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zoom RSS 箕輪初心★箕輪城103川野辺寛「高崎誌」&井伊直政

<<   作成日時 : 2013/10/08 06:29   >>

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川野辺寛は高崎藩士。寛政元年(1789)@藩主大河内輝和の命に
より「高崎志」を著した。「高崎志」には、箕輪城〜高崎城築城の井
伊直政の記述が掲載されている。記述は、箕郷町誌の「箕輪城と
長野氏」:近藤義雄先生の論文の中に載っている。ほかにA天明
3年の浅間大噴火の惨状を記した「癸卯災異記(きぼうさいいき)」
やB「閭里(りょり)歳時記」などがある。

画像



◆◆ 箕輪初心●箕輪城「井伊直政」 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201010/article_40.html

http://53922401.at.webry.info/201011/article_25.html

◆◆ 箕輪初心●井の国千年物語前編 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201212/article_3.html

◆◆ 箕輪初心●井の国後編:「井伊直政」 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201212/article_4.html

◆◆ 箕輪初心●井伊直政の箕輪城時代の家臣団 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201212/article_15.html

◆◆ 箕輪初心●静岡:井伊直政の井伊谷城 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201212/article_5.html

◆◆ 箕輪初心●井伊直政の造った町:高崎&彦根 ◆◆
高崎高校 VS 近江高校
http://53922401.at.webry.info/201203/article_28.html

◆◆ 箕輪初心●中村達夫氏の「井伊軍志」 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201212/article_14.html

◆◆ 箕輪初心●小和田哲夫氏の「井伊直政」 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201212/article_13.html

【1】川野辺寛 「高崎誌」の中の高崎
@井伊直政のつけた「高崎」の名の云われ。
「和田の地も箕輪に属す、慶長3年戊戌、中山道を開かれしに及びて
和田の緊要の地なればとて、直政の仰せ、城を築きしめてこれを賜ふ、
この時、直政地名を更め、松か崎と云わんと、竜広寺の住持持白あん
に語られしに、白あん曰く『尤も然るべく候、去ながら、諸木の栄枯
の時あり、物に■のあることはめつらしからすと候、公既に命を奉て
此城を築き玉へるは、所謂盛事大名也、されは成功高大に義に取て、
高崎とし玉はんはいかか(いかが)』と云ふけえは、直政大に悦びて
『高崎』となつけられ、且つ「高崎」の二字をもって竜広寺の山号
となすへきよしを命せらる、
里老の説に恵徳寺の開山英たん?なりと伝へたるは■誤也、今竜広
寺の古記に従ふ、又一説に直政命を奉て松枝(松井田)、安中、和田、
倉賀野の地を検するに、決定したかなりし故、試に鷹を放て此其集
る所を城地と定むへしとて、一もとの鷹を放さる、其鷹飛て今の本
城に地にとどまる。因て其地に定て鷹野城と名つけらる、後高崎と
改む、


A高崎の町
連雀町は、初箕輪にあり、慶長3年戊戌箕輪より此に移る、箕輪に
於て大手門前に在し町なるを以て此に移りても、亦城主より命じて
大手門前に置、旧名を不更と云、田町は、連雀町より北に続けり、
是も慶長3年此地に徒る、箕輪にては田宿と名つく、・・・」





【2】川野辺寛(かん?ひろし?) 1746−1793 
・祖父:川野辺武直は松平伊豆守信綱の家臣・・・転々とした。
・延享3年(1746)4月28日生まれ。
父:川野辺重由の子・・
父死亡・・・母の実家:馬場家で養育された。

・安永9年(1780)34歳 「閭里(りょり)歳時記」
高崎の町屋や周辺も村里の年中行事を記した。

・天明3年(1783)37歳 「癸卯災異記(きぼうさいいき)」
浅間大噴火の惨状を漢文でしるした。
吾妻川・利根川・烏川沿岸の絵地図を付記した。

・天明8年(1788)42歳  
   高崎藩主:大河内輝和の命で「高崎誌」を書き始めた。

・寛政元年(1789)43歳 「高崎誌」を江戸藩邸で脱稿
妻死亡・・・6人の子女を持っていた。

・寛政5年(1794) 2月18日死去。48歳。





【3】井伊直政:箕輪城8年→高崎城3年
箕輪初心★『井伊直政』=箕輪→高崎→彦根を発展させた人物
井伊直政は井伊直弼の先祖である。愛知県井伊谷→群馬県:箕輪
&高崎→滋賀県彦根を発展させた人物である。三河時代の兵力は
1000人程だった。天正10年(1582)、武田氏が滅ぶと旧武田氏+
旧長野氏を拾いこんだ。天正18年(1590)、後北条氏の滅亡。井
伊直政は豊臣秀吉の命令で、箕輪城12万石となった。旧後北条
家の家臣を傘下にしていった。慶長3年(1600)には、高崎に移り
住んだ。関ヶ原の戦いでは5000人規模の軍団であった。★旧武田
家臣や旧北条家臣を引き入れたからである。





●▲■ 箕輪城時代 ■▲●〜〜〜〜〜〜
G箕輪12万石
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 (★広島の浅井家古城の図・・箕輪城)
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 (★箕輪城縄張り図・・・高崎の???より)
・天正18年(1590) 
2月 井伊直政の長男:直継=直勝が浜松で誕生。
3月 井伊直政が小田原合戦で先手を勤める。
7月13日 豊臣秀吉の小田原城攻め
    ※写真は神奈川県教育委員会の看板より

 ※徳川家康が関東に入封。
●井伊直政が箕輪城に入封。
  徳川筆頭家老の最高石高の12万石で入城。
 ※井伊直政は小田原城落城のきっかけを作った
   篠曲輪攻めでの功績。
    (★高崎文化協会:西原巌氏)
※箕輪城は入封は豊臣秀吉命令だった。(中井均先生)
・酒井忠次・下総国臼井城3万7000石。家次が入城。
※酒井家次は高崎城に井伊直政の後に入り12年間。
 その後、越後高田10万石へ・・
・本多忠勝・・・下総国大多喜城10万石・館山城里見対策。
・榊原康政・・・上野国館林城10万石・・・・
・井伊直政・・・上野国箕輪城12万石・・・上杉・真田対策。
 ●井伊直政は豊臣秀吉の命令で上野国箕輪(群馬県)
   の12万石
※近藤秀用は箕輪城の南300mの富岡(車郷小学校南)に居を
  構えた。
  
2年後、井伊直政を離れ、井伊谷金指で1000石を賜った。
 ※木俣守勝は、箕輪城内の「木俣」に居住した。
★箕輪初心私見「箕輪城の改修工事や城下町の建築。
 連雀町・本町・紺屋町・田町・四ッ谷などは町作りの
名残である。」
 ※松下源太郎(井伊直政養父)は松下=稲荷曲輪に居住。
 →墓は鬼門「龍門寺」にある。
※龍門寺を建立・・・白あん和尚 
井伊直政の開基の寺は「龍」がつく。
浜松龍譚寺→箕輪龍門寺→高崎龍広寺→彦根龍譚寺

●井伊直政8年・・箕輪城は直政の居城跡説が有力。       
 {★箕輪城の歴史・・箕郷町教育委員会の冊子より} 
●城と城下町の整備・改築
  @東側を空堀→水堀。東を武家屋敷
  A大手門の丸戸張りという郭に鉄砲狭間付きの塀
   ・大手門(後の高碕城槻木門)設置。『上州高碕城大意』
   ・大手道・・・大手ことう門・・・三の丸
  B城下町の整備
   東・・・武家屋敷
   南・・・4つ通にの商人・工人の民家
    1)白銀町・紺屋町
    2)・本町・鍛冶町
    3)連雀町・田町・四ッ谷 
    秋本先生「宿は北条時代・町は徳川の呼び方」
久保田先生「宿の名前は中世からあった。」
    4)寺の分散配置・・・戦略上の城の出丸。
      龍門寺は城の鬼門に創建。
      井伊家の菩提寺。

・天正19年(1591) 井伊直政が九戸一揆の蒲生氏郷と鎮圧に
         出陣。   
・文禄元年(1592) 井伊直政が江戸留守居役に抜擢。
        江戸城普請。
・文禄5年(1596) 井伊直政が箕輪12万石の検地を実施。


・慶長3年(1598) 箕輪城廃城→破城。
 井伊直政は箕輪城の堀を半分程度、埋める。
 ★箕輪初心私見「箕輪城が前田・真田等の元外様大名に
      使われないように。」 

慶長3年(1598) 箕輪城廃城
井伊直政は箕輪城の堀を半分程度、埋める。
箕輪城私見「箕輪城の廃城理由」
@検地で12万石の土地として、地形的に石高が成立しがたい。
 南と東だけの田が少ない。扇状地に近い地形なのだ。
・東〜・・・畑地はほとんど。(水の少ない地形)
・北東・・・現相馬が原で、榛名の4〜6Cの火山灰の扇状地。
・南・・・・水が少ないため、長野氏は榛名白川から水を引いた。
・西・・・・標高150m〜350mの地形で、米が生産量が上がらない。
  ・北・・・・松の沢地区から北や現芝桜公園から北は、
マムシの多住の榛名山麓。
    善地地区は水の豊富な標高250〜400mの土地。
田は少ない。
 A城下町が狭い。人口増加に耐えられない広さの可能性。
(東〜南の方面のみ。)
 B江戸との交通の要地として不適。江戸に近い方がいい。
     →発展性に乏しい地形。
   (高崎は後の街道の要所:中山道・三国街道・例幣使街道
    ・姫街道近く・利根川水運等)
 C信州と越後の江戸の守りの重要地点だから、どちらにも応援
    できる場所。
 D政治・経済・文化の中心地の必要性。
 *法峰寺を移転(箕輪小北に)許可




●▲■ 高崎城時代 ■▲●〜〜〜〜〜〜
※徳川家康は、豊臣秀吉が死ぬと、軍事上、街道の整備を命じ、北関
東の守備を固めようとした。
個人的には、おそらく、井伊直政には、中仙道&三国街道の整備
と交通の要所であり、且つ新しい本拠を考えるよう指示したので
あろう。


●井伊直政は箕輪城から高崎城に移り、城下町を造った。
1)高崎城の築城
 慶長3年(1598) 井伊直政は、所領の中で、松枝・安中・和田・
 倉賀野を検討した結果、和田の地を選んだ。
  (★高崎誌:川野辺寛)

 和田城は中世の城である。和田城の位置は、音楽センターから
 高崎高校に向かって行くと、和田橋の手前に出る。和田橋の
 たもとが和田城である。烏川の淵を自然の守りとした要害である。
  (★山崎一先生)
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 今は立体交差になっている場所である。
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 発掘の結果では遺構は発見できなかったらしい。
 元々和田氏は赤坂荘にいた。戦国時代、和田業繁(長野業政の娘婿)
 →和田信業(武田家臣:跡部資勝の子)がいた城ではある。
 城とはいえ12万石を支えるのは、城の規模で小さかった。 
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 井伊直政は和田城のあった所から東に広大な城&城下町を築いた。
 つまり、音楽センターとか、高崎市役所とか・・・
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 高崎城の東は平地であるので、大きな堀を築かなければ、ならな
 かった。三の丸堀が井伊直政の遺構という学者もいる。
 発掘調査では、保健センター〜高松中学校の庭に、大きな
 北条流の畝堀が確認された。
 大規模な縄張の必要性があった。
 井伊直政の石高は12万石であった。
関ヶ原の戦いには、5000人の兵がいた。家族や町人を想定
 すると、23000人〜25000人いた。
 高崎には1000人程度の家臣+4000人程度の部下が集まる
 居城が必要であった。しかも、築城当時の越後に上杉景勝や
 信濃の真田昌幸などがいた。彼らに対する抑制だけでなく、
 出陣の可能性も考えると、さらに大きな町割が必要になった。
 広大な城の敷地と家が必要であった。
 関ヶ原の戦いでは、徳川秀忠が関ヶ原に向かった時、烏川の
 大水で3日間高崎に足止めになった。
 高崎城&城下の寺院も宿舎となった。
 高崎城の縄張は長方形をしている。
 外堀と土塁がほぼ一直線に延びた縄張りである。
 シンフォニーロードの先に「出桝」のみ凸形になっている。
井伊直政家老:木俣守勝が推進。
縄張は早川幸豊(武田家臣→井伊家臣)であっただろう。
早川幸豊は馬場美濃守の基で武田流の築城を学んだ。
井伊直政の家臣になって、徳川流を学び、更に箕輪城で北条流
の築城法を見たのであろう。

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  従って、高崎城は箕輪城の畝堀
の手法が用いられていた。(★発掘調査より)
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●箕輪城の「槻木(つきのき)門」の移築。
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2)高崎の城下町
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@城下町は、城の大手前から東に延びる道=慈光通りを中心に町割
 が行なわれた。大手前に箕輪から移した連雀町を配した。
 慈光通りに直角に結ばれる横道を配した町割を行なった。
家臣団(約5000の武士団の家族/工業系の職人/商家/民家)
関ヶ原の戦いには、5000人の兵がいた。家族や町人を想定すると、
 23000人〜25000人いた。
 高崎には1000人程度の家臣の住居+4000人程度の部下が集まる
 居城+寺などが必要であった。

・箕輪から町家や社寺を移築。高崎城と城下町が誕生。
@11の寺+3寺・・石上寺(現在はない)・正法寺(現在妙福寺)
  ・慈上寺(長野業政時代の修験道の寺)・大雲寺
  ・法華寺・慧徳寺・安国寺・大信寺(徳川忠長の墓)・金剛寺
   ・龍広寺・延養寺
A5の神社・・・津波岐那神社(←椿山)・布留明神(←石上寺)
       ・八幡宮(←真応寺)・上諏訪神社・下諏訪神社

箕郷には東明屋・西明屋の町名があるが、「空き屋」が転化した
 呼び名では?


B地名を高崎と改名。・・・箕輪の龍門寺白あん和尚のアドバイス。
※町名・・・・・・連雀町・田町・紺屋町・鍛治町

 
3)高崎宿&交通網の整備          
 中山道は東山道に即して造られた。
  宿駅制として各駅に伝馬を設置した。
  宿駅は北条時代には高崎〜鎌倉〜小田原まで
  鎌倉上道に造られた。
 ★徳川家康は北条氏の宿駅制を真似たのであろう。
 高崎宿・・・中山道と三国街道の宿
 本陣がなかった。旅籠も町の大きさの割には少なかった。
 
井伊直政は中仙道・三国街道宿も造らせた。
@中仙道:倉賀野宿〜新しく高崎宿〜豊岡の一里塚・豊岡宿〜板鼻宿
〜新しく安中宿〜原市〜新松井田宿〜〜〜〜の
A三国街道:金古宿・白井宿を整備。
画像


4)長野堰=生活用水+水田用水
 高崎城下は平地ではあるが、北西から東南に向けて下っている。
 ★現在の長野堰の取水口は烏川であるが、戦国時代には、榛名白川は
 現在の沖町の所を流れていたのではないだろうか。何故なら、
 住吉城は沖町郵便局の裏であるからである。
 
 早P川も箕郷町のふるさと公園&箕輪城祭戸用水から流れて
 きている用水路である。
 長野堰は楽間130m→上沖120m→我峰110m→上並榎町100m
 →高崎城の堀&城下町95m〜90mに水路に流れていった。
 家臣・町民の生活用水となった。そして、高崎の南東部の水田の
 用水路になった。
 


・慶長5年(1600) 
 9月15日 関が原の戦い
  ●井伊直政の兵力5000で家康本軍に随行。
   山内一豊など諸大名を東軍工作を実行。
   本戦で家康の四男・松平忠吉(直政の娘婿)を補佐。
    西軍に一番槍の戦功。


 関ヶ原の戦いの戦後処理と江戸幕府の基礎固めに奔走。
 10月10日 井伊直政は関が原の合戦の功
  ●井伊直政は近江佐和山18万石の大名となった。
    近藤季用は井伊谷3050石を賜った。
    松下常慶安綱は引佐郡の代官になった。

・慶長6年(1601) 近江国佐和山に18万石を与えられた。
   井伊直政は18万石の佐和山城主となる。

(★滋賀県彦根市の佐和山城)


I井伊直政の遺言
・井伊直政は叔母の「中野越後守の妻に代参をお願い
 します。」・・・
★ここでも、井伊直政が義理堅い人間として
 世間に知らしめようとする意図が伺われる。
 地元は過大評価するのが当然である。
 頑張らなくても、いいのでは?
 

J井伊直政の死
・慶長6年(1601) 江戸幕府は代官頭伊奈備前守忠次に
        井伊谷筋の寺社領を安堵。
        *彦根城の築城開始。
  徳川家康は木俣守勝に「・・・がんばれ?」
・慶長7年(1602) ●2月1日過労と島津義弘軍の追撃で受けた
   鉄砲傷の破傷風が元で死去。(43歳)
       →井伊直政の次男:井伊直勝が継承。
・慶長8年(1603)  徳川家康、征夷大将軍となる
 飯田助右衛門が井伊谷筋の代官として井伊谷陣屋に勤めた。
 伊奈備前守忠次は上野玉村代官になり、滝川用水に尽力した。
・慶長9年(1604) 井伊直勝が近江:彦根城を築城。

・慶長9年(1604) 井伊直政の子:井伊直勝は
 近江国彦根に移り築城した
・元和元年(1615) 幕命により弟の掃部頭直孝に彦根藩主の
座を譲った。
井伊直孝の代には35万石の譜代大名となった。
井伊直勝は兵部少輔を世襲。3万石の安中藩藩主となった。



箕輪初心★箕輪城90【井伊直政の箕輪城時代の家臣団一覧】
http://53922401.at.webry.info/201212/article_15.html

箕輪初心★箕輪城91【井伊直政家臣:長野業親→長野業実とは?】
http://53922401.at.webry.info/201212/article_16.html

箕輪初心★「井伊直政の町:高崎(高崎高校)VS彦根(近江高校)」
http://53922401.at.webry.info/201203/article_28.html


箕輪初心★高崎学「上野国:山名義範〜応仁の乱:山名宗全」
http://s.webry.info/sp/53922401.at.webry.info/201309/article_26.html


箕輪初心★井伊直政=井の国千年物語後編
http://53922401.at.webry.info/201212/article_4.html



K井伊直政の子供
分家・井伊兵部少輔家
  井伊直政の長男:直勝は病弱だったといわれる。
  安中藩→西尾藩→掛川藩と転封。
   直勝の曾孫で掛川藩主:直朝が改易。
  宗家・掃部頭家から直興(直該)の
   4男:直矩を迎えての家名再興存続。
  与板藩主2万石。・・・10代・井伊直朗が若年寄。
   城主格に昇格。
  維新後、子爵華族。
現当主は井伊達夫(旧姓中村、京都井伊博物館長)で、
  2007年に婿養子となって名跡を継いだ。



L大老:井伊直弼
◎井伊直弼は老中阿部正弘の死後に大老となった。
◎将軍後継問題では南紀派を後援し、一橋派への弾圧で
 ある安政の大獄を行った。
◎日米修好通商条約に小栗上野介らを派遣した
×桜田門外の変で水戸浪士に暗殺された。
ピストルを渡したのは中居屋重兵衞だった。

直弼の死後、幕政の混乱の責任で10万石を没収された。
◎井伊氏年表
◎井伊氏家系図
◎井の国・・史跡地図
◎遠江・三河・信州の地図
・・・家老:岡本が井伊直弼派を一掃した。

※参考文献等・・
・井伊直政・高崎文化協会西原巌氏論文
・箕輪町誌
・高崎市史
・「箕輪城の歴史」関係の本など・・・約30冊
・彦根城博物館の発刊の本  
・井の国千年物語


★参考Hp・サイト
・ウキペディアHp
・彦根城博物館Hp
・井伊谷歴史の会Hp


■江戸時代 宗家・井伊掃部頭家・・・彦根藩家
@直政 (病弱)→安中藩へ
A直孝  15万石→20万石→25万石→30万石
      →35万石格
B直澄(大老)
C直興(大老)
D直通(侍従)
E直恒
F直治→直該(なおもり)(大老) 4代・直興が再封
G直惟(なおのぶ)(左少将)
H直定
I直=iなおよし)
J直定 再封
K直幸(なおひで)(大老)
L直中(侍従)
M直亮(なおあき)(大老)
N直弼(なおすけ)(侍従・大老)
   井伊直弼は将軍後継問題では南紀派を後援し、
   一橋派や反対の弾圧した。
   安政の大獄を実行したが、桜田門外の変で暗殺された。
   ★箕輪初心「長野主膳は、伊勢出身。」
   (★彦根城博物館学芸員&博物館の系図調べ)
N直憲(なおのり)(左近衛権中将) 
    30万石→20万石→23万石
   大政奉還後には譜代筆頭にもかかわらず、
     新政府側に転向。
   鳥羽・伏見の戦いでは新政府側に属し、
     戊辰戦争にも転戦。
明治17年(1884)伯爵華族。
昭和28年(1954)〜 
   井伊直憲の孫:井伊直愛が彦根市の市長
現在  井伊直愛の孫娘:井伊裕子と婿養子として結婚した。
    井伊岳夫=井伊直岳氏が彦根城博物館長。
 (★井伊家の歴史・ウキペディアを参考に編集)






★明日は、酒井家次&江原源左衛門重久かな?

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