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zoom RSS 箕輪初心●福島『向羽黒山城』=蘆名盛氏の隠居城

<<   作成日時 : 2013/05/17 06:17   >>

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平成20年(2008)GWに会津西街道〜米沢街道〜最上街道など
東北の歴史街道の旅をした。会津本郷焼&向羽黒山城・・・
もしかしたらここが会津の中心になっていたかもしれないと
勝手に想像しながら、旧会津本郷町を散策した。向羽黒山城は
白鳳三山の最高峰:向羽黒山に蘆名盛氏が隠居城として築いた
と言われている(伝)。 向羽黒山=岩崎山山頂の本丸跡を中
心に二の丸跡、三の丸跡、盛氏館跡(伝)などの郭がある。
竪堀や空堀、虎口、石塁の跡などの戦国山城の遺構が各所に
残されている。

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◆◆ 箕輪初心●福島『会津若松城1回目』 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201304/article_22.html

◆◆ 箕輪初心●福島『会津若松城2回目』 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201304/article_23.html

◆◆ 箕輪初心●福島『二本松城』=伊達政宗父の弔い合戦 ◆
http://53922401.at.webry.info/201305/article_8.html

◆◆ 箕輪初心●福島『桑折西山城』=伊達政宗の先祖の城 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201305/article_9.html

◆◆ 箕輪初心●福島『大仏城→福島城』=伊達政宗の先祖の城 ◆
http://53922401.at.webry.info/201305/article_10.html

◆◆ 箕輪初心●福島『大森城』=伊達政宗の会津平定の拠点 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201305/article_11.html

■訪問日・・・平成20年(2008)5月3日

●縄張り図
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@蘆名盛氏館(伝)&屋敷群
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・坂道を登った。

A三の曲輪
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・戻って、車で移動した。車は10台ほど停められる。

B二の曲輪
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●本丸の登り口が見えたが、暗くなりそうなので断念。
本丸への道・・・・
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※向羽黒山城の規模は、東西1.4km×南北1.5km。
東の阿賀川や崖の天然の要害がある。
土塁や堀などの防御施設が多く造られていた。



◆◆向羽黒山城の歴史
・戦国時代  15代蘆名盛舜・16代蘆名盛氏の時代に全盛期。
  16代:蘆名盛氏は会津地方と福島中通りの大名へと成長。
 ★戦国最強の甲斐:武田信玄と会津:蘆名盛氏は双璧かな?
  
・永禄4年(1561)黒川城(会津若松城)は平城。
         →向羽黒山城を築城開始〜
蘆名盛氏は14歳の17代;蘆名盛興の家督を譲った。
父・・・蘆名盛氏
    母・・・伊達稙宗の女
妻・・・正室:伊達晴宗(伊達政宗の祖父)の女

  ※蘆名盛氏は蘆名家の勢力拡大に奔走した。

・永禄8年(1565) 蘆名盛氏は須賀川城:二階堂盛義を攻撃。
    二階堂盛義は敗れて降伏。
    蘆名盛氏は二階堂盛義の子:盛隆が人質にして会津に
    連れてきた。

・永禄11年(1568)蘆名盛氏は隠居城:向羽黒山城を築城。
     ・家臣団の居住区と城下町の整備をした。
   蘆名盛氏は上野国の金山城(群馬県太田市)や武田信玄の
   信州・甲府の城から築城技法を配下に学ばせた。
   会津本郷の向羽黒山城や北塩原村の柏木城に石垣のある城
   を築かせた。  


・天正3年(1575)嫡男:蘆名盛興が26歳で継嗣を残さず病死。
   ※蘆名盛興の死は、後の蘆名家滅亡の遠因となった。
   ★もし長男の盛興が26歳で早世しなければ、ここが会津の
   中心地かもしれない。
   蘆名盛氏は後見人になるため会津黒川城に戻った。
    →向羽黒山城は一端廃城。   
   
   蘆名盛氏は人質であった二階堂盛隆を養子にし、蘆名盛隆に
   蘆名家を継がせた。
   18代:蘆名盛隆
父・・・二階堂盛義(須賀川)
    母・・・伊達晴宗の女
    妻・・・蘆名盛興の妻(未亡人)=伊達晴宗の女=伊達輝宗養女、
        伊達政宗の義理の兄弟・・・自分の叔母)

・天正8年(1580) 蘆名盛隆は安土城へ荒井万五郎を派遣し、織田信長
  に名馬などを献上。織田信長と親交を深めた。

  ※蘆名盛氏が死去。〜〜〜〜〜〜蘆名氏の衰退。    
  18代:蘆名盛隆実権を掌握。
  ★もし、蘆名盛氏が長命であったなら、伊達政宗の会津征服は
    あり得なかっただろう?
        

・天正9年(1581)  織田信長に名馬3頭・蝋燭1000挺を献上。
   越後で新発田重家が上杉景勝に反旗を翻した。
   伊達輝宗と蘆名盛隆は新発田重家を支援した。
   蘆名盛隆は実父:二階堂盛義と二階堂氏の勢力回復に務めた。
   蘆名盛隆に反感を抱く家臣の反乱がたびたび起こった。
   
   黒川城内で家臣:大庭三左衛門に襲われて死亡。享年23。

  家督は生後1ヶ月の息子:亀王丸が継いだ。
  亀王丸の母は隠居した兄:伊達輝宗に後見を依頼した。
  
※天正12年(1584) 伊達実元は嫡子:成実に大森城を譲った。


・天正13年(1585) 伊達政宗が18代の家督を継いだ。
 伊達輝宗の後を継いだ伊達政宗は同盟関係を破棄した。
   米沢の伊達政宗は会津の蘆名氏に挑んだ。
※伊達政宗は「檜原の金山」を手中にしたかったらしい?
     
  →葦名盛氏の家臣:穴沢俊光の奇襲により
   伊達政宗は敗北。死者173名?
     
   伊達政宗は葦名盛氏の配下の檜原の穴沢俊光を攻撃
    →巌山城が落城。
    伊達政宗は穴沢俊光一族を討った
    伊達政宗は小谷山城=檜原城を築城し、
    後藤孫兵衛を城番にした。
    本丸、二の丸、袖郭で構成され、空堀や堀切がある。

   伊達政宗は桧原峠を越え、裏磐梯へ進攻。
           
喜多方の関柴へも侵攻。(関柴合戦)
   蘆名氏を攻撃した。

   伊達政宗は蘆名氏は防御が強く、会津への攻撃は
   出来なかった。  
  

  伊達輝宗(政宗の父)の二本松城攻撃。
   畠山=二本松義継は伊達輝宗(伊達政宗の父)に降伏。
  二本松義継は伊達輝宗を拉致して二本松城へ連れ去ろうと
  した。
   
・天正14年(1586) 亀王丸が 疱瘡を患って3歳で病死。
  佐竹義重の子:佐竹義広を蘆名義広とし、蘆名家の当主にした。
 
※天正14年(1586) 伊達政宗は大森城から出陣。      
 「高田原の悲劇」
  伊達政宗は畠山義継と父:伊達輝宗とも射殺。

  畠山=二本松義継の子:国王丸は二本松城に籠城した。
  伊達政宗は二本松城攻撃を開始。 
    伊達稙宗・実元が二本松城:畠山を攻撃。            
 
  相馬義胤の口添えにより二本松城は開城。
     →畠山=二本松氏は滅亡。
   
   伊達政宗は片倉小十郎景綱(後白石城・妻は真田幸村の娘)
   を城代にした。その後、
   伊達政宗は軍功により、伊達成実に二本松を与えた。
   →伊達政宗片倉小十郎景綱を大森城に入城させた。
   
★伊達政宗の目的は、蘆名の会津黒川城だった。
 この7年間に、蘆名盛氏嫡男:盛興に続き、蘆名盛氏も死んだ。
 二階堂家からの養子:蘆名盛隆も家臣に殺されたし、
  叔母の子:亀王丸も死んじゃったし、後見人の父:伊達輝宗を
  間違って殺してしまったし・・・
  佐竹からの養子:蘆名義広は血のつながりはないし。・・・
  今がチャンス。・・・奥州統一を目指す伊達政宗だった。

・天正17年(1589) 大森城の伊達政宗は猪苗代盛国に誘いをかけた。
        猪苗代盛国は伊達政宗に内応して、家臣になった。
  
  倅の猪苗代盛胤(=猪苗代盛国の嫡男)が黒川城へ出向いている
  隙に猪苗代城を奪取した。
  伊達政宗は猪苗代城に無血入城。

 6月5日「摺上原の戦い」
 蘆名義広 VS 伊達政宗
伊達政宗は蘆名義広に勝利。
→伊達政宗は会津地方全域を手中に収めた。

 大敗した蘆名義広は実家のある常陸に逃走した。
 蘆名氏は没落。
 蘆名義広は「蘆名盛重」と改めて、常陸江戸崎城主となった。

 
・天正18年(1590) 豊臣秀吉の小田原攻撃
伊達政宗の出仕の遅れ。
豊臣秀吉の奥州仕置・・伊達政宗は岩手山城(宮城県)へ
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   蒲生氏郷の会津転封。
  向羽黒山城の改修工事。

・慶長3年(1598) 上杉景勝の向羽黒山城の改修工事。

・慶長5年(1600) 関ヶ原の戦い
  実兄:佐竹義宣と曖昧な行動をしたために改易。
  佐竹義宣は久保田城(秋田県)転封。
  佐竹義宣に家臣として出羽角館城に1万6000石で入城。
  蘆名盛重の死後〜〜〜息子が相次いで病死〜〜〜
  最後の当主蘆名千鶴丸も3歳で事故死した。
  蘆名氏は滅亡した。


・慶長20年・元和元年(1615) 一国一城令により向羽黒山城破却。


※おまけ・・・
@会津本郷焼:(流紋窯・宗像窯・登り窯。博物館)・・


A宇須久神社・中田観音

    

※明日は、福島:??城

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