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zoom RSS 箕輪初心★古河公方5代:足利成氏→政氏→高基→晴氏→義氏&氏姫

<<   作成日時 : 2013/12/15 07:59   >>

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享徳4年(1455)、享徳の乱・・・第5代鎌倉公:足利成氏が鎌倉か
ら下総国古河(現茨城県古河市)本拠を移し、初代古河公方となった。
足利成氏は古河公方館を築城した。古河公方は、政氏・高基・晴氏
・義氏へと約130年間引き継がれた。御所は主に古河城であった。
しかし、天正11年(1583)5代:足利義氏が娘:氏姫を擁した古河公
方館にいた。
関東の戦国時代は、古河公方成立で始まり、豊臣秀
吉による後北条氏滅亡で終結したとも言える。

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 (★古河公方館)


【0】古河公方館
●古河公方館の城域
古河市外の南・・御所沼に向けて、東から西に延びる半島状の台地
上にある。現地調査の結果、城域は東西700m×約200m に及ぶ。
外の3区画が確認されている。各間には空堀があり、堀の西側には
土塁も設けて、東側からの来襲に備えていた。

1)根城・・・南北幅40m×東西140m
  本丸に相当すると考えられている。
  現在は「公方様の森」と呼ばている。

2)中城・・・南北100m×東西180m
 ※昭和5年まで十念寺があった。
 現在は民家園:旧飛田家住宅、旧中山家住宅がある。
@旧飛田家住宅

A旧中山家住宅

B古河公方館跡の碑
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3)外郭=宿・・・南北最大130m×??m
外郭には、城下集落である「宿」が形成されていた。
現在は公園の外側である。


4)御所沼・・・約150m× 約150m
 天然の水堀・・・
 北側は虚空蔵菩薩の丘陵まで
 南側は駒ヶ崎・市立サッカー場の丘にまで延びていた。
 西側は渡良瀬川まで湿地帯が続いていた。
 北西に1km ほど隔てた古河城ともつながっていた 。
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【0】古河城
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画像






〜〜〜【古河公方の歴史】〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
●足利氏と関東管領:上杉家
・重顕・・・朝定(扇谷家)・定正=朝良=朝興・・・朝定      
上杉頼重・憲房・憲藤(犬懸家)・○・氏憲(禅秀)
  憲顕(山内家)・憲方・憲実・房顕=顕定=憲房・憲政=謙信
  ・上杉清子(尊氏の母)
   ↓・@足利尊氏・A義詮・B義満・C義持・D義量・E義教
  足利貞氏          ・F義勝・・G義政
関東管領*尊氏次男基氏・氏満・満兼・持氏・成氏(古河公方)           
●関東八屋形・・千葉・結城・小山・長沼・宇都宮・那須・佐竹・小田
●関東御一家・・足利一族の吉良・渋川・新田一族の岩松      
--------------------------------------------------------------------------------
・応永12年(1416) 上杉禅秀(犬懸家)の乱 
足利持氏+山内上杉  
     VS 
上杉禅秀(元関東管領)+持氏叔父・弟
 +甲斐武田(禅秀妻実家)+千葉(禅秀の娘婿)
+岩松+那須+佐竹一族の山入+小田 
敗戦で没落   




【1】 古河公方の成立
※室町幕府は、鎌倉に鎌倉公方を定め、足利将軍家の分家を置いた。
鎌倉公方は、関東以東を支配する将軍職である。鎌倉公方の配下に
は関東管領の役職が置かれ、東日本での政務を行っていた。
室町幕府2代将軍:足利義詮(よしあきら)の弟:足利基氏の家系
が世襲していた。
ところが鎌倉公方家は、将軍職継承権を訴え、本家の足利将軍家と対
立するようになった。

・貞和5年(1349) 室町幕府は関東分国統治の鎌倉府を設置した。
 関東分国には、上野国・下野国・常陸国・武蔵国・上総国・下総国
・安房国・相模国・伊豆国・甲斐が含まれていた。後には陸奥国
 ・出羽国(現東北地方)も追加された。
 鎌倉府の構成
 @鎌倉公方………・・足利尊氏の次男:基氏の家系
 A関東管領(鎌倉公方補佐役)・・・上杉家
 B諸国の守護
 C奉行衆

0)鎌倉府&鎌倉公方3代
鎌倉公方は室町幕府初代将軍足利尊氏の次男:足利基氏を初代として
氏満・満兼と継承されたが、次第に幕府から独立した行動を取り始めた。

@初代:足利基氏
★足利基氏の館・・・現東松山市    
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A2代:足利氏満


B3代:足利満兼


1)永享の乱〜結城合戦まで
・永享7年(1435)〜 鎌倉公方:足利持氏と補佐役の関東管領
  :上杉憲実の対立・・・

・永享10年(1438) 永享の乱が発生
・永享11年(1439) 永享の乱
 第4代鎌倉公方足利持氏 
  VS
 第 6代将軍足利義教&関東管領上杉憲実

結果・・鎌倉公方:足利持氏は敗れて自害・・・
   鎌倉府は滅亡。
 

・永享12年(1440) 結城合戦
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  結城氏朝・持朝父子・足利持氏の残党などが足利持氏の
  遺児:春王・安王を擁立し、室町幕府に対して反乱を起
  こした。
  結城氏朝・持朝+反幕府方の足利持氏の残党などが結城城
  に篭城し、一年近く幕府に抵抗した。

箕輪初心★箕輪城101「長野氏」の研究:近藤・山崎・飯森・久保田
http://53922401.at.webry.info/201310/article_6.html


・嘉吉元年(1441) 結城城が落城。
  結城氏朝・持朝父子は討ち死にした。
  結城氏は一時没落することとなった。


 →上杉清方が鎮圧。
 〜〜〜不安定な状態が続く。〜〜〜〜
 結果・・・上杉氏は所領を拡大。
★上州では、上州旗一揆・・・・


鎌倉公方の支配下にあった奥州にも飛び火した。
 足利持氏の叔父:足利満直が結城氏を支持する諸将に討れた。

・嘉吉2年(1442)嘉吉の乱
将軍義教が家臣:赤松満祐に暗殺された。

・文安3年(1446) 足利持氏の遺児:足利成氏が鎌倉公方再興を
許され、鎌倉府を復活させた。
 ※足利成氏は古河公方として後に上杉氏と対立した
  享徳の乱を起こした。



2)鎌倉府再興
・文安4年(1447) 足利持氏の遺児:春王丸と安王丸の下弟の
足利成氏が第5代鎌倉公方に就任した。
 足利幕府は前管領の畠山持国の支援があり、足利持氏旧臣に
 よる鎌倉府再興の要望を受け入れたのだった。
 尚、関東管領は上杉憲実の子:憲忠が継承した。

 しかし、小山氏・結城氏・宇都宮氏・千葉氏・那須氏・小田氏等の
 豪族=関東八屋形と、関東管領山内上杉家・扇谷上杉家との緊張
 関係は改善されなかった。


・宝徳2年(1450) 江の島合戦
 山内上杉家家宰:長尾景仲&扇谷上杉家家宰:太田資清が
 足利成氏を襲撃。
 足利成氏は両者の処分を幕府に訴えた。

・享徳元年(1452) 細川勝元は鎌倉公方の訴えを却下した。

3) 古河公方の成立
・享徳3年(1454)享徳の乱が勃発
 足利成氏が関東管領上杉憲忠の謀殺した。
・享徳4年(1455) 分倍河原の戦い・小栗城(筑西市)の戦い
室町幕府は足利成氏の討伐を命じた。

  上杉氏援軍の今川範忠が鎌倉を制圧。
 足利成氏は下総の古河を新たな本拠地とした。




【2】古河公方館&「古河公方5代」の歴史
・享徳4年(1455) 享徳の乱
足利成氏は初代古河公方を名乗り、
  古河公方館を築いた?

1) 足利成氏が古河を選んだ理由
@経済的な理由:鎌倉公方の御料所は鎌倉&相模国内&下河辺荘
  二か所にあった。下河辺荘の中心地は古河であった。
  足利家の家臣:簗田氏と野田氏が水海・関宿と古河・栗橋を
  支配地であった。古河公方を支える条件があった。
A地理的な理由・・・下野国・下総国、常陸国の大半が古河公方
 勢力下であった。場所的に真ん中であった。
古河公方を支持した武家は、
 下野の宇都宮明綱&正綱 ・那須資持 ・小山持政
 下総の結城成朝・氏広*千葉氏康胤・輔胤・孝胤)
 常陸の佐竹義俊・小田持家
 上野の岩松持国等である。
●渡良瀬川・思川など利根川水系水上交通の要所だったのだ。
 当時の渡良瀬川・利根川河口は江戸湾だった。
※常陸国南部は上杉氏の影響力が強かった。 
※上総国武田信長・安房国里見義実?はかやの外・・
 

2)中世都市:古河の発展
 古河は第二の鎌倉となった。
 古河公方御所の場所:古河の森が本丸に該当していた。
古河には、鎌倉から多くの奉公衆や家臣、僧侶・文化人が移住
 してきた。
 古河公方館の廻りには、家臣団の屋敷ができた。
 宿場町は近世の観音寺曲輪・桜町曲輪の場所にあった。

 中世の奥州街道が古河城内を縦断していた。
 水運の要所でもあり、水運業が発達した。
 城下町には、水運業・陸運業、金融業を営む特権商人
 馬具作りなどの職人集団が住み始めた。
 古河は政治・経済・医療・技術・宗教:神社仏閣・文化・芸能など
 東国の最先端地に成長していった。



【3】 堀越公方 VS 古河公方
・享徳4年(1455) 7月、元号が康正に改められた。

・長禄2年(1458) 室町幕府は足利政知を新たな鎌倉公方とし
て東下させた。
足利政知は鎌倉へ行けず伊豆の堀越(現静岡県韮山市)を御所
  とした。
 〜〜〜以後、約30年間にわたり、
堀越公方 VS 古河公方 
堀越公方・・・上野国・武蔵国・相模国・伊豆国
   堀越公方&関東管領山内上杉氏&扇谷上杉氏
古河公方・・・下野国・常陸国・下総国・上総国・安房国
   古河公方&地方豪族

 関東を東西に二分して戦った。

古河公方は山内上杉家&扇谷上杉家&堀越公方足利政知
 (8代将軍足利義政の異母兄)との抗争となった。

 扇谷家の家宰:太田資清(道真)・資長(道灌)父子の活躍で
 勢力を増していた。
 太田資清・資長父子は岩槻城(最近の説では成田氏築城)を
 修築し、河越城、江戸城を築城し、3城を拠点とした。

  享徳の乱は20年以上に及び続いた。
  
・文明3年(1471) 享徳の乱
   山内上杉家 VS 古河公方:足利成氏
長尾景春も山内上杉家の家臣として、古河城攻撃に参戦した。

・文明5年(1473) 父:長尾景信が死去。
  白井長尾家の家督は嫡男:長尾景春が継いだ。
  長尾景春は、家宰職も継げると思っていた。
  しかし、山内上杉家:上杉顕定の家宰の地位は叔父の長尾忠景
 (総社長尾氏)が継ぐことになった。上杉顕定は家宰を景春の叔
  父:長尾忠景(総社長尾氏)に与えてしまったからである。
上杉顕定は白井長尾家の力が強くなりすぎることを嫌った
 のである。

箕輪初心★長尾景春:関東下克上で従兄弟:太田道灌と交戦
http://53922401.at.webry.info/201311/article_31.html

箕輪初心★太田道灌の生涯:長尾景春のライバル
http://53922401.at.webry.info/201312/article_1.html


 長尾景春は扇谷家上杉家の家宰:太田道灌に同心(仲間)
 になるようを頼んだ。
 長尾景春の叔母は太田道灌の母だったのだ。つまり、
 長尾景春&太田道灌は従兄弟だったのだ。
 
 しかし、太田道灌は拒否した。
 太田道灌は五十子陣にいた山内家上杉顕定と主君:扇谷家上杉
 定正のもとへ向かった。
 太田道灌は顕定と定正に
 「長尾景春を武蔵守護代に任じ、長尾忠景を一時退けて下さい。」
 と進言した。
 しかし、上杉顕定は受け入れなかった。
 「それならば、直ちに出兵して長尾景春を討つ方がよいのでは
  ないでしょうか。」
 と進言した。
 上杉顕定は
 「古河公方成氏と対峙している状況では、長尾景春を討つなど
 できない。
 と断った。

※長尾景春はこれに対してますます、不満を抱き・・・
やがて、主家:上杉顕定や叔父の長尾忠景を憎悪するようになった。

・文明7年(1475)
  長尾景春が 武蔵:鉢形城を築城(伝)

・文明8年(1476) 長尾景春の反乱
 足利成氏との和睦交渉が続けられる中、長尾景春は北武蔵秩父郡
 &児玉郡で抵抗を続けていた。鉢形城は何度も長尾景春の神出鬼
 没のゲリラ戦により、奪還・落城の繰り返しを行うことになる。

 古河公方が後ろで糸を引いて房総半島の「千葉孝胤」が「長尾景春」
 に呼応し、「上杉軍」に反旗を翻す。
 太田道灌は、相模、房総地方の鎮圧にも奔走せざるえなくなった。
 
このような状況が続いて・・・

 太田道灌は今川氏の内紛介入のために駿河に滞在していた。
「長尾景春の乱」満33歳
  6月 五十子(現本庄市いかっこ)の戦い
  長尾景春は主家:山内上杉顕定に反乱を起こした。
   五十子の陣に、2500騎が奇襲をかけたのだった。
  上杉顕定は、長尾景春の力を軽視していた。
  2代続けて家宰職を継いだ白井長尾氏の力は他の長尾氏
  よりも強かったのだ。・・
  五十子陣の上杉方の武将達は動揺し、勝手に帰国する者が
  続出した。
  長尾景春は上杉顕定軍を五十子陣において打ち破ったのだ。

  上杉定正と上杉顕定命からがら上野:平井城に逃げた・・・・
  調子こいた長尾景春に、関東の国人や地侍が次々と味方になった。

相模小磯城(神奈川県大磯町)の越後五郎四郎
相模小沢城 (神奈川県愛甲郡愛川町)の金子掃部助
相模溝呂木城(神奈川県厚木市)の溝呂木正重(景春の被官)
相模小机城(神奈川県横浜市)の矢野兵庫が呼応した。
多くの関東の国人、地侍が景春に味方した。


・文明9年(1477)
1月 五十子の戦い 
  長尾景春 VS 上杉顕定
 長尾景春は2500騎を率いて五十子陣を急襲した。
 上杉顕定と上杉定正は大敗を喫して敗走。・・・
 顕定と定正は上野平井城に逃れた。
 18年間、上杉氏の対古河公方戦の最大の防御拠点だった
 「五十子陣」は長尾景春の落とされてしまったのである。
 
 そして長尾景春は、上杉氏と敵対する豊島泰経・豊島泰明
 ・千葉孝胤・那須明資・成田正等らと同盟を結んだ。
 特に旧領を太田氏に奪われていた南武蔵の豊島氏は喜んだ。
 石神井城と練馬城(練馬区)に豊島泰経、平塚城(東京都北区)
 に弟の泰明が太田道灌の領地をとって返り咲いた
 豊島一族は江戸城と河越城・岩槻城との連絡線を断った。
 
 太田道灌は長尾景春と戦うざるを得なくなった。
 ※戦線は相模国から下総国に至る関東一円にと拡大していった。

 扇谷上杉家の家宰:太田道灌が武蔵国に攻め込んできた。
 太田道灌の参戦で長尾景春軍は各地で敗れた。
 次第に、長尾景春の勢威は衰退していった。 
 しかし、長尾景春は足利成氏の支援を受け、太田道灌と戦い続けた。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

3月 太田道灌は溝呂木城と小磯城を落とした。
 さらに小沢城を攻撃・・長尾景春が援兵を送った。
 一旦兵を引いた。
 小机城の矢野兵庫が出陣して、太田道灌の河越城攻撃した。
 太田資忠(道灌の甥)と上田上野介が撃退した。

4月 江古田・沼袋原の戦い
太田道灌 VS 豊島一族
  太田道灌は上杉朝昌:三浦高救らの援軍を得た。
  平塚城城下を焼き払った。
  豊島泰経・泰明を待ち伏せて50騎で200騎の豊島勢を
  打ち破り、泰明を討ち取った。
  太田道灌は泰経を追って石神井城を囲んだ。
  豊島泰経の石神井城を攻め落とした。

 鉢谷原の戦い
  長尾景春 VS 上杉顕定と上杉定正軍
 長尾景春は五十子を出陣して利根川を渡り、鉢谷原で攻めるが
 撃退された。

5月 太田道灌は上杉顕定・上杉定正と合流した。
  五十子(埼玉県本庄市)を奪回。
 長尾景春は鉢形城に退却。

 用土原(埼玉県寄居町)の戦い
  長尾景春 VS 太田道灌・上杉顕定・上杉定正
5月13日 太田道灌は五十子に着陣した。
 長尾景春は「五十子の陣」を奪還した上杉軍を迎え撃つべく
 出陣した。
 5月14日未明、上杉軍は太田道灌に率いられて鉢形城へ向けて
  移動を開始した。
  長尾景春軍は完全に意表をつかれ、多数の死者を出て大敗した。
 長野為兼は戦死した。
 ★私見:長野家の「兼」のつく一族がいた。おそやくは厩橋=前橋系?
 と推測している。
 長尾景春は鉢形城に逃げ込んだ。
 「用土原の合戦」は、長尾景春の戦いで最も激しい合戦であった。

7月 荒巻の合戦
 長尾景春の要請により、古河公方:足利成氏が長尾景春への援軍と
 して、那須・佐々木・柳田・一色の諸将を「群馬郡滝」に布陣
 させた。
 
10月 ?太田道灌は、上杉軍主力を白井城に向けた。
 太田道灌は自陣を荒巻(★前橋市:群馬大学付近)に布陣した。
 古河公方の行動を牽制した。 
 長尾景春は同族の越後の長尾為景(上杉謙信の父)にも援軍を
 要請した。

 塩売原の合戦
 長尾景春は、結城、那須、佐々木、横瀬らを率い、太田道灌の
 荒巻の陣に進軍を開始した。
 太田道灌は決戦を避けるべく「塩売原」に陣を移動した。
 ※[塩売原」・・・現在では特定できていない。
★前橋市惣社か吉岡町の一部であろう。
 
 長尾景春も「塩売原」に布陣した。

広馬場(群馬県榛東村)の戦い
山内上杉+長野業尚 VS 長尾景春
※足利成氏が古河から前橋の惣社付近まで応援に駆けつけた。

長尾景春は退却した。
(★関東古戦録)


11月  「古河公方」が軍を引いた。
   長尾景春は孤立してしまった。

   太田道灌は「鉢形城」に総攻撃を加えた。
   長尾景春は鉢形城を放棄して秩父へ落ち延びた。

足利成氏が8000騎を率いて出陣したため、
   太田道灌は撤兵した。

  太田道灌は長尾景春の上野:白井城へ侵攻。

11月 双方撤兵。

・文明10年(1478)  
1月 足利成氏が簗田持助を通じて山内上杉家家宰:長尾忠景へ
   和議を打診した。
   
   20年以上の戦いに飽いた足利成氏は幕府との有利な条件で
    の和睦を望んでいた。
   豊島泰経が平塚城で再挙。
   太田道灌が鎮圧。
 
 3月 長尾景春が河越城へ攻撃。
    上杉定正と太田道真が撃退した。

   豊島一族の残党が「平塚城」で挙兵した。
  太田道灌が相模国に転戦した。
  長尾景春は「鉢形城」を奪還し、再び、抵抗を始めた。
  
  太田道灌は小沢城を攻め落とした。
 
 4月 小机城を攻略。
   豊島氏が滅亡。

 
 
7月 太田道灌は長尾景春の鉢形城を攻略し、上杉顕定の
   居城とした。

12月 境根原合戦
 太田道灌は、足利成氏の有力武将:千葉孝胤
 を打ち破った。

・文明11年(1479) 太田道灌は甥:資忠と千葉自胤(千葉氏の上杉方)
 を房総半島へ派遣した。
 千葉孝胤の籠る臼井城(千葉県佐倉市)を攻略した。
 太田資忠は戦死した。
 真里谷武田氏、海上氏を降し、房総半島から反対勢力を一掃する
 ことに成功した。

 
・文明10年(1478) 上杉氏と足利成氏の間で和議が成立。
  太田道灌の裏工作であった。
  20年間、対立していた。・・・



・文明12年(1480)
6月、最後の拠点:日野城(埼玉県秩父市)を太田道灌に攻め落
  とされた。長尾景春は成氏を頼って落ち延びた。

  古河公方:足利成氏と長尾景春は、室町幕府に「両上杉家」との
  「和睦」調停を申し出た。
  足利幕府も命により、「両上杉家」と「古河公方」の対立&
  「長尾景春の叛乱」は、和睦で、終焉することになった。

・文明14年11月27日(1483年1月6日) 「都鄙(とひ)合体」
足利成氏と両上杉家(足利幕府)との間で和議が成立。
 足利成氏は幕府から赦免された。

 結果・・・堀越公方は伊豆一国を支配することになった。
  足利成氏は関東公方の地位をあらためて幕府に承認された。

しかし、古河公方と堀越公方の並立となった。
 
・文明18年(1486) 太田道灌没
  太田道灌は、群を抜く大きな江戸城:扇谷の石垣修理しよう
    とした。
  主君の扇谷上杉定正は「謀反だ。」と思った。そこで、
    扇谷上杉定正は糟屋邸
     (相模国糟屋現:神奈川県伊勢原市)に誘い出し、殺害。
  大田道灌暗殺により、大田道灌の子:資康や扇谷上杉家に
  付いていた国人衆の多くが山内家へ走った。
長尾景春も上杉定正に加担して、山内:上杉顕定と戦うことに
  なった。


【3】 「足利公方&管領体制」の再構築(山内・扇谷上杉家)
1) 両上杉氏間の抗争(第二代足利政氏と山内上杉顕定)
享徳の乱終結後、山内上杉家と扇谷上杉家との抗争(長享の乱)が
始まった。

・長享元年(1487)  長享の乱が勃発
  山内上杉顕定と扇谷上杉定正は決裂した。
  「長享の乱」の抗争へと広がっていった。
  足利成氏が鎌倉に戻ることはなかった。
 

・長享2年(1488) 山内上杉顕定が扇谷勢へ攻撃を開始した。
  扇谷定正は古河公方成氏&政氏の支援を得て反撃した。
 相模実蒔原・武蔵須賀谷原・武蔵高見原の合戦で優勢に立った。

・明応3年(1494) 扇谷定正が陣中で急死。
  上杉朝良が家督を継承した。
  駿河国の今川氏親や伊勢宗瑞(北条早雲)らの支援を得た。

※山内上杉顕定は悩んだ。
  「堀越公方の滅亡」〜〜〜
  &「上杉朝良と伊勢宗瑞の結びつき」・・困った事態発生。
  「そうだ。いい方法がある。」〜〜〜
上杉顕定は古河公方との結びつきを強化するため、関東管領と
  して足利政氏に出仕した。さらに、足利政氏の弟を養子に迎え
  て後継者に足利顕実→上杉顕実とした。
  関東管領家がを古河公方「御一家親戚一同」と成ることで、
 「公方&管領体制」の再構築と秩序回復を進めたのだ。

・永正元年(1504) 武蔵立河原の戦い
   扇谷上杉朝良が大勝した。

・永正2年(1505) 山内上杉顕定が扇谷上杉朝良の本拠;河越城
  を攻撃した。

  扇谷上杉朝良は山内上杉顕定に和睦を申し出て、
  長享の乱が終結した。

・永正2年(1505) 長尾景春は上野国に戻って白井城に入った.
上杉顕定のもう一人の養子:憲房に攻められて白井城は落城した。
 長尾景春は柏原城に逃亡した。
 長尾顕定と対抗しようとする。


【4】古河公方家内紛:第二代足利政氏VS第三代足利高基

・永正3年(1506)永正の乱 
  足利政氏の嫡子:高基は、父:足利政氏との不和が原因で、
  義父の宇都宮成綱を頼って下野宇都宮に移った。
  足利公方家の内紛が始まった。
 @足利高基と山内上杉顕定のトラブル説
 A足利政氏が山内上杉顕定重視VS 足利高基は北条早雲を重視。
B足利高基の正室:宇都宮成綱の娘原因説

・永正6年(1509) 上杉顕定の調停
  足利高基と足利政氏と和解
  足利高基は古河に帰ってきた。

・永正7年(1510) 上杉顕定の戦死。
  長尾景春の同族で越後守護代:長尾為景(上杉謙信の父)と戦って
  戦死してしまった。

足利高基は再び古河城を離れ、古河公方家重臣:簗田高助の
 関宿城へ移座した。

 山内上杉家でも家督争いが始まった。
 足利政氏は実弟:上杉顕実を支援
 足利高基は上杉顕定のもう一人の養子:上杉憲房を支援。
 ※足利公方家と関東管領家にまたがる内紛に拡大していった。
長尾景春は、白井城を奪還した。
  長尾景春は北条早雲と同盟を結んだ。
 上杉憲房と対抗した。

・永正9年(1512) 上杉憲房が上杉顕実本拠:武蔵鉢形城を
  攻略した。
  上杉顕実は兄:足利政氏を頼って古河城に敗走した。

  足利政氏も小山成長を頼って小山祇園城に移座した。
  足利高基が古河城に入り、第3代古河公方の地位を確立した。
 結果・・・「足利公方&関東管領体制」は、
 足利高基&上杉憲房体制に代わった。

 上杉憲房が足利高基の子:憲寛を養子に迎えて、関東管領の
  後継者とした。

・永正9年(1512年)8月頃 鎌倉は相模守護:扇谷上杉氏の支配下
  であったが、伊勢宗瑞=北条早雲の支配下に置かれた。


・永正13年(1516) 縄釣りの戦い
 @足利高基の義父:宇都宮成綱が足利政氏の支持派:佐竹義舜
 ・岩城由隆に勝利した。
 A足利政氏支持派の那須氏が宇都宮氏と同盟を結んだ。
 B足利高基支持派:小山政長が小山氏の主導権を握った。
 →父:足利政氏の敗北した。
  足利政氏は扇谷上杉朝良を頼って岩付城へ移った。
・永正15年(1518) 上杉朝良が死去
  下河辺庄の甘棠院(埼玉県久喜市)に隠棲した。

  
【5】足利公方家内紛:第三代足利高基VS 足利高基弟:義明
足利高基の弟:空然は、鶴岡八幡宮若宮別当であった。
「足利公方&社家体制」を支えていた。
しかし、還俗して、足利義明と改名した。
兄:足利高基が古河公方の地位を確立すると、反抗し始めた。
・永正14年(1517) 上総の真理谷武田が高基派の下総:原氏から
 小弓城を奪取した。
 足利義明は下河辺庄高柳から小弓城(現千葉市)に移った。
 「政氏の後継であるとして、小弓公方を名乗った。
〜〜〜〜小弓公方の成立〜〜〜〜〜〜〜
結果・・・足利公方家は分裂した。
 小弓公方:足利義明は、扇谷上杉朝良・安房国の里見氏、常陸国
 の小田氏・多賀谷氏らに支持された。
 北条氏綱も、真理谷武田氏との関係により、小弓公方を支持した。
・・・大勢力であった。
画像

・永正16年(1519) 実兄:足利高基は椎津城(市原市)を攻撃。
 実弟:足利義明は里見氏の軍勢で反撃した。
 その後も、古河公方VS小弓公方 の対立が続いた。

・大永4年(1524) 北条氏綱の侵攻。
 扇谷上杉氏は、江戸城と岩付城を続けて失った。
・天文6年(1537) 扇谷上杉氏は本拠の河越城も失った。



【6】足利公方権力の分裂激化:古河4代足利晴氏VS小弓公方
1)古河と小弓の分裂
・享禄4年(1531) @関東管領が高基次男:上杉憲寛から
  上杉嫡流の憲政に代わった。
  A足利高基は北条氏綱に接近し始める。

・天文2年(1533)〜天文3年
B安房の里見氏&上総の真理谷武田氏の家督争い
 足利義明は里見義豊・ 真里谷信応を支持。
 北条氏綱は里見義堯・真里谷信隆を支持。
結果・・・真理谷武田氏は大きく衰退した。
C北条氏綱の武蔵侵攻→扇谷上杉氏の勢力も後退。


・天文4年(1535) 足利高基が没した。
  足利晴氏が第4代古河公方となった。

2)小弓公方の滅亡(国府台合戦・第四代足利晴氏)
・天文7年(1538) 国府台の合戦(現千葉市)
足利晴氏の上意を得た北条氏綱が下総国府台に侵攻した。
小弓勢を打ち破った。
結果・・・足利義明が敗死して小弓公方は滅亡。
古河・小弓分裂状態が解消された。





【7】足利公方&北条氏の協力→対立へ(足利晴氏&北条氏綱)
1)足利公方体制内での後北条氏台頭
・第4代足利公方:足利晴氏は北条氏綱の力を借りて国府台合戦に
 勝利したが、これをきっかけに古河公方体制内に後北条氏の影響
 力が増大していった。
・天文8年(1539)北条氏綱の娘:芳春院が足利晴氏の入嫁した。
  北条氏綱は国府台合戦以後、古河城直近にまで勢力を広げた。
  北条氏綱の要請は無視できなくなった。
  北条氏綱は古河公方足利氏「御一家」=関東管領であると
  後北条氏に関東支配の正統性を主張できるようになった。
  芳春院は、後に古河公方になる足利義氏の母である。

2)足利晴氏VS北条氏康と対立(河越合戦)
・天文10年(1541) 北条氏綱が没した。
山内上杉氏・扇谷上杉氏は反撃を開始した。
 扇谷上杉朝定と山内上杉憲政は、駿河の今川義元と計って
 後北条勢を挟撃にした。

・天文14年(1545) 河越城を包囲した。

・天文15年(1546) 河越合戦
両上杉・古河公方の連合軍は後北条勢に敗れた。
上杉朝定は敗死。
上杉憲政は上野平井城に敗走
足利晴氏も古河城に敗走した。
その後、上杉憲政は沼田・水上方面?越後国?に逃れ、
 上野国も後北条氏の勢力範囲内になった。

天文21年(1552)足利晴氏は北条氏康の介入を排除できなくなり、
 次の古河公方になるはずだった足利藤氏を廃嫡し、自らも退いた。
 北条氏康の甥:足利義氏が第5代古河公方となった。
 足利義氏は後北条氏の庇護のもとで足利公方権力を行使していった。
 後北条氏が関東諸豪族に介入することになる。
 
・天文22年(1553) 足利義氏は後北条氏重臣:遠山氏支配下の
 下総国葛西城に居住した。

・天文23年(1554) 足利晴氏と足利藤氏は古河城に籠城した。
  北条氏康に抵抗したが、足利晴氏は相模の秦野に幽閉された。

・天文24年(1554) 足利義氏は元服した。
    「葛西殿」と称された。

・弘治3年(1557) 足利晴氏は古河城に戻り再度抵抗を企てた。
    野田氏に栗橋城に幽閉された。

・永禄元年(1558) 足利義氏は鎌倉から関宿城に移った。
  後北条氏に従わない足利公方重臣:簗田氏を味方に付ける
  考えだったかもしれない。
  古河公方義氏の命令には簗田晴助は関宿城を明け渡した。[

・永禄3年(1560)年)足利晴氏が没した。




【7】北条氏政VS上杉謙信=第五代足利義氏VS足利藤氏
・永禄3年(1560) 北条氏康が隠居して、北条氏政が家督を継いだ
  長尾景虎(上杉謙信)が第一次関東侵攻を始めた。
  長尾景虎は将軍足利義輝から御内書を得た上で、越後に逃れた上杉
  憲政を奉じ、三国峠から上野に進出した。

・永禄4年(1561) 長尾景虎は足利義氏の関宿城を包囲した。
  古河城には長尾景虎が擁立した正統な古河公方として
  異母兄:足利藤氏が入った。
  上杉憲政と近衛前久も古河城に入った。

  足利義氏は多数の軍勢催促状を発給したが、関宿城から退去
  した。

  長尾景虎は後北条氏の小田原城を攻撃したが、
  落城させられず、撤退した。
 
  長尾景虎は鶴ヶ岡八幡宮で上杉憲政から山内上杉家の名跡を
  譲り受けて、関東管領も引き継いだ。上杉憲政から、憲政の
「政」を賜り、名前も「上杉政虎(謙信)」となった。
関東管領上杉憲政は越後の長尾景虎(後上杉謙信)を養子とし
て山内上杉家の家督と関東管領の地位を譲ったのだ。
父:上杉顕定を殺した上杉為景の子どもに・・・
 「ああ、無情・・・」


※上杉謙信・・・古河公方:足利藤氏+上杉憲実+近衛前久
※北条氏政・・・古河公方:足利義氏(氏政の従兄弟)
 関東管領の正統性を争うことになった。

・永禄5年(1562) 北条氏照(北条氏康の次男・北条氏政の弟)
  の古河城攻撃・・・足利藤氏&上杉憲政らが古河城から退去
  した。

・永禄9年(1566) 臼井城の戦い
  @上杉謙信が下総臼井城攻めに失敗した。
  それまで上杉謙信に属していた関東の大名・豪族の多くが北条
  氏になっていった。
  A上野金山城主:由良成繁が離反し北条氏政
の配下となった。
  B上野箕輪城も武田信玄の攻撃を受けて落城した。
  C+越後と国境を接する上野:吾妻〜旧新治・猿ヶ京にまで
  武田信玄配下の真田幸隆の勢力が伸びていた。
  D常陸太田城主:佐竹義重が上杉謙信から離反した。

・永禄10年(1557) E上杉謙信家臣:上野厩橋城代:北条(きた
  じょう)高広が北条氏に通じて謀反を起こした。
 上杉謙信の関東の支配地は沼田領と厩橋領と桐生領までに縮小し
 ていた。

〜〜〜武田信玄の動向〜〜〜〜〜〜〜
上杉謙信 VS 武田信玄
5回の川中島の合戦
・永禄3年(1560)
第4次川中島合戦・・・★最大の戦い

  桶狭間の戦い
  今川義元が敗死→今川氏が衰えた。

・永禄9年(1566)武田信玄が上野国:箕輪城を攻略。
 ★以後16年間、箕輪城は武田氏の支配になった。 
  甲斐と相模と駿河の三国間で甲相駿三国同盟を締結していたが、
  武田信玄は信濃・上野方面の戦いから東海道に進出する南下策
  に転換した。
 
・永禄10年(1567) 三船山の合戦
北条氏政は対里見氏戦の敗北によって上総の大半を失った。
  

・永禄11年(1568) 武田信玄が駿河侵攻を開始。
  今川義元の子:氏真を遠江に追放した。
 北条氏政は今川氏との同盟によって駿河に兵を進め、
 武田信玄との戦いを開始した。

●●1566年〜1569年頃の関東情勢●▲■
1)上杉謙信・・・関東覇権抗争の悪化。
北条氏の北上+武田信玄も西上野の領国の拡大
2)北条氏政・・・北に上杉氏、東に宿敵里見氏、西に武田氏を敵と
         して三方に抱える状況となった。
3)武田信玄・・・信濃と西上野+駿河で勢力範囲が拡大中。



【8】古河公方の消滅
北条氏康は上杉謙信との和睦=関東諸大名との戦いをひとまず収め、
共通の敵となった信玄との戦いに集中するという方針を打ち出した。
・永禄12年(1569)越相同盟の成立
※武田信玄の動向を警戒した上杉謙信と北条氏政との間に越相同盟
が成立した。北条氏康7男が上杉謙信の養子になった。

結果・・足利義氏は古河城に入り、古河公方の地位を確立する。
  後北条氏の関東支配が確定的になると、古河公方を擁立する
  必要性がなくなってきた。

・天正10年(1582) 足利義氏は没した。

・天正11年(1583) 足利義氏が男子を残さずに没した。
  古河公方は自然に消滅した。
 古河城には足利義氏の娘:氏姫を擁した古河公方宿老・家臣団が
 残っていた。・・・足利公方家自体は引き続き存続していた。


【8】足利氏姫+足利国朝→末裔:喜連川氏
・天正18年(1590) 豊臣秀吉の小田原城攻撃
 豊臣秀吉の「古河城破却令」
 足利氏姫は古河城から本館に移ってきた。
 古河公方の後継者:氏姫が古河足利氏を継承していた。

・天正19年(1591) 豊臣秀吉は氏姫に小弓公方の
 子:足利頼純の子:国朝との縁組を指示した。
   安房国の里見氏に庇護されていた
 下野国喜連川に所領を与えた。

※豊臣秀吉の目的は、名家の血筋が絶えることを惜しんだとする
 見解が一般的だが、関東公方家の権威は影響力が残っていた。

結果・・・古河公方家は再び統一された。


・江戸時代・・・喜連川氏と称し、大名格として明治まで続いた。

・寛永7年(1630) 足利氏姫の孫:尊信が下野国の喜連川に移った。
  時宗十念寺の寺域となる。



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