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zoom RSS 箕輪初心★北条早雲の生涯=伊豆・相模国盗り物語

<<   作成日時 : 2013/09/25 07:29   >>

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下克上的な立身出世のスーパーヒーローとして扱われて来た。
神奈川県知事の政治力より広い範囲なのである。しかし、伊勢
新九郎盛時=伊勢宗端=北条早雲は、室町幕府の政所執事
を務めた伊勢氏の出自である。。『早雲寺殿廿一箇条』=分国
法を定めたり、戦国大名による検地として最古検地を実施したり
している。北条早雲は領国支配の強化を積極的に進めた戦国
大名の先駆けである。人を殺して名門かあ?

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【1】伊勢新九郎の出自
・康生2年(1456)(満0歳)・・・最近の有力説
※漫画「北条早雲は1432年生まれ」・・
 室町幕府8代将軍:足利義政の申次衆:伊勢盛定の子と
 して生まれた。
 父・・・伊勢盛定
 母・・・伊勢貞国の娘
 備中国荏原荘(現井原市)で生まれたという説が有力である。
 早雲の父:伊勢盛定は幕府政所執事:伊勢貞親と同僚だった。

*「北条早雲生誕の地」碑
 (岡山県井原市神代町・・・高越城址)

※「平盛時」の署名の禁制が残されているそうである。


・若い頃・・・備中に居住した。
・元服・・・ 「伊勢新九郎盛時」となった。



【2】足利幕府の申次衆・奉公衆時代
・応仁元年(1467)〜 応仁の乱
山名宗全9万  VS 細川勝元16万
足利義視は西軍
★山名氏は群馬県高崎市山名町の出身で
 山名義範は清和源氏系新田y義重のB男である
 同族は里見一族である。
 山名宗全:持豊の本拠は兵庫県出石であった。


 →地方に波及した。
※足軽・・・雑兵。応仁の乱で活躍した。「足が軽い。」の意味。
※→関東では、既に下克上が始まっていた。
  全国的に下克上が始まったのは応仁の乱以降である。
  
  駿河守護今川義忠が上洛して東軍=細川軍に加わった。
  今川義忠は伊勢貞親を訪れた。足利義政への申次を早雲の
  父:盛定が務めた。
  伊勢新九郎盛時=早雲の姉の北川殿が義忠と結婚した。
※漫画「北条早雲」では、妹
  伊勢新九郎盛時は将軍義政の弟:義視に仕えた?らしいが、不明。


・文明5年(1473) 早雲の姉:北川殿は嫡男:龍王丸(今川氏親)
   を生んだ。

・文明8年(1476) 満20歳
遠江の塩買坂の戦い
今川義忠  VS 遠江守護:斯波義廉
   家臣横地氏、勝間田氏の襲撃を受けて討ち死にした。

   駿河の今川義忠没。・・・家督をめぐる争いが起こった。
   嫡男:龍王丸は幼少であった。
   今川氏の家臣:三浦氏、朝比奈氏などが一族の小鹿範満
   (今川義忠の従兄弟)を擁立した。
    堀越公方足利政知家臣:上杉政憲約300騎
    扇谷上杉家家宰:太田道灌約300騎
    が駿河国へ兵を率いてやってきた。
   小鹿範満と上杉政憲は血縁関係があった。
   伊勢新九郎盛時の甥:龍王丸派にとって情勢は不利であった。

  伊勢新九郎盛時は駿河国入りし、調停。
  「甥:龍王丸(今川氏親)が元服するまで、叔父の小鹿範満に
   後見させるという折衷案で解決した。
  上杉政憲と太田道灌も撤兵させた。
   両派は浅間神社で神水を酌み交わして和議を誓った。
   家督を代行した小鹿範満が駿河館に入った。
   龍王丸は母北川殿と小川の法永長者(長谷川政宣)の
   小川城(焼津市)に身を寄せた。

  ※黒田基樹氏・・・最初の駿河下向と家督争い調停について、
   早雲の推定年齢の若さ(20歳)と『鎌倉大草紙』には
   宗瑞(早雲)の名が見えないことから考えて、
   信憑性に疑問がある。としている。


御由緒六家の話=早雲の駿河下向の逸話
「伊勢新九郎・大道寺太郎、荒木兵庫頭、多目権兵衛・山中才四郎
・荒川又次郎・在竹兵衛の仲間7人は伊勢神宮で神水を酌み交わして、
一人が大名になったら他の者は家臣になろうと誓い合った。」
という話が残っている。
(★ 『北条記』『名将言行録』)
 (★漫画「北条早雲」)
  早雲は駿河の薩た峠で盗賊に遭い身ぐるみはがされて難渋していた
  ところに守護の奥方の輿が来た。衣服を与えられた。
  それが叔母の北川殿であった。
  その縁で今川氏に仕えるようになった。
『公方両将記』
(★ウキペディア)
備中から、大道寺氏、内藤氏、笠原氏など北条氏の家臣が出ている。


・文明11年(1479) 前将軍:足利義政は龍王丸の家督継承を認めて
  本領を安堵する発給した。

・文明15年(1483) 満27歳
  9代将軍足利義尚の申次衆に任命された。
1481年説もある。
  伊勢新九郎盛時は建仁寺と大徳寺で禅を学んだ。

  伊勢新九郎盛時=早雲は幕府奉公衆小笠原政清の娘(南陽院殿)
  と結婚した。

・長享元年(1487) 嫡男:氏綱が生まれた。




【3】2回目の駿河下向
・駿河国下向回目から10年後、・・・
 長享の乱(1587~1505)が勃発した。
 山内上杉家 VS 扇谷上杉家
 太田道灌は主人の扇谷上杉定正に秦野で討たれた。

 ・伊勢新九郎盛時は足利義尚の奉公衆になった。

・長享元年(1487) 満31歳
  再燃した今川家の相続騒動→
  龍王丸が15歳を過ぎて成人しても小鹿範満は家督を
戻そうとはしなかった。
  伊勢新九郎盛時は駿河国に入り
  伊勢新九郎盛時=北条早雲は龍王丸を補佐した。
★丸子城の説明書きに北条早雲がいた。
  説があった。
 (★丸子城案内板)
  石脇城(焼津市)で同志を集め、挙兵した。
 (★ウキペディア)
  駿河館を襲撃した。
  小鹿範満と弟:小鹿孫五郎を殺した。

  龍王丸は駿河館に入った。
  2年後に氏親を名乗り正式に今川家当主となる。
  小鹿範満兄弟を討った。
今川氏親のクーデター実現のためだった。
(★黒田基樹「戦国関東の覇権戦争)







【4】今川家の家臣時代
  伊勢新九郎盛時=北条早雲は今川家の家臣になった。
  駿河国興国寺を拝領し、興国寺城(沼津市)を築城した。
  ※通説・・・・・・・興国寺城   
  ※少数説・・・・・善得寺城
  

・長享元年(1489) 満33歳
 龍王丸=今川氏親と名乗った。=正式に今川家を継いだ。
 伊勢新九郎盛時=早雲は甥:今川氏親の駿河守護代
 となり補佐した。



【5】 伊豆討入り
従来の説・・伊勢新九郎盛時=早雲が堀越公方足利政知の子:茶々丸
(11代将軍足利義澄の兄弟)を襲撃して滅ぼし、伊豆を奪った事件
は、旧勢力が滅び、新興勢力が勃興する下克上の代表とされ、戦国時
代の幕開けとされている。

新説・・・中央の政治と連動した動きを取っていた説。


※享徳の乱
鎌倉公方:足利成氏が室町幕府に叛き、将軍の命を受けた今川氏親が
鎌倉を攻めて占領・・・。
足利成氏は古河城に逃れて古河公方と呼ばれる反対勢力となり、
幕府方の関東管領上杉氏と激しく戦った。
将軍義政は足利成氏に代る鎌倉公方として異母兄:足利政知を送るが、
足利成氏方の力が強く、鎌倉に入ることもできず伊豆北条に本拠に留
まった。・・・堀越公方と呼ばれるようになった。
・文明14年(1483年)足利成氏と上杉氏との和睦が成立。
足利政知は伊豆一国のみを支配する存在となった。

足利政知には長男に茶々丸がいたが、正室の円満院との間に潤童子と
清晃をもうけていた。清晃は出家して京にいたが、政知は勢力挽回の
ために日野富子や管領細川政元と連携してこの清晃を将軍に擁立しよ
うと図っていた。伊勢新九郎が影で・・ 
   (★興福寺別当尋尊の日記)

・延徳3年(1491) 足利政知が没。
  茶々丸が円満院と潤童子を殺害。
  強引に跡目を継ぐという事件が起きた。

・明応2年(1493) 満37歳
 明応の政変
管領:細川政元が10代将軍義材(義稙)を追放。
   茶々丸弟:清晃を室町殿(実質上の将軍)を擁立した。
   清晃は還俗して、義遐→義澄と名乗った。
  
  足利義遐=義澄は母と兄:茶々丸の敵討ちを命じた。

  これを受けて早雲は伊豆堀越御所の茶々丸を攻撃した。
 「伊豆討入りは、伊豆国の兵の多くが山内上杉家に動員され上野国
  の合戦に出て手薄になったのを好機とした。早雲の手勢200人と
  今川氏親に頼んで借りた300人の合わせて500人が、10艘の船
  に乗って清水浦を出港。駿河湾を渡って西伊豆の海岸に上陸した。」
    (★北条五代記)
伊勢新九郎家臣・・約200
今川氏親の家臣・・約300
   葛山氏は今川氏に命じられて援軍として参加している。
   その後、伊勢宗瑞=北条早雲の次男:氏時を養子にむかえた。

+触れを出した。触れにより、西伊豆の水軍
@三津の松下三郎右衞門
A江梨の鈴木兵庫助
B土肥の富永政直
C田子の山本太郎左衛門
E雲見の高橋将監
E妻良の村田市之助
・・・水軍が加わった。・・・
大見の三人衆:梅原・佐藤・上村などが加わった。
 (★土肥の富永一族:土肥町教育委員会)

  住民は海賊の襲来と恐れて家財道具を持って山へ逃げた。
  早雲の兵は一挙に堀越御所を急襲して火を放ち、茶々丸は山中に逃げ
  自害に追い込まれた。」
   (★北条五代記)

  茶々丸側の宇佐美能登守貞与の必死の抵抗があった。
宇佐美は戦死した。
  茶々丸は堀越御所から逃亡して、武田氏、関戸氏、狩野氏、土肥氏
  らに守られて、中伊豆から南伊豆に逃亡した。
  北条早雲は伊豆の国人衆を味方につけながら、徐々に南下し。
  茶々丸方を追い込んでいった。
抵抗する関戸吉信の深根城=深根津城(下田市)を攻撃して皆殺し
  にした。
★3000人とも言われている。

※説1・・・「茶々丸は山中に逃げ自害した。」
       (★北条五代記)
※説2・・下田の堀の内に「茶々丸の墓」があり、深津城の関戸氏が
   かばったという説もある。
  (★下田市教育委員会)
※説3・・・茶々丸はさらに、三浦氏隠れた説もある。
      後日、三浦義同(道寸)は北条早雲の援助を受け、
      三浦時高を茶々丸のいる新井城を攻撃し、奪取した。
(★漫画「北条早雲)
※説4・・・茶々丸はさらに、甲府に逃れて、今川氏親&北条早雲に
      討たれた説もある。
(★ウキペディア)


・明応3年(1494)
韮山城を居城とした。
  伊豆国内で四公六民の税制などを行い、領民の支持を得た。
富永政直は興国寺城代になった。
(★富永一族の歴史:土肥町教育委員会)

  北条早雲は伊豆:韮山城(現伊豆の国市)を新たな居城として
  伊豆国の統治を始めた。


  修善寺に柏久保城を築城し、狩野氏の狩野城・田代城を
  攻略し始めた。
  


  高札を立ててた。
  「味方に参じれば本領を安堵する。参じなければ作物を荒らして
  住居を破壊する。」と布告した。
  分国法=早雲寺21ヶ条を制定し、兵の乱暴狼藉を厳重に禁止し、
  病人を看護するなど善政を施した。
※漫画:北条早雲では、風土病があったので、薬を配った。
  →暴君:茶々丸の悪政に苦しんでいた伊豆の武士や領民はたちまち
  北条早雲に従った。
   (★漫画:北条早雲)
※「堀越公方家の重い税制を廃して四公六民の租税を定めたので、
  領民は歓喜し、伊豆一国は30日で平定された」と言われるが、
  江戸時代の軍記は違っていた。
 北条早雲に5年かかって、全伊豆を平定したのは事実だった。

 
 ・扇谷上杉定正と同盟。
上杉定正の要請を受け、関東に出陣。
  関東管領の山内上杉顕定と戦った。
  上杉定正が高見ヶ原で落馬→死没。
  伊豆国に帰還。
  扇谷上杉氏からの離反を決意。

※南伊豆を平定できないまま、今川家の依頼も受けていた。

・明応3年(1494) 今川氏の兵を指揮して遠江へ侵攻した。
今川氏親+北条早雲 VS 斯波氏
  中遠江まで制圧した。
  北条早雲と今川氏親は叔父&甥の関係を連携して領国を
  拡大していった。
  ★準主従関係であったかもしれないが、密約があったのでは
ないだろうか?
@今川氏親・・・駿河・遠江→三河へ
  A北条早雲・・・駿東郡・伊豆→甲斐・相模・武蔵へ


  9月 伊勢新九郎盛時=北条早雲は三浦義同(扇谷山内定正の
  兄:上杉高球の子)の三浦時高を討つことをお願いされ、茶々丸
  のいる新井城を攻撃した。
・・・新井城は三浦義同の物になった。
※ところが、10年後、 北条早雲が三浦義同が敵になろう
とは思わなかった。
  (★漫画:北条早雲)


・明応4年(1495) 北条早雲は甲斐には攻め込み、甲斐守護:武田
  信縄と戦った。葛山氏広も当然出兵した。
 ※北条早雲は伊豆の平定をする一方で今川氏の武将としての活動も
  行っているのだ。

・明応4年(1495) 満39歳
伊勢新九郎盛時=北条早雲と改名した。
 「早雲庵宗瑞」・・・出家した。


 北条早雲は短期間で中伊豆・南伊豆を平定した。
しかし、東には敵対勢力:伊東氏・大森氏がいた。

・明応7年(1497)
 南伊豆下田の深根城を落とした。
 ※伊豆平定まで、5年かかったのである。



【6】小田原城攻撃→小田原城奪取
1)事前の相模の様子
・明応3年(1494) 長享の乱の継続中〜〜〜
  山内上杉家 VS 扇谷上杉家
北条早雲は扇谷上杉定正に援軍を依頼された。
  上杉定正&北条早雲の軍 VS 山内上杉顕定の軍
  荒川を挟んで対峙した。
  上杉定正が落馬して死去。
  北条早雲は兵を返し、韮山に戻った。

扇谷派は相模の三浦氏と大森氏を支えとしていた。
 @扇谷上杉定正(糟谷・川越城&江戸城)・・・落馬事故死。
 A三浦時高(新井城)・・・・・三浦義堂の下克上で自刃。
 B大森氏頼(小田原城)・・・・・・病死。
 人が死去するという不運に見舞われた。
上杉定正の甥で養子:上杉朝良が扇谷上杉家の跡を継ぐが、
 北条早雲=伊勢宗瑞と北条氏綱の侵攻に押され、扇谷家は徐々に
 所領を奪われていくことになる。
 

・明応4年(1495) 北条早雲は甲斐に侵攻。
武田家の内紛
長男:武田信縄(山内側)  VS 次男:武田信昌(扇谷側)
だった。
   甲斐守護:武田信縄と戦った。
(★戦国・北条一族)
★だとすると、北条早雲は山内側から扇谷側に変わったことになる。 


※北条早雲の夢
「鼠が二本の大きな杉の木を根本から食い倒した。やがて鼠は大き
 くなっていって虎になった。」
   (★『北条記』)
 二本の杉・・・山内上杉家と扇谷上杉家。
 鼠・・・・・・子の年生まれの北条早雲のことである。
 三島神社に願をかけに行った時のことであるとも言われている。
 北条早雲は後に虎の印判を使った。

・北条早雲は大森藤頼に進物=贈り物を贈るようになった。
 「最初は警戒していた大森藤頼も心を許して北条早雲と親しく
  歓談するようになった。
 ・・・藤頼殿、お父上は立派な方であった。」
とかなんとか言っちゃって・・・
 ある日、北条早雲は
 「伊豆の鹿が箱根の山逃げ込んでしまったので、箱根での鹿狩り
 のために領内に勢子を入れさせてはいただけまいか?」
 と願った。大森藤頼は快く承諾した。
 北条早雲は屈強の兵を勢子に仕立てて箱根山に入った。
(★『北条記』・・・・漫画:北条早雲・戦国北条一族など)
 「その夜、北条早雲は千頭の牛の角に松明を灯して、峠から
  牛を追い落とした。北条早雲の勢子に扮していた兵が小田原城
  へ迫り、兵は火を放った。城内では「数万の兵が攻め寄せてき
  た。」と、おびえ、無防備の大森の兵は大混乱になった。
  大森藤頼は命からがら逃げ出した。北条早雲は簡単に小田原
  城を手に入れた。」
  大森藤頼は山内上杉朝良
(★『北条記』・・・・漫画:北条早雲・戦国北条一族など)

  「火牛の計」・・・
  @木曽義仲の倶利伽羅峠の戦い
  A織田信秀の那古野城奪取、
  B尼子経久の月山富田城奪取。などが有名。
  
  大森氏は北条早雲に小田原城を奪われたのだ。
★先祖が一緒だった葛山氏広は複雑であっただろう。


9月、相模小田原の大森藤頼を討ち小田原城を奪取した
 山内上杉顕定の圧迫を受けた扇谷上杉朝良の家臣:大森藤頼の
  居城だった相模国小田原城を謀略を使って攻めた。

〜〜〜〜〜北条早雲の侵略の意図〜〜〜〜〜
通説・・北条早雲は扇谷側の大森氏をだまし討ちにした。
9月、相模小田原の大森藤頼を討ち小田原城を奪取した。
 山内上杉顕定の圧迫を受けた扇谷上杉朝良の家臣:大森藤頼の
 居城:小田原城を謀略を使って攻めた。という考えである。
●根底には、勢力範囲を拡大しようとする意図がある。

新説・・黒田基樹氏
●根底には、勢力範囲を拡大しようとする意図があるだろうが、
@茶々丸の討伐を大義名分として、行動している。
A山内上杉定正&顕定の側について、行動している。
つまり、足利将軍継承問題である明応の政変→対立の中での
軍事行動であると考えられる。
足利義澄→細川政元→今川氏親→北条早雲&扇谷
足利義稙(茶々丸弟)→大内政弘→足利茶々丸→武田信縄・信虎&山内
足利茶々丸が山内側だった。・・・北条早雲の小田原城奪取は大森藤頼
が扇谷上杉氏から山内上杉氏にすでに寝返ったためであると考える説で
ある。

・明応5年(1496) の小田原攻撃説
(★戦国関東の覇権戦争:黒田基樹著)

・明応7年(1497) 満39歳
   北条早雲は南伊豆(下田市堀の内)深根城で茶々丸を殺害した
(★下田市教育委員会)

・明応8年(1498) 北条早雲は甲斐で茶々丸を殺害した。
(★ウキペディア)

・明応10年(1500)文亀元年(1501)
 北条早雲は既に小田原城下の伊豆山神社の所有地を自領の1ヶ村と
 交換した文書が残されている。
(★ウキペディア)
 北条早雲は伊豆韮山城を居城とし、小田原城は北条氏綱に任せた。
 
※北条早雲は塚原卜伝を家臣にしようとした。
 『塚原卜伝』(2011年、NHK時代劇&DVD)
  伊勢宗瑞=北条早雲を中尾彬が演じていた。 

・文亀年間(1501~1504)
  今川氏親&北条早雲の三河侵攻開始。
 岩付(岩津)城下の戦い
  松平長親(徳川家康の先祖)と戦って敗北。
  三河侵攻は失敗に終わっている。



【7】相模への侵攻
 北条早雲は「茶々丸討伐」の大義名分がなくなった。
 相模方面への制圧に乗り出した。
 山内顕定が足利義澄・細川政元に接近した。
 →今川氏親・北条早雲は仲間ということになったので、裏切ることに
 した
 北条早雲・今川氏親は、足利義稙=大内義広・扇谷上杉朝良
 の仲間になったのである。

・文亀4年(1504)満48歳
立河原の戦
 北条早雲は扇谷上杉家への援軍として今川氏親とともに武蔵国に出陣。 
 結果・・山内上杉顕定に勝利。
   
 上杉顕定は弟:越後の守護上杉房能&守護代長尾能景の協力で
  反撃に出る。相模の扇谷家の諸城を攻略。

・永正2年(1505)
扇谷上杉朝良は河越城で降伏した。
 結果・・北条早雲は山内上杉家&扇谷上杉家と敵対することに
 なった。


・永正3年(1506) 満50歳
  相模で初めての検地を実施。

・永正4年(1507)
  越後:守護上杉房能が守護代長尾為景(上杉謙信の父)に
  殺された。
  北条早雲は長尾為景や長尾景春と組んで山内上杉顕定を
  牽制した。

  扇谷上杉家が山内上杉家と和睦。
〜〜〜〜長享の乱の終結〜〜〜〜〜

【8】今川家の総大将→相模平定
・永正6年(1509) 満53歳
※北条早雲の今川氏の総大将としての活動は見られなくなった。
 北条早雲は相模進出に集中するのだった。
山内上杉家&扇谷上杉家の領土に侵攻を開始した。
(★黒田基樹氏)
・山内上杉顕定は大軍を率いて越後へ出陣。
   山内上杉顕定 VS 長尾為景
結果・・長尾為景は佐渡へ逃亡。佐渡本間氏の力を借りた。
 
 北条早雲はこの隙をつき、権現山城(横浜市鶴見)の上田政盛を
 扇谷家から離反させた。そして扇谷朝良の本拠地江戸城に迫った。
 
 上杉朝良は兵を返して反撃に出た。
・永正7年(1510) 満53歳
 山内家の援軍を得た扇谷家が反撃に出て、権現山城は落城し、
 奪い帰された。
★後の多米氏の青木城の隣・ハリス居住地隣なのである。

 
【9】相模平定
 三浦義同(道寸)が早雲の住吉要害(平塚市)を攻略して
 小田原城まで迫ってきた。
 北条早雲は敗北した。
 北条早雲は扇谷山内朝良と和睦して、切り抜けた。

 上杉顕定は長尾為景の逆襲を受けて越後八海山の麓で敗死。
 佐渡の本間一族が長尾為景(上杉謙信の父)を応援したのだ。
 →上杉顕実 VS 上杉憲房 (2人の養子の争い)
 
※永正の乱 
 古河公方家
  父:足利政氏 VS 子:足利高基 (父子の争い)
 扇谷上杉朝良は2つの調停に追われた。

 三浦氏の傍流の相模の三浦義同(=道寸)は相模の岡崎城(現伊勢
 原市)を本拠とし、子:三浦義意が三浦半島の新井城(油壺)&
 三崎城(現三浦市)を守っていた。
 
 北条早雲の相模平定のためには、どうしても三浦氏を滅ぼさねばなら
 なかった。・・・10年前に助けた三浦義同が扇谷上杉家に従属して
 いて、北条早雲に敵対していたからである。
 相模国守護代の三浦道寸(義同)攻略を決意した。

・永正9年(1512) 満56歳
北条早雲は三浦勢が小田原城攻撃から兵を引いたので、
 急襲し壊滅させた。
 8月にその勢いで岡崎城(伊勢原市)岡崎城を攻略した。
 三浦道寸=義同を住吉城(逗子市)に敗走させた。
 さらにその勢いで住吉城も落とした。
 三浦義同は子:義意の守る三崎城に逃げ込んだ。

 北条早雲は鎌倉に入った。相模の支配権をほぼ掌握した。
 上杉朝良の甥:朝興が江戸城から救援に駆けつけた。
 北条早雲は上杉朝興を撃破した。

 10月、北条早雲は鎌倉に玉縄城を築いた。
相模国東部経営と三浦氏攻略の拠点にした。

  北条早雲と三浦義同はしばしば戦火を交えた。
  北条早雲は扇谷家も救援の兵を全て撃退した。


・永正13年(1516) 満60歳
7月 扇谷朝興が玉縄城を攻撃。
    北条早雲は打ち破った。三崎城に攻め寄せた。
    三浦義同・義意父子は討ち死にする。
    三浦氏は滅亡した。
 ※北条早雲は相模全域を平定した。

   さらに、上総の真里谷武田氏を支援して安房=房総半島に
  渡り、転戦した。
  

・永正14年 (1517)
※今川氏親は引馬城を攻略し、遠江を制圧。
※足利義明が下総小弓御所に入る。小弓公方を名乗った。
★後日、生実城も紹介しようと思う。

・永正15年(1518) 満62歳
   北条早雲は家督を嫡男:氏綱に譲った。
北条氏綱が虎の印判状の使用を開始。
   扇谷上杉朝良が死去。

・永正16年(1519) 満63歳
  8月、北条早雲が韮山城で死去。
  享年数え64。従来は88。

  
・永正18年・ 大永元年(1521) 北条氏綱は菩提寺として早雲寺
  (神奈川県箱根町)を創建。



◆参考文献
戦国北条一族:相川司著
画像

  戦国北条一族: 黒田基樹著
  戦国関東の覇権戦争:黒田基樹著
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漫画:北条早雲:伊東章夫著
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土肥の富永一族:土肥町教育委員会
伊豆水軍物語:永岡治著

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◆参考Hp・サイト
ウキペディア:北条早雲





★そのうち、北条一族が侵略した城・関係した城を50城程、
 紹介したいと思っている。

★明日は、・・・?

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