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zoom RSS 箕輪初心★太田道灌の生涯:長尾景春のライバル

<<   作成日時 : 2013/12/01 08:49   >>

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★「七重八重 花は咲けども 山吹の みの(実の・箕)一つだに 
なきぞ悲しき」
・・・太田道灌は突然のにわか雨にあい、農家で
蓑を借りようと立寄った。その時、娘が出てきて、一輪の山吹の
花を差し出した。★平成23年(2010)1月6日、2010年の
初詣bQ大山阿夫利神社1252m&太田道灌の墓(胴塚)詣で
に行った。群馬Cツアー9000円だった。
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 (太田道灌:黒田基樹著の表紙より)


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箕輪初心★長尾景春:関東下克上で従兄弟:太田道灌と交戦
http://53922401.at.webry.info/201311/article_31.html

〜〜〜〜鉢形城シリーズ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

箕輪初心●埼玉:鉢形城4回目:外曲輪〜三の曲輪〜二の曲輪〜本曲輪
http://53922401.at.webry.info/201311/article_30.html

箕輪初心●箕輪城115「北条三鱗会に井伊直政の手作り甲冑作成依頼」
http://53922401.at.webry.info/201311/article_29.html

箕輪初心●『鉢形城の歴史詳細』&47回寄居北條まつり2008
http://53922401.at.webry.info/201305/article_15.html

箕輪初心◆埼玉『第52回寄居北條まつり2013鉢形城』
http://53922401.at.webry.info/201305/article_14.html

箕輪初心●埼玉『鉢形城』&北条氏邦の箕輪城の大改修
http://53922401.at.webry.info/201305/article_16.html

箕輪初心■箕輪城シリーズS「第12代:北条氏邦」
http://53922401.at.webry.info/201010/article_34.html

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箕輪初心●群馬渋川【白井城】=上杉謙信の同族の城
http://53922401.at.webry.info/201204/article_14.html

箕輪初心●群馬【蒼海(おうみ)城 】千葉氏→長尾氏→諏訪氏
http://53922401.at.webry.info/201212/article_22.html

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箕輪初心★北条早雲の生涯=伊豆・相模国盗り物語
http://53922401.at.webry.info/201309/article_25.html

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@太田道灌の墓
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A看板
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太田道灌(1432〜1486)は幼名を鶴千代といい、成人してから
は資長(すけなが)または持資(もちすけ)といった。また仏
門に帰依してからは、道灌と号した。道灌が生まれた頃、父:
資清は相模の粕屋に本拠をおいていたので、道灌は現在の伊勢
原市内で生まれたものと思われる。幼い頃から非常に利発で、
神童といわれていた。当時の日本は戦国時代で、各地の武将の
間に戦が絶えなかった。道灌は25歳の時(1457)、武蔵野の原
に、海に臨んで城と町とを築いた。後に、この城は江戸城とい
い、徳川幕府300年の居城となった。明治以後、町は東京とよ
ばれ、城は皇居となった。これにより道灌は、いまでも東京の
基礎を築いた人として、その名が高い。道灌は築城軍略の大家
であるばかりではく、詩歌を好み、風流を愛する文武兼備の人
であった。上洛の折、時の天皇の勅問に和歌をもって答えた逸
話や、山吹の説話など有名な話も多い。晩年、道灌は京都の足
利幕府と関東の公方とが、互いに協力して政治を行わなければ
平和は望めないと考え、力を尽くした。しかし、主君の上杉定
正は、己の権力の増大のみを求めていたため、道灌は怒りにふ
れ、志半にして粕屋の上杉館で謀殺された。時に54歳であっ
た。道灌の墓のあるここ洞昌院は、道灌が関東官領上杉憲実の
弟道悦和尚のため建てた寺と伝えられている。現在、伊勢原市
では、毎年10月の第一土,日曜日に観光道灌祭を行って、偉業
を偲んでいる。
(★洞昌院の伊勢原ライオンズクラブ案内板より)



B太田道灌と山吹の花
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文武両道にすぐれ、人々から兵法の師範と称された道灌は、若年の
頃は武略のみを心がけ、文の道はかえりみなかったと伝えられる。
しかし、父の道眞資清は当時和歌の名手として、また、連歌の達者
として知られ、馬上に打物取っては並ぶものなき勇者でもあった。
狩りに出た道灌が雨にあい、雨具を借りに立ち寄った賎が家の乙女
の差し出した山吹の花の意味が分からず、自ら深く愧じて学問に志
した説話は余りにも有名である。関東に生まれ、関東に育った武将の
中で、都の文人にも劣らなかった文化人であり、また、江戸の築城に
当たっては都市計画の先覚者でもあった道灌の非業の死をいたんで、
花が咲いても実とならぬ山吹の花をえらんで、道灌への思慕の情を託
したものであろうか。
みやび男の子の 道灌さまは 花も実もある あづま武士
土地の人が歌った、道灌追慕の唄である。  
 (★洞昌院 27代当主)

●洞昌院の境内北側に胴塚と呼ばれる宝篋印塔の墓と自害石と呼ばれ
 る平らな石がある。北に殉死した家来を葬った7人の塚がある。

○文明元年(1469)〜文明6年(1474)
著名な歌人の「心敬」を品川の館に招いて「品川千句」
連歌会を催した。江戸城での「武州江戸二十四番歌合」
が残っている。太田道灌は飛鳥井雅親・万里集九などと交流して
歌道にも精通していた。様々な和歌が残されている。有名な
「山吹の里」の伝説はここから生まれたとも言われている。


●18:50 秦野・伊勢原・相模原・・・とR129・・・国道16号
 ・・入間IC・・圏央道・・関越道・・藤岡IC・・前橋・・
 バスで戻った。
●21:00前橋・・・高崎 家 21:30 





◆◆ 太田道灌(1432〜1486):従兄弟は長尾景春 ◆◆
※関東管領上杉氏は山内上杉家・犬懸上杉家・宅間上杉家・扇谷
 上杉家も4家に分かれていた。山内家と犬懸家が力を持っていた。
上杉禅秀の乱で犬懸家が没落した。
山内上杉家が関東管領職を独占した。
扇谷上杉家は山内上杉家を支える分家的な存在であった。
父:太田資清が扇谷上杉持朝を補佐していた。
鎌倉公方・足利持氏と関東管領・山内上杉憲実の対立から
永享10年(1438)の「永享の乱」へと発展していった。
足利持氏は室町幕府軍に滅ぼされ鎌倉公方は中絶する。
持氏の子:足利成氏が鎌倉公方になった。
上杉憲実の長男:山内上杉憲忠が関東管領に任じられた。
上杉憲忠の義父:扇谷持朝の要望により、
扇谷家家宰:太田資清&山内家家宰・長尾景仲と山内憲忠を
補佐した。長尾景仲は太田資長(太田道灌)の祖父である。
太田道灌にとっては母方の祖父なのである。
そして、従兄弟は長尾景春なのだ。


・永享4年(1432)  太田道真の子として生まれた。
     神奈川県伊勢原市糟屋か鎌倉の扇ガ谷で誕生?
     扇谷上杉氏の家宰。

・子ども時代・・・鎌倉五山(建長寺)で学問を修めた。
鎌倉の家・・・
足利学校(栃木県足利市)でも学んだ。

・文安3年(1446) 元服。太田資長を名乗った。

・享徳2年(1453) 従五位上に昇叙。
           太田左衛門少尉資長となった。

・享徳3年(1454) 享徳の乱
山内憲忠が足利成氏に暗殺された。
   上杉一門は報復に立ち上がって武蔵高安寺(東京府中市)
   にいた足利成氏を攻撃した

・享徳4年(1455) 分倍河原の戦い
上杉勢は返り討ちに遭った。 
   扇谷家当主:上杉顕房(持朝の子)が戦死。
 足利幕府は足利成氏討伐を決めた。
  駿河守護:今川範忠が率いる幕府軍が鎌倉に攻撃した。
   今川範忠 VS 足利成氏
  結果・・足利成氏は敗れ。下総古河城に逃れた。
   古河公方を称して抵抗。
  足利成氏は上杉氏に反感を抱く関東諸将の支持を集めた。
  関東地方はほぼ利根川を境界線として、古河公方陣営の東側と
  関東管領陣営の西側に分断された。

・康正元年(1455)? 太田道灌は品川湊近くに太田家は居館を構え
た(伝)。
  正五位下に昇叙。太田備中守となった。

・康正2年(1456) 父:太田道真(法名)から家督を譲られた。
  ※以後、太田道灌は上杉政真(顕房の子)・定正(顕房の弟)の
   扇谷家2代にわたって補佐することになった。
   結果的に28年にも及ぶ享徳の乱を戦うことになった。

・康正2年(1456)〜長禄元年(1457)
  扇谷上杉持朝は古河公方・足利成氏に備えるために
   防御拠点を築かねばならかった。
  太田道真(資清)・道灌(資長)父子は築城に取りかかった。
@川越城(埼玉県川越市)の築城・・・
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 築城当時の規模は、今の本丸・二の丸を合わせた程度と推定?


A岩槻城(埼玉県さいたま市岩槻区)の築城
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  大田道灌が築城。太田道灌の養子大田資家が城主。
 (※古河公方成氏方の忍城主・成田正等の築城説が有力説)。
           築城開始〜
・康正3年(1457)
・長禄元年(1457)

B江戸城の築城
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 (★時代がちがうけど・・・)
  古河公方側の有力武将である房総の千葉氏を抑えるため、両勢力
  の境界である当時の利根川下流域に城を築く必要があった。
  太田道灌は、秩父江戸氏の領地であった武蔵国豊嶋郡に江戸城を
  築城した。築城当時、日比谷辺りまでが海で、西は神田の山であ
  る。北側に平川、南側は溜池あった?
  →天然の要塞として大変堅固な城であった。   
    (江戸城パンフレット・太田道灌の会)
  『永享記』・・・道灌が霊夢の告げによって江戸の地に城を築いた
  『関八州古戦録』・・品川沖を航行していた道灌の舟に九城
   (このしろ)という魚が踊り入り、吉兆と喜び江戸に城を
   築くことを思い立った。
   長禄元年4月8日(=5月1日)であった(伝)。
品川の居館→江戸城に移った。
太田道灌は江戸城中(現:東御苑宮内庁書陵部の辺り)の
   静勝軒という館に居住したらしい?
   有名な高僧に書かせた横長の額の読んだり、海の景色を眺め
   たりしたとか?   
   日枝神社・築土神社・平河天満宮などの神社を江戸城周辺に
   勧請、造営した。

・長禄2年(1458) 8代室町将軍:足利義政の異母兄・足利政知が
  関東に下向して堀越公方と称した。古河公方との戦いは膠着
  状態であった。

・寛正3年(1462) 扇谷上杉持朝が堀越公方政知と対立。
  太田道灌が上洛した?

・文正元年(1466) 関東管領・山内房顕(憲忠の弟)が死去。
武蔵五十子(いかっこ)(現埼玉県本庄市)で古河公方側と
  対峙していた。
  五十子陣で以後、18年間、両軍は対峙することになる。
  越後上杉家から養子に入った山内上杉顕定が継いだ。

・応仁元年(1467) 応仁の乱が勃発。
扇谷持朝が死去。孫:上杉政真が継いだ。

・文明4年(1472) 古河公方は古河城を奪回。
  長尾景春は白井城を築城?


・文明5年(1473) 関東管領山内上杉氏の家宰:長尾景信が死去。
      子:長尾景春が継いだ。しかし、  
   上杉顕定は長尾景信弟:忠景に家宰職を嗣がせた。
   長尾景信の子:景春は、不服として上杉顕定に反発。
   長尾景春は従兄弟:太田道灌に謀反に加わるよう誘った。
   太田道灌は断った。
   主君:扇谷定正のいる五十子の陣に赴き関東管領・山内顕定へ、
   「長尾景春を武蔵国守護代につけ長尾忠景を一旦退けるよう。」
   進言したが、山内顕定は受け入れなかった。

   古河公方は五十子の陣を強襲して扇谷上杉政真を討ち死にさせた。
   太田道灌らが協議して上杉政真の叔父:上杉定正を扇谷家当主に
   迎えた。

・文明8年(1476)一時は長尾景春上州白井城に帰郷。
    鉢形城の築城。

   長尾景春の乱・・・鉢形城に立て籠もり、山内上杉氏と対立 
     長尾景春は鉢形城(埼玉県大里郡寄居町)に拠って
     古河公方と結び挙兵した。

・文明9年(1477) 
1月 @五十子の戦い(埼玉県本庄市)・・・・・・・
    山内上杉 VS 長尾景春
    長尾景春は五十子の山内上杉氏本陣を襲撃。
     山内顕定、扇谷定正は大敗を喫して敗走。
      →山内上杉氏は上野:平井城に逃亡。
       扇谷上杉氏の家宰:太田道灌は長尾景春に帰服を説得。
      →長尾景春は拒否。
   長尾景春に味方する国人が続出して上杉氏は危機に陥った。
   石神井城(東京都練馬区)の豊島泰経が長尾景春に呼応した
   ため、江戸城と河越城の連絡が絶たれた。

 3月 太田道灌は長尾景春方の溝呂木城(神奈川県厚木市)と小磯城
  (神奈川県大磯町)を速攻で攻略した。
  
 4月 江古田・沼袋原の戦い
    太田道灌は豊島泰経・泰明兄弟を撃破し、石神井城を
    落した。豊島氏は没落した。

     
5月 A用土原の合戦。 
      太田道灌  VS  長尾景春 

      →太田道灌の勝利。
         長尾景春は鉢形城に籠城。
    
   B鉢形城の戦い(埼玉県寄居町)
          (★関東古戦録:久保田順一訳)
       上杉氏・大田道灌は鉢形城を包囲。
       →長尾景春は古河城:古河公方:足利成氏に救援要請。  
   古河公方成氏が出陣したため
   太田道灌は撤退した。
   早期に長尾景春を討つ好機を逃した。

 7月 足利成氏が結城・宇都宮・那須・佐々木・横瀬氏らを引き
       連れて上野まで進軍。
      山内上杉顕定、扇谷上杉定正らは包囲を解いて上野の
      防衛強化。
   
   C広馬場の戦い(群馬県榛東村)・・
     山内上杉・長野氏 VS 長尾景春・古河公方
     太田道灌も関東各地で景春方と交戦。
    →扇谷上杉家が山内上杉家に匹敵するまで成長した。
太田道灌は上野国へ侵攻して塩売原で長尾景春と対陣するが
   決着はつかなかった。
   
  太田道灌の東奔西走の活躍により、長尾景春は封じ込められた
状態になった。


・文明10年(1478)
 1月 古河公方成氏は和議を打診してきた。
     両上杉氏と足利成氏の間で停戦が成立。
     長尾景春も足利成氏の説得で鉢形城に帰還。
 
 4月 太田道灌は武蔵の小机城(横浜市港北区)を包囲した。
    長尾景春方の諸城を落として相模から一掃した。

 
 7月 扇谷上杉氏家宰:太田道灌は鉢形城を攻撃し、攻略。
       →長尾景春を秩父へ追放。
       →鉢形城は山内上杉顕定の居城。
     鉢形城の修築・・・太田道灌が鉢形城を修復工事。
12月 境根原合戦
   和議に反対する古河公方の有力武将:千葉孝胤を破った。
 
・文明11年(1478) 千葉自胤を擁して、甥・太田資忠を房総
  半島に出兵させ、千葉孝胤派を一掃した。
  太田軍が撤退すると、千葉孝胤が巻き返して千葉自胤側勢力を
  下総から一掃したために、千葉自胤の下総復帰はできなかった。

・文明12年(1480)長尾景春最後の拠点:日野城(埼玉県秩父市)
   を道灌に攻め落とされた。上杉氏に降伏した。

・文明14年(1482) 古河公方成氏と両上杉家との間で和議が成立。
30年近くに及んだ享徳の乱は終わった。

大田道灌の活躍によって、扇谷家の勢力は強固になった。
  また、大田道灌の勢力も絶大なものになっていた。

・文明18年(1486) 太田道灌没
  太田道灌は、群を抜く大きな江戸城:扇谷の石垣修理しよう
    とした。
  主君の扇谷上杉定正は「謀反だ。」と思った。そこで、
    扇谷上杉定正は糟屋邸
     (相模国糟屋現:神奈川県伊勢原市)に誘い出し、殺害。
 ※扇谷家の台頭を恐れた山内家の策略だと言う学者・研究者や
   子孫の方もいる。

  大田道灌暗殺により、大田道灌の子:資康や扇谷上杉家に
  付いていた国人衆の多くが山内家へ走った。

・長享元年(1487) 山内顕定と扇谷定正は決裂した。
  「長享の乱」の抗争へと広がっていった。

 やがて伊勢宗瑞(北条早雲)が関東に進出してきた。
 北条氏康によって扇谷家は滅ぼされ、山内上杉家も関東を追われ
 ることになっていった。

★太田道灌の関係史跡
@太田道灌の胴塚・・・・・・・神奈川県伊勢原市の洞昌院
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A太田道灌の首塚・・・・・・・神奈川県伊勢原市の大慈寺
B太田道真・道灌の墓・・・・埼玉県越生町の長昌山龍穏寺
         ・・・1486年に伊勢原と分骨
    奈良平安時代  役の行者らによって創始。
    応永3年(1398) 足利義教の招請で無極禅師が開山。
            太田道真・道灌父子が再建。
            ※現在、越生七福神の毘沙門天
C太田道灌の銅像・・・・・埼玉県川越市川越市役所前
D太田道灌の銅像・・・・・JR日暮里駅前の太田道灌の騎馬像
E『太田道灌邸舊蹟』碑・神奈川県鎌倉市扇ヶ谷1−16−3英勝寺
F太田道灌の供養塔・・・・墨田区太平1ー26ー16 法恩寺
があるそうである。


★参考文献
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