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zoom RSS 箕輪初心★「江川太郎左衛門英龍」=国防に捧げた幕末偉人

<<   作成日時 : 2013/09/23 08:08   >>

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江川太郎左衛門英龍は、幕末期の幕臣で伊豆韮山代官である。
渡辺華山に砲術を学んだ。しかし、鳥居燿蔵に嫌われ、蛮社の獄
で捕まりそうになったが、水野忠邦に助けられた。阿部正弘に抜
擢されて高島秋帆に西洋砲術を学んだ。幕府の命で鉄砲教練所を
造った。6つの台場を完成させた。「戸田号」の造船や韮山反射
炉の建造にも貢献した。生涯海防のために尽くしたのだ。国防の
ためパンを初めて焼いた人としても有名である。

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 (★韮山反射炉の江川英龍の像)

★★ 箕輪初心★佐久間象山A「佐久間象山の生涯」 ★★
http://53922401.at.webry.info/201309/article_16.html

★★ 箕輪初心★佐久間象山@「長野:象山神社」 ★★
http://53922401.at.webry.info/201309/article_15.html

★★ 箕輪初心★「土方歳三の35年の生涯」 ★★
http://53922401.at.webry.info/201305/article_23.html

★★箕輪初心★幕末偉人【西郷頼母】=西郷隆盛と同じ先祖 ★★
http://53922401.at.webry.info/201301/article_7.html


【1】江川邸・・・平成19年(2007)10月10日
江川家には、朝8時10分ころ着いた。
 朝早く来すぎて、開くのを待った。300円払って入場。
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 スタッフが親切だった。
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 「江川邸の背後には後北条氏による江川砦が築城されている
  が、後北条氏が修築する以前から、江川氏の詰城であった。」
 とおっしゃっていた。
 ここも韮山城の一部と聞いて、ビックリした。江川郭であった。
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・パン祖の碑
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・物置小屋
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・江川邸裏門

・それから、韮山郷土資料館・・・
   韮崎城に向かった。北条氏の堀かな?



【2】韮山郷土資料館
  江川家の遺品は展示されている。
  江川太郎左衛門のことが分かる。


【3】静岡県立韮山高校
  江川の私塾が、後の県立韮山高校になった。
  静岡県の最古の高等学校である。
北条早雲の韮山城からよく見えた。
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【4】韮山反射炉
  平成19年(2007)10月10日
平成24年(2012)2月7日
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【5】 「江川酒」
 地元酒販店の店主や醸造業者が幻の銘酒を復活させた。
 大吟醸「江川酒・担庵」、純米酒「江川酒・韮山」として伊豆国
 市ら地元の酒販店で販売されている。もちろん、買ったよ。




江川一族の歴史
・平安末期・・清和源氏源経基の孫:源頼親が始祖である。
      源頼親の血統は大和源氏と呼ばれ、宇野氏を名乗った。

・永暦元年(1160) 源頼朝は伊豆に流刑となった。
    3月11日に伊豆国の蛭ヶ小島へと流された。
    宇野家6代目:宇野親吉が伊豆へ

・治承4年(1180) 後白河法皇の皇子:以仁王の令旨
    ・・・源頼朝の挙兵。
       宇野治長が源頼朝の挙兵を助けた功で伊豆江川荘が
       安堵された。領域支配が確定した。

・鎌倉時代・・・宇野家が鎌倉幕府の御家人である。

・室町時代・・・江川家と改めたようである。
       代々、当主は江川太郎左衛門を名乗った。
         後北条氏に仕えた。

・延徳3年(1491) 堀越御所の内紛
    →江川家は伊勢新九郎(北条早雲)の配下となった。
    →北条早雲は韮山城を本格的な築城した。
     江川邸の裏山は江川郭として本格的に築城された。

・天正18年(1590) 豊臣秀吉は小田原城攻撃。
   山中城攻撃に続いて、韮山城を4万の兵で攻めた。
   韮山城は北条氏規(北条氏政の子)が守っていた。
   江川一族も江川郭に登って守った。
しかし、江川家28代:江川英長は途中で、寝返って
   徳川家康に従い、代官に任ぜられた。

・江戸時代   伊豆韮山代官所・・・江川家が歴代の代官
戦国時代から江戸時代初期にかけて江川家では日本酒が醸造され
  ていたという。「江川酒」である。
  江川酒は徳川家康にも献上された。

・享保8年(1723)〜宝暦8年(1758)を除き、明治維新まで
  相模・伊豆・駿河・甲斐・武蔵の天領5万4千石分
  (→後26万石分とも言われている)の代官であった。





★★★ 「江川太郎左衛門英龍」の生涯 ★★★

・享和元年(1801)5月13日
江川英毅の次男として韮山で生まれる。幼名は芳次郎。
父:英毅は民治に力を尽くした。
   商品作物の栽培による増収などを目指した。
  
 @儒学を湯島の佐藤一斎に学んだ。佐久間象山の師でもある。
 A書を市川米庵(上州下仁田出身、幕末3名筆)にも学んだ。
 B漢詩は大窪詩仏に学んだ。
 C絵を大国士豊→谷文晁に学んだ。
 D剣術を岡田吉利(初代岡田十松)に学んだ。
   江川英龍は神道無念流免許皆伝で岡田十松の撃剣館四天王の
   一人に数えられている。
  
父・英毅が長命だった為に代官職を継くのはまだだった。
江川英龍は悠々自適に過ごしていたようである。
  が、領内の偵察も進んでやっていた。
 同門の斎藤弥九郎と親しくなり、斎藤弥九郎は代官所手代となった。
 斎藤弥九郎は、江戸三剣客の1人にも数えられている。
 江川英龍は斎藤弥九郎と代官地の領内を行商人の姿で隠密に歩き回
 っていたそうである。

・天保6年(1835年)35歳
36代目の当主になった。

・天保7年(1836) 甲斐の天保騒動
    甲州で博徒が横行していた。
    斉藤弥九郎と偵察にいった。

 ●江川英龍は二宮尊徳を招聘して農地の改良などを行った。

・天保8年(1837) モリソン号事件が発生。
幕府は「異国船打払令」の方針なので、打ち払った。
 
 ●江川英龍は伊豆韮山代官である。相模・伊豆・駿河・甲斐・
  武蔵の天領26万石分の代官であった。
  管轄区域には伊豆・相模沿岸の太平洋〜江戸湾への入り口に
  当たる海防上重要な地域が含まれていた。

  江川は大きな危機感を持った。そして海防に強い意識を抱いた。

 ●江川英龍は川路聖謨・羽倉簡堂の紹介で尚歯会の三河国田原藩
 :渡辺崋山・陸奥の水沢藩:高野長英らを知った。

 尚歯会は洋学の知識の積極的な導入を図っていた。
 渡辺崋山らは海防問題を改革する必要性を主張した。
  日本の沿岸を警備する大砲は旧式だったからである。

 江川英龍と渡辺崋山は長崎で洋式砲術を学んだ高島秋帆を知り、
 海防に生かす道を模索した。


 鳥居耀蔵は江川英龍と江戸湾岸の測量手法を巡って争った際に
 江川英龍に敗れた。・・・鳥居耀蔵は同僚:江川英龍と背後の
 渡辺崋山・高野長英が気に入らなかった。


・天保10年(1839) 蛮社の獄
  鳥居耀蔵は蛮社の獄は冤罪をでっち上げ、渡辺崋山・高野長英ら
  を逮捕し、尚歯会を事実上の壊滅に追いやった。
  ★江川太郎左衞門は渡辺崋山に絵を習うことはできなかった。

  しかし、江川英龍は水野忠邦に助けられた。

 ●江川英龍は長崎へと赴いて、高島秋帆に弟子入りした。
  近代砲術を学んだ。


・天保11年(1840)
江川英龍は水野忠邦より正式な幕命として高島秋帆への弟子入りが
 認められた。

 ●江川英龍は高島秋帆から洋式砲術の免許皆伝を得た。
●江川英龍は幕府に高島流砲術を取り入れ、江戸で演習を行うよう働きかけた。
 

・天保12年(1841)
 ●江川英龍は高島流砲術をさらに改良し西洋砲術の普及に努めた。
洋式砲術師範を許され、江戸芝に縄武館を開いた。
 全国の藩士を教育した。
 ・幕臣:川路聖謨
 ・松代藩士:佐久間象山
 ・幕臣:大鳥圭介 
 ・福井藩士:橋本左内
 ・長州藩士:桂小五郎(木戸孝允)などが学んでいる。
 

・天保13年(1842)
  松代藩主:真田幸貫が老中兼任海防掛に任ぜられた。
  佐久間象山は真田幸貫から洋学研究の担当者として
  白羽の矢を立てられた。
  佐久間象山は江川太郎左衛門英龍の門下生になった。
  江戸の縄武館で、兵学を学ぶことになった。


  江川英龍は佐久間象山のことを嫌っていた。
  洋式砲術を使った戦略を短期間で習得しようとしたからである。
   江川には「秘伝」的な教育方針があったからである。
 江川英龍に西洋兵学をあまり教わらなかったようだ。
   (★長野の象山神社の本では)

 
9月 佐久間象山は藩主:真田幸貫に『海防八策』を献上した。
    高い評価を得た。
    佐久間象山は江川英龍や高島秋帆の技術を取り入れつつ大砲
    の鋳造に成功した。その名をより高めた。

・天保14年(1843) 満32歳
水野忠邦、鳥居耀蔵が2年で失脚した。
   松代藩主:真田幸貫も老中海防掛けから、勝手掛け
  (会計担当)も辞任した。
水野忠邦の天保の改革は2年で終わったのだった。
  江川英龍は水野忠邦の後に老中となった阿部正弘にも高く
  評価された。
  

・天保14年(1843)
 ●江川英龍は幕府の鉄砲方を兼ねた。
江川英龍は反射炉を作り、銃砲製作も行った。
江戸の「江川太郎左衛門鉄砲調練所」は、新銭座の
    慶應義塾の近くにあった。

・弘化元年(1844) 鉄砲方だけを解任された。 

・嘉永年間   
   種痘の技術が伝わった。
 ●江川英龍は領民への接種を積極的に推進した。
  領民は「世直し江川大明神」と呼んで敬まったそうである。
★佐久間象山も種痘を自分の子どもに施した。


・嘉永2年(1849) 
 ●幕府の許可を得て反射炉の建造に着手した。
 

・嘉永6年(1853)
〜〜〜〜〜ペリーの来航〜〜〜〜〜〜〜〜
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 ●勘定吟味役格となった。  
 
 ●江川英龍は阿部正弘の命で品川砲台台場を築造することになった。
   砲台を据えた人工の島から侵入する外国艦船に向けて砲撃
   することが目的であった。
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   品川台場の築造責任者となった。
江川太郎左衛門英龍は11の台場を計画した。
   品川の御殿山や泉岳寺前の山を切り崩した土と東伊豆や安房
   から運ばせた石を使って、6つの台場を完成させた。
   しかし、日米和親条約が結ばれ、建設は中止になった。
   ※港区の第3台場が台場公園として現存している。
    また、第6台場は鳥の楽園になっている。
(★ウキペディアほか)

江川英龍は伊豆川奈・富戸・下田・などにも大砲を設置した。
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 ●江川英龍は日本で初めて着目して乾パンを焼いた。
   国防上の観点から、兵隊の携行食糧にと高島秋帆の門人
   に教えを受けて乾パンを焼いた。
   パンの効用を日本で初めて着目して乾パンを焼いた。
   日本のパン業界から「パン祖」と呼ばれている。
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江川英龍は爆裂砲弾の研究開発を推進した。
   近代的装備による農兵軍の組織も企図した。
 屋敷近隣の金谷村の人を集め、日本で初めての西洋式軍隊を
   組織した。
  「気をつけ」や「右向け右」や「回れ右」等の掛け声は、
  江川英龍が親族の石井修三に頼んで日本語に訳させたものだ
  そうである。

 ●江川英龍は新選組にも貢献した。
  支配地の武州多摩の佐藤彦五郎に農兵政策や自警を勧めた。
  天然理心流を学ぶものが増え、後の新選組結成に繋がった。
  新撰組副長・土方歳三は義兄:佐藤彦五郎を通じて、
  江川英龍の農兵構想を学んでいたと言われている。


・嘉永6年(1853)〜安政元年(1854)
江川英龍は外国との交渉にもあたった。
   家臣にはジョン万次郎がいた。
   黒船との交渉時、通訳として活躍した。
   下田港をはじめとして、外国船との交渉の前線に立つことに
   なった。

  8月 ロシア使節プチャーチンが来航した。
  12月 プチャーチンは再来日した。
  幕府全権の川路聖謨、筒井政憲と計6回、会談した。
  交渉はまとまらなかった。
  
 ●江川英龍は造船技術の向上にも力を注いでいた。
  江川はプチャーチン一行への対処の差配で忙しかった。 
 ・プチャーチンの率いる難破した。
  ロシアの軍艦ディアナ号の代わりの軍艦を伊豆戸田村に
  おいて建造することになった。
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  ★ロシア敵視していたのに、ロシアの外国船建造に
   関わるなんて、思いも寄らなかったであろう。
 
  「戸田(へだ)号」日本初のヨーロッパ式艦船であった。
  江川英龍は近代造船業の道を開いたともいえるだろう。

  ★後に、戸田号は、函館戦争で使われることになった。
  ・・・土方歳三が岩手沖で見たのが最後なんて世間は
  なんて狭いのであろう。・・・関係ないか?
なんと、皮肉な運命なのだろうか?


江川は激務に体調を崩していった。

・安政元年(1854) 
  ●韮山反射炉は起工された。
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・安政2年(1855) 1月16日に病死。享年55(満53歳没)。
  江川英龍は完成を見ずして病没した。
  ★無念だったでしょうね。。
  本立寺の本堂本堂の裏に、江川太郎左衛門英龍(坦庵)の
  お墓がある。

::::::::::::::::::::::::::::::::::: 

 尚、韮山反射炉はコークスが入手できなかったため、銑鉄が溶解
 できず、青銅製の大砲が鋳造された。


・文久3年(1863) 長男:英敏が農兵軍の編成に成功した。
江川英敏は芝に大小砲習練場を設けた。
  東京浜松町駅北側にあり、江川氏調練場として、明治維新まで
  続いた。


・明治3年(1870)
江戸の「江川太郎左衛門鉄砲調練所」は、三田の新銭座の慶應
   義塾の近くにあった。
   屋敷の長屋三十間ほどの総二階を慶應義塾に貸し出した。
   福澤諭吉夫人の実弟:土岐謙之助が江川太郎左衛門の
   門弟であったからである。

・明治4年(1870) 江川の屋敷は三田の島原藩中屋敷に移転した。
   江川家の江戸屋敷が柏木忠俊の配慮で福沢諭吉に払い下げられて
   慶應義塾舎となった。
   江川家の正門は韮山の家に移築し、今の表門となっている。
(★ウキペディアより編集)
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   韮山高校の表門というHpもどこかでみたが・・・


◆参考文献
  韮山郷土資料館で購入した本


◆参考サイト
 ウキペディア「江川英龍」



★明日は??

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