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zoom RSS 箕輪初心★高崎藩主11代〜18代:松平家

<<   作成日時 : 2013/10/16 07:28   >>

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10代:松平輝貞の後→11代:松平輝規(1745-1749)→
12代:松平輝高(1749-1781)→ 13代:松平輝和1781-1800 →
14代:松平輝延1800-1825→15代:松平輝承1825-1839 →
16代:松平輝徳1839-1840 →17代:松平輝充1840-1846→
18代:松平輝聴1846-1860 →19代:松平輝聲1860-1871 →

廃藩置県となった。高崎藩の藩主は検地し、農民に増税を課した。
高崎市史でも、高崎の繁栄のための業績については、ほとんど書
かれていない。

画像


箕輪初心★箕輪城103川野辺寛「高崎誌」&井伊直政
http://53922401.at.webry.info/201310/article_8.html


箕輪初心★高崎藩2代酒井家次→3代松平戸田康長→4代松平信吉
http://53922401.at.webry.info/201310/article_10.html

箕輪初心★高崎藩5〜7代安藤3人&徳川忠長
http://53922401.at.webry.info/201310/article_13.html


箕輪初心★高崎藩8代・10代松平輝貞&「右京の泣き堀」
http://53922401.at.webry.info/201310/article_14.html

箕輪初心★高崎藩9代:間部詮房(あきふさ)=正徳の治
http://53922401.at.webry.info/201310/article_15.html



【11】11代:松平輝規(1745-1749)
※松平輝貞の養子
・元文4年(1739) 教訓書『見聞相染集(そうぜんしゅう)』を著した。
書名は実父:松平信定が詠んだ歌
 「見つ聞きつ いにしへ今の かずかずに 思を染むる 言の葉の道」
 に由来する。『愼怖記(しんふき)』という。
・延享2年(1745) 12月11日 高崎城主の家督を相続。
  閏12月16日 従四位下。
・延享3年(1746) 越後の一ノ木村に陣屋を設置。
・延享4年(1747) 11月15日 右京大夫と改める。
・寛延2年(1749) 2月9日 致仕。
・宝暦6年(1756) 2月29日 死去。
松平輝規の高崎藩での業績?・・・不明。
 

【12】12代:松平輝高(1749-1781)→
※高崎藩11代:松平輝規の長男。
・寛延2年(1749) 2月9日 家督を相続し、高崎藩主となる。
       12月18日 奏者番
・宝暦元年(1751) 1月15日 寺社奉行兼担。右京亮に改める。
・宝暦2年(1752) 4月7日 大坂城代に任ぜられる。
             従四位下右京大夫
・宝暦6年(1756) 5月7日 京都所司代。侍従となる
・宝暦8年(1758) 7月24日 ●宝暦事件
徳大寺家の竹内式部敬持は公卿に
 「神話・・天皇の歴史」を説明した。
   竹内式部敬持を逮捕した。
老中となった。
・明和元年(1763)◆明和の伝馬騒動
日光例幣使街道の助郷の増郷に対する一揆であり、
 秩父方面まで広がった。高崎藩にも及んだ。
松平輝高は鎮圧のため、鉄砲を使用した。
これ以降、幕府は一揆鎮圧に鉄砲使用を認めた。
・明和4年(1767)●明和事件
山県大弐・藤井右門・竹内式部敬持の起こした思想事件
山県大弐の弟子:小幡藩家老の吉田玄蕃が藩内抗争に敗れ
た時、「大弐に謀反の企てがある。」という密告をした。
・・・山県大弐・藤井右門・竹内式部は死罪にした。
宝暦事件と明和事件は、松平輝高が尊皇論者の処罰した最初
  のケースである。

・安永8年(1779) 松平武元の死去。老中首座・勝手掛も兼任。
       12月15日、1万石加増。都合8万2千石。
・安永9年(1780) 田沼意次とともに老中を続けた。
  田沼意次と松平輝高は養蚕業は盛んになってくると、
絹の運上金の制度を確立しようと考えた。
@流通の円滑化 A商品規格の一定化 B改所設置
→運上金の確保・・・上州の藩主は喜んだ。
・天明元年(1781)◆天明の絹一揆
 7月 松平輝高が総指揮をとり、上州の特産物である絹織物や
  生糸に課税を試みた。公布されると、高崎で一揆が発生した。 
  西上州の農民の反対一揆・打ちこわしへと発展していった。
 8月13日 御用商人「大黒屋」の打ち壊し、農民一揆集団が
 居城の高崎城を攻撃するという前代未聞の事態に発展した。
 高崎藩の兵隊ははじめは空砲で驚かせたが、再び農民が押し寄
 せると、実弾で射殺した。
 一揆の様子は上州諸藩や高崎藩からも幕府に伝えられた。 
 8月16日→江戸幕府将軍:徳川家治は課税を撤回した。
  しかし、松平輝高は鬱病になってしまった。
当然でしょう。
  徳川家治に辞意を明言したが、辞めさせてもらえなかった。
約1ヶ月後、・・・城中で倒れ・・・
・天明元年(1781) 9月25日 現職のまま死去。享年57。
長男:輝行が早世したため、次男:輝和が家督を相続した。
松平輝高の高崎藩での業績。?
ほとんど、高崎にいることはなかった。
 藩校:遊芸館の設置位かな
  (★高崎市史)





【13】13代:松平輝和1781-1800 →
  高崎藩第3代藩主:松平輝高の次男。
・安永4年(1775) 7月5日 兄:輝行の死去により、嫡子となる。
・天明元年(1781)8月 ●天明の絹一揆・・・
         11月11日 家督を継いだ。
・天明3年(1783)
※4月9日〜浅間山の大噴火・・
  高崎では3寸〜5寸(9〜15cm)
倉賀野・矢中方面は18cm
軽井沢では25cm・・  
→ 農民の困窮
★多難な時代に高崎藩主になった。
         9月1日奏者番。
・天明4年(1784) 4月26日 寺社奉行を兼任する。
・寛政10年(1798) 12月8日 大坂城代となる。
・寛政12年(1800)任地の大坂で病没した。
松平輝規の高崎藩での業績?
赤字の累積は達磨式に増えていった。
 →「八公二民」に税制改革をした。
 @財政再建
 A倹約令
 B金子の調達
訴訟の窓口を設けた。
しかし、人口減少により、財政立て直しはできなかった。
 大石久敬に「地方凡例録」を書かせた。
川野辺寛に「高崎誌」を書かせた。


【14】14代:松平輝延1800-1825→
高崎藩第3代藩主・松平輝高の三男。
寛政12年(1800年)11月12日、家督を継いで高崎藩主となる。
享和元年(1801年)6月27日、奏者番となる。
享和2年(1802年)4月28日、寺社奉行となる。
文化12年(1815年)4月29日、従四位下となり、大坂城代に任ぜられる。
文政6年(1823年)11月13日、老中となる。12月15日、侍従となる。
文政8年(1825年)2月17日、卒。
松平輝規の高崎藩での業績?
赤字の累積は達磨式に増えていった。
 →「八公二民」に税制改革をした。



【15】15代:松平輝承1825-1839 →
高崎藩第5代藩主・松平輝延の3男として大坂に生まれる。
輝延の養子:輝健、長兄:輝茂や次兄:輝実が早世したため、
継嗣となった。
・文政8年(1825) 4月4日 家督を継ぐ。
・天保9年(1838) 9月1日 奏者番。
・天保10年(1839) 6月26日満22歳で没した。
 嗣子が無かったため、家督は養子の輝徳が継いだ。
松平輝規の高崎藩での業績?
赤字の累積は達磨式にさらに増えていった。3700両の赤字。
 →「八公二民」に税制改革を継続した。




【16】16代:松平輝徳1839-1840 →
松平正温の孫で5000石の旗本・松平信弥(のぶみつ)の次男。
生家は三河吉田藩の分家。従五位下、右京亮を称する。
・天保10年(1839)9月12日 養子として家督を相続する。
・天保11年(1840) 死去した。
嗣子が無かったため、養子の輝充が後を継いだ。
松平輝徳の高崎藩での業績?
在位1年・・・不明。



【17】17代:松平輝充1840-1846→
美濃高富藩主:本庄道昌の五男。
・天保11年(1840) 松平輝徳の養子として、高崎藩に入る。
・弘化3年(1846) 9月23日 家督を養子:輝聴に譲って隠居した。
・文久2年(1862) 41歳で死去。
松平輝充の高崎藩での業績?
在位6年・・・不明。



【18】18代:松平輝聴1846-1860 →
高崎藩大河内松平家10代。上総大多喜藩主:松平正敬の四男。
・弘化3年(1846)4月24日 輝充の養嗣子となる。
  9月23日 家督を継ぐ。
  12月16日 右京亮に叙任。
・嘉永2年(1849) 1月28日 奏者番。
・嘉永5年(1852) 7月8日 寺社奉行見習い。
・安政3年(1856) 9月24日 寺社奉行に任ぜられる。
・万延元年(1860) 7月2日 死亡。
松平輝充の高崎藩での業績?
在位24年・・・不明。



【19】19代:松平輝聲(てるあき→てるな)1860-1871 →
※高崎松平第9代藩主:松平輝聴の長男。母は堀田正睦の息女。
・万延元年(1860)8月24日 13歳で家督を継ぐ。
・文久2年(1862)12月11日 従五位下右京亮。
・元治元年(1864)●下仁田戦争
・慶応2年(1866) 8月5日 甲府城代を命じられた。
・慶応3年(1867) 9月6日 奏者番に就任した。 
       10月29日 陸軍奉行並に就任した。
・慶応4年(1868) 1月20日 陸軍奉行を辞任した。
●東山道総督府の来藩&小栗上野介の斬首
       閏4月4日 上洛した。
・慶応4年(1868) 4月 本姓の大河内に復した。
・明治2年(1869) 高崎知藩事に任ぜられた。
・明治4年(1871) 廃藩置県となった。
高崎藩での業績?・・・不明




★松平輝聲の詳細は明日かな?

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