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zoom RSS 箕輪初心★新田岩松の歴史&男爵:新田俊純

<<   作成日時 : 2013/11/09 07:11   >>

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新田氏の始祖:新田義重の子:義季が新田を領有し、得川姓、
あるいは世良田姓を名乗った。新田宗家は南北朝時代に新田
義貞の子:義宗で、途切れたが、室町時代には、新田岩松家が
家系を継いだ。しかし、由良氏の下克上にあった。徳川家康は
名門新田氏に岩松家純に新田系図を渡すよう頼んだ。家康に
とっては重要なステータスなのであろう。しかし、岩松家純は家
系は譲渡しなかった。徳川家臣として細々と暮らすことになった。
しかし、幕末に新田官軍として新田俊純は頑張ったことで、
明治になり、男爵になった。・・・波乱万丈の一族だったのだ。

画像

 (★太田金山城)


◆◆ 箕輪初心★新田義貞1「楠木正成への攻撃」 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201102/article_40.html

◆◆ 箕輪初心★新田義貞2「鎌倉の攻撃1」 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201102/article_41.html

◆◆ 箕輪初心★新田義貞3「鎌倉の攻撃2」 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201202/article_2.html
http://53922401.at.webry.info/201102/article_42.html

◆◆ 箕輪初心★新田義貞4「足利尊氏との対立」 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201102/article_43.html

◆◆ 箕輪初心★新田義貞5「福井:金ヶ崎城」 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201104/article_21.html

◆◆ 箕輪初心★新田義貞6「福井:そま山城」 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201104/article_30.html

◆◆ 箕輪初心★新田義貞7「福井:新田義貞の最後」 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201102/article_44.html

◆◆ 箕輪初心★新田一族「千利休」 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201106/article_27.html


◆◆ 清和源氏・新田岩松一族 ◆◆
【1】平安時代末期:新田岩松氏の出自
新田始祖:新田義重は源氏の総領:八幡太郎源義家の孫である。
上野新田郡の西部を開発して新田庄を成立させた。
さらに領地を新田郡全域に拡大し、「新田」姓を苗字とした。
新田義重の子は新田本宗を継いだ新田義兼は鎌倉幕府での地位を
安定させていった。そして、里見、山名、世良田、新田(岩松)、
額戸などの庶流を輩出した。


【2】鎌倉時代:「新田岩松氏」の誕生&台頭
新田義兼(新田義重の子:宗家)の女=娘&足利義康の孫義純と
の間に生まれた時兼が上野国新田荘岩松郷を本拠として、「岩松姓」
を名乗った。つまり、新田義兼の孫:岩松時兼からの嫡庶の一族が
『新田岩松』である。
逆から見ると、岩松時兼は足利義兼の庶長子足利義純を祖とする。
足利義純は大伯父:新田義重に養育され、その子:新田義兼の女
=娘を妻とした。が、岩松時兼は畠山重忠の未亡人(北条時政女)
を娶って源姓:畠山氏の祖となった。
先妻の新田義兼の女との間に生まれ、断絶された子は岩松時兼・
田中時朝兄弟である。
新田義兼がその妻=新田尼に譲った所領の一部を譲られたことに
より家を興した。つまり、新田義兼の嫡孫:新田政義は家督相続
をした時は元服前であったため、祖母:新田尼が所領の大部分を
岩松時兼をして相続させたのだ。岩松氏は新田氏一族であり、新
田氏本宗家との因縁があったことになる。
※岩松氏は、
  父系・・・清和源氏足利氏
  母系・・・清和源氏新田氏
※岩松氏は、清和源氏足利氏の一族とされる(★『尊卑分脈』)
新田(岩松)時兼には頼兼、氏兼、長義、経氏、経兼、朝兼、経国
の七人の男子がいた。所領地を分割相続した。
田中、村田、寺井、金井、田部井、薮塚、田島などの庶子家である。
新田庄内に勢力を増やしていったのである。
岩松氏を惣領とする岩松一族が誕生である。
しかし、岩松氏は鎌倉御家人ではなかった。
※新田・里見・山名は有力御家人であった。

・建保3年(1215) 新田義兼の後家が岩松郷を与えられた。
 後家は孫:時兼に所領を譲り、時兼が岩松郷の地頭となった。
 岩松氏の開祖である。それ以後、岩松館は岩松氏代々の居城と
 なった。
 
●岩松館・・・尾島町岩松「青蓮寺」
画像
          
箕輪初心●群馬旧尾島町8『岩松館=青蓮寺』源義国〜岩松の館
http://53922401.at.webry.info/201303/article_11.html
■訪問日・・・平成22年(2010)5月30日(日) 
 岩松地区の青蓮寺が岩松氏の居館の跡である。
 青蓮寺は山門が非常に立派である。
 遺構が残存しているのは、寺院背後の北側である。しかし、藪
 である。内部には、東西に土塁と堀が一直線に延びている。
 しかし、東西および南側の遺構はすでに失われてしまっている。
 近くに、岩松氏の墓がある。

・寛元2年(1244) 新田一族の惣領:新田(世良田)政義が、京都
 大番役での上京中に、「無断出家した罪」で鎌倉幕府から所領の
 一部と惣領権を没収された。新田宗家の没落した。
 →新田氏の惣領職は世良田(徳川)義季&頼氏父子と岩松時兼に
 分けられた。2人が「半分惣領」として新田氏を率いることになっ
 た。
 

・文永9年(1272) 二月騒動
世良田頼氏が失脚。岩松氏は鎌倉幕府の御家人役を務めた。
  岩松経兼の子:政経が二月騒動を遠因として外祖父:得川頼有
  の養子となって、所領を譲られた。
★徳川氏は世良田頼氏の子孫を称している。

・鎌倉時代末期 新田一族:大館宗氏と岩松政経の用水争い
  新田一族で本宗家に近い大館宗氏と用水争いを起こした際に、
  惣領の新田基氏・朝氏父子の裁定に従わななかった。 
  新田本宗家に対しある程度の自立性を持っていたようである。
(★ウキペディアの説)
  岩松政経は新田惣領:新田義貞の水利権の裁定に従わなかっ
  た。つまり、岩松政経が新田義貞に服従していないのだ。


 鎌倉時代末期〜南北朝時代:「鎌倉攻撃」に参陣  
・元弘3年(1333) 岩松政経の子:岩松経家は新田義貞の鎌倉幕府
  打倒のための挙兵に参加して、鎌倉攻略に功績をあげた。
倒幕後は足利氏に従った。 
・建武の新政
  岩松経家は飛騨守に任ぜられた。
  北条氏の遺領伊勢笠間荘 以下十箇処の地頭職を賜った。
  その後、足利直義とともに関東経営に当たった。

・南北朝時代・・新田義貞は南朝:後醍醐天皇と運命を共にした。
・建武3年(1335)中先代の乱
岩松経家は渋川義季らと入間郡も女影原で北条時行軍を
  迎撃したが敗れて戦死した。
  岩松経家の戦死後、岩松一族は内部分裂を起こし、岩松諸氏の
  多くは足利方に属して各地で戦った。
 
・観応年間(1350年〜1352年)「観応の擾乱」
足利尊氏 VS 弟:足利直義
  岩松頼宥=直国?が中国地方で足利尊氏の侍大将として活躍した。
  伊予・備後の守護を歴任した。
  岩松頼宥=直国?が岩松一族を統一し、新田庄の支配権を掌握
  していった。
岩松頼宥が足利尊氏方で観応の擾乱を戦っているが、系譜位置も
  諸説あってはっきりしていない。

・正平23年/応安元年(1368) 新田義宗に戦死。


【4】室町時代初期:岩松一族の拡大 
・室町時代
岩松氏は母系:新田氏&父系は足利氏を祖とした。室町時代には
足利氏の天下となったことから新田の血筋を誇りとしながら、対
外的には足利氏の一門としての格式を誇った。
岩松氏は成立の経緯から、新田一族と足利一族の立場を使い分け、
鎌倉時代〜南北朝時代以降、新田氏本宗家が没落する中で新田荘
を中心に上野国に栄えた。
新田一族の惣領職を獲得し、また守護職とほぼ同様の権力を新田
郡に有した分郡守護であったと考えられる。
(★ウキベディアの説)
室町時代以後の岩松氏は新田岩松氏と表現されることがある。

岩松経家から満国までは系譜が不明。
・・・血縁関係がはっきりしないからである。
岩松経家が戦死した中先代の乱の際に一族が壊滅した。
傍流から岩松直国が入って継いだためと推測される。
岩松頼宥=直国説が有力説のようだ。直国の跡は満国が継いだ。

・南北朝の合一後・・新田の一族:岩松直国→満国(★経家の子:
 泰家の子)が継いだ。
 @満国の子・岩松満純は、新田義宗の落胤と称した。
 A満国の養子説もある。
 岩松満国の妹は新田義宗の室として容辻丸を生んだ。
 岩松満国は実子:満氏が早世すると、容辻丸を養子として家督を
 譲った。
 容辻丸は岩松満純と名乗り、鎌倉府に出仕して治郎大輔となった。
 この満純は上杉氏憲(禅秀)の娘を娶っていた。

・応永23年(1416) 上杉禅秀(氏憲)の乱
 上杉禅秀が鎌倉公方足利持氏に謀叛を起した。
 岩松満純は上杉禅秀の女を正室であった。
 岩松満純は、新田氏を名乗って新田一族の生き残りを集め、
 岳父の上杉禅秀(氏憲)に味方した。
 甲斐の武田信満らとともに禅秀に味方した。
 しかし、室町幕府が足利持氏を支援した。
 武蔵国入間川で鎌倉公方足利持氏の軍勢に敗れた。
 上杉禅秀の敗北となった。
 岩松満純は再挙を計ったが、鎌倉竜ノ口で斬罪に処された。
 
 岩松満国は静観し、満純の死後、満純の弟の岩松満春の子で
 ある岩松持国に家督を譲った。
 岩松満純→直国の孫:岩松持国が継いだ。
 満純の子:土用丸は出家した。
 甲斐の武田氏・美濃の土岐氏を経て足利幕府に保護された。
 
・正長元年(1428) 将軍足利義持が死去。
足利持氏&足利義持の弟:義教の対立

・永享10年(1438) 永享の乱
足利義教の配下にいた岩松満純の嫡男:源慶は還俗を許され、
 新田治郎大輔:岩松太郎家純と名乗った。

・永享12年(1440) 結城の戦い
 岩松太郎家純は関東=鎌倉へ下向した。
 足利持氏の遺児:安王丸・春王丸を擁した結城氏朝が挙兵。
 岩松家純は幕府方の大将として活躍した。
 岩松氏は岩松持国の「京兆家」と岩松家純の「礼部家」の2大
 勢力になっていった。
 ※礼部家とは官職:治部大輔の唐名である。
 ※京兆家は官職:右京大夫の唐名である。
 

【5】戦国時代:関東大乱を生きる岩松一族
※永享の乱、結城合戦の結果、関東は管領:上杉氏がしきった。
 しかし、関東の諸将は上杉氏の勢力が拡大することを嫌った。
 鎌倉公方を頂く鎌倉府の再興を幕府に願った。

・嘉吉元年(1441) 嘉吉の乱
  将軍義教が播磨守護赤松満祐に謀殺された。
 
・宝徳元年(1449) 幕府は関東の安泰を図るため、足利持氏の遺子
 永寿王丸を許して関東に下し、永寿王丸=足利成氏を鎌倉公方
 とする鎌倉府が復活した。
 
 新公方となった足利成氏は父や兄に味方して没落した結城氏、
 里見氏らを取り立てた。
 反対する関東管領上杉憲忠と対立した。

・享徳3年(1454) 享徳の大乱が勃発。
 足利持氏の遺児=古河公方:足利成氏が足利幕府と対立して
 上杉憲忠を謀殺した。
 室町幕府が関東方面の抑えとすべく足利義教の子:足利政知を
 堀越公方として伊豆国に送り込んだ。というよりは、
★足利幕府は新たな鎌倉公方として、将軍義政の弟:上杉政知を
 関東に下向させたが、足利成氏の勢力が強く、鎌倉まで行けず、
 上杉政知は伊豆の掘越に居を構えた。
 堀越公方と称された。(★上杉家は足利家に娘をくれたから。)
 ※岩松家純は足利幕府の上杉=堀越公方に味方した。 

堀越公方派礼部家:岩松家純
VS
 古河公方派京兆家:岩松持国・次郎父子

・岩松家純を謀殺した。


室町幕府は管領上杉氏を支援して関東に兵を発したため、
 鎌倉を失った足利成氏は下総国古河へ逃れた。
 (※以後、足利成氏は古河公方と呼ばれた。) 
※岩松持国は古河公方:成氏に味方した。
 
・享徳3年(1455) 武蔵の須賀合戦
 岩松家純の代官:横瀬貞国は足利成氏方と戦って討死した。

・長禄2年(1458) 岩松家純の家臣:横瀬貞国の子:国繁が
  岩松持国を説得して、管領上杉側につかせた。

・寛正2年(1461) 岩松持国は再び足利成氏方に帰属した。
  ・岩松家純は岩松持国・成兼父子を殺害した。
   岩松家純によって岩松家純系に統一された。
 
・文明元年(1469)岩松家純本領の新田庄へ帰宅した。
 岩松家純は岩松氏の分裂を解消すると新田氏の故地である新田
 金山城を本拠とした。横瀬(由良)国繁に金山城を築かせた。
画像


・文明4年(1473)由良国繁は下野国足利庄の鑁阿寺に禁制を
  掲げた。

・文明8年(1477) 長尾景春の乱
  五十子(いかっこ)の戦い
  岩松家純は武蔵国五十子陣に上杉勢と出陣していたが
  長尾景春の攻撃を受けて金山城へ帰陣した。

・文明9年(1477)関東管領:上杉顕定は岩松家純の子:明純に
 下野国足利庄などを与えた。
 岩松家純 VS  嫡男:岩松明純
 岩松家純は一族被官を集めて、神水三ケ条を誓約させた。
  岩松明純の勘当と壁書の執行者として由良国繁を指名した。
※由良国繁は名実ともに岩松家執事としての地位が確立した。
  
 岩松家純は古河公方:足利成氏の陣に加わった。
  勘当された岩松明純は山内顕定を頼って居城鉢形城に身を
  寄せた。その後、足利幕府の相伴衆になった。
 
 岩松明純が反発して再び岩松氏は分裂した。 
 岩松家準は上杉顕定に不信感を抱き、岩松明純を勘当した。

※横瀬国繁・成繁(景繁・業繁)父子は岩松明純の子:尚純(岩松
 家純孫)を家督に据えようと考えた。
岩松家純には明純以外に子が無かったため、重臣:横瀬国繁
が頑張って、岩松明純の子:岩松尚純を後継者としたのだ。
横瀬国繁は古河公方に認可してもらい岩松尚純が岩松氏の家督を
継承することになった。→岩松氏の分裂は解消された。
  (★『松陰私語』)

・明応3年(1494) 絶対的権力を持っていた岩松家純が死去。
   岩松家で内部対立が起こった。
「屋裏の錯乱」・・・岩松明純が横瀬氏から権力奪還を企画。  
 横瀬(由良)父子による支配体制
VS
  横瀬体制に反発する明純・尚純父子を担ぐ一派

岩松明純は尚純を抱き込み、横瀬氏の守る新田金山城を攻めた。
 しかし、由良国繁の守る堅城の金山城は落城しなかった。
足利利成氏による調停が入った。
 結果・・・・横瀬方の勝利
  岩松尚純は佐野庄に蟄居。
★岩松館の近くの墓
画像

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  岩松尚純の子:夜叉丸=夜叉王丸(=昌純)が家督に立てら
  れた。傀儡政権であった。・・・解決した。
岩松明純&尚純の巻き返しを図るも企ては失敗し、横瀬氏は
幼君を抱くものの主家を排除した。岩松昌純の跡を継いだ
弟:新田岩松氏純を自害に追い込んだのである。
→横瀬くにしが実権を握ることに成功したのである。
  つまり、横瀬氏が事実上の新田荘の支配者に成り上がったの
  である。・・・★下克上が成立したのだ。
  この結果、岩松氏は横瀬氏に実権を奪われて没落した。
 ※横瀬氏は新田義宗の3男とする新田貞氏の子孫と称している。
  また横瀬氏から由良氏に改称した。


【6】戦国時代:下克上にあった岩松新田氏
・永正年間(1504〜21) 古河公方政氏・高基父子の間に不和
   横瀬(由良)景繁は高基に従った。
   上杉憲房の執事:長尾景長から所領を与えらた。

・大永3年(1523) 武蔵国の須賀合戦
横瀬(由良)景繁は討死した。
岩松昌純は、由良の壊滅を企てたが、横瀬(由良)泰繁に攻めら
  れて自害した。
  岩松昌純の家督を継いだ氏純も、横瀬氏の圧迫を強く受け、自害
  してしまった。
  ★岩松氏は家臣横瀬氏の下剋上によって没落してしまった。

・天文5年(1536) 金山城主として覇権を確立した横瀬成繁(泰繁)
 は、御家中と百姓仕置の法度を定めた。
 戦国大名としての道を歩みだすことになる。
 
※その後、岩松氏の活動は見られなくなる。
 由良一族は上杉謙信や武田氏・後北条氏の勢力争いの中で
生き残った。

上杉・武田が上州から撤退。
由良氏 VS 後北条氏
北条の手で金山城を追われ北条に服属した。


【7】江戸時代:新田の家柄を守った新田岩松氏
・天正18年(1590)徳川家康が関東に入封。
桐生にいた岩松氏純の子:岩松守純は、関東に入った徳川家康に
接見した。というよりは、岩松守純が徳川家康に召し出された。
※徳川家康は新田一族の世良田・得川氏の子孫と称していたので
徳川家康は新田系図を手に入れたかった。
徳川家康の新田家の一族の末裔→将軍へのステップだったのだ。

岩松守純は徳川家康に召し出されて新田氏系図の譲渡を迫られた。
しかし、岩松守純が徳川家康の要求を断った。岩松守純は拒否した。

立派であった。
徳川家康は新田系に正田家にもあった。正田家は、現皇室の美智子皇
后様の祖先である。


岩松守純は直臣となったが、石高20石であった。
新田郡市野井村感応寺曲輪のわずか20石なのだ。
しかし、お家再興はなったが、新田姓を名乗ることも許さなかった。
徳川家康は徳川源家康になるための布石だからであった。
しかたなく、中世の世良田今井の古城を修築して居館とした。
この屋敷が岩松陣屋である。
●岩松陣屋・・・旧尾島町世良田
 世良田館や新田館から近い。国道354号線世良田交差点の
 すぐ東にある。立派な民家の門の脇に館跡を示す標柱がある。
 北に水堀跡が用水路となって流れている。


・岩松氏は豊純、秀純と続いた。


★江戸幕府は、岩松守純の孫:岩松秀純の代に、岩松氏を新田宗家
に立て交代寄合の格式を与えた。
新田郡下田嶋村の100石加増=120石
・・・・交代寄合としては最低レベルの120石であった。
 ★冷遇扱いであった。
 =徳川旗本家の最低旗本として生き残ることになった。
 岩松氏は交代寄合に準ずる家として細々と続いた。

・寛文3年(1663)4代将軍:徳川家綱の時に200石を加増され、
下田島に移った。
●下田島城・・・
・寛文3年(1663)岩松秀純が200石の加増を受けたのを機に陣屋を
新田郡下田島に移した。これが下田島城=岩松城である。 
戦国時代に由良氏によって築かれた中世の古城を利用した。
 枡形の虎口や櫓台を持つ古城を居館として近世を生き抜いた。
※下田島城は東武伊勢崎線の木崎駅のすぐ南に位置している。
 現在は太田フレックス高校の校地となっている。 
 
新田系世良田系得川氏の子孫を自称=系図詐称する徳川
家康にとって、新田氏の本宗を称する岩松氏は目障りな存在
になった結果と思われる。


◆◆ 箕輪初心●徳川家康の名前変更の経緯 ◆◆
箕輪初心●徳川家康の姓名変更の謎『松平元康→徳川源家康』
http://53922401.at.webry.info/201303/article_12.html


【8】江戸時代:「猫絵の殿様」新田岩松氏
画像

 岩松義寄、徳純、道純、俊純4代は、「猫絵の殿様」として知られ
 ていて、今も直筆の署名入りの猫絵が現存するのだ。
 岩松家では、岩松義寄の代からネズミ除けに効果があるという猫の
 絵を何枚も描き、それを求める村々の人々に下付した。他にも
 「疫神除札」(えきじんよけ ふだ)と呼ばれる疫病除けの札を大
 量に発行したり、狐憑き封じの効能があるという草履を下付した
 りしていた。また顔を面拝すると狂人の気が直る効能があるとも
 言われた。
 
@ネズミ除け効果
 上州、下野、信濃の養蚕農家では絶大な効果があると
 信じられていた。
A病気&厄除けの札
 疱瘡除・疫神除・狐憑き封じのための除札を発行した。
岩松俊純は疱瘡封じのまじないとして小児を踏むという呪術
 も行っていた。

B解熱効果
 岩松の殿様が下付する食物は熱を下げる。

C呆け防止
 草 鞋は狐憑を封じ、顔を拝すると狂人の気が直る効能がある。

D狐憑き封じでは、岩松徳純の時代では草履の下付が主であったが、
  俊純の代では四足退散の札を発行しており、衣服の切れの貰い
  下げも行っている。
 (★太田金山ガイダンス施設・ウキペディアを参考に編集)

◆◆ネズミよけの猫絵やまじない札を頒布し「猫絵の殿様」として
知られていた。金山城のガイダンス施設で、展示が平成25年
(2013)の春にあった。



【9】幕末:新田官軍の新田岩松氏
 「岩松満次郎=新田満次郎→岩松俊純→新田俊純」
※文政12年(1829)6月8日(7月8日)〜明治27年(1894)3月15日
・文政12年(1829)6月8日 新田郡下田嶋領主:岩松道純の長男
として生まれた。母は中山主馬信泰の二女。
岩松家は新田郡下田島村200石。
微禄の旗本にもかわらず交代寄合という大名並みの家格
  であった。
・天保14年(1843) 元服。
・安政元年(1854) 家督相続。
 ※幕末に起った尊王攘夷運動は、上野国にも波及してきた。

@新田官軍の挙兵
・文久3年(1863) 岩松俊純は師:桃井可堂から攘夷の挙兵
 ならびに横浜の外国人襲撃計画を持ちかけられた。
 しかたなく、岩松俊純は56人を集めた。


A新田官軍と水戸天狗党
・元治元年(1864)
水戸天狗党の動き〜〜〜〜
3月20日 藤田小四郎(藤田東湖の四男)は水戸町奉行:田丸稲
 之衛門を総帥として府中(=土浦)に迎えた。
3月27日田丸稲之衛門・藤田小四郎ら63名が『尊王攘夷』を旗印
  に筑波山で挙兵した。水戸天狗党と呼ばれる一派であった。
 やがて、若い武士・諸国の浪人・農家の次男三男等が続々と筑波に
 やってきて、総勢400人程になった。 
4月2日 筑波山→宇都宮
※本当は徳川の神廟に立て籠もり、尊王攘夷論を展開するつもり
だった。江戸幕府も大砲は撃たないと考えた。
4月10日 藤田らは藩主:徳川斉昭の遺志を奉じ、館林藩が警護す
 る日光東照宮を参拝して、戦勝祈願をした。

◆◆ 箕輪初心★日光東照宮 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201109/article_28.html

◆◆ 箕輪初心★松尾芭蕉:日光編 ◆◆ 
http://53922401.at.webry.info/201207/article_28.html

4月14日 太平山(栃木市)の蓮祥院を本陣とし、葵の紋をたて
 て、上州(群馬)や野州(栃木)で軍資金の調達を始めた。

4月15日〜17日 水戸町奉行:山国兵部が追捕史となった。
江戸幕府からも天狗党追討令が出された。
そして、水戸藩及び江戸幕府は本格的に筑波討伐を始めた。
やがて水戸天狗党が劣勢となった。

5月2日 先鋒軍は太田宿に入った。
 古久屋三郎次の旅籠に水戸天狗党3人泊まった。

5月6日 伊勢崎の柴宿の柏屋
栗田源左衛門らは森村園右衛門の2000両の軍事金を出させた。
 田中げん蔵らは桐生4765両の軍資金を調達した。
 その他の浪士は、藤岡・小幡・天引・国峰・富岡・下仁田・
 で軍資金を調達した。
(★上州の明治維新」:中島明著)

5月28日 鈴木三郎ら5人は、渋川などで、強引に金を出させた。
 そのため、「水戸の天狗」と呼ばれた。

◇5月28日 江戸幕府は水戸天狗党の鎮撫を要請した。
5月31日 本隊は太平山を下りた。
6月4日  筑波山の本坊を本陣にした。
6月9日 ▲江戸幕府は高崎藩以下11藩に対し、厳しい命令を出した。
6月25日 ▲高崎藩2,000人が小山(茨城県)に出兵した。

7月9日 下妻:高道祖の戦い
天狗党と幕府軍の最初の交戦は下妻であった。
 高崎藩は幕府軍の本陣の寺が火事になったと思い、敗走した。
 幕府軍が勝利をおさめた。
7月9日 水戸天狗党の下妻(茨城県)の夜襲
  水戸天狗党は、勝利に気を良くし祝杯に酔った幕府軍の寝込に
 夜襲をかけ、総崩れさせた。
7月25日〜水戸・銚子・潮来と転戦した。 
8月12日 武田耕雲斎が立ち上がった。
8月13日 磯浜(大洗)の戦い
8月17日 ▲幕府軍は大磯の沖より那珂湊を攻撃
8月25日 ▲幕府軍:田沼意尊が水戸講道館本営に入った。
幕府軍は1万3,000人の討伐兵を送り込んだ。
10月10日 幕府軍の総攻撃開始。
10月15日 武田耕雲斎が合流。
10月23日 武田耕雲斎・山国兵部・田丸稲之衛門・
   藤田小四郎ら900余名は那珂湊を脱した。・・・大宮へ
10月25日 藤田小四郎らは大子(だいご)村に集まった。
 (★袋田の滝の近く)
 水戸天狗党は、京都在住の一橋慶喜公に決起の心情を訴えようと
 考えた。
10月26日 総帥は田丸稲之衛門から武田耕雲斎となった。
11月1日 西上開始である。
出発地は水戸藩の大子(だいご)村であった。
 水戸天狗党の幕府追討軍&追悼命を受けた通過地点11藩
 と戦いながらの過酷な長旅が始まった。
天狗党の残党920余名は尊王攘夷の素志を貫徹すべしと、在京の
 徳川慶喜へ進言するために西上の途を決めた。
★沿道の11諸藩は何事もなく領内を通り過ぎることを願った
  のであろう。

11月2日 黒羽藩の攻撃を受けた。
11月4日 伊王野→芦野(泊)
11月5日 那須野原→矢板・・
11月6日 ・・鬼怒川・・
11月7日 ・・・今市・・(日光街道)・・・鹿沼・・
11月9日 ・・・・・・・葛生・・
11月11日 太田宿・・・宿割りをした。
※太田金竜寺説=大塚政義氏
※太田橋本家節=中島明氏
  雨天のため、休養日であった。
本陣となった橋本家は武田・藤田らを温かく迎えた。
新田官軍の「岩松萬次郎」を頭主にしようを考えた。
 新田義貞の生品神社での挙兵と同じで、幕府を倒しての
 正当性が生まれるからである。同時に、多くの賛同者が
 出てくると考えたのである。
(★上州の明治維新」:中島明著)
藤田は以前から意を通じていた新田在住の新田一一族も
大舘謙三郎・黒田兆民らとともに、岩松萬次郎の決起を
促した。しかし、失敗に終わった。
金井三郎=おそらく金井之恭(境島村の金井烏州3男)
は子育て吞龍様の大光院を訪ねた。地図を広げ、「前橋藩・
高崎藩…伊勢崎藩がここにいる。従って、この間道を行け。」
と教えた。 
★世良田→境島村→本庄→藤岡コースであった。
 軍事金集めに再び入った。  
▲水戸天狗党の背後に佐野藩兵、追討軍本隊、
前には川越大砲隊・伊勢崎藩兵・連取農民兵がいた。
※前橋藩は87名の部隊を新田に送った。
(下仁田には286人の部隊であったが、到着は内山峠越え後
  であった。)
11月12日 太田昼過ぎ出発・・・
 木崎宿→中江田村→世良田村→
 午後4時〜夜〜午前3時、境の「平塚河岸」→利根川→武州向島
 (深谷市)・・・
11月13日
現伊勢崎の境島村・・・
 ★あれ、田島弥平さん宅前だ。金井烏州3男:之恭のアドバイス通り
 のコースにしたのだ。・・ 
 本庄宿(泊)
▲岡部藩は利根川を渡る水戸天狗党の最後の方の一部を捕縛した。
11月14日
▲高崎藩は新町川原まで進軍してきた。
藤岡で、町役人に納涼台を持って来させた。休息中でも油断は
していなかった。
 藤岡の武井三岳が500両を田丸に渡した。
吉井藩領の町役人:堀越文左衞門は、城主:松平信発に
 聞いてから、対処したい。しかし、物々しい支度で、
 領内を通られたのでは、殿に申し訳ない。」
 といった。
 薄井蔵人は旗をしまわせた。
 →吉井(泊)
▲高崎藩は夜襲を考えていたが、吉井藩領なので、躊躇した。

11月16日 水戸天狗党に触発されて東毛出身の金井之恭は
 岩松時兼の子孫:大館謙三郎・高木七平らに「岩松満次郎を
 説得して討幕運動の大将に据えようと考えた。岩松が満次郎
 が新田義貞の子孫であったからである。討幕派や尊皇派から
 見れば、新田義貞は英雄である。だから、新田一族を旗頭に
 する意味は大きかった。
→しかし、一度は岩松満次郎は拒否した。
箕輪初心◆水戸天狗党3−1『水戸〜下仁田戦争直前』
http://53922401.at.webry.info/201303/article_25.html

箕輪初心◆水戸天狗党3の2『下仁田戦争の詳細編』
http://53922401.at.webry.info/201303/article_26.html


B新田官軍と小栗上野介
・慶応3年(1867) 岩松満次郎は新田勤王党を結成。
10月14日 大政奉還が行われた。
※西郷隆盛は江戸の放火を命令
   →相良総三など500人が放火・強盗。 
★ 新田官軍総帥達は相良総三と懇意で、同行したらしい。

12月25日 ●小栗は薩摩藩邸への焼き討ちを決行
  幕府側:小栗の薩摩藩邸襲撃で、山形に敗走。
新田官軍・相良総三の逃げ延び先は清河八郎の家かも
   しれない。

★勝海舟は相良総三の相棒:益満休之助と昵懇であった。

★小栗上野介はさらに、薩摩の恨みを買った。
 →鳥羽伏見の戦いの火種に発展
→倉渕で斬首へ発展。

 
・慶応4年(1868)
・1月12日 新田官軍を結成した。
  岩松満次郎は、勤王党の精鋭40名程を選び出し、新田官
 軍を組織した。岩松満次郎の新田官軍の中に群馬郡権田村の
 農民が2人いた。金井之恭や大館謙三郎は、この2人に、倉
 渕の東善寺にいる小栗忠順の行動を探索させた。
 総督府に小栗上野介の動向を通報することにした。


3月12日 新田官軍を結成した。(★ウキペディアでは)
※新田官軍(太田市の平安時代末期の新田一族)の動き
・大将・・・・・岩松俊純
箕輪初心●群馬旧尾島町8『岩松館=青蓮寺』源義国〜岩松代々の館
http://53922401.at.webry.info/201303/article_11.html  
・副大将・・・大館謙三郎
箕輪初心●群馬旧尾島町6『大舘館』=新田一族
http://53922401.at.webry.info/201303/article_9.html

新田官軍は東山道総督府に従軍嘆願書を提出。
 領内で発生した世直し一揆を鎮圧。


 江戸に行った。
新田官軍隊員の素性の悪さ・素行の悪さで
新田官軍は謹慎扱いとなった。
しかたなく、一度は新田の下田島村に帰還した。

  
4月2日 行田に入った総督府に、新田官軍は従軍した。
東山道総督府に従軍〜〜〜〜。
 岩松満次郎は「小栗に反逆の意思がある。」と報告した。


4月5日 総督府は、小栗を捕らえて、斬首した。
小栗上野介が斬首された。


4月8日 岩松満次郎は、総督府から銃35丁と弾薬、食料な
  どをもらうとともに、菊の章旗を授けられ正式に官軍として
  認められた。
  
(★『群馬県史』)
小栗上野介の斬首されたきっかけを作ったのは、新田一族の末
裔:岩松満次郎ということになる。


箕輪初心■東京&群馬:小栗上野介C「権田村での隠遁生活」
http://53922401.at.webry.info/201107/article_1.html

箕輪初心■東京&群馬:小栗上野介B「業績&提唱」
http://53922401.at.webry.info/201106/article_30.html

・慶応4年(1868)
 新田官軍は総督府に復帰を願い入れると、そのまま、
東山道先鋒総督の東下の従軍を命じられた。
 上野戸倉における会津軍追討を担当することになった。


5月8日 朝臣。
     新政府に出仕。検査寮に勤務した。


10月9日 中大夫拝命。
   築地鉄砲洲、木挽町の市中取締役を命ぜられた。




【10】明治維新:新田氏の主流になった新田岩松家
新田俊純は、由良一族と新田氏嫡流をめぐって争った。
明治維新の後、新政府に対して「自分が新田義貞の嫡流である。」
と強く主張した。幕府高家衆であった由良家と横瀬家の当主:
 新田貞靖(由良貞靖)、新田貞時(由良貞時)、横瀬貞固、横瀬
貞篤と反目した。
しかし、維新以後は共に新田氏の顕彰に努めた。
群馬県社新田神社、別格官幣社藤島神社の創建した。
画像

(★ウキペディアを参考に編集)
・明治元年(1868) 新政府に正式に「新田姓」を届けでた。
 「新田俊純」と称した。




【11】明治時代:男爵になった岩松家
・明治2年(1869) 新田俊純の長女:新田武子は中井弘と離別し、
 井上薫と再婚。新田俊純の長女:武子の夫は井上聞多=井上馨
 であった。元長州藩で、伊藤博文などと活躍した人物である。 
井上馨は清和源氏の一家系河内源氏の流れを汲む。もしかして、
 同じ河内源氏だから、結婚したのかな。


・明治4年(1871) 新田俊純は岩鼻県貫属士族→群馬県士族となった。

・明治9年(1876) 井上薫のヨーロッパ視察に同行した。
   帰国後、外務卿夫人として鹿鳴館で舞踏会・仮装会などを
   主催した。

・明治16年(1883)  新田俊純は華族。従五位となった

・明治17年(1884)  新田俊純は男爵となった。
新田家の嫡流と認められた岩松家は、明治政府より官軍と
 して勤王倒幕活動を行った功により男爵を授かった。
男爵? 私はたぶん新田系。
 しかし、小栗上野介の大ファンなのだ。
「小栗上野介に反逆の恐れあり。」と報告した功績しかない
 のに爵位を得たのだ。

★長女:武子が維新の功労者:井上馨の室となったからだと
 思われる。後の総理大臣:桂太郎は妻は井上馨&武子の娘
 となった。

・明治27年(1894年)3月15日逝去。享年66。
 葬儀は東京で執り行われ谷中・天王寺に埋葬された。
「慈光院殿無染因浄俊純大居士」と諡号された。
 後継者は新田俊純の次男:忠純も男爵を賜った。

 

★参考文献
『新田義貞』:峰岸純夫著人物叢書
『新田義貞』:新田次郎著 新潮社
『新田一族の盛衰』:久保田順一著 あかぎ出版
『新田岩松氏』:峰岸純夫著 ミネルヴァ書房
群馬県史
画像
 

★参考・関連サイト
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/iwama_k.html

・「デマ、噂の真相」その4
突如として、幕末に登場した新田一族 - 物語を
http://pcscd431.blog103.fc2.com/blog-entry-105.html

・ウキペディア

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コメント(2件)

内 容 ニックネーム/日時
>「岩松満次郎の新田官軍の中に群馬郡権田村の農民が2人いた。」
とありますが、野口という姓ですから権田村ではなくて隣の三ノ倉村の農民と思われます。「ぶち壊し」一揆で小栗を攻めて追い払われた側ですから、その意趣返しで讒訴したと推測できます。
山魚
2014/06/13 10:59
ありがとうございます。
野口姓は三の倉ですか?地元でないとわからないことが
ありますね。・・・
また、お寄り下さいね。
山魚様へ
2014/06/13 19:51

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