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zoom RSS 箕輪初心★榛名「元禄内野秣場騒動」&「中野秣場騒動&真下紋弥」

<<   作成日時 : 2013/10/23 05:50   >>

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★「真下紋弥」「中野秣場騒動」を知ったのは、近藤義雄先生の高
崎市堤ヶ岡地区の文化財散策の時であった。妙見寺→国分寺→
住谷天来・住谷悦治先生の実家→中群馬用水→飯玉神社→胸形
神社(砦)→堤下公園→三ツ寺堤→諏訪神社&蚕影神→「真鹽
紋彌翁之碑」であった。「中野秣場騒動」は自分の村や母の実家
に関係していた。元禄時代以降、82ヶ村の入会地が松の沢の
1村だけが官と結託するのは不当であると暴動化した事件であ
る。真塩紋弥はその指導者であった。後、金敷平村が入り83
ヶ村となった。
旧榛名では元禄時代に秣場騒動が起こった。
画像

 (★旧群馬町「真鹽紋彌翁之碑」) 




箕輪初心★高崎偉人伝「高崎五万石騒動」
http://53922401.at.webry.info/201310/article_22.html


箕輪初心★箕輪城103川野辺寛「高崎誌」&井伊直政
http://53922401.at.webry.info/201310/article_8.html

箕輪初心★高崎藩2代酒井家次→3代松平戸田康長→4代松平信吉
http://53922401.at.webry.info/201310/article_10.html

箕輪初心★高崎藩5〜7代安藤3人&徳川忠長
http://53922401.at.webry.info/201310/article_13.html


箕輪初心★高崎藩8代・10代松平輝貞&「右京の泣き堀」
http://53922401.at.webry.info/201310/article_14.html

箕輪初心★高崎藩9代:間部詮房(あきふさ)=正徳の治
http://53922401.at.webry.info/201310/article_15.html

箕輪初心★高崎藩主11代〜18代:松平家
http://53922401.at.webry.info/201310/article_16.html

箕輪初心★高崎藩最後の藩主19代:松平大河内輝聲(てるな)
http://53922401.at.webry.info/201310/article_17.html



箕輪初心■東京&群馬:小栗上野介C「権田村での隠遁生活」
http://53922401.at.webry.info/201107/article_1.html

箕輪初心◆水戸天狗党3−1『水戸〜下仁田戦争直前』
http://53922401.at.webry.info/201303/article_25.html

箕輪初心◆水戸天狗党3の2『下仁田戦争の詳細編』
http://53922401.at.webry.info/201303/article_26.html


箕輪初心★「高崎の文化人19+α」江戸時代編
http://53922401.at.webry.info/201310/article_19.html

箕輪初心◆高崎藩の中山道&三国街道・倉賀野宿&高崎宿
http://53922401.at.webry.info/201310/article_18.html






【0】榛名の「秣場」
●榛名山の東から
 @榛東村・吉岡町の入会地「大野秣場」
 A旧高崎・旧箕郷町「中野秣場」
 B旧榛名室田の入会地「内野秣場」
 C旧榛名里見3ヶ村それぞれの入会地
 D旧倉渕地区の入会地
 E榛名神社社家町の入会地
 F榛名神社の社領
 G御料林(幕府直轄領)と並んでいた。
 H時には、個人の山林もあった。
●「秣場」
「秣(まぐさ)」とは、馬の餌にする青草のことである。
 ★たぶん「馬草(まぐさ)」なのであろうと思っていた。
→「秣」を取る場所なので、「秣場」となる。
@草は牛馬の餌にするために飼い葉=青草を採った。
A青草を「刈敷」として、直接田畑にまいた。これが農業の基本で
 あった。
Bミズナラやクヌギの葉の落ち葉枯れ葉を牛馬の糞と混ぜて
 堆肥を作り、田畑にまいた。
稲のわらは縄やむしろやかますや俵に使用できるので、使ってい
 なかった。化学肥料がなかったので、落ち葉は堆肥にした。
 干鰯(ほしか)も少しは房総から上野国に入って来てはいたが・・。 
B枯れてないナラやミズナラは薪炭の木として利用された。
C枯れ枝は燃料として採取した。
D家屋や土木工事の用材として採取した。
E萱は屋根をふくために利用した。
・・・つまり、生活に必要な資源であったのだ。

入会地の山林は境があまりはっきりしていなかった。それ故、
争いが度々起こった。




●▲■榛名の「元禄秣場争論」■▲●
@「山元村」・・・入会地を持つ村
    山間部の隣接している農家は資源を豊富に入手できた。
●上里見村・・・・・・・間野山入会地
●中里見村・塚崎村・・・猪ノ毛山入会地
●下里見村・・・・・・・堂尾山入会地であった。
A「札下村」・・・「山元村」に「秣場」入る権利を頼んでいる村
 である。米やお金を払い、山札(入山許可証)発行し、時期、場所
 採取草木、量を指定した。平地部の八幡村・剣崎村などである。
 平地部の農家では資源の入手が困難であった。
1)元禄3年(1690) 八幡村・剣崎村 VS 里見3ヶ村
  八幡村・剣崎村 
  「猪ノ毛山は八幡村・剣崎村・塚崎村の入会地である。また、
   堂尾山は里見3ヶ村と八幡村・剣崎村の入会地である。」
   と、言い張った。
  里見三ヶ村は、入会を拒否し、領主の役人に訴えた。
8月14日 里見3ヶ村が勝利した

2)元禄15年(1702)
室田3ヶ村 VS 榛名神社社家町の入会地
室田3ヶ村は榛名神社社家町との入会地の境界線の訴訟を
起こした。
結果・・室田3ヶ村が勝訴。


3)元禄15年(1702)〜元禄17年(1714)
「中野秣場」「大野秣場」へと広がった。
「野付村・札元村13ヶ村 VS 92ヶ村
結果・・・
(★漫画:榛名の歴史))


〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜


●▲■真塩紋弥と「中野秣(まぐさ)場騒動」 ■▲●
●「中野」・・・箕郷町から榛東村の榛名山東麓の3100町歩
 (約3100ha)に及ぶ林野のことである。
現在でも、高崎市箕郷町中野がある。駒寄の先唐松地区〜
松の沢地区である。唐松廃寺跡には救世新教が聖地として
守っている。
「中野秣場」は元禄時代以降、82ヶ村の「入会地」であった。
榛名山の南麓「中野秣場」は入会権を持った場所であった。
 (★箕郷町誌)

※82ヶ村の農家は3タイプに分けられていた。
@「野付村」・・・中野に隣接している6ヶ村。
  旧榛名町・・・・・宮沢村・十文字村・
  現高崎市箕郷町・・善地村・松之沢23戸・矢原村
現榛東村・・・・・広馬場村
  山間部の隣接している農家は資源を豊富に入手できた。
A「札元村」・・・12ヶ村。西明屋村など。
B「札下村」・・・「野付村」「札元村」に「中野秣場」入る権利を頼ん
 でいる村である。平地部の浜川村・小塙村・下小鳥村・三ツ寺村
 福島村などである。平地部の農家では資源の入手が困難であった。
 そこで、平地部の村の農家にも共同利用できる「入会地(いりあ
 いち)」を高崎藩などの領主は設定した。入会権を持つ村では中野
 秣場への入場は出入り自由であった。しかし、農民は「秣税」を納
 める義務があった。「札下村」は「秣札」の売り上げの8割を「野
 付村」「札元村」に納めていたのだ。でも、この方法で問題は起き
 てはいなかった。
 箕郷町の梅の里大橋の西にも8軒の家の入会地というのもあった。



【1】起の章
・明治6年(1873)「中野秣場」が国有地になった。
 野付村・札元村、札下村という不平等な「秣札」制は廃止された。
 入会地の村々の農民は公平に「秣場」を利用できるようになった。
 秣税168円98銭を83ヶ村の戸数や人口などにより割り付けて、
 各村々の農民が人数に応じて負担することとなったのだ。
 金敷平村が加わって83ヶ村となった。

・明治8年(1875) 地租改正のための測量
「中野秣場」3100町歩の内、野付である松之沢村の飛び地47町歩
(★48町:箕郷町誌では)だけが、松之沢村の官有地として登録
 された。松之沢村は23戸で35銭七厘5毛の最低の入会費であ
 る。松之沢村の清水茂平・清水勇蔵・清水馬三郎・清水五郎平・
 清水徳太郎・清水谷八・清水豊七・清水要七の8名が・・・・・
 47町歩の土地を「部分木地」として県に申請した。
清水一族の中に法令を上手く利用して、県に届け出たら、独占
 して、秣場が活用できると考えたリーダーがいたのだ。
おそらくは清水の大本家・・・といっても、今でもほとんど
 清水姓である。そして、松之沢村の清水家は県にコネクションが
 あったとも考えられる。


・明治12年(1879) 楫取素彦県令は松之沢村は権利を与えた。
 松之沢村は権利を取得し、「部分木地」への植林を始めた。そして、
 他地区の農民の立ち入りを禁止した。
この松之沢の単独行動は2つの事件・騒動となって現れた。


【2】承の章
・明治13年(1880)7月
「札下村」の行動
 @行力村の農民が「部分木地」に侵入し、松之沢村民に咎められて
  警察沙汰になるという事件が起こった。
 A浜川村の農民が「部分木地」の雑木を伐採して、松ノ沢村民に捕
  えられて、諸道具と雑木を没収されるという騒ぎが起こった。

この2つの事件が、松之沢村に対して不快感を抱いていた多くの村の
農民たちの気持ちに火を付けてしまった。これが「中野秣場騒動」の
きっかけになってしまった。
 
10月15日
 「札下村」の5人〜10人が松之沢に不平を言いに言った。
10月16日〜17日
 450人程にふくれあがった。
10月18日
 1000有余人になり、弁当持ちで集結し、松之沢の
 「部分木地」に入って伐採を始めた。
 松之沢村の農民もビックリして・・・阻止しようとした。

 5分の1程伐採した。
 松之沢村は警察に通報した。
「札下村」の農民達は警察の制止を聞き入れなかった。

 白川の河原に集結した。
 箕輪城や箕輪城渥鎮(=丸戸張)の「札下村」の農民は、
4000人?が集まった。西明屋に入った。
 真塩紋弥も箕輪城の城堀鎖口にでむいた。

10月19日
松の沢村以外の82ヶ村の代表は、浜川の来迎寺に集合して話し合
いをした。大総代に選出されたのが、42歳の真塩紋弥であった。
おそらくは、高崎5万石騒動で、3人が斬罪などの状況は真下
 紋弥も知っていたはずである。しかるに大総代を引き受けたのだ。

そして、「松之沢村の出方によっては、身を捨てん。・・・」

県会議員:志村彪三&郡長:下田連動が仲裁に入った。 
10月20日
 松之沢総代:柏木長兵衛と松之沢の清水勇蔵ら7名が
 話し合いに応じた。
でも、騒動は5日間も続いた。

〜〜〜〜〜^〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 

11月16日 箕郷町上芝:旅館「上武屋」:高橋和一郎宅
 ★こんな旅館があったのか?知らなかったよーん。
棟高村の県会議員:志村彪三の仲裁で、旅館「上武屋」に集まった。
・真塩紋弥と総代・・・
・県会議員:志村彪三&郡長:下田連蔵
・仲裁人=弁護士:山下知行
・松之沢総代:柏木長兵衛&清水某であった。
真塩紋弥らは、松之沢村との間に和解約定書を交わすことに成功した。

和解約定書には、
第一条 松ノ沢村8人の「部分木地」を官有地に取り消す。
第二条「部分木地」に植えた木は役所の許可が下り次第伐採する。
 などの6条があり、従前通りの「秣場」になるはずだった。

11月17日 
松ノ沢村のもう一人の総代:清水茂平は和解を破棄し、弁護士:山下
知行に頼んで逆に他の村々を訴えた。

第2条の「植えた木の伐採」の群馬郡役所の許可がいつまで経っ
 ても下りなかった。
裁判所の許可が下りず→郡長:下田連動が迷っていたのかもしれない。
〜〜〜〜ここで、騒動はまた再燃してしまった。〜〜〜〜


【3】転の章
・明治14年(1881)
3月5日・・・待たせられること4ヶ月。
 札下63ヶ村は保渡田村北部の満行社に1000余人が
集結した。→三ツ寺村の奧川原に移動した頃には、15歳以上が
2000人とも言われる人数が集結した。
真塩紋弥らは・・・騒動を鎮めた。無血であった。 
県会議員:志村彪三は「真塩紋弥が長引かせている。」と言った。
 新聞も真塩紋弥を批判した。

3月9日 
 81ヶ村の代表達は福島村の金剛寺に集結した。
 64ヶ村の代表に・・ 
 真塩紋弥・青木亀吉・梅村伝七・反町喜平太・町田狂作・
 森山武右衞門は連盟で、県知事:鹿取素彦に嘆願書を
 提出した。

 一方で、「部分木地」の伐採強行を決議した。

 群馬県は、官憲=警察・軍隊を出動させて鎮圧に乗り出した。

 真塩紋弥らは扇動者として、官憲から追われることになった。


3月16日
  真塩紋弥と福島村:青木亀吉は東京の内務省に駆け込み、事件の
  真相を内務卿:松方正義に直訴しようとした。
  しかし、待ち構えていた警視庁により逮捕されてしまった。

3月17日
  熊谷裁判所前橋支庁は、真塩紋弥・青木亀吉に対し、取調を開始
  した。
  




【4】結の章
4月7日
「中野秣場入手の件」という通達が出された。
 
12月21日
真塩紋弥。青木亀吉は前橋裁判所より
「凶徒嘯聚(しょうしゅ)懲役2年半、讒謗律(ざんぼうりつ)3違反で
禁獄30日」
の判決を言い渡された。
真塩紋弥・青木亀吉は上告したが棄却された。
 
真塩紋弥・青木亀吉は岩鼻監獄に投獄された。


★82ヶ村の村はリーダーを失い、次第に沈静化した。
※その後、帝国林野局の調査が入り、公平に処置された。


・明治17年(1884) 三ツ寺村民は保釈請願をした。
  刑期途中で保釈された。
  
 真塩紋弥は、再び教育の道に戻った。

・明治43年(1910) 鬼石町に移住した。

・明治44年(1911) 74歳の生涯を閉じた。




■■ 真下紋弥の墓 ■■
 旧群馬町稲荷台公民館の隣にある。
 
 真塩家墓地の一角に建っている。
 (★写真が見つからない。)


■■ 真下紋弥の碑 ■■
場所は堤ヶ岡小学校西の「堤下公園」の信号を西に入ってすぐの
三叉路に「真鹽紋彌翁之碑」は建っている。
画像

昔の通勤路でもあった。ここで、追突されたこともあった。
・天保9年(1838)旧群馬町の稲荷台に生まれた。
 後に三ツ寺に移った。幼い頃から学問を好み、19歳の時、
 江戸下谷の成島図書頭の塾で漢籍を学んだ。
・文久3年(1863) 三ツ寺に戻ってきた。
  私塾「芳叢(ほうそう)書院塾」を開いた。
  300数十人という門弟を輩出した。
★私の母方の祖母の実家から100m離れた場所にある。
私の祖母の父も教わったたしい。
・明治6年(1873) 棟高小学校=堤ヶ岡小学校=大乗寺の
  最初の正教員就任した。
・大正2年(1913) 門弟たちが建てた顕彰碑を建てた。
画像


★関係ないげど、隣の諏訪神社の蚕影神
画像



★参考文献
「箕郷町誌」・・・★ベース。
「群馬町誌」
「群馬町の文化財」
「群馬県史」
「高崎市史」
「漫画 榛名の歴史」


★参考サイト
◆◆ 隠居の思ひつ記 ◆◆
http://inkyo.gunmablog.net/d2010-02-27.html



★明日は高崎地区の偉人かな?・・・。

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コメント(2件)

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偉大な人で、生き方として素晴らしかった。2年半の懲役は、さぞかし、大変だったでしょう。最後は不遇な晩年だったと思います。
みの
2015/02/15 17:52
読んでくださって、ありがとうございます。
人の役に立つって、大変なことですね。
みの
2015/02/16 05:43

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箕輪初心★榛名「元禄内野秣場騒動」&「中野秣場騒動&真下紋弥」 城・陶芸・ハイキング・ダイビング・スキー・旅行/BIGLOBEウェブリブログ
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