城・陶芸・ハイキング・ダイビング・スキー・旅行

アクセスカウンタ

zoom RSS 箕輪初心★高崎:佐野源左衛門常世&「鉢の木」伝説の謎

<<   作成日時 : 2013/10/01 07:27   >>

なるほど(納得、参考になった、ヘー) ブログ気持玉 5 / トラックバック 0 / コメント 0

高崎市の佐野に「常世神社」がある。佐野源左衛門常世の屋敷跡
だと言われている。中学時代の飯塚先生や高校時代の岩根先生か
ら、佐野源左衛門常世の「鉢の木」の話は聞いて、記憶にあった。
『北条時頼は僧の支度で諸国を巡っていた。上野国(高崎)で雪
になってしまった。佐野源左衛門常世は旅の僧に一夜の宿を貸す
ことにした。貧しかったので、寒さをしのぐために、大事にして
いた盆栽「松・竹・梅を火にくべて歓待した。「鎌倉に不祥事が
あったら、真っ先に駆けつける所存です。」・・・鎌倉に招集が
かけられた時、真っ先に駆けつけた。佐野源左衛門はみすぼらし
い姿であった。ホントにガンバっちゃったのだ。北条時頼から、
所領を安堵された。」という話である。
しかし、宝治元年(1247)
宝治合戦では北条時頼が安達氏と協力して、有力御家人であった
三浦泰村一族を滅ぼした。佐野氏は三浦氏に属し、本領の下野国
(現栃木県佐野市)以外は没収され、没落した。・・・この辺り
が、「鉢の木」の基にあるのかな?「鉢の木」嘘でしょう。

画像



【1】佐野源左衛門邸跡=常世神社
高崎市上佐野の常世神社は上佐野から下佐野に向かう古い道を右に
折れ、山崎病院の方に行くと、小さな石の鳥居が立っている。
正面には鉄道の高架橋:その先に大きなマンションが建っている。
今年の台風で流された「佐野の渡し」の200〜300m手前である。

@門「常世神社」の山額
 鳥居の裏に「佐野源左衛門常世遺跡碑」とある。
「佐野源左衛門常世の屋敷跡」である。
画像
 

A奥に社がある。「常世神社」である。
画像

 「鉢の木」の主人公:佐野源左衛門常世が住んでいたといわれる
  場所であり、常世を祭っている神社である。
画像


B新しい現地説明版
  佐野源左衛門常世が領地:・・・おそらくは、下野国(栃木県)
  佐野であろう。・・・佐野を横領された後、上野国:佐野に
  住みついたのであろう。
画像

  常世の墓は栃木県葛生町にあるとあった。
  後で調べたら、佐野市葛生町に鉢木町という地名も残っていると
  あった。

C屋根と扉のついた案内板があった。
 扉を開くと「鉢木の絵」だった。
画像

 佐野源左衛門常世常世が鉈をふるって大事なの鉢の木を切っている
 場面である。

D碑が3〜4つあったが、暗くて分からなかった。
画像

画像


E社
画像
    


【2】定家神社
●常世神社から高架橋を越え、300m程南西に行った所が定家神社
 である。藤原定家の歌、
「駒とめて 袖うち払ふ かげもなし 
       佐野のわたりの  雪の夕暮れ」
が「鉢の木」に引用されているので、定家神社を建てた(伝)。
画像

画像

画像

画像


【3】佐野の渡し
画像

画像

 北条時頼が渡った所はこの辺かなあ?


【4】北条時頼の仮想ルート
「我此程は信濃の国に候ひしが」・・・・
私は個人的には、「もし、北条時政は諸国行脚ででたとするな
らば、信濃の別所に所領があるために、必ず行ったのではないかと
考えている。ここには、ミツウロコの寺があるのだ。
 竜光寺だっけ?
画像

しかし、北条時頼が滞留したといわれる寺は現長野県佐久市最明寺
だそうである。長野県佐久市根岸平井3796 ・・・・
画像

最明寺は武田信玄の家臣になった伴野氏(★私の集落に本流がいる。)
の菩提寺である。本流は伴野氏で箕輪城在番になり、武田信玄の烽
火の集積城として高崎根小屋城築城とともに、城代になった一族で
ある。


だとすると、鎌倉時代に最明寺はなかったはずである。
伴野氏は武田系小笠原系伴野氏?だったと思うが。・・・
そうすると、別所〜佐久泊〜佐久から東山道を出発して、碓氷峠〜
松枝(町井田町の古い言い方)〜碓氷〜板鼻〜佐野泊〜佐野の渡し
〜烏川対岸〜寺尾:新田義重の領分〜鎌倉上道〜鎌倉へ向かおうと
したのかもしれない。と考えると楽しい。

現長野県上田市別所・・・東山道保福寺道別所

上田市国分寺跡

現東御市・・・小田井・・・
▲黒斑山〜浅間山をながめて
 ↓
現長野県軽井沢町・・・東山道の入山峠=軽井沢スキー場の南〜
  雪景色となった。
「余りに雪深くなりて候程に」
★大変な碓井峠を、雪の降る中を歩いて越えたのだから、大変だった
であろう。しかし、この時の東山道は入山峠なのである。
祭祀の遺跡が残っている。久保田先生は鎌倉時代は「奧大道」と
言ったそうである。
坂本宿・・・★普通がここで泊まるはずである。
江戸時代でも、この宿に泊まったのだ。
 ↓ こんなに歩けるはずがないのだ。
松枝(松井田)の高梨子・・・「松井田宿」という言葉は中仙道が
できて以降にとなるので、
「矢並に見ゆる鏑河、今宵はさても山な越ぞ、
 いざ倉賀野にとどまらん、夕陽西に廻りて、嵐も寒衣沢、
 末野を過ぎて指出や、豊岡かけて見渡せば、ふみとどろかす
 乱橋の、しどろに違板鼻、誰松井田にとまるらん
★宴曲抄・・・正安2年(1301)
と、あるので、もしかしたら、松井田という言葉があったかも
しれない。」・・・(★久保田先生の資料)
しかし、戦国時代の松井田城主:大導寺政繁の時代は、
文書関係は「松枝」となっている。
 ↓
安中・・★当時は宿がまだなかった。
 ↓
碓氷川を渡って・・
「筏に乗って・・・」とある。
 ★中世の渡しは、川に杭を打ち、
======
     =======
=======
======
 こんなふうに橋を繋げた、」という。
 (★久保田先生)
 ★碓氷川の渡し・・東山道:安中中宿=碓氷川=クレー射撃場
では、ないだろうか? つまり、九十九川を渡ったのである。
東山道時代の遺構は、鷹ノ巣城=板鼻城の北にあったのだ。
  (★板鼻の福祉センターの方の話)

 ↓
板鼻・・★源義経の家臣:伊勢三郎の出身地か?
★4っつの街道の分岐
 東山道の国府への道・東山道(奧大道)・信州街道・鎌倉上道
 ↓
烏川を渡って、
現在の高経大学の前
天竜護国寺があったので、泊まれば良かったに。
 ↓
赤坂(高崎市)の渡し
赤坂・・★三浦系和田の子孫の箕郷和田山→赤坂に移住か。
北条氏は三浦系和田氏と敵対しているから泊まれない?
   何せ、宝治の乱で、三浦一族を滅亡させたから・・・。

 ↓
佐野・・

しかし、久保田順一先生の話からすると、
板鼻は、東山道の4つ分岐があったようだ。
 @東山道の分岐・・・2つに別れる。
板鼻・・・→国府への道・・・
板鼻・・・長野郷中学校・・佐位(伊勢崎)・新田郡庁・・
A鎌倉街道上道の分岐・・・右岸から、碓東小学校→現乗附
B信州街道の分岐・・・・・板鼻→旧榛名町・・大戸
★東山道は,碓氷峠からであったので、きつかった。
 

【5】「佐野源左衛門常世:鉢の木」の本で・・・ちょっと詳細
康元元年(1256)北条時頼がに病でたおれ、出家した。とあった。
自らの地位を隠し諸国を旅したらしい。北条時頼は剃髪して諸国
を巡歴していたのだ。

上野国:佐野に着いた。
その日は大雪であった。川の渡しの手前で、吹雪に巻き込まれ、
一晩の宿を借りようとある貧しい家の門をたたいた。
トントン、トントン・・・
「一夜の宿を願いしたい。泊めてはもらえまいか?・・・」

やがて、帰宅した佐野常世は、旅の僧に
「我が家はあまりに貧しいので泊めることができません。
 もてなそうとしても、何もしてやることはできません。
 それではあまりにも申し訳あるません。
 少し行った所に里があるからそこで泊めてくれるでしょう。」
とすすめた。
佐野常世は一度は僧の願いを断った。しかし雪の中で難儀しているの
を見捨てることもできず、呼びもどした。
そして、泊めることにした。
常世は客となった旅の僧:北条時頼に粟飯を炊き、心ばかりの
もてなしをした。

夜が更けた。・・・暖をとる薪さえなくなってしまった。
長旅で疲れ果てた旅の僧に満足に暖をとってもらうこともでき
なくなってしまったのだ。あまりの寒さに焚くものもなくて
常世はどうしたものかと迷った。
秘蔵の鉢植えの梅、松、桜を切って、囲炉裏の火にくべた。
★大事に育てていた「梅」「松」「桜」の鉢の木を切って
薪代わりにしたのだった。
佐野常世は精一杯の歓待をした。

貧しい主人の名は「佐野源左衛門常世」といった。
僧は篤い志に感動し、
主人を由緒ある人と察し、その素性を訊ねた
「この上は何を隠しましょう。・・・佐野源左衛門常世のなれの
果てでござる。」と素性を明かした。
僧が
「何故にそのようになられたのですか?」
と尋ねたところ、常世は
「佐野(栃木県佐野市)一族の者に所領をことごとく 押領されて、
 かくの如き身となり申した。しかしながら、落ちぶれたりといえ
 どもこの源左衛門、鎌倉殿の御家人として、もし幕府に一大事が
 おこれば、千切れたりとも具足を着け、錆びたりとも薙刀を持ち、
 痩せたりともあの馬に乗り、一番に鎌倉に馳せ参じ、一命を投げ
 打つ覚悟でござる。」
と述べた。
僧は、返す言葉もなく、何度も何度もうなずくだけだった。
★佐野源左衛門常世の言葉に感動したのだった。

その後、旅の僧は、
「ごらんのような者でたいしたことはできませんが、
 もしも鎌倉に来られたら、何かのお力になりましょう。」
と言った。

翌朝、旅僧=北条時頼は名残りを惜しんで家を去った。
この旅の僧こそ、実は時の北条家得宗家(執権を引退。実質的な
 権力者)北条時頼であったのだ。

やがて春になり、幕府から、鎌倉に一大事がおこったとて、
「いざ、鎌倉。」緊急の動員令が下った。
関東八か国の御家人が先を争ってかけつけた。
その中にはあの佐野源左衛門常世の姿があった。
佐野常世はやせ馬に乗って真っ先に駆け付けた。
みすぼらしい姿であった。

しかし、常世は大勢の武者の中から幕府の役人の前に召し
出された。
千切れた具足に錆びた薙刀のみすぼらしい姿をあざけり笑う
武者達の前を悪びれる ことなく進んだ。

奧で待っていたのは、あの時の旅の僧だった。
「わしはいつぞやの大雪の日、一夜の宿をそちの家でやっかいに
なった旅の僧である。」
常世は雪の日の旅の僧こそ、前執権で鎌倉幕府の最高権力者:
最明寺入道:北条時頼であることを知って、驚いた。

北条時頼は佐野常世の言葉に偽りがなかったことを賞した。
北条時頼は
「鉢の木のもてなしに報いるためだ。」
と言って、
奪われた佐野庄三十余郷を常世に返し与えただけでなく、さらに家で
もてなした時に使った薪の種類に合わせ、梅田、松枝、桜井の三荘を
常世に与えた。
★過分の待遇であった。


【6】北条時頼が与えた三つ庄      
※謡曲「鉢の木」でいう北条時頼が佐野源左衛門に与えた
のは加賀国梅田庄・越中国櫻井庄・上野国松井田庄である
そうである。

加賀国梅田庄=金沢市梅田町(旧河北郡)?
越中国櫻井庄=富山県黒部市中心部(旧下新川郡桜井町)
上野国松井田庄=群馬県安中市松井田(旧碓氷郡松井田町)
(Hpよりの調べ)
★私見・・上野国松井田庄は歴史上存在しないと思われる。
松井田は戦国時代まで、「松枝」と呼ばれていた。
安中忠政の居城で、後、後北条家家臣:大導寺政繁の
城となったが、「松枝」と書かれていた。
当然、松の遺跡・・その跡はない。
確かに、


新潟県見附市では佐野源左衛門は見附市の人物であるとしている。
梅田庄=見附市新潟地区の梅田(現在:見附市下鳥町)
桜井庄=桜森(現在:見附市指出町)
松井田庄=松ノ木(現在:見附市新潟町松ノ木町)
と推定し、三ヶ所は隣接しているので管理しやすいとしている。
(Hpよりの調べ)

【7】佐野源左衛門は実在しない伝説の人物=架空の人物?
※謡曲「鉢の木」は南北朝時代に「太平記」「増鏡」をベースに
創作された物語である。 (★ウキペディアでは)
@5代執権:北条時頼が諸国を行脚したという文書・遺構などの
根拠がない。しかし、晩年は出家して、最明寺入道を名乗ったが、
実質的な権力を握っていた。忙しかったでしょうねえ。

A佐野源左衛門常世についても実在を裏付ける史料がない。
佐野一族の当主の名前には諱名の「綱」がつくはずである。
しかし、佐野源左衛門は「常世」である。諱名には「綱」の字が
入っていないのである。佐野家直系ではない。
しかも、通称に
「源」の字が入っていることも疑問視されているという。
佐野氏は藤原秀郷流の系統で、藤姓足利氏で源姓足利氏ではない。
藤原足利俊綱の弟:有綱の子で下野国安蘇郡佐野庄に土着した。
佐野基綱が初代である。佐野基綱は早くから源頼朝に味方したため、
源頼朝によって藤原秀郷流宗家足利俊綱・忠綱が滅亡した後も、
鎌倉幕府の御家人として存続した。承久3年(1222)、承久の乱での
戦功で淡路国に所領を得た。宝治元年(1247)宝治合戦では北条時頼
が安達氏と協力して、有力御家人であった三浦泰村一族を滅ぼした。
佐野氏は三浦氏に属し、本領の下野国(現栃木県佐野市)以外は没
収され、没落した。
・・・この辺りが、「鉢の木」の基にあるのかな?
藤原秀郷流の系統で、藤姓足利氏は、平安時代の末期には、群馬に
は、藤原秀郷流宗家足利俊綱・忠綱、山上氏、大胡氏、那波氏、佐
位氏、薗田氏、佐貫氏がいた。
(★久保田先生の資料・榛名町誌・群馬県史など)






★明日は、尾瀬にしようかな?

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ
気持玉数 : 5
なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー)
ナイス ナイス
驚いた

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
箕輪初心★高崎:佐野源左衛門常世&「鉢の木」伝説の謎 城・陶芸・ハイキング・ダイビング・スキー・旅行/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる