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zoom RSS 箕輪初心★高崎旧吉井町の偉人

<<   作成日時 : 2013/11/03 07:58   >>

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私は「羊太夫の伝説」・「木曾義仲の多胡庄」・「神保一族」・
「奥平一族」に興味を持っている。今回は漫画「吉井の歴史」を
参考にしながら、高崎旧吉井町の偉人をまとめてみた。

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 (★多胡碑)


【1】多胡碑&「羊太夫の伝説」

箕輪初心■山上碑・多胡碑・金井沢碑+山上多重塔
http://53922401.at.webry.info/201310/article_4.html

箕輪初心■群馬「多胡碑シンポジウム」3月6日
http://53922401.at.webry.info/201103/article_8.html

箕輪初心☆群馬における韓国&韓国語2−A『多胡碑&上毛3山』
http://53922401.at.webry.info/201209/article_9.html


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【碑文】
弁官符上野國片岡郡緑野郡甘
良郡并三郡内三百戸郡成給羊
成多胡郡和銅四年三月九日甲寅
宣左中弁正五位下多治比真人
太政官二品穂積親王左太臣正二
位石上尊右太臣正二位藤原尊


【読み方】
弁官符す。上野国の片岡郡・緑野郡・甘
良郡并せて三郡の内、三百戸を郡と成し、羊に給いて
多胡郡と成せ。
和銅四年三月九日甲寅に宣る。
左中弁・正五位下多治比真人。
太政官・二品穂積親王、左太臣正二位石上尊、右太臣正二
位藤原尊。

【現代語訳】
朝廷の弁官局(べんかんきょく)からの命令があった。
上野国の片岡郡・緑野郡(みどのぐん)・甘良郡(かむらぐん)
の三郡の中から三百戸を分けて新たに郡をつくり、羊(ひつじ)
という人に支配を任せる。
郡の名前は多胡郡としなさい。
和銅4年(711年)3月9日の甲寅(きのえとら)の日に宣(の)
べられた。
左中弁正五位下:多治比真人(たじひのまひと)の宣旨である。
また、多胡郡を作ることを決めたときの太政官は
二品(にほん)位:穂積親王(ほづみのみこ)、
左太臣正二位:石上(麻呂=いそのかみのまろ)様、
右太臣正二位:藤原(不比等=ふじわらのふひと)様。  
 (★多胡碑博物館の説明書き)

『羊太夫の伝説』・・・後世に作られた。
昔、多胡郡に羊太夫という者がいた。神通力を使う八束小脛(ヤツカ
コハギ)という従者に名馬権田栗毛を引かせて、南都に向かった。
八束小脛は、空を飛んでいった。ある日、八束小脛が昼寝をしてい
た。羊太夫が、八束小脛の両脇を見ると羽が生えているのに
気づいた。「羽根じゃないか。トビの羽根じゃ。・・それで、都まで
走れるのか・・ううむ。」・・羊太夫はいたずら心から羽根を抜いて
しまった。・・・八束小脛は「ない。羽根がない。」・・・
「羽根はお家の守護神・・何かよからぬことが・・・」
以後小脛は空を飛べなくなってしまい、羊太夫は参内できなくなった。
朝廷は羊太夫が姿を見せなくなったので、家臣に理由を尋ねた。
「羊はもともと渡来人、謀反を企てているのでは・・・。」
朝廷は「もしそうだとしたら、危険である。」と考えた。
安芸の住人:広島宿弥(すくね)に宣旨を下した。総勢10万騎の
軍勢を派遣した。討伐軍の塩野小太郎に「謀反の心はない。」と
説得したが、朝敵として羊太夫を討伐することになった。
羊太夫軍は臼井川(碓氷川)の人見原に陣取った。しかし、圧倒的な
数の朝廷軍におされ、鏑川まで退却した。
残したいった食料や酒に毒をまぜ、大軍を策略で混乱させた。
しかし、養老5年(721)、羊太夫軍は八束城に籠城し、善戦したが、
落城間近となった羊太夫は、中尾源太夫に命じて、妻や子どもを
脱出させた。羊太夫軍の生き残りは羊太夫と八束小脛だけになって
しまった。羊太夫は金の蝶に化して、雨曳山の方へ飛び去った。
やがて、トビに変じて池村で・・・自殺した。
広島宿弥は自刃じた2人を池村で発見した。・・・
 
(★漫画「吉井の歴史」)
※『神道集』(文和・延文年間・1352年〜1361年)では、羊太夫は、
履中天皇の時代(400年〜405年)の人として登場する。
羊太夫自身が神通力を持ち、都と上野国を日帰りしたという話が残
されているそうである。
 (★ウキペディア)
※「羊太夫栄枯記」(旧吉井町上奥平の茂原一郎氏蔵)もある。



【2】木曾義仲:治承4年(1180)多胡庄:吉井で家臣集め
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箕輪初心★木曾義仲:上野国多胡庄2ヶ月→信濃依田城で蜂起
http://53922401.at.webry.info/201310/article_3.html
箕輪初心●木曽義仲(1154〜1184)=征夷大将軍になった人物。
http://53922401.at.webry.info/201107/article_29.html


【3】樋口定次:馬庭念流始祖
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@遠祖・・・木曾義仲の育ての親:中原兼遠である。
駒王丸=木曾義仲は今井兼光や巴とともに木曾で
成長した。
樋口家は木曾から吾妻応桑(群馬県嬬恋村応桑=北軽井沢)
→現高崎市旧吉井の馬庭に転居した。
今井兼光から11代:馬庭兼重は念流の創始者:相馬四郎
=念和尚から剣法の奥義を伝授された。
・天正18年(1590) 子の 樋口定次は念流:友松氏宗に念流
を学び、馬庭念流を認可された。
・寛永の御前試合で、名を轟かせた。
(★漫画:吉井町の歴史)



【4】奥平7代:長篠戦いで活躍した奥平貞光の先祖
★出自には、3説がある。
@.村上源氏の後裔11代赤松則景と称した説
  (★『姓氏』樋口清之・丹羽基二著)。
A.有道姓児玉党片山氏流の末裔説。
  (★『姓氏家系大辞典』太田亮 )
◎上州が発祥地と言われている。その後、上州の所領を
  放棄して、三河に新天地を求め転住した(伝)説。
 (★「家伝」・『中津藩史』・『寛政重修諸家譜』)。
B村上源氏赤松則景の2男:氏行が、秩父氏一族児玉
 庄左衛門の婿となり、奥平氏を称したことに始まる説。
 (★新城市長篠城祉史跡保存館の資料より)
家紋は「軍配団扇」だから、この見方が正しいのか?
・治承4年(1180)源頼朝の挙兵。
  安芸国(広島)の赤松則景は、鎌倉に駆けつけた。
 北条義時(北条政子の弟)の娘と結婚した。
・1200年頃,赤松氏が甘楽郡司となり 奥平氏を名乗った。
赤松則景は畠山小幡右衞門の娘と再婚した。
初代:奥平氏行が生まれた。
初代は奥平氏行ー持貞=吉行−継定−高定−満定−定政−定家
−貞俊と続く。
・元弘3年(1333)新田義貞の挙兵
  6代奥平定政が武蔵7党を率いてやってきた。
分倍ヶ原の戦い・・に勝利した。
北条高時を自刃に追い込んだ
・延元元年(1336) 京都の戦い
・延文4年(1359)九州の筑後川の遠征で戦死。
7代:奥平定家が看取った。
 
・8代の代に 奥平から三河国設楽郡作手郷へ移住した。
 分家は馬場城を築城して、奥平に残った。
 奥平貞俊駿河の今川氏に仕えた。
今川氏滅亡後、武田信玄に臣従したが、武田信玄の没後には徳川
家康に仕えた。 長篠の戦いの功績により重用されて 長篠城主とな
った。徳川家康の娘・亀姫を妻に迎えた。徳川家康の関東入府に
伴って 奥平も再び甘楽郡に戻り、富岡城主となった。

上信電鉄の西吉井駅から北に2.5km。下奥平の岩平小学校付近から
北の上奥平方面に進みむと、奥平城がある。奥平氏は 戦国時代に
三河の長篠城主として活躍した奥平氏のルーツは上野国甘楽郡奥
平郷(高崎旧吉井町)である。奥平家発祥の地とされる。
城跡の入口には「奥平城跡」吉井町教育委員会が建てた標識が建
っている。
画像

城跡は竹林になっていて、うっそうとしている。
竹林に分け入ってみたが、蛇が出てきそうなので逃げてきた。
画像

○子孫の方にあった。・・・



【5】神保与三:承久の乱「宇治川の合戦」で活躍
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辛級神社=神保館 △吉井町神保 
 ■訪問記・・・辛科神社は外郭せある。実際は、この裏が
  館=本郭である。辛科=韓級?・・・律令時代の渡来人が
  多かったことを示す。
 神社の脇から、一段高くなっているのが、分かる。


【6】旧吉井の城:40年間の草刈り場=戦場
箕輪初心○吉井の城:38城3回シリーズ 
http://53922401.at.webry.info/201104/article_11.html
http://53922401.at.webry.info/201104/article_12.html
http://53922401.at.webry.info/201104/article_13.html


【7】菅沼定利:吉井城下町の形成
・徳川家康の関東移封で、吉井にきた。
http://53922401.at.webry.info/201104/article_11.html


【8】旗本:倉橋内匠頭:悪政→継ぎ立て絹紛争


【9】高崎藩:松平輝高&絹運上騒動
箕輪初心★高崎藩主11代〜18代:松平家
http://53922401.at.webry.info/201310/article_16.html

【10】堀越宥貞(ゆうてい):吉井の俳人「多胡碑集」


【11】堀越文右衞門:水戸天狗党の野宿を許可した町役人
・安政4年(1857)安中生まれ。
・水戸天狗党の野宿を許可した町役人
・→「まるぶん」の養子→旦那:江戸日本橋の呉服店経営。
・多胡亭・吉井小講堂・道路建設に私財を投げ打った。


【12】松平信発(のぶおき)→吉井信発:尊皇攘夷論者
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・吉井藩最後のお殿様。
・弘化4年(1847) 上野吉井藩第8代藩主:松平信任が死去。
  松平信任の養子として家督を継いだ。
  将軍徳川家慶に拝謁する。従四位下侍従・左兵衛督に叙任。
・嘉永6年(1853) 黒船来航
  江戸幕府に対して攘夷と国論統一を図るように進言した。
・安政4年(1857) 日米修好通商条約が不平等条約であると反対した。
・安政6年(1859) 安政の大獄・・交遊のあった徳川斉昭が蟄居
  される際に上使を務めた。
・万延元年(1860) 幕府から米2000俵を支給された。
・文久元年(1861) 和宮が降嫁の際、「信和から信発と改名。
   農民兵を採用した軍制改革を行っている。
・元治元年(1864) 陣屋を矢田から吉井に移した。吉井藩。
  吉井信発に改姓。
・元治2年(1865) 養子の吉井信謹に家督を譲って隠居。



【13】野中弥八:自由民権運動


【14】新関八洲太郎:三井物産初代会長
・明治30年(1897) 埼玉県庁職員の子として浦和で生まれた。
  埼玉県師範学校附属小学校→津久戸小学校→
父は吉井専売局出張所所長・・
  吉井小学校卒業→富岡中学校→錦城中学校卒業。
・大正7年(1918) 東京高等商業学校(現一橋大学)卒業。
・大正8年(1919) 三井物産入社。マルセイユ支店に赴任。
ハンブルク→平壌→メルボルン。
   バンコク支店長→バタビア支店長→奉天支店長。
・昭和22年(1947) 常務取締役に就任。第一物産社長に就任。
・昭和34年(1959) 三井物産社長に就任。
・昭和36年(1961) 三井物産会長に就任。
・昭和53年(1978) 死去。 81歳。
(★ウキベディアも参考に編集)


【15】羽切広吉:吉井町初代町長


【16】新井紀一:プロレタリア作家で小林多喜二に影響。
・明治23年(1890) 吉井町池出身→小石川砲兵工廠見習い
・ →早稲田文学に投稿。・・・小川未明に認められた。
・昭和41年(1696) 死亡。76歳。


【17】新井巴:教育者・植物学者
・明治元年(1868) 小幡生まれ。→吉井→前橋高校→師範学校
・前高時代に「植物標本画帳4冊」を作成。
・「維新前後の吉井町」を著作。


【18】柴崎安一(やじかず):二酸化マンガンの製造
・大正2年(1913) 旧吉井町吉井生まれ。
・東京物理学校=現東京理科大学→東京工業大学電気学科
・昭和19年、・・横浜国大の教授。・・名誉教授。
・電化シリサイドの研究



【19】角田てる:教育者=学校給食&臨海学校の建設に尽力
・明治30年(1975) 日野村の生まれ。→吉井で育つ。
・大正6年() 女子師範卒・・群馬県内初の女性校長。
・校長→学校給食&臨海学校の建設に尽力
・吉井町議。
・昭和50年、死亡。



【20】等松農夫蔵(のぶぞう):戦艦大和の建造に尽力
・明治29年(1874)東京生まれ→岩平小学校→旧富岡中学校
・海軍経理学校→教官。世界一周。英国付武官。
・山本五十六と戦艦大和の建造準備に尽力。・・・



【21】町田貞(ただし):地理学者「河岸段丘の研究」
・大正7年(1918) 旧吉井町吉井出身。→富岡中学校→群馬師範
 →小学校教員→東京高等師範(=東京教育大学・筑波大学)
 →群大教授→筑波大教授。ルイジアナ州立大学・ボン大学
 客員教授。


【22】向井重郷:東海道新幹線の生みの親:鉄建公団理事
・大正5年(1916) 旧吉井町塩生まれ。→冨岡中学校→
 東京一高→東京大学。・・・在学中に高等文官試験に合格。
・鉄道省・・・エリートコース・・・
・東海道新幹線の立案。・・・



【23】武藤賢一郎:世界的なSAX奏者
・昭和27年(1952) 吉井町岩崎生まれ。→吉井中学校→
 高崎高校・・・
渋川高校は永長信一先生の高崎高校に敗れ、関東大会には行け
 なかった。

東京芸大→パリ音楽院を主席で卒業。
クラッシック系のサキソフォーンでは、今でもbP?
 カラヤンのアジア公演に参加した。・・・
1回だけ、高崎音楽センターで聞いたことがある。 



【24】山崎種二:実業家「山崎グループ会長」
・明治26年(1893) 吉井町坂口で生まれ。→岩平小学校→
 深川の回米問屋に奉公。・・米相場の読みが凄かった。
・回米問屋を自営。→山崎証券を設立。
〜〜〜〜〜
・昭和41年(1966) 山種美術財団が創設
  山種証券と創業者:山崎種二が蒐集した作品を保存・管理する
  のを目的に設立された財団・・・
  日本橋兜町に開館した。
・平成10年(1998) 千代田区三番町への仮移転。
・平成21年(2009) 渋谷区広尾に開館。
※主な所蔵作品
竹内栖鳳 『班猫』(重要文化財)
速水御舟 『炎舞』(重要文化財)&『名樹散椿』(重要文化財)
奥村土牛 『鳴門』・『醍醐』
川端龍子 『鳴門』
佐藤太清 『清韻』・『白鷺』
ほかにも院展、日展、創画展、無所属作家など多数ある。
2回、いったげどさ。通り過がりのおじさんになった。
(★ウキペディアも参考に編集)


【25】吉井義次:「八甲田山の植物群研究」の世界的植物学者
・明治21年(1888) 吉井で生まれた。
・大正5年(1915) 東京帝大卒。
→東大理学部講師。
・大正12年(1923)〜27年間、,東北帝大で植物生態学講座を担当。
・昭和3年(1928) 東北大学教授。
・昭和4年(1929) 八甲田山植物実験所初代所長。
 機関誌「生態学研究」を創刊。
 日本生態学会初代会長。
・岐阜大学長。「植物生理学」「植物学大要」
・昭和52年(1977) 栃木県今市で死去。88歳。
(★ウキペディアも参考に編集)


【26】吉井泰次:安田銀行取締役&豊年石油社長
・明治41年(1908) 旧吉井町吉井出身。
・ 吉井小→富岡中学校→東京商科大学(現一橋大学)


★★高橋菊一:バレーボールの指導者
「菊一先生、お元気ですか? 
 また、海外に御一緒させて下さい。
 バックパッカーでもOKですよ。
 世界68ヶ国? 回っていますが、どこでもいいですよ。」




★これで、高崎系はひとまず終了となる。
 静岡県の伊豆・神奈川県の城に戻るだろう。

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