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zoom RSS 箕輪初心●山形【長谷堂城の戦い】直江兼続VS最上義光

<<   作成日時 : 2013/07/09 05:13   >>

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★2008年5月6日、GW東北旅行の一貫で長谷堂城に行ってみた。
長谷堂城の大激戦。慶長5年(1600) 9月6日〜10月4日まで出羽
国(山形県)で行なわれた上杉景勝(西軍)VS最上義光・伊達政宗
(東軍)の戦いである。「東の関ヶ原」「奥羽の関ヶ原」とも呼ばれ
ている。関ヶ原では9月15日の1日で決着がついていた。2週間
後に、西軍の敗北を知った上杉景勝の重臣:直江兼続は苦戦しなが
らも最上義光勢の追撃を食い止めて全軍殆どの撤兵に成功し、米沢
→会津に戻った。

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◆◆ 箕輪初心◆山形旅行12回の概要 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201307/article_3.html

◆◆ 箕輪初心●山形【米沢城】&米沢の秘湯 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201307/article_4.html

箕輪初心●山形【米沢城】&上杉家廟所・林泉寺・照陽寺 ◆
http://53922401.at.webry.info/201307/article_5.html

◆◆ 箕輪初心●山形【上山城】&武家屋敷 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201307/article_6.html

箕輪初心▲百名山bQ【蔵王4回】&サクランボ大将錦&佐藤錦
http://53922401.at.webry.info/201307/article_7.html

◆ 箕輪初心●【山形城】&山形博物館&最上義光歴史館 ◆
http://53922401.at.webry.info/201307/article_8.html

◆ 箕輪初心●山形【長谷堂城】&直江兼続VS最上義光 ◆




【1】長谷堂城
写真の順番が違うかもしれないが・・・
■訪問記・・・平成20年(2008)5月6日


●八幡神社駐車場・・・・10台。
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●八幡神社口から登る。
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地元の人が「こちらの方がなだらかでいい。」
と言ったが、そうかも知れない。
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●15分程で二の丸・本丸分岐・・・
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●二の丸
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●分岐
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●本丸虎口
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●本丸
・表示・・
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・案内板
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・山形城遠望
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長谷堂城の戦いをイメージしながら、守る志村光安や直江兼続の思いを
かんがみる。東北の関ヶ原の戦いか〜〜〜
眼下に直江兼続軍がいる。

●下山は、大手門口から下った。
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●城下町・・・・
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●八幡神社口に戻った。


●遠望
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●最上義光歴史館





■▲● 東北の関ヶ原の戦い=長谷堂城の戦い ●▲■
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・慶長7年(1600) 関ヶ原の戦い→西軍か、東軍か。
※関ヶ原の戦いは、豊臣秀吉亡き後の豊臣政権内で起こった派閥争い
である。

五大老筆頭:徳川家康徳川家康は伏見城に居座り続けて豊臣秀吉の遺言を
破り、まるで天下人のように振る舞っていた。
正月 津川城主:藤田信吉は上杉景勝の代理で、豊臣秀頼&徳川家康の
もとに年賀の挨拶に行った。
帰国後、上杉景勝に「徳川家康に逆らうな。」と箴言した。
2月 越後春日山城主:堀秀治は上杉景勝が武備を整えて謀叛の兆候が
   あると訴え出た。
   徳川家康は伊奈昭綱を派遣して上洛を勧告した。
   しかし、上杉景勝は応じなかった。

3月11日 藤田信吉は逃亡。・・・徳川方へ
越後の春日山の堀秀治・新発田城・本庄城は東軍であり、さらに
津川の藤田まで徳川側になり、越後は全て東軍となった。

3月13日 上杉景勝は謙信の23回忌を挙行した。

4月??日 徳川家康はすぐに会津攻めをするつもりだったが、毛利
    輝元&宇喜多秀家に止められた。

詰問使として、第一回目には河村長門守・・・増田長盛の家臣
詰問使として、第二回目には伊奈昭綱・・・徳川家康の家臣
 伊奈昭綱と河村長門(増田長盛の家臣)に託した。
第三回目には、直江兼続とは長年の交際を続けている豊光寺
 の住職:承兌を使って書かせた詰問状である。
「謀叛の噂が流れている」として早期の上洛を勧める直江兼続へ
の手紙である。

4月13日直江状
・直江兼続→徳川家康
1、「尊書をじっくり拝見させて頂きました。結構なことです。
2、当家について、様々な噂が流れているようで、内府様がご不審を
  抱くのも無理のないことです。会津は遠国で、さらに景勝は若輩
  者です。このふたつは、謀反の噂を生むにはうってつけの条件で、
  今回の騒ぎもそれだけのことです。
3、景勝に対して、大坂に上れ、との仰せですが、一昨年に父祖伝来の
  越後から会津に国替えになったばかりで、政務に忙殺されています。
  昨年九月に帰国したばかりで、またすぐ上坂となれば、いつ国内
  の仕置きをすればいいのでしょうか?
4、景勝に謀反の意思がないということを、誓紙に書いて差し出せという
  ことですが、そんなものはいくら書いたところで意味がありません。
  景勝が律儀な人物だということは、亡くなられた太閤殿下が一番よく
  存じておられたはずです。太閤の死後、諸大名の多くが心変わりした
  ようですが、景勝をそういったやからと同じに考えて頂いては迷惑で
  す。
5、また、当家が武具を集めていることを批判なされるが、これまた迷惑
  です。上方の武士は専ら、人たらしに使う茶道具を買いあさりますが、
  我々は田舎武士ですので、武具を集めることしか知らないのです。
6、また、川に橋を架け、街道を整備していることについてもご不満のよ
  うですが、これは行政上、当然の処置です。堀秀治などは、これを軍
  事道路だと密告していると聞きましたが、久太郎(堀秀治)ごときを
  攻めるのに、道路など必要ありません。取り越し苦労です。
7、また、近頃前田利長殿に対して、思いのままの処置を下されたそうで、
  大した御意向でございますねえ。
8、追伸「なんでも近々、内府様か中納言様(徳川秀忠)が、会津征伐に
  みえるとのことですので、国境に布陣してお待ちしています。」
                   〜〜〜〜〜〜以上
やっぱり「直江状」は、直江兼続の徳川家康に対する挑戦状だ。
直江兼続は
@上杉景勝に対する疑惑をいとも簡単に論破した。★論客だった。
A豊臣秀吉の死後、徳川家康の天下取り指向に変わったことを皮肉った。
B前田家に嫌疑をかけたことを馬鹿にした。
C最後の追伸は挑戦状そのものである。
「いつでもきなさ〜い。」
だって、・・・・★凄過ぎる。
参考Hp・・・
http://8416.teacup.com/blitzkrieg/bbs/6 ・・・引用。

本物かニセ物か分からない直江兼続の「直江状」であるが、NHK
大河ドラマ『天地人』の時に、滋賀の長浜城博物館、新潟の六日町の
天地人博の会場でも見た。
 
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◆◆ 箕輪初心●滋賀【長浜城】  ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201101/article_9.html

6月初旬
●上杉景勝は西軍を選択。徹底抗戦を表明。
 神指城の築城を中止。
 32の支城に臨戦態勢をしいた。

6月16日 
△徳川家康は諸大名に出陣を命じ、遠征した。 
徳川家康が会津征伐のために、伏見城を出陣した留守を狙って、
 石田三成は伏見城に攻撃を仕掛けた。
 石田三成は頭に来て・・・・、怒りが爆発したのだった・・・。
 これが関ヶ原の戦いの始まりである。
 その時、の動きに合わせるが如く、呼応したのが、会津の
 上杉景勝というより、・・・その重臣の直江兼続であった。

●会津の上杉景勝討伐を進めていた。
 @白河口・・・徳川家康・秀忠
A仙道口・・・佐竹義宣※でも、上杉景勝に内応。
B信夫口・・・伊達政宗
 C米沢口・・・最上義光
D津川口・・・前田利家・堀秀治

7月24日
●下野の小山で「石田三成挙兵」の報を聞いた。
△小山評定となった。会津征伐のために東上していた徳川家康は、
 伏見城攻撃のニュースを聞いて、評定を開いたのだ。
 即座にUターン。軍を一路、畿内へと戻った。
 そして、・・・関ヶ原となるのである。

徳川秀忠は上田城で戦った。・・遅刻だ。
しかも、真田昌幸に負けた。


●直江兼続は下野の芦野付近で待ち伏せ・・・すぐに引き返して、
白河で迎え打つ作戦であった。やる気満々で、土塁や掘を構築して
 支城の守りも固めていた。
 しか〜し、・・・
 下野にいた直江兼続は、南会津:長沼の上杉景勝の本陣に戻った。
 直江兼続は父:樋口兼豊から、
 「最上義光・秋田実季らと志駄義秀の酒田城を攻めようとしている」
 と聞き、上杉景勝は直江兼続に最上領への侵攻命令を出した。
直江兼続は徳川家康のUターンは最上義光の領地へと進攻するの
 には絶好のチャンスだと思った。

▲最上義光は上杉景勝との交戦が困難と判断し、あわてて上杉景勝に
 対しての和睦を申し入れたが、交渉は決裂・・・。

▲山形城の最上義光の元に、南部利直・戸沢正盛・秋田実季らが
 参集していた。


9月3日 
●直江兼続は会津から米沢へ帰郷。

9月9日 
直江兼続は24000の軍を率いて最上領に進軍。
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@直江兼続本隊は18000
春日元忠・上泉泰綱・水原親憲・前田慶次郎ら
A別働隊3000・・本村親盛・横田旨俊が上山城攻撃へ
 B酒田城:志駄義秀&大山城:下吉忠の3000が
        庄内側から最上領へ侵攻。

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9月13日 
直江兼続は色部修理を先手として最上領:畑谷城攻撃
→350人で死守・・・→城将江口道連は自刃。

援軍の最上勢:飯田播磨・矢桐相模が敗北。
      
直江兼続は山野辺・長崎・谷内・寒河江・白岩の
       各城を攻撃。
直江兼続は、最上配下の支城を次々と落としながら進み、
 最上義光の居城である山形城の間近の長谷堂城
 (山形県山形市)へと迫ったのだった。
  直線距離で5km 程の所にある。
      

最上義光にとって、長谷堂城は最後の砦。
逆に、長谷堂城・山形城に集めるという作戦だったかも
しれない。
  最上義光が援軍として派遣したのが鮭延秀綱であった。
  最上義光の山形城以外は、志村光安(あきやす)
 ・鮭延秀綱(さけのべ)の拠る長谷堂城のみであった。
@志村光安・坂光秀・氏家光氏(天童城主)1000人
A援軍・・・鮭延秀綱300人
      

9月15日 
最上義光は、北ノ目城にいる伊達政宗に使者と嫡子:
      義康を送り、援軍を依頼。

   
直江兼続は志村光安らの籠もる長谷堂城を包囲。

関ヶ原では東軍が西軍に勝利。
      大谷吉継は自刃、島津義弘は戦線離脱、
       石田三成は伊吹山中へ逃亡。」

      
直江兼続は西軍の敗戦を知らなかった。
   
直江兼続は長谷堂城に攻撃。
最上軍の志村光安1000人の頑強な抵抗。
       

9月16日 
直江別働隊の本村親盛・横田旨俊軍が上山城へ接近。
       
9月17日 
■伊達政宗は叔父:伊達政景を名代とし、
   鉄砲隊700+500余騎・・・3000人を派遣。

直江兼続が再び鉄砲隊を率いて長谷堂城を攻撃。
  平地からの射撃では山城の長谷堂城へ攻撃の効果は
  なかった。


 
上山城の守将:里見民部は兵500+αの兵
   伊達援軍の草刈志摩守と共に挟撃にした。
   上山方面の上杉軍4,000を壊滅させた。

本村親盛が戦死した。

      
■伊達政宗より派遣された留守政景が援軍3,000を率いて
       笹谷峠に布陣。

9月18日 
直江軍の春日元忠が先峰として出撃。長谷堂城の外堀まで攻め
  込んだ。

  結果・・志村に鉄砲を撃たれ、失敗に終わった。

9月19日 
直江兼続は軍の一部で長谷堂城を包囲しつつ
  水原親憲の軍を山形城へ進軍した。
  須川河岸で山形城及び長谷堂城から最上勢を誘い出し
  て、野戦に持ち込もうという計画であった。
      
最上義光は兵を動かさなかった。


9月21日 
■伊達政宗は大条景頼も派遣した。

直江兼続は敵兵を誘い出すために長谷堂城と菅沢山
   の間に広がる水田の稲穂を刈り取る「刈田」の戦法
   を考えた。直江兼続は稲を刈る命令を出した。
 
志村光安は「柵の外へは出づべからず」と厳命した。
  しかし、将兵は勝手に出ようとした。


鮭延秀綱は、旗本組100騎を率い討って出た。
  鮭延秀綱は、遊撃隊として、刈田を行っている直江兵を攻撃した。
   8000の直江軍を相手に暴れまわった。
   深入りするのを抑えながら。撤退、攻撃を繰り返した。
鮭延秀綱は押しては引いて、・・・引いては押して・・・

まるで、箕輪城に迫った武田信玄を相手に、暴れ回った藤井友忠の
 ようであった。
 
引いた時、直江軍が追撃し、城に登ろうとする。
志村光安が鉄砲足軽300人で攻撃。300挺で一斉射撃・・。
直江軍は撤退しなくてはならなかった。
 
鮭延秀綱は夜襲を決行して直江軍を翻弄した。
   ★直江兼続を手玉に取ったのだ。
直江兼続は苦戦を強いられた。
「さても今日鮭延が武勇、信玄・謙信の家にも覚えなし」 
   と、鮭延秀綱に後日、褒美を贈ったと言われている。



9月23日 
大条景頼は最上義光と協議した。
 
直江軍は伊達軍の動きを警戒し、須川から後退した。

9月24日
■伊達軍は山形城城下の沼木まで進軍した。
   〜〜〜須川河岸で対峙〜〜〜。

9月25日 
最上義光も稲荷塚まで出陣した。
  〜〜〜〜膠着状態になった。〜〜〜


9月29日 
直江軍は再び長谷堂城に猛攻をかけた。  
上泉主水泰綱が長谷堂城と菅沢山直江軍陣営の中間
  で、討死してしまった。(★24日説もある。)
   
新影流の剣聖:上泉信綱の孫:上泉泰種(泰綱)であった。   
◆◆ 箕輪初心★岡本半助宣就&上泉泰綱 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201301/article_9.html  
  
前田慶次郎も翻弄された。・・・ 
   
直江兼続は長谷堂城攻略を断念し、決戦場を北方へ移そう
   と協議した。



9月29日 
会津の上杉景勝に
   「関ヶ原での西軍の敗戦」の報せが届いた。

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9月30日 
上杉景勝は直江兼続に連絡・・・
   「急ぎ撤退し、国境を固めるように。」と命令が下った。

直江兼続は長谷堂城の包囲を解除した。


最上義光も、東軍徳川家康が関ヶ原の戦いで勝利と
       の報を聞いた。

   
両軍とも、9月15日に決着のついた“関ヶ原の戦い”の結果を
    2週間も経って、知ったのだった。


10月1日 
直江兼続長谷堂城の戦いからの撤退。 
 直江兼続は菅沢山本陣を杉原常陸介に預け、富神山に布陣。
 直江兼続は殿(しんがり)・・・ビリとなって、撤退を開始した。

    
最上義光は、最上軍&伊達軍の連合軍を率いて追撃戦を
  敢行した。最上義光はこの時とばかり追撃したのだ。

調子に乗った。

杉原常陸介率いる鉄砲隊が追撃軍を狙撃。
    
最上軍は混乱になった。筑紫喜吽が戦死。

直江兼続は全軍撤退を開始した。     
     
 
※退去する直江兼続(緑の鎧)
                 
※追撃する最上義光

直江軍 VS 最上・伊達軍は、須川で大激戦。
鮭延秀綱は直江軍に猛追撃を仕掛けてきた。
直江兼続も切腹を決意するほどの窮地にたった。
 
            
直江兼続は最上軍から、なかなか退却が出来ずにいた。
    前田慶次(60歳の戦国の傾奇者)と水野藤兵衛
・韮塚理右衛門・宇佐美弥五右衛門・藤田森右衛門
   の5人で攪乱戦法に切り替えた。    
 

鉄砲隊の援護射撃
最上義光の兜に銃弾直撃。
最上義光歴史館・・・使用した弾痕の残る兜が展示されている。



■最上義光歴史館長谷堂城
※(関ヶ原の戦いの日  最上義光 VS 直江山城守兼続)



10月2日 
直江兼続は畑谷城へ入り残兵をまとめた。

10月3日 
荒砥城まで退いた。

10月4日 
直江兼続は米沢へやっと帰着。
      大軍の殆どを米沢に帰陣させることができた。
直江兼続は、
 「鮭延が武勇、信玄・謙信にも覚えなし」(『永慶軍記』)
と、言ったらしい。


※戦死者の数は、
●上杉側の記録では最上方2100。
▲最上側の記録では最上方623・上杉方1580。
 


上杉景勝は直江兼続と会津で待機。
     →玉砕か、降伏か。上杉景勝は降伏の道を選択。

慶長6年(1601)
8月16日  
●上杉景勝は直江兼続と大坂城の家康のもとへ伺候。

8月24日  
●会津120万石から米沢30万石へと減封。

11月28日 
●米沢入封→上杉景勝と直江兼続の「関ヶ原」は終結。   


★参考文献
 観光山形・もう一つの関ヶ原・奥羽の関ヶ原等・・・







▲▲▲ 最上義光は、出羽山形57万石に封じられた。 ▲▲▲
▲▲▲ 志村光安(あきやす)のその後 ▲▲▲
直江兼続が撤退後、志駄義秀の酒田城を攻略。
庄内3万石・・・。文学・連歌に長じていた。
 羽黒山五重の塔の修造など・・・
・慶長14年(1609) 死亡。

▲▲▲ 鯵延(さけのべ)秀綱のその後 ▲▲▲
・真室城(新庄)11500石(→17000石)が与えらた。
・江戸時代、最上義光が亡くなった後は、鯵延秀綱は最上家老衆の
 筆頭になった。
・元和3年(1617) 最上義光の次男で2代:家親が死亡。
 最上家の家督争い・・「最上騒動」になってしまった。
 ほかの重臣は幼い息子:義俊を後継ぎに推した。
 鯵延秀綱は最上義光の4男:山野辺義忠を後継者に推した。
 最上家の家臣団が真っ二つに割れてしまったのだ。
・元和8年(1622) 最上家は改易となった。
 鯵延秀綱は佐倉藩主:土井利勝の預かりとなった。
 土井家から与えられた知行5000石の全てを家臣に分け
 与えたのだとか・・・秀綱は家臣たちに養われる形で、家々
 を転々として暮らしたとさ・・・
・正保3年(1646)6月21日、85歳の生涯を終えた。
(★奥羽の関ヶ原)


20000字を越え、合戦の写真等の掲載ができなくなった。
 残念。

★明日は、天童城かな?・・・

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2013/07/18 06:38
箕輪初心◆山形:酒田【土門拳記念館】&『とびしま』&海洋センター
★鳥海山の2回目の登山の後に、酒田の「土門拳記念館」に寄った。 「土門拳記念館」は庭園や建物、そして、作品も凄かった。私は 土門拳の「古寺巡礼」の写真集を何度か図書館で見た。でも、仏 像写真だけではなかったのだ。「ヒロシマ」や「昔の農村風景」 「子ども」などテーマは複雑だ。それから酒田港の『海鮮どんや とびしま』に行った。安い・旨い・混みすぎの3拍子揃った店だ った。隣の海洋センターはそれなりに楽しめた。飛島にダイビン グに行きたいと思った。 ...続きを見る
城・陶芸・ハイキング・ダイビング・スキー...
2013/07/19 05:50
箕輪初心●山形『松山城=松嶺城』&山形の海水浴場
★平成25年(2008)7月21日は参議院議員の投票日である。 群馬の私の地区は加賀谷富士子:民社党新・山本一太(自民) ・安永陽(幸福新)・店橋世津子(共産新)が候補者である。 比例代表の選挙もある。・・・結果はどうなるのかな? ★松山城の大手門」は山形県指定文化財である。松山城の大手 門は巨大で重厚であった。 松山藩は庄内藩初代藩主:酒井忠 勝の3男:忠恒が2万石を分地され、松山藩が成立した。つまり、 松山陣屋は鶴ヶ岡城の支城として築かれたのである。松山城にな ったは、... ...続きを見る
城・陶芸・ハイキング・ダイビング・スキー...
2013/07/21 07:05
箕輪初心★伊達政宗の生涯= 戦国の「風雲児」「異端児」「問題児」
★伊達政宗をどう受け止めたらいいのであろうか?伊達政宗の生 きた時代は織田信長や豊臣秀吉が天下統一へ向けて活躍してい た時代だ。従って、伊達政宗は生まれてくるのが遅かった感もある。 奥州制覇・天下統一の素質も持っていた戦国の「風雲児」「異端児」 「問題児」。・・・伊達政宗という人は不思議な人格で、波乱に満ちた 人生だったと思う。そこで、伊達政宗という人を振り返ってみようと思う。 「独眼竜政宗」という呼ばれ方もされている。どこが竜なのだろう。 ...続きを見る
城・陶芸・ハイキング・ダイビング・スキー...
2013/07/27 11:35

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