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zoom RSS 箕輪初心★高崎藩9代:間部詮房(あきふさ)=正徳の治

<<   作成日時 : 2013/10/15 06:04   >>

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間部詮房(あきふさ)は江戸時代に猿楽師から大名になったラッキー
なおじさん=スーパー出世の人物である。6代将軍:徳川家宣の側用
人で、老中次座であった。徳川家宣・新井白石・間部詮房との3人体
制で、正徳の治を行った。相模厚木藩主→上野高崎藩主→越後村
上藩主になった。最盛期の高崎には6年間、在籍した。

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箕輪初心★高崎藩5〜7代安藤3人&徳川忠長
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★★ 間部詮房の生涯 ★★

・寛文6年(1666) 5月16日(6月18日)
甲府藩主:徳川綱豊後6代将軍徳川家宣)の家臣・西田清貞の子
 として生まれる。
 
  はじめは猿楽師・喜多七太夫の弟子であった。

・貞享元年(1684) 19歳
   甲府藩:徳川綱豊の小姓で150俵10人扶持となった。
   徳川綱重の嫡男=綱豊は才気溢れる超イケメン:詮房を
   寵愛した。
   ★気に入られて小姓に取り立てられたことから、出世街道
    まっしぐらとなった。
   

・貞享4年(1687) 甲州藩両番頭格
・元禄元年(1688) 甲州藩藩奏者役格
・元禄2年(1689) 甲州藩藩用人
・元禄12年(1699) 甲州藩藩用人1,500石
★徳川綱豊の用人にまで出世した。
徳川綱豊の命によって、藤原北家山蔭流間鍋氏の姓を賜り、
  間部氏と改姓した。

・宝永元年(1704) 39歳
  徳川綱豊の江戸城西の丸城に入った。=次期、将軍候補なのだ。
  徳川綱豊が5代将軍:徳川綱吉の後継者に選ばれたのだった。
江戸城西の丸に入った。・・・ウハウハ状態だった。
  徳川綱豊→家宣(いえのぶ)と名を改めた。
 ★詮房にラッキー&スーパーサプライズが訪れたのであった。
  甲府の徳川家の家臣団は幕臣に編入されたのだ。
  間部詮房は従五位下・越前守に叙任された。
  間部詮房はこの時から、身分は幕臣となったのであった。
  幕府書院番頭格西丸(将軍後継者徳川家宣)奥番頭となった。

・宝永2年(1705) 1,500石加増で西丸側衆3,000石

・宝永3年(1706) 若年寄の次座=若年寄格。
   相模国内+鎌倉などで計1万石の大名。
   ★1万石領主=大名になったのだ。
   さらに、官位は上がった。      
   12月15日   老中の次座。従四位下に昇叙。

・宝永6年(1709) 4月15日〜 側用人。侍従兼任。
5代将軍:綱吉が死亡。・・
 →第6代将軍は家宣・・・老中格=老中次座に昇進。


●宝永7年(1710年)5月23日 上野国高崎5万石に転封。
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間部詮房150俵10人扶→高崎5万石を得たのだ。
   間部詮房は、側衆→若年寄次座→老中次座を命じられた。
憧れの地:高崎に来たのだった。・・・
高崎は当時、高級官僚の支配地の人気bPであった。
   徳川家宣に仕えて23年・・・もとは能役者。
   驚異的な出世であった。



▲▲ 間部詮房の幕政改革「正徳の治」
新井白石を登用した。
徳川家宣・新井白石・間部詮房との3人体制で、正徳の治
 を行った。
 @新井白石が法改正・政治の方針を計画する
 A間部詮房が幕閣に根回しし、世襲の門閥の譜代大名や大奥
  などの勢力を押さえたり、味方に引き込んだりする。
 B徳川家宣が決定し、公布する。
 「生類憐みの令の廃止」
 「貨幣の改良」・・・質のいい大判小判であった。
 「新しい武家諸法度」の発布など・・・



・正徳2年(1712) 徳川家宣が死亡。51歳。
 ▼徳川家宣の世は、わずか4年で終わりを告げた。
 間部詮房・新井白石の政治は、政治的権威=バックグランドが
 将軍:徳川家宣だけであった。
 徳川家宣死後、幼少の徳川家継が将軍職を継ぐにあたり、門閥の
 老中や反甲府派の幕閣の抵抗が強まっていった。

 
 ▼▼後継者である嫡男=家継はわずか3歳・・・
  当然、「こういう時のための御三家。御三家の血筋から将軍に」
  という声があがった。
  尾張藩主の徳川吉通(よしみち)の名もあがった。
 
  
 ▲間部詮房&新井白石が後ろ盾になり、
  徳川家継を第7代将軍にした。

  3歳なら、間部詮房&新井白石の思い通りですがね。
でも、ことはそう簡単ではなかった。
  しかし、幕府の政策を間部詮房・新井白石だけで決める事は
  できないのである。将軍にお伺いをたてなければならないのだ。
  3歳の将軍の代わりは月光院が決済したのであろう・・・。
  将軍と母:月光院のご機嫌を取りながらの政務が続いた。
  ★3歳の幼君のご機嫌取りもたいへんであっただろう。
  ご機嫌をそこねないためには、生母:お喜世の方の
  おそばに近くにいなければ、ならなかった。
  そう、お喜世の方が、大奥に君臨する月光院であった。

 
 間部詮房は、謹言実直=真面目で信義に篤い人物だったといわれ
  ている。普通奥勤めは月交代制であたったが、間部詮房は徳川家宣に
  片時も離れず勤務したという。間部詮房は自宅にも帰らず、朝から晩
  まで江戸城に詰めて、仕事をこなした。
   (★高崎人物伝:吉永哲朗著)

 ※新井白石は『折りたく柴の木』で間部詮房を
 「身の暇がなく」
 「きわめて生質の美なるところありて、おおかた古の君子の人
 にも恥じまじき」
 と評した。
(★ウキペディア)

▼▼▼間部詮房のスキャンダル
  間部詮房と月光院&徳川家継が徐々に仲良くなっていくわけで
  ・・・で、政務の都合上、大奥にも行かなければならなかった。
  
@男子禁制の大奥に度々やって来た間部詮房に向かって
 「まるで間部が将軍のようだ」
 と、幼い将軍が乳母に言ったとか?(逸話)・・・・ 
A噂・・大奥へ頻繁に出入りし月光院と密会を重ねていた。
「二人が手をつないで月見をしていた。」
「部屋で抱き合ってた。」
「色っぽい声が襖越しに聞こえてきた」
「桜田御殿時代から深い仲であった。」
「家宣が元気な頃から二人は関係していた。」
「家継は詮房の子供だ。」
とか・・・噂は悪い方へと広がった。
 二人が密通しているかのような噂が、まことしやかに流れた。

※間部詮房が独身で妾もいなかったことが噂に信憑性を持たせたの
 だった。
これらは間部詮房を失脚させるための俗説に過ぎず、信憑性は低い。
 (★ウキペディアでは)

▼▼▼▼絵島&生島事件
 月光院に仕えていた大年寄=絵島が人気役者:生島新五郎と恋に
 落ち、「男子禁制の大奥に生島を入れた。」という事件である
 実際には、前将軍:徳川家宣の正室:天英院が現将軍:家継の
 生母:月光院に対して追い落とし作戦であると言われている。
 この事件後、月光院は発言権を失い、間部詮房も幕閣で孤立する
 ことになった。

・正徳6年(1716) 徳川家継がわずか8歳で病死してしまった。
▼▼▼▼▼間部詮房は唯一のバックボーンを失ったのである。
 そして、大奥内で発言権を取り戻した天英院の強い推薦で、第8
 代将軍となったのが、紀州の暴れん坊将軍=徳川吉宗であった。
 ★松平健さんがかっこよかった。
 徳川吉宗が8代将軍に就任した。
 間部詮房&新井白石は一切の政治的基盤を喪失し失脚した。

・享保元年(1716)5月16日  側用人を御役御免。雁間詰。
  徳川吉宗は、すぐに新井白石を排除した。
  そして間部詮房も高崎から越後(新潟県)村上に転封させ
   られることになった。
 ▲間部詮房は、高崎藩の借金&転封費用の捻出に苦慮した。
 三井家などの資産家から無料利息で金を借りたのである。




間部詮房の高崎藩での業績?●
@城下町の拡大・・・常盤町・四ッ谷町・新喜町の新設
A特産品の奨励・・・桑紙の生産
B石原の小祝神社の再建
C高崎城乾櫓の重層
 ★高崎市史は間部詮房である。★看板は安藤重博である。
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D渋川金島の鎧が発掘された先の杢ヶ橋(吾妻川)の修復
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E赤字財政による三井家からの無料借金。・・・
・・・未納問題の打破により、村上城に移封できたのだ。


・享保2年(1717) 越後国村上5万石に転封。
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 それで、一応、同じ5万石の移封となった。
 ではあるが、明らかに左遷である。・・・ 
 大名としての地位は剥奪されなかった。
 5万石の大名であり続けた。


  それからわずか4年後・・・
・享保5年(1720) 7月16日暑気あたりで村上で死去した。
  享年55(満54歳没)。
  弟で養嗣子:間部詮言が継いだ。


●間部詮房の墓(村上市浄念寺)
浄念寺・・・新潟県村上市寺町3-13 に行った。
 ★もう5年前だろうか?
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村上城主:本多家・榊原家・間部家の菩提寺である。
間部越前守詮房公の御霊屋がある。
元禄2年には、松尾芭蕉と曽良が参詣している。
墓の写真が見つからない。残念。
 
江戸時代に、能役者から5万石の大名となった間部詮房。
あまりの出世に・・・・生根尽き果てたのか?
没落の暇人生活に生きる気力を失ったのか?
何やら寂しさの残る間部詮房の墓であった。

 

間部家は越後国村上藩5万石→越前国鯖江藩5万石で
明治維新を迎え、華族令によって子爵を授けられた。


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