国の芳賀高武(宇都宮国綱の弟・・真岡城)
A下総国の結城朝勝(宇都宮国綱の弟・・結城城)
B常陸国の佐竹義重(宇都宮国綱の母:佐竹義昭の娘
    &正室:佐竹義重の養女)
C甲斐国の武田勝頼
D豊臣秀吉・・・・・手を結んで対抗した。



・天正13年(1585) 北条氏直・氏照の児山城・多功城
  ・上三川城の攻撃。
   →芳賀高武は援軍を出した。
・上三川城で北条氏照をくいとめた。

・天正17年(1589)?
 豊臣秀吉の小田原城攻撃直前には、真岡城(弟芳賀高武)
 鹿沼城、、壬生城などの周辺諸城が全て北条氏照に寝返っていた。

宇都宮国綱は拠点を宇都宮城から多気城に移さざるを得なかった。
※佐竹義重の戦略的な意図もあった。
 (★「関東の名城を歩く:今平利幸文責)
★四面楚歌で、豊臣秀吉の出陣が頼みの綱だったとも言える。
画像


〜〜〜豊臣秀吉の小田原攻撃〜〜〜〜
・天正18年(1590) 豊臣秀吉の小田原城:北条氏攻撃。
 佐竹義重&宇都宮国綱は豊臣秀吉に謁見。
 宇都宮国綱は豊臣秀吉に参陣し、石田三成の忍城攻撃など
 に参加した。
 小田原城落城・・

 豊臣秀吉は宇都宮城に滞在。
 関東・東北の大名配置を決めた。
 「宇都宮仕置」を行った。
 浅野長政は奥州仕置では実行役として中心的役割を担った。

 宇都宮国綱は豊臣秀吉により18万石を安堵された。
 北条氏照に寝返っていた真岡城の芳賀高武が再び宇都宮国綱
 の傘下になった。

・文禄元年(1592) 文禄の役
 宇都宮国綱&芳賀高武は豊臣秀吉に従い、文禄の役に参陣した。

・慶長2年(1597) 宇都宮家の嗣子問題
  宇都宮国綱には継嗣が無かったため、五奉行:浅野長政の
  3男:長重を養子として迎えようとした。
  宇都宮国綱の弟:芳賀高武が猛反対した。
  賛成派は今泉高光であった。
  
  芳賀高武は上三川城を夜襲・・・落城。
  第14代:今泉高光は上三川城を退き、菩提寺:長泉寺で自害。
  上三川城は落城して今泉氏も断絶した。
 「片目のどじょう」の伝説
  ※本丸の堀には、上三川城落城にまつわるが伝えられている
  そうである。

 宇都宮国綱の改易。
 @浅野長政が豊臣秀吉に讒言したことよる改易説。
  浅野長政は安井重継の子であったが、叔父:浅野長勝の
  娘:やや(彌々)の婿養子として浅野家に入った。
  浅野長勝の養女:ねね(寧々)は豊臣秀吉)に嫁いだ。
  豊臣秀吉に最も近い姻戚であった。
  浅野長政「何故、3男:長重を養子にしなかったのだ。
約束したのに・・・。」
 A宇都宮国綱が石高隠匿の罪で改易説。
※太閤検地は浅野長政が実行した。
  

豊臣秀吉より宇都宮国綱が所領没収された。
  同時に、芳賀高武も芳賀城・上三川城&所領没収・追放。
 宇都宮国綱・・・宇都宮家は滅亡。

備前の娘婿:宇喜多秀家の預かりとなった。
しかし、豊臣秀吉から
 「朝鮮での戦功次第では再興を許す。」
  と言われた。

・慶長2年(1597) 同年、宇都宮国綱は慶長の役の参加した。
順天城の戦いで武功を立てた。

・慶長3年(1598) 豊臣秀吉の死
宇都宮国綱の再興の夢は秀吉の死により断たれた。
 ★なんと、アンラッキーな宇都宮国綱。


宇都宮氏は約500年間にわたる下野支配が終了。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 
 宇都宮国綱は豊臣政権五奉行筆頭:浅野長政に預けられた。
宇都宮城には蒲生秀行が入封。 

・慶長12年(1607) 宇都宮国綱は諸国を流浪後、
  江戸浅草の石浜で病死。享年40歳。

嫡男:宇都宮義綱は水戸藩・徳川頼房に仕えた、
 孫の宇都宮隆綱は家老に取り立てられた。
 以降、子孫は水戸藩士として明治維新を迎えた。
  

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 

・元和5年(1619) 本多正信の子:正純が15万5千石で入封。
  本多正純は城の大改築・天守閣(伝)・城下町割りの変更等
  の大工事敢行。
  城の大改築。天守閣があった(伝)。

 ※松平・阿部氏替わっている。
※徳川家康が日光東照宮に祀られたことから、日光守護の城と
して重視された。、           

・元和8年(1622) 本多正純が改易。
奥平忠昌が再入封して奥平氏2代→

・享保年間(1716~1735) 本丸の御殿があった(伝)。
   本丸は非常に高い土塁があった。

※めまぐるしい交代
  松平(奥平)忠弘、本多忠平、奥平昌章(忠昌の曾孫)
 ・昌成→
  阿部正邦・戸田氏3代、松平(深溝)氏2代と交替

・安永3年(1764) 戸田忠寛が返り咲き、戸田氏7代が支配。

・明和7年(1770) 戸田氏が入封。
  城主御殿は二の丸に移った。

・天保14年(1843) 本丸に将軍宿泊の新居を建築。
  東に3ヶ所、西に2ヶ所の櫓があった。
  北西角の清明台櫓が天守閣のかわりにされていた(伝)。
〜明治まで。
*戸田氏6代忠恕の時、宇都宮藩は天狗党事件に巻きこまれ、
「戊辰の役」に遭遇。
  大鳥圭介・新撰組の土方歳三らの幕府軍と新政府軍と
  の攻防で城や城下が消失。

・慶応4年(1868) 戊辰戦争
   宇都宮城は戦火にあい櫓はすべて焼失した。

・明治時代  陸軍の第四分営の宇都宮分営が駐屯。
    (★現地資料より)

・昭和中期  わずか本丸土塁の一部が残されるのみとなった。
      遺構は「御本丸公園」として整備された。

・昭和40年頃   都市化の波で、本丸の一部以外は破壊
         され消滅。

・平成初期  歴史資料館「清明館」を建設。
       「御本丸公園」を改修・再整備
  宇都宮城本丸の一部「清明台」、「富士見櫓」、「石垣と土塁」、
  「土塀」および「堀」を外観復元し、
  「宇都宮城址公園」とした。

・平成18年(2006) 12月 改修復元工事竣工

・平成19年(2007) 3月25日 宇都宮城の開園式。

見所・・・宇都宮城は、遺構が壊滅。土塁の一部が残るのみ。
     現在本丸の一部が御本丸公園として整備。
     清明館に宇都宮城の資料が展示。


【2】二荒山神社
  巫女さんに「宇都宮餃子の店」&「多気山城」の場所を
  教わった。

【3】宇都宮餃子
宇都宮の餃子は有名であるが、食べたことがなかった。
MEGAドンキホーテの地下の宇都宮餃子会の「来らっせ」に
行った。


宇都宮で有名な餃子店5店舗が入っている。
龍門のカウンター席に待たずに通してくれた。
どこのお店の席に座っても5店舗の餃子を注文できる
システムである。
@みんみんの6個焼餃子240円、A幸楽の6個水餃子240円
B龍門の餃子定食450円を注文した。930円の昼食だ。
注文すると、席まで餃子を届けてくれる。

※餃子の消費量は今まで全国1位だったが、昨年は浜松に抜
かれてしまった。

【4】多気山不動尊&多気山城(たげやま)
@多気山不動尊
正月用の駐車場に500円払った。
ここから約2km歩いた。凄い数のお客さんだ。


「山頂が主郭らしい。遺構がない。」
と和尚さんが言っていた。
どうも山全体が城=要塞らしい。
でも、城の縄張り図を見てこなかったのが残念だった。
「茶屋の裏に石垣がある。」と教えたくれた。

多気城(たげじょう)とも、多気山城とも言うらしい。
15C 築城 宇都宮氏の詰めの城
天正12年(1584) 後北条氏が多気城を攻撃。

でも、茶屋で聞いても分からなかった。
★後で、余湖さんのHpを見て、多気山不動尊と茶屋が
2ヶ所とも、一番したの郭らしいことが分かった。

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箕輪初心●栃木:『宇都宮一族の歴史詳細』&【宇都宮城&多気山城】 城・陶芸・ハイキング・ダイビング・スキー・旅行/BIGLOBEウェブリブログ
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