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zoom RSS 箕輪初心★高崎藩最後の藩主19代:松平大河内輝聲(てるな)

<<   作成日時 : 2013/10/17 06:31   >>

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高崎城の最後の藩主は、松平大河内家11代:大河内輝聲である。
大河内輝聲は下仁田戦争で36名を失ったり、東山道鎮撫総督府軍
に従い、小栗上野介忠順(ただまさ)を追討したり三国戦争や戸倉戦
争に出兵させたりした。戦費の増大や東山道鎮撫総督府軍への献金
10000両は、「八公二民」の税制という形で、さらに農民を苦しませ
る結果になり、最終的には五万石騒動と発展していった。

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箕輪初心★箕輪城103川野辺寛「高崎誌」&井伊直政
http://53922401.at.webry.info/201310/article_8.html


箕輪初心★高崎藩2代酒井家次→3代松平戸田康長→4代松平信吉
http://53922401.at.webry.info/201310/article_10.html

箕輪初心★高崎藩5〜7代安藤3人&徳川忠長
http://53922401.at.webry.info/201310/article_13.html


箕輪初心★高崎藩8代・10代松平輝貞&「右京の泣き堀」
http://53922401.at.webry.info/201310/article_14.html

箕輪初心★高崎藩9代:間部詮房(あきふさ)=正徳の治
http://53922401.at.webry.info/201310/article_15.html

箕輪初心★高崎藩主11代〜18代:松平家
http://53922401.at.webry.info/201310/article_16.html

箕輪初心■東京&群馬:小栗上野介C「権田村での隠遁生活」
http://53922401.at.webry.info/201107/article_1.html

箕輪初心◆水戸天狗党3−1『水戸〜下仁田戦争直前』
http://53922401.at.webry.info/201303/article_25.html

箕輪初心◆水戸天狗党3の2『下仁田戦争の詳細編』
http://53922401.at.webry.info/201303/article_26.html




※「島原の乱」を平定し、「知恵伊豆」と呼ばれた松平信綱が大河内
輝聲の先祖である。
【19】19代:松平輝聲(てるあき→てるな)1860-1871
※高崎松平第9代藩主:松平輝聴の長男。母は堀田正睦の息女。
正室は酒井忠発の娘。継室は杉原氏。

・安政6年(1859) 将軍:徳川家茂に拝謁する。
・万延元年(1860) 8月24日、13歳で家督を継ぐ。

・文久元年(1865)皇女和宮の降嫁
中山道坂本宿〜本庄宿まで警護をした。

・文久2年(1862) 従五位下・右京亮に叙任される。

※藩政&軍政の近代化に取り組んだ。
フランス人シャノアンに洋式兵法を学んだ。
国家老:浅井貞順が「浅井党事件」を起こした。
農兵をの「強心隊」を組織して、撃退した。

・元治元年(1864)
下仁田戦争
高崎藩兵300人中、36人を失った。
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 (★里見哲夫先生宅=高崎藩本陣)
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箕輪初心◆水戸天狗党3−1『水戸〜下仁田戦争直前』
http://53922401.at.webry.info/201303/article_25.html

箕輪初心◆水戸天狗党3の2『下仁田戦争の詳細編』
http://53922401.at.webry.info/201303/article_26.html


・慶応2年(1866) 8月5日 甲府城代。

・慶応3年(1867) 9月6日 奏者番。
10月29日 20歳で陸軍奉行並に就任した。
・慶応4年(1868)1月20日 陸軍奉行を辞任。
●東山道総督府の来藩・・・小栗上野介の斬首にも関わった。
3月8日東山道総督府の総督:岩倉具定を相生町で出迎えた。
大手門北の石上寺に本陣をおいた。

3月12日 松平輝聲は10000両&馬上元込銃20挺、弾薬1000発
を献上した。


3月15日 江戸城総攻撃の予定と聞いた。
※招集一揆がおこっていた。
松平輝聲 「一揆の理由を言えば、総督府が善処する」
という触れを出した。
しかし、総督府巡察使:大音龍太郎は武力鎮圧を命令した。

大音龍太郎は近江(滋賀県)の元彦根藩士であったが、浪人して
高崎市箕郷の龍門寺に3年、居候をしていた人物である。
小栗惨殺にたいしても、いい加減な対応であった。

4月22日  東山道総督が高崎藩・安中藩・吉井藩に小栗の追補命令。  
※東山道総督:岩倉具定(具視の子17歳)
※東山道福総督:岩倉具経(具視の子16歳)
 ※参謀:板垣退助 & 伊知地正治・・・実質的な指令。 
「小栗上野介・・陣屋を厳重に相構え・・・。」

 4月29日  東山道総督の命  神山宿で大井・沓掛が面会。
      →三藩は追補兵を三ノ倉に宿陣(全透院)。
閏4月 1日  三藩は観音山等を検分。
       逆謀私心無き事を知り、銃5挺などを押収。
閏4月 2日  養子又一、用人塚本真彦、沓掛藤五郎、多田金之助を
       随員として高崎藩へ 無実弁明のため出向いた。
閏4月 3日 妻の脱出計画。・・・後。会津へ。
閏4月 4日 ※東山道鎮撫総督府軍監副巡察使:原保太郎・豊永貫一郎
「小栗上野介は大罪人であるから、追補せよ。」と激怒。
「従わない場合は、3藩に保証はない。」と脅迫された。


巡察使:大音龍太郎の意向もあった。(★村上泰賢先生)

大音龍太郎・・・近江伊香郡木之本村大音(小谷城近く)
の出身で、勤王浪人・・・箕輪村龍門寺(井伊直政建立の
鬼門の寺)に2年程滞在・・巡察使・・初代:岩鼻県知事)
  (龍門寺19世に大音は世話になった。上野通なのだ。)


閏4月 5日 3藩の兵が東善寺裏山より侵入。
       小栗上野介らを捕縛→三ノ倉の陣屋(戸塚宅)に連行。

閏4月 6日  取り調べなく、水沼川原で家臣とともに斬殺。
    大井礒十郎・渡辺太三郎・荒川祐蔵・・斬首。
    小栗上野介を斬首。
   
 ・安中藩徒目付:浅田五郎作が原に命じられ、斬首した。
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閏4月 7日  高崎藩牢屋敷処刑場で
       養子:小栗又一・用人:塚本真彦、
       沓掛藤五郎、多田金之助を斬首。

 ※勝海舟の陰謀説もあるが、不明である。
 ★でも、勝海舟は小栗が嫌いで、陰険な男で性格であった可能性も
   大いにある。
  つまり、幕府の中に、小栗の敵がいたことになる。

●=〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

4月   大音龍太郎の届け出 
「小栗上野介は松平容保・小笠原壱岐守と結託し、碓氷峠で
   官軍の待ち伏せを計画するため、権田村に引き込んだ。
   百姓が蜂起すると、罪のない百姓を殴打した。
   官軍たりとも我が地に踏み込んだ者は取ってやる・・・
   そこで、高崎・安中・吉井の3藩を・・差し向けたところ
   機械を隠し・・・「中略」・・・鉄砲数十挺を土の中に・・
   上野介父子並家来六人を斬罪にしました。・・・」

   ★捏造だった。
後の岩鼻県の県知事になったが、悪政ですぐに退任した。

★★箕輪初心★小栗上野介「惨殺」 ★★
http://53922401.at.webry.info/201107/article_1.html



・慶応4年(1868) 4月、松平姓を改め、本姓の大河内に復した。

   閏4月4日、松平輝聲 は上洛した。

・明治2年(1869)高崎知藩事に任ぜられた。

・明治2年(1869)〜3年(1870)高崎五万石騒動
 高崎藩城付5万石領地で発生した農民一揆である。
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・明治4年(1871) 廃藩置県。

・明治6年(1873)「中野秣場」が国有地になった。
野付、札元、札下という不平等な「秣札」制は廃止された。
 入会の村々は公平に「秣場」を利用できた。
 秣税168円98銭を82ヶ村の戸数や人口などにより割り付けて、
 各村々が負担することとなった。

・明治8年(1875) 地租改正のための測量
  「中野秣場」3100町歩の内、松ノ沢村の飛び地47町歩だけが、
  松の沢村23戸の官有地として登録された。
  松の沢村の清水8名は47町歩の土地を「部分木地]として
  県令:鹿取素彦に申請した。

・明治12年(1879) 松ノ沢村は権利を取得し、「部分木地」への植林
   を始めた。そして他の村民の立ち入りを禁止した。

・明治13年(1880)7月
 @行力村の農民が「部分木地」に侵入し、松ノ沢村民に咎められて
  警察沙汰になるという事件が起こった。
 A浜川村の農民が「部分木地」の雑木を伐採して、松ノ沢村民に捕
   えられて没収されるという騒ぎが起こった。

この2つの事件が、松ノ沢村に対して不快感を抱いていた多くの村の
火種となった。

10月15日〜
 450名集結・・・松ノ沢村の「部分木地」に入って伐採を始めた。
10月18日
 白川の河原に集結した2千人?の農民は、
 高崎警察署が出兵した。
 でも、騒動は5日間も続いた。
10月19日
 松ノ沢村以外の81ヶ村の代表は、浜川の来迎寺に集合して話し合
 いをした。
 大総代に選出されたのが、42歳の真塩紋弥であった。

11月
真塩紋弥らは、棟高村の県会議員・志村彪三の仲裁で、松ノ沢村との
間に和解約定書を交わすことに成功した。
箕郷の「上武屋」旅館で会合した。
中野秣場騒動の詳細編は後日、紹介しようと思う。



・明治15年(1883)8月15日死去。35歳。


子・・・長男:大河内輝耕(妻は徳川慶喜の8女:国子)
    4男戸田氏秀・・・
娘・・・浅野長之継室、内藤頼輔正室


※漢学的教養があり、中国文化愛好者崇拝者としても知られている。
 日本に赴任した清国駐日公使:何如璋の一行との交流の筆談集=
 記録が残されている。
 (★『大河内文書』:「平凡社東洋文庫」)




★明日は・・・

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