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zoom RSS 箕輪初心★本間家の歴史;佐渡本間一族→酒田本間家日本一の地主へ

<<   作成日時 : 2013/07/20 08:40   >>

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本間家は佐渡から酒田へは確定的だが、過程で諸説ありそうだ?
酒田の「本間本邸」に2回、「本間別邸=本間美術館」に1回行った。
「本間様には及びはせぬが、せめてなりたや殿様に・・・」と歌まで
読まれる程の大金持ちの地主であった。最高で3000町歩の田地を持
っていたが、第二次世界大戦後の農地解放により没落した。
高校時代
の日本史の教科書に「湿田を田舟・田下駄で稲刈りする様子」が掲載
されていたのを思い出す。高校生の頃の疑問はどのようにして大金持
ちになったのか?であったが、ここ10年は、佐渡ダイビングセンタ
ーの本間さん、佐渡の羽茂城・河原田城などの本間一族・お城回りで
超有名な新潟中条の本間さん・大地主の酒田の本間家・本間ゴルフの
ルーツはどんな関係があるのか?という疑問である。新田系の私には
関係ないけど、ちょっとだけ本間一族・本間家の歴史を調べてみた。

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【1】酒田「本間本邸」に2回
酒田駅の東南800m程の場所にある。市役所も近い。地図にも、ナビ
にも「本間家旧本邸」と記されている。駐車場は近くにあるらしいが、
でも、見つからなかった。
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小学生 200円(180円)中・高生 300円(270円)  
 大人 700円(630円) ( )・・・団体料金 20名以上
※ 本間美術館との共通入館券  1400円
本間家旧本邸は、本間家三代光丘が、幕府の巡見使一行を迎える
ための本陣宿として明和五年(1768)に新築し庄内藩主酒井家に
献上した、二千石格式の長屋門構えの武家屋敷です。
 巡見使一行が江戸に戻ると屋敷を酒井家から拝領し、商家造り
の方で昭和二十年の春まで住んでいました。
 桟瓦葺平屋書院造りで、武家屋敷と商家造りが一体となっている
建築様式は、全国的にも珍しいものです。
(★本間家旧邸のHpより)



【2】酒田「本間別邸=本間美術館」
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文化10年(1813)建築。本間家4代当主光道が本間家別荘として
築造しました。6千坪(約2万平方メートル)の敷地内は、鳥海山
を借景に林泉の風致をそえた池を中心とした廻遊式の庭、鶴舞園を
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はさんで本館と新館(昭和43年竣工)があります。
本館は清遠閣と称され、2階建ての銅板と瓦ぶきの建物です。
藩政時代は庄内藩主や幕府要人を接待、明治以後は皇族や政府高官、
文人墨客を接待する酒田の迎賓館の役割を果たし、大正14年には
昭和天皇のお宿にもなりました。
昭和22年、市民に開放され、全国に先がけて地方都市の私立美術館
として開館しました。
所蔵品には、本間家が大名から拝領した品、歴史資料として価値の
高い文書、当主が好んだ茶道の器物など、重要文化財や重要美術品
が多数あります。
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また、楽焼茶碗「本間焼」が製作販売されており、庭園をみながら
この茶碗で抹茶が賞味できます。
(★本間家のHpより引用)
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●▲■ 佐渡本間一族→酒田本間家の歴史 ■▲●
・平安時代 村上天皇の第4皇子の子孫=村上源氏らしい。
 
     源有兼が小野盛兼の子:季兼を養子に迎え、その孫:
     義忠(能忠)に至って本間氏を称したことに始まる
     という。しかし、これは相模守を務めた源有兼に結
     び付けようとした系図詐称という説もある。
     
・鎌倉時代  武蔵(埼玉県座間市旧本間村)の支配になり、
       本間相模守となったのが始まりとされる。

    ※武蔵七党横山党海老名氏流である。
     本間の名前は相模国愛甲郡依知郷本間に由来している。
(★ウキペディアでは)
 武蔵七党横山党の分かれで武蔵小野郷を本拠とした
     一族と考えられる。

・承久2年「承久の変」 
   幕府が勝利した。
新田系里見一族も活躍したのだ。
里見一族は現天童の成生館に入った。
    3代後、天童氏を名乗った。

   
  佐渡は、鎌倉幕府の支配下に移った。
  大仏北条氏が佐渡守護となった。
  佐渡国守護の大仏氏(執権北条氏の支流)の守護代として
    本間能久が佐渡に入った。

  
  ※本間系図の中には
  「順徳上皇供奉の一人にて入国し、石田に住す」とある。
  別の本間系図には
   「佐渡院御下向の時、任佐渡守、奉供奉故也」とある。
  本間氏が佐渡へ渡ることになった事情を述べたものである。

◆◆ 武家列伝 本間家 ◆◆ を参考にさせていただいた。
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/honma_k.html
  本間能忠の子
    本間忠家は遠州系本間氏の祖となった。
    本間能久(義久)が佐渡本間氏の祖になった。
  本間能久が初めて佐渡守護代になったという。
  以後島内各地に一族が広がって佐渡最大の武士団に成長し、
  嫡流は雑太本間氏となった。
  雑太城を本拠として勢力を伸ばし、いくつかの分家に分かれた。
  その後、本間一族が越前、越後に散らばったらしい?

・南北朝時代 
  本間季綱(すえつな)が越後から庄内の下川村に移り住んだ(伝)。
  長男:本間光重が酒田に移った。
  弟:兵部は下川にそのまま在住した。


  本間主計忠光の時(1521〜27年の頃)に酒田に移転して来た。
  菩提寺の浄福寺の過去帳には1616年没の三郎左衛門綱光から
  記載がある。

(★酒田市史)

  
本間一族は鎌倉時代から戦国時代まで佐渡国を支配した氏族
  である。


・永正6年(1509) 永正の乱
  関東管領:上杉顕定 VS  越後守護代:長尾為景と守護上杉定実
敗れた長尾為景(上杉謙信父)&新守護定実は越中に逃れ、
  さらに佐渡へと渡ってきた。本間一族はを匿まった。
長尾為景は姻戚関係にある羽茂本間氏を頼ったのであろう。
  つまり、=羽茂城:羽茂高信は長尾為景の姪婿なのである。


  ★赤泊村の徳和部落に遺跡がある。
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  長尾為景は佐渡で態勢を立て直した。

・永正7年(1510) 羽茂本間家・雑太本間家が長尾為景に援軍を出した。
  寺泊から越後蒲原津に渡った上陸・・寺泊・・中越六日町へ
  
 

長森原の戦い(新潟県六日町:八海山の麓)
  関東管領:上杉顕定 VS  越後守護代:長尾為景
  羽茂本間家・雑太本間家は上杉顕定を敗死させた。
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(★八海山の麓に館跡・供養塔がある。)

  戦功により、長尾為景から越後に領地を与えらた。


佐渡国の四大勢力
@雑太本間家・・・総本家
A羽茂本間家
B羽茂本間家
C久知(くじ)本間家・・・雑太本間家から分家。久知の地に入部した。
 久知城・本間家は河原田本間家や雑太本間家らと戦いを続けた。
河原田本間家や雑太本間家と戦い敗れた。


宗家=惣領家の雑太本間家は没落した。
 次第に河原田本間家、羽茂本間家の力が強まっていった。
 河原田本間家、羽茂本間家は 度々争うようになった。
  
  

・長尾為景の子:長尾景虎=上杉謙信の時代になると、
  河原田、羽茂両家の争いはいったんは収まった。

戦国期の佐渡では、有力豪族22人の内17人までが本間姓であ
 った。佐渡の歴史は本間氏による支配の歴史であったといって
 もよいほどである。現在でも佐渡では本間姓の人が非常に多い。

 (★余湖さんのHpより・・・佐渡高校出身だったのですか?)
上記の文章を引用させていただきました。
  また、群馬に来たと時は、御一緒させて下さい。

◆◆ 余湖さんの佐渡の城 ◆◆
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad/1577/sado.htm



・天正6年(1578) 上杉謙信の死後に、再び争うようになった。    
   北佐渡の河原田本間氏など・・反上杉景勝派であった。
   南佐渡の羽茂本間氏・・・・・上杉景勝派であった。

    
 上杉景勝の代・・・
   
   南佐渡の羽茂本間氏など・・・上杉景勝に通じていた.

(★だって、上杉謙信の従兄弟だったから・・・
     
 ところが、新発田氏が征伐されると
   南佐渡の羽茂本間氏は逆に会津蘆名義広の誘いにのった。
   羽茂本間氏は会津の蘆名義広、出羽の最上義光と手を結び、
   反上杉景勝の態勢を取るようになった。
ほぼ、佐渡17本間氏中でも有力の本間氏はみな、反上杉景勝
に敵対した。



・天正17年(1589) 上杉景勝は上洛して豊臣秀吉から佐渡の支配
  の許しを得た。つまり、佐渡の金銀山支配を命じられた。
  河原田家と羽茂家の対立を佐渡国平定の口実とした。


佐渡の本当の狙いは
  @金の産地を支配下におくことであった。
佐渡制圧は、「金」を狙った豊臣秀吉の命による説もあるが、
直江兼続の策略であろう。
   ★元元は、財源である佐渡金山の獲得にあった。
 すでに、長尾政景(景勝の実父)は奥只見に銀山を開拓して
 あったのだ。潟上銀山も支配下にあった。
  佐渡の「金」の産地は西三川の砂金である
  (★江戸幕府直轄領相川金山は大久保長安で脚光を浴びる。)
  
  A上杉景勝自身は本間家を絶滅させることで、名を挙げ、
   出世するの絶好のチャンスであったと考えられる。



6月12日  
 上杉景勝は佐渡支配を確実にするため、佐渡を急襲した。
 主力は直江兼続と配下の上田衆や与板衆であった。
 上杉景勝軍は越後出雲崎から1000余艘の船を率いて、
 佐渡へ〜〜〜〜
 沢根本間家の手引きを受けて沢根湊に上陸した。 
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@沢根城:本間左馬助・・・
     河原田本間高統の配下の村殿であった。
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A五十里城:五十里本間伊予守高安・・・
     河原田本間高統の配下の村殿であった。
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B潟上本間秀高
  本間秀高は潟上金山銀山を支配していた。 
C久和城主:本間泰時・・・

※上杉景勝の先鋒となり、河原田城攻めに参加した。
(★余湖さん)




1)河原田城攻撃 (★新潟県立佐渡高等学校の敷地)
  ・河原田城:本間佐渡守高統は藍原秀氏・渋谷真住などを
   河原田城に集めた。
  河原田本間高統 VS 直江兼続
   
河原田高統は河原田城に籠城。
  河原田城は落城・・本間高統は河原田城に火を放って自刃した。
  嫡男:河原田統之も自刃した。
  次男:河原田高応が家臣:磯田徳兵衛により会津:蘆名家へ落ち延びた。
 
 →河原田城に上杉景勝家臣:青柳隼人・古藤清雲が居城した。


6月15日?
2)雑太城攻撃 (★現妙宣寺)
吉井城:藍原大和守が雑田城主:本間信濃守憲泰を救援。
  本間憲泰・子:大炊介&藍原 VS 直江兼続
★直江兼続も暴れまくったらしい。〜〜〜
  →雑太城主:本間憲泰が降伏。
  
6月16日
3)羽茂城攻撃
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  羽茂本間対馬守高茂 VS 直江兼続
  吉岡本間遠江守・若林帯刀・笠井藤右衛門150名は
  羽茂城救援するため、背後に向かったが。上杉勢に撃退された。
  羽茂本間氏家老:海老名弾正は鉄砲衆を率いて撃ってでた。
  海老名弾正も負傷した。

  羽茂城は一日で落城。
  羽茂城主:本間高茂、弟の赤泊城:本間三河守高頼は逃亡。
  しかし、捕らえられ、国府川原で斬首。
★上杉謙信の従兄弟の子どもや孫は上杉景勝に討たれたのであった。
★支城:赤泊城
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★支城:小木城
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※上杉景勝の佐渡の急襲によって佐渡島内の多くの城は落城した。
   本間家のほとんどが滅亡した。
   河原田本間氏・雑太本間氏・羽茂本間氏などが滅んだ。


★味方した沢根城主:本間左馬助&久和城主:本間泰時
 らの所領を没収。越後に移封。上杉景勝に従って会津へ。

▲本間一党の所領を没収して佐渡一国を直轄地とした。
 上杉景勝の家臣の給地に再編した。
 羽茂城には上杉家臣:富永備中長綱や黒金安芸尚信らが交代で
 在番した。(★余湖さん)

★直江兼続の佐渡金山ねらいの非情な策略でもあった。
★佐渡金山観光をした時、直江兼続の金山経営の様子が載っていた。
鉛は庄内?から持って来させたとあった。
(★佐渡金山の資料)

◆◆ 佐渡広場:佐渡と本間氏 ◆◆
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/50776481.html
 
  上杉景勝側についた本間氏の一部は、佐渡を離れて上杉家とともに
  に越後、会津、米沢へと移転した。
   (★ウキペディアでは)
 
※潟上本間秀高は故郷の佐渡潟上に帰った。本間秀高の子:弥太郎
 は上杉景勝の会津→米沢に移りすんだ。
 子孫は代々500石で米沢藩上杉家に召し抱えられた。
 

◎佐渡から船で脱出し、生き延びたの本間氏の一部が出羽国
 酒田湊へ移った。酒田に着いた本間氏はここで商売を始め、
 大成功を収めた。酒田の豪商:本間家の祖となった。
 

【2】酒田の本間家
・江戸時代初期 
本間光重・・・越後出身。
 ↓
本間○○
 ↓
本間主計光定
 ↓
本間久右衛門
 ↓
●初代:本間原光・・本間久右衛門の次男。
・元禄2年(1689) 酒田市本町一丁目に分家して新潟屋を名乗る。
 ↓
●2代:本間光寿(こうじゅう)・・本間家初代:本間原光の長男。
・享保15年(1730)2代目当主。
・享保21年(1736)狩川通西野村(現余目町)に田地を購入。
・元文2年(1737)庄内藩:酒井家が財政難→120両を献金。
・寛延2年(1749)庄内藩の米1200俵を献上。永代70俵の扶持をうけた。 
 大阪堂島米会所の先物取引での収益を土地の購入にあて田地を
 拡大していった。
 ↓
●3代:本間光丘・・・本間光寿の三男。
・宝暦4年(1754) 3代目の家督を継いだ。
・明和4(1767) 藩主・酒井忠徳に登用・・・
  @藩の財政改革を推進・・藩士や農民の窮状を救った。
  A備蓄米の制度
  B庄内浜の植林事業・・・莫大な私財を投じた。
  C酒田港の整備・・河村瑞賢の西廻り航路=北前船の整備拡大
 「西の堺、東の酒田」と言われるほど賑わった。
  
   庄内藩や米沢藩の財政改革を支えた、
 酒田本間家は新興地主だったである。
 ・・・・25万石の豪農であったそうである。
300石の士分格にもなった。

http://toku-chan.blog.ocn.ne.jp/toku/2005/09/post_3de3.html


・明和5年(1768) 本店=新潟屋の前に本間邸造営 
  幕府の巡見使一行を迎えるための本陣宿として新築
  →庄内藩主酒井家に献上した。
  2000石格式の長屋門構えの武家屋敷である。
 幕府の巡見使一行が江戸に戻ると屋敷を酒井家から拝領した。
  〜〜〜商家造りの方で昭和20年の春まで住んでいた。
  桟瓦葺平屋書院造りで、武家屋敷と商家造りが一体となっている
  建築様式は、全国的にも珍しい。
(★本間家冊子)

●4代:本間光道
文化10年(1813) 本間家別荘として築造。
6千坪=約2万平方m)の敷地には鳥海山を借景に廻遊式
の鶴舞園がある。★上記写真。




・寛政年間(1789〜1801)
   貸付金だけで54,000両もあったという。

・明治時代〜
 本間家は酒田の豪商として栄え、日本一の大地主といわれていた。
最高で3000町歩の田地を持っていた。
「本間様には及びもないが、せめてなりたや殿様に・・・」
 と俗謡にうたわれる程、大名以上の資産を持っていた。
 酒田市に納められる租税収入の4分の1は本間家一家だけで払って
 いたと言われている。並みの大地主とはレベルが違うのである。
湿田を田舟・田下駄で稲刈りする様子も、高校の教科書に掲載されて
 いたのを思い出す。私は高校生の時には、本間家という名前は知って
 いたのだ。


・昭和時代
 第二次世界大戦後の農地解放により没落した。

・子孫は本間ゴルフを経営している。




★明日は、松山城=松嶺城かな?

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箕輪初心●山形『松山城=松嶺城』&山形の海水浴場
★平成25年(2008)7月21日は参議院議員の投票日である。 群馬の私の地区は加賀谷富士子:民社党新・山本一太(自民) ・安永陽(幸福新)・店橋世津子(共産新)が候補者である。 比例代表の選挙もある。・・・結果はどうなるのかな? ★松山城の大手門」は山形県指定文化財である。松山城の大手 門は巨大で重厚であった。 松山藩は庄内藩初代藩主:酒井忠 勝の3男:忠恒が2万石を分地され、松山藩が成立した。つまり、 松山陣屋は鶴ヶ岡城の支城として築かれたのである。松山城にな ったは、... ...続きを見る
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本文では、

※上杉景勝の佐渡の急襲によって佐渡島内の多くの城は落城した。本間家のほとんどが滅亡した。河原田本間氏・雑太本間氏・羽茂本間氏などが滅んだ。

とありますが、正確な記述ではないと考えます。雑太本間氏の当主、本間憲泰は、越後に「移封」された後、佐渡に帰島し、江戸時代まで生きています。戦国の世の習いとして、落城した城主が生きながらえるということは、よほどの「大」大名以外、ありえません。

私は、上杉方が佐渡平定で雑太城を拠点にした(=雑太本間氏が恭順した)というのは読んだことがありますが、「雑太城攻撃」というのを初めて読みました。どのような書物の記録なのでしょうか?
佐渡本間氏の末裔
2016/04/03 23:53
雑太本間氏の当主:本間憲泰は、越後に「移封」された後、佐渡に帰島し、江戸時代まで生きています。雑太本間氏が恭順したというのは読んだことがありますが、「雑太城攻撃」というのを初めて読みました。どのような書物の記録なのでしょうか?とのご指摘、・・・すみません。出展の記憶がありません。間違いの可能性があるので、記述の改訂をします。
佐渡本間氏の末裔
2016/04/05 23:14

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