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zoom RSS 箕輪初心★高崎藩5〜7代安藤3人&徳川忠長

<<   作成日時 : 2013/10/13 05:55   >>

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元和5年(1619) 安藤重信は下総小見川藩より高崎藩5万6000石
で入封した。その後、安藤重長→安藤重博と3代76年間に渡って
高崎藩領を統治した。
安藤重長は寛永9年(1632)に駿河城を改易と
なった徳川忠長を預かり、高崎城に幽閉した。2年後には徳川忠長
は自刃した。墓は高崎の大信寺にある。

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【5】安藤重信1619〜1621
・元和5年(1619) 安藤重信は下総小見川藩より高崎藩5万6000石
で入封した。支配領域は群馬郡・片岡郡・近江神崎郡&高島郡であ
った。福島正則が改易・・・広島城で事後処理を担当した。
※徳川秀忠の家臣:「年寄」土井利勝&安藤重信は幕府の組織や権威
 の基礎固めに務めた。
 土肥利勝・・・諸政策企画立案の中心にあった。
 安藤重信・・・将軍家の威儀を整えるための礼法や大名同士の
        交流などを担当した。
・元和7年(1621)6月29日、安藤重信が死亡。65歳。
  家督は養子に迎えた外孫の安藤重長が継いだ。

高崎藩領での功績? 
★★箕輪初心◆群馬:高崎の稲作と用水路C「江戸時代」★★ 
http://53922401.at.webry.info/201104/article_7.html

24)三ツ寺の堤
  ★江戸時代の三国街道沿いにある。
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 ★高崎旧群馬町三ツ寺の堤→旧群馬町とりせん付近の田んぼ
 ・戦国時代・三ツ寺=3つの寺  
  @今は相沢家墓地 A現三ツ寺公民館 B現布留山石上寺
   ※従って、「三ツ寺館」(国史)の呼び名は不適切である。
 
 ・江戸時代初期・・・この地方は保水力がなく、水利にも恵まれず、
   日照りによる凶作に苦悩していた。
 ・慶安2年(1649) 安藤対馬守重信が三ツ寺に用水路建設に協力。
  高崎藩第5代藩主・安藤重信の計らいにより、領内の農民多数
  動員し、乗附山(観音山山系)から粘土を馬で運んで堤を築き、
   唐沢川と中島川から取水して水を貯めたと(伝)。

    (★三ツ寺堤由来碑より)
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 ・明治初期・・・天王川の取水
 ・大正から昭和・・・桜やつつじを植樹。風光明媚な堤として
           賑わった(伝)。
 ・現在・・・新幹線トンネルの湧水を利用。1日5000万g?
        唐沢川の下を通っている。
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■訪問記・・・現在のコース
○三ツ寺館遺跡の東100mの★戦国時代の相沢館があった。  
  東隣は唐沢川である。
  唐沢川の北100m付近に公民館がある。★砦=寺であった。
 ★さらに、布留山石上寺(★長野氏の菩提寺)=砦+を建設した。
  篠が多く、弓矢の生産地だった。時には、鉄砲の玉の生産地
として活動した。
@三ツ寺公園・・・北から説明
 ◎ソフトボール場・・・利用開始は22年9月予定だったが。・・・
問い合わせはスポーツ課)
 ◎新幹線のトンネル湧水口・・・・・唐沢川の下を通って来ている。
   三国国街道の沿線の左。現在の川・堤・滝・池・噴水を潤している。   
 ○芝生・・・
 ※旧三国街道の庚申塔・道祖神・・・管理事務所西

 ○三ツ寺堤・・・ボートも浮かんでおり、人気スポット。
池の鳥の管理はボランティア。
●管理事務所・・・・
●堤の歴史を書いた記念碑。・・・・

●布留山石上寺(長野氏の砦・・・鉄砲の玉製造?)の池・・・・
●芝生広場・・・親水広場・すべり台・ふわふわドーム(H22)
などの大型遊具が設置。
●樹木・・・桜
※昔はコース
Aコース・・堤ヶ岡小学校西の堰の脇を通って、
群馬町のとりせん付近へ
Bコース・・・・三ツ寺の公民館付近〜〜中泉の西の
      地区(旧三国街道沿い)
  現在のコース・堤下公園の北の一部〜〜諏訪神社=(諏訪館)
    〜〜遠回りして 学校の堰に安藤氏のコースと違う。・・・・
  ※このBコースの井野川南の地域が大八木の地区である。
  ・・・大日堰に隣接。


25)大日堰→高崎市大八木  
 (早瀬川・井野川合流・・・→利用・・高崎大八木の大日堰。)
 ・江戸時代初期・・・「八木邑の水田数十町歩は・・灌漑に苦しみ
    ・・・水争いが絶えず、逃散(村を逃げ出すこと)が相次
  ぎ、荒廃した里人の窮乏は極みに達す。」という状態だった。
 ・安藤対馬守重信に井野川よりの用水路建設を企画依頼・・・
    測量は名主:静利右衛門である。
・承応2年(1653) 工事開始。・・・大八木・下小鳥・浜尻・貝沢の村人
   が協力。
  →3ヵ年に及ぶ難工事を竣工。
 静利右衛門は「ひとえに大日如来のご加護である。」
 ・・・大日堰と命名(伝)
・明暦元年(1655)  安藤対馬守重長が用水路建設を完成。
・昭和?・・・・・・・井野川の新取水口?   
  (★高崎市史・高崎の隠居の思いつ記を参考に編集)
 
■訪問記・・・
@現在の取水口?・・・浜川運動公園・陸上競技場東の井野川取水口         
○浜川運動公園・・・東山道の渡り口があった。
    ここは「御風呂遺跡」南である。
○浜川運動公園東の旧群馬町福島地区・・・中島川と合流。
   野氏時代の「大八木館」があった。
   =赤ちゃん本舗北西100mである。
○新幹線の分岐・・・★長野氏時代の「大八木館」があった。      
   西から流れてくる早瀬川は井野川に合流。
  ・・・井野川や早瀬川は結構谷が深い。
○「大八木の半鐘ろう」・・・・
○三国街道の渡し口・・・・
○大八木の交差点・・・三面コンクリートの水路が多い中、石垣積み
            の水路である。
A大日堰揚堰水門・・
B大八木公民館の駐車場・・・「大日堰□□碑」。
   ・・・江戸時代の取り入れ口は妙音寺裏か?
Cスポーツ用品店「ふそう」「コジマ電気」付近の田に水を供給。
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【6】安藤重長1621〜1657  
・慶長5年(1600) 本多正盛の長男。母は安藤重信の娘。
・慶長14年(1609)徳川家康に拝謁。
・元和5年(1619) 上野国:板鼻2000石を賜った。
・元和7年(1621) 外祖父:安藤重信の死去により家督を相続。
・寛永9年(1632) 徳川忠長を預かり、高崎城に幽閉した。
徳川家光の命令で、自刃に追い込んだ。
・寛永11年(1634) 寺社奉行
・寛永14年(1637) 奏者番
・明暦3年(1657年)死去。家督は嫡孫:安藤重博が継いだ。
高崎藩領での功績?
@伝馬宿の拡張工事・・・50人・50疋の人馬の確保
A問屋場の設置・・・・・本町・田町・新町の3町
B検地の実施




【7】安藤重博1657〜1695
・寛永17年(1640) 安藤重之の長男として生まれた。
        母は藤堂高次の娘。
・明暦3年(1657) 祖父:安藤重長の死去により跡目を継いだ。
        上野高崎藩及び近江山上藩の第3代藩主となった。
・寛文4年(1664) 奏者番。
・元禄8年(1695) 老中:5000石加増の6万5000石。
        備中松山藩に移封。
高崎藩領での功績
@三国街道の杢ヶ橋関所(渋川市金島)の管理。
A本丸の茅葺き→三層天守閣の工事
B大手門脇の切石工事
C南門・赤坂門の工事
D聖石の設置と烏川の海運
E高崎の六斎市の制定→城下町の繁栄
酒・醤油・質屋・絹・油・塩・茶・薬種・小間物・呉服・鋳物
穀物・等々・・+旅籠・・・
F絹の専売制度の制定・・・江戸や京都の商人の往来
G乾櫓を二層にした。 (★現地案内板では)
★高崎市史では間部詮房である。

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〜〜〜〜★★徳川忠長の生涯★★〜〜〜〜〜
・慶長11年(1606) 第2代将軍徳川秀忠の三男として生まれる。
父:徳川秀忠や母:江(織田信長の妹婿:浅井長政の3女)は、
 病弱で吃音であった(★ウキペディア)兄:竹千代(家光)より
 も織田信長似で容姿端麗で頭脳明晰な国千代(国松)を寵愛して
 いたと言われている。(★大河ドラマ・漫画:春日局)
→次期将軍の座を巡る争い
  竹千代擁立派+江 VS 国千代擁立派+春日局
 春日局による徳川家康への直訴により、竹千代派の勝利。
 徳川秀忠より松平姓を与えられた。松平竹千代は徳川姓でないの
 で、将軍職継承権がなかった。


・元和4年(1618) 甲府藩主20万石。
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・元和6年(1620) 従四位下参議左近衛中将
・元和9年(1623) 従三位中納言
・寛永元年(1624) 駿河国・遠江国・甲斐国で55万石。
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・寛永3年(1626) 従二位権大納言
領国経営に力を発揮した。・・・
 徳川家光は忠長に不興の念を抱いた。

・寛永8年(1631) 甲府(甲斐国)へ蟄居を命ぜられた。
  「不行跡・狂気」・・家臣を手討ちにしたというを理由だった。
  徳川秀忠側近の金地院崇伝が赦免を願い出たが許されなかった。

・寛永9年(1632) 父:徳川秀忠の危篤に際しても江戸入りが許
  されなかった。
  

徳川秀忠死→松平忠長は甲府に秀忠を供養する寺:台徳院
  殿建立したとして改易となった。

  
 10月20日 改易=領国55万石が全てを没収された。
  安藤重長に預けられる形で上野国高崎へ幽閉の処分
  が下された。
  安藤重長は徳川家光を丁重に出迎えた。
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  朝倉宣正、鳥居成次も改易処分された。
  改易の表向きの理由は「不行跡・狂気」であるが、本質的には
  幕府権力の絶対的な確立・強化などを目的とした。
  江戸幕府による大名廃絶政策の一貫であった。
  しかし、松平忠長の江戸幕府・将軍家に対する不満とも取れる
  言動もあったという。


・寛永10年(1632)9月
安藤重長「何、江戸から、将軍の使者がまいたれたと?」
阿部重次「・・・忠長公を自害に追い込むようにとの家光様の
お達しでござる。・・・」
 安藤重長「何ですと、・・・
      しかし、それは・・・。」
 阿部重次「相違ござらぬ。」
・・・・・
 安藤重長「されば、将軍様のお墨付きをいただきたい。」
(★漫画:高崎の歴史をアレンジした。)
・・・・交渉は何度も繰り返された。

 11月
 安藤重長は「お墨付き」を賜り、松平忠長を自害に追い込む
 ことにしたと言われている。
 安藤重長は鹿垣造り、家臣に家の廻りを警護させた。

 ★プレッシャーをかけたのである。
 松平忠長は、身辺整理をし始めた。・・
 1週間後、・・・酒を飲み、侍女を下がらせ、白装束に
 なった。


・寛永10年(1633) 12月6日(1634年1月5日)徳川忠長が自刃
 @安藤重長は自殺をするように仕向けた。
  場所の記述はない?
   (★高崎市史)
 
 A幕府の命令により、高崎の大信寺において自刃した。享年28。
(★ウキペディア)
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B高崎の長松寺客殿である。
 (★高崎人物伝:吉永哲朗著)
 
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※大信寺は北条氏房の叔父の建立の寺であった。
  ★井伊直政の前に箕輪城を8年間支配した北条氏邦
   の身内である。


・延宝3年((1675年)大信寺に墓が建立された。
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   墓は43回忌に建てられたのだった。
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  大信寺・・位牌・硯箱、自刃に用いた短刀、自筆の手紙など
    保存されている。
・現在・・・保育園・小学生の缶蹴りの遊び場であった。



★明日は、大河内輝貞かな?

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