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zoom RSS 新島襄父の故郷:安中&新島八重の故郷:会津若松

<<   作成日時 : 2013/04/26 07:01   >>

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★新島八重は群馬県安中市を4回訪れている。1882年・1888年
・1910年・1921年である。新島襄は会津若松教会を建てた。
会津若松市&安中市・・・新島八重の仲介で、姉妹都市関係
を結べばいいのになどと思っている。新しい日新館には、安中
市の新島襄宅&安中の秋間の梅祭りのパンフレットが置かれて
あた。安中の陶芸師匠に煎餅を買っていったら、「これは磯部
煎餅だな。磯部の95%位は安中磯部産だよ。」と教えて下さ
った。ビックリした。こんな所でも、会津と安中が結び着いて
いたのだった。

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箕輪初心★群馬【新島襄A】=山本八重の夫
2013/01/01 06:43
★上毛カルタでは、「平和の使徒新島襄」として登場している。
群馬県人は、新島襄を群馬県人だと思っている。新島襄の実家が
群馬県安中市安中にあるからである。しかし、県外の人は群馬県人
だなんて思ってはいないのではないだろうか?新島襄は米国で苦学
し、帰国後、京都に同志社を創立し、キリスト教主義の教育に従事
した。新島八重は群馬に来たのは4回あるという。
NHK大河ドラマでに新島襄がどの程度、出てくるのか楽しみである。


◆◆ 箕輪初心★【新島襄】=2013年大河ドラマ「八重の桜」夫 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201110/article_27.html



■新島襄の旧宅(安中市安中1-7-30)・・入館無料
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◆◆ 新島襄の安中訪問5回&新島八重の安中訪問4回 ◆◆

・弘化2年(1845) 新島八重は会津藩の砲術師範であった山本権八
 &佐久夫妻の子として、現在の会津若松市に生まれた。

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★★ 新島襄の安中訪問1回目

・万延元年(1860)17歳 
※3月 桜田門外の変・・・大老井伊直弼が暗殺。
 11月 徳川幕府の軍艦教練所に通い、数学や航海術を学ぶ。
板倉勝明(かつあきら)公が死亡。
  板倉勝明の弟:板倉勝殷(かつまさ)の護衛役で、
 新島襄は安中に来た。


・文久元年(1861)18歳 
※3月ロシア軍艦が対馬事件を起こす。→小栗上野介が対応。 
※12月 公武合体政策で皇女和宮が降嫁。
  途中、安中の板鼻に泊まった。江戸へ下る。

・文久2年(1862)19歳 
 川田甕江は、備中松山藩:板倉勝静に180tの
  大きい洋式木造帆船の快風丸を購入するように進言→実現。
  アメリカ→快風丸が横浜で引き渡し→玉島(現倉敷市)
※12月会津藩主:松平容保は京都守護職を拝命。

・文久3年(1863)20歳
※1月アメリカ大統領リンカーンが奴隷解放宣言を発表。
※2月 土佐藩郷士:坂本龍馬は土佐藩邸で帰藩を懇願。
※8月新選組の隊名が下される。
 
  薩摩藩の手で京都藩邸(=現同志社大学)が完成。

・元治元年(1864)21歳 
3月 快風丸に便乗し、函館に向かった。
4月25日 函館から父:民治への手紙を出した。
  
※6月池田屋事件・・長州の勤皇浪士を惨殺。
桂小五郎は出石藩領内に潜伏。

出航準備
@英会話・・・ロシア人宣教師:ニコライから
A福士宇之吉(英国商館員)との出会い
  
B函館・・目立たない服・髪型

福士宇之吉がベルリン号船長:セーポリーに依頼。
 
6月14日夜
 ※脱国〜〜〜新島襄の手記〜〜〜
「 友人(福士)と待ち合わせ場所であった。・・・
見張りが近づいて来たが、・・
綱を外したとき、・・・「船長に会いに行かなければ
なりません。・・・」
・・船長は私達を待っていてくれた。・・・握手をした。
部屋に通され、船長の呼び出しを待った。・・・」  
 ベルリン号船長:セーポリー 
 ベルリン号にボーイとして乗船=脱国
6月14日  函館→
6月19日  遠州灘
7月1日   上海
8月11日  福州
8月31日  福州発
9月13日  上海
      ワイルド・ロウバァー号船長:テーラー
10月26日  上海発
11月5日   香港
11月24日  香港発
11月39日  サイゴン(ホーチミン)

・慶応元年(1865)
1月14日  サイゴン発

2月25日  香港
3月10日 香港発
3月15日  マニラ
4月10日  マニラ発

5月31日  喜望峰(南アフリカ:ケープタウン)

7月21日  →アメリカのボストン着に

※1年36日の船旅だった・・・。
@刀を船長に8ドルで買ってもらった。
 →漢文の聖書を買った。
 A食事代がないので、皿洗い・炊事・甲板磨き・掃除をした。
B船長から英語を教わった。
  C船長から「Joseph(ヨセフ)」→「Joe(ジョー)」と
  呼ばれていたことなどから、日本で「襄」としたそうである。
しかし、脱国の手助けをしたことで首になったが、
終生、交流を持った。

・慶応元年(1865) 22歳
    ワイルド・ロウバァー号でボストン入港。
    ※建物・汽車にビックリした。
しばらく、船で寝泊まりした。
   ※南北戦争中で、仕事はなかった。
『ロビンソンクルーソー』を読んだ。

船長が船の持ち主:ハーディを紹介してくれた。
ハーディは船10数隻を持つ実業家だった。
貯まった金はキリスト教の布教や学校に使った。

10月 ハーディの援助
   フィリップス・アカデミー(高校)に3年編入学。

  ヒドン家に下宿・・・英語を教わった。

・慶応2年(1866)23歳 
 アンドーバー神学校で修行
※1月寺田屋事件・・坂本龍馬が伏見奉行所の襲撃を受ける。
※7月 14代将軍:徳川家茂が死去。
※12月15代将軍:徳川慶喜が継ぐ。 

12月 →洗礼。
物理・数学・地理・英語・キリスト教などに没頭。

・慶応3年(1867)24歳 フィリップス・アカデミー(高校)
   を優秀な成績で卒業した。

 テーラー校長が大学に推薦状を書いてくれた。
9月 アーマスト大学(現同志社の姉妹校)に入学
    ・・寄宿生活。
  ・科学的な分野に興味を示した。

※11月14日 将軍:徳川慶喜は大政奉還をする。
※12月 王政復古の大号令が発令される。
 ※西軍との戦いを主張する小栗上野介VS 恭順派の勝海舟
  小栗が解任。小栗は彰義隊には参加せず。

・慶応4年・明治元年(1868)25歳 
※1月鳥羽伏見の戦〜戊辰戦争へ。
 将軍:徳川慶喜は老中:板倉勝静を伴い京都から江戸へ帰る。
※4月 小栗上野介が斬首された。
※5月 ※結果、江戸城無血開城。
※8月長岡で河井継之助戦死。

  会津若松で西郷頼母家族は死亡・白虎隊士自決。
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戦争前に藩校日新館の教授:川崎尚之助と結婚していた。

  籠城前に離婚を余儀なくされた。
  離婚後も「川崎尚之助妻」と名を使っていたと見られる。
山本八重は兄:覚馬からもらった新式7連発スペンサー銃で
応戦・・開城。


※10月元号が明治となった。
※11月に東京に遷都。

夏休み中、ニューハンプシャー州の各地を歩く。


・明治2年(1869)26歳 
4月春休みを利用して、アーモストの製紙や織物工場を見学する。
※8月五稜郭を開城。戊辰戦争終結。
10月 9月2日付けの新島雙六の手紙を受け取る。
 川田剛(甕江)の消息・・・
「当節は山田文作と改名し、神田小川町上屋敷に住する。」

 恩人のテイラー船長の死亡の報を受け取り
  ボストンに遺族を弔問する。


・明治3年(1870)27歳 アーマスト大学を卒業
理学博士
祖父は死亡。
9月 アンドーバー神学校に入学。


山本権八&母:さく&兄嫁:宇良&山本八重は米沢に移住
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(★米沢城)
明治3年(1870)からの約1年間、米沢に居住した際に内藤を頼った。
「各府県出稼戸籍簿」から「尚之助妻」の八重が実家の母の
「山本権八妻(家内という表記)」らと「米沢県管内城下・内藤
 新一郎方出稼」の記述を発見した。
 (★H23年、福島県会津若松市立会津図書館の文献)
米沢市が「内藤新一郎」関連史料を調べた。
米沢藩士・内藤新一郎の日記・備忘録の「明治三庚御触書」の筆写本
である「鶴城叢書(かくじょうそうしょ)巻之百七十三」を発見した。
@内藤が戊辰戦争以前の会津で、当時の八重の夫:川崎尚之助に随身
 して大砲の練兵・操作を習ったこと。川崎の褒書もあるそうだ。
A内藤家の住所は「第4区番正町44番」で、
  現在の米沢市城西3丁目に当たる。
B明治4年(1871)山本八重は兄:山本覚馬を頼って9月3日に父母と
 ともに京都へ向けて出発したなど。
C京都行きの史実は、八重が通行手形の発行を求めて当時の米沢県庁に
 提出した願書の控えとして記載されていた。
(★山形新聞H24、8月28日Hp・毎日新聞9月6日)

山本覚馬の妻:宇良は京都には行かなかった。
 事実上、離婚した。


川崎尚之助は斗南藩(会津藩の移転先)=青森に行った。

・明治4年(1871) 28歳 
 2月 弟:新島雙六が死亡。
8月 森有礼(米国駐在少弁務使)の斡旋で
   日本政府旅券=パスポートと留学免許状が送付される。
 9月 カナダから帰米途中に、5月1日付けの川田甕江の
   手紙と受け取る。
  「弟:新島雙六が2月7日に病死した。」
  川田甕江は新島に帰国をするように奨めた。

・明治5年(1872) 29歳
※3月福沢諭吉が「学問のすすめ」を出版

「岩倉使節団」3月15日〜翌年1月
岩倉具視・木戸孝允・森有礼・伊藤博文・田中不二麿
5月 森有礼の紹介で岩倉使節団の通訳となった。
   政府要人らに視察の便宜を図った。
教育制度についても説明した
キリスト教も許された。
日本に来るように誘われたが、断った。

 ヨーロッパ視察に参加することになった。
 ヨーロッパを回り、教育視察を行った。 

6月1日 川田甕江が新島民治に手紙を出した。
   「全権大使のご用を仰せ付けられて結構だと述べる。」
 

・明治6年(1873)30歳
 1月 日本に帰国

 2月 キリスト教の禁制高札が撤去され黙認される。
 7月 アメリカに戻った。
 9月 アンドーバー神学校に復学。

・明治7年(1974)31歳 
  7月   アンドーバー神学校を卒業。
 10月  教会で大学設立講演をした。
    で、3000人の聴衆が集まった。
「今までの10年を振り返った話をした。
    日本でキリスト教を広めたい。日本にキリスト教主義
    の大学設立をしたい。・・・。」
     5000$の寄付金を集めた。
   
   ハーディ家で送別会
   ボストン→NY===汽車で大陸横断===
   サンフランシスコ〜〜〜船〜〜〜    
11月26日 横浜==汽車===東京・・・人力車・・・

◆◆ 新島襄2回目の安中
 安中に帰郷。山田屋に1泊。
11月29日 両親:民治&とみ、姉達と再会。
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祖父:弁治&弟:双六は他界していて、涙の面会をした。
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 (★新島襄の先祖の墓・・・群馬県安中市郷原)

両親を説得し。神棚を燃やした。
  ハーディから両親に当てた手紙を訳しながら読んだ。
 @安中小学校=造士館での講演
外国の紹介も含まれていて盛況だった。
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 A龍昌寺で講演。
 B便覧社=湯浅治郎宅で講演。

 C自宅・・・などで講演会を開催した。
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   3ヶ月の滞在・・・



 政府高官としての誘いも来ていたが、断った。
 神戸からの手紙「キリスト教の伝道に力を貸してくれ。」

12月19日 川田甕江に手紙を送った。
   「帰国した。」
12月22日 川田甕江より返事の手紙が来た。
   「新島約瑟(襄の前の名前)へ帰国を喜んでいる。」
12月26日 川田甕江を訪問する。


・明治8年(1875)32歳
1月 父宛ての手紙
初めて「襄」の字を用いる。
2月 大阪で木戸孝允に学校設立について援助を依頼。
4月 京都に入り、山本覚馬らに会った。
   京都での開学を勧められる。
6月 山本覚馬を訪問。

  京都府顧問で旧会津藩士:山本覚馬から
  学校用地=旧薩摩藩邸を550$で譲渡してもらった。

 11月29日 京都に「同志社英学校」を創立。(校長)
山本覚馬・山本八重(後に妻)・デビスなどの協力
→「同志の学校」の意味である。
生徒は8人であった。


・明治9年(1876)33歳
   新島襄は山本覚馬の妹:「山本八重31歳」と結婚。
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親族を安中から京都に迎え入れた。
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 (★京都の新島邸)

・明治11年(1878)
安中:便覧社で、キリスト教を布教。
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 ※安中便覧社・・・湯浅治郎の「有田屋醤油店」の道反対
  安中教会が建設された。
初代安中教会の神父は海老名弾正。
■海老名弾正・・・同志社英学校1期生。
※湯浅治郎は新島襄からキリスト教の洗礼を
   受けた。

◆◆ 新島襄3回目の安中新島八重1回目の安中
新島八重が初めて新島襄の先祖祖の地:安中を訪れた。
・明治15年(1882)39歳
7月 
〜〜〜新島八重と伊勢峰(山本覚馬の長女)は先に
船に乗り横浜経由で安中に向かった。
安中に行って、有田屋=湯浅治郎宅に宿泊。
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  ※湯浅治郎の妻は徳富蘇峰の姉であった。
 ■伊勢峰=山本覚馬の長女・・横井(伊勢)時雄の妻
  横井時雄の妹は海老名弾正の妻である。
 横井時雄の母の親戚には金森通倫・徳富蘇峰・徳冨蘆花がいる。
 ★山本覚馬の二女:久栄は横井時雄(横井小楠の嫡男)と結婚した。
 湯浅治郎は新島八重の親戚ということになる。
  

〜〜〜新島襄は徳富蘇峰も横井時雄達を伴って、中仙道
  をやってきた。
新島襄と徳富蘇峰たちは、蕎麦の大食い大会を
 した話も残っている。


7月19日 便覧社前で有田屋=湯浅治郎宅前で
 新島八重・湯浅治郎の出迎えを受けた。
新島襄&新島八重は有田屋に7日間泊まった。

30人が洗礼。
  柏木義円らを排出。

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 (★有田屋のミニ博物館資料館より)

■横井小楠の子ども
横井小楠は徳富蘇峰・蘆花の父:徳富一敬の師匠
  ※横井小楠・・・鎌倉の北条得宗家の末裔
妻の妹:久子・・・・徳富一敬の妻=蘇峰の母
長男:横井時雄・・徳富蘇峰・蘆花の従兄弟。
長女:みや(横井時雄妹)・・・海老名弾正の妻。
   
★★徳富蘇峰の親族
@徳冨蘆花(弟)
A湯浅家・・湯浅治郎(治郎の2番目の妻が蘇峰の姉=義兄)
      湯浅八郎(甥)湯浅一郎(義甥)・湯浅半月


安中で合流した新島襄&新島八重は、八重の故郷:会津を訪れた。
★当初、会津訪問は新島八重の「私の生まれた会津の実家:山本家
 も行ってみましょうレベルだったのであろう。・・・・・
しかし、新島襄は会津訪問により東北伝道を意識するようになった
ではないだろうか?
1)群馬県安中・・・・・関東の拠点
2)福島県会津若松・・・東北の拠点


※新島襄の手紙
 「其時ヨリ会津人ニ向ヒ非常ノシンパセーを顕ハシ、其レヨリ該地
  伝道ノ事ヲ主唱シタリ」とあるそうだ。 
 新島襄の福島のイメージは
「スパルタン人種ニ近き人間之ある福島県下」と記している。
◆◆ 新島学園短期大学准教授:山下智子氏のHp ◆◆
http://www.doshisha.ac.jp/yae/doshisha/column/column08.html



★★ 新島襄の3回目の安中訪問
・明治11年(1878)35歳
    安中:便覧社で、キリスト教を布教。
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   ・30人が洗礼。
   湯浅治郎・徳富蘇峰・柏木義円らを排出。


・明治13年(1880) 37歳
 「自責の杖」事件
「先輩と後輩が一緒の級では嫌だ。」と言いだした。
旅から帰った新島襄は
「吉野山 花咲く頃は 朝な朝な 
   心にかかる 峯の白雲 」
と、詠んで、自分の手を杖で叩いた。
「誰の責任でもない。私の責任だ。」と言ったそうである。


・明治15年(1882) 東京での親戚一同
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 (★安中の有田屋=湯浅家のみの写真かも?)

★★ 新島襄の2回目の会津訪問
・明治19年(1886) 会津若松教会で最初の信徒:14名に洗礼を
  授けた。金子重光もいたらしい。
伝道は新島襄の東北伝道は間接的な八重の働きがあった。


・明治20年(1887)44歳 新島襄の父:民治が死亡。
 デフォレストと小崎弘道の演説会栄町劇場で行った。
  

★★ 新島八重の2回目の安中訪問
・明治21年(1888) 新島襄&新島八重夫妻は伊香保温泉「千明仁泉亭」
  に滞在した。病気療養のためだった。

  後、新島八重は1人で安中を訪れている。

・明治22年(1889)46歳
   11月28日 前橋で激痛。
 
12月 神奈川県大磯の百足屋で療養
「腹膜炎」

・明治23年(1890) 47歳
1月
  「いしがねも 透れかしとて ひと筋に
    射る矢にこむる 大丈夫(ますらお)の意地」
 
 八重夫人・徳富蘇峰・小崎弘道らに見守られて・・・
「真誠の自由を愛し、邦につくすような人物の養成・・
 「教職員は生徒を大事に取り扱うこと」
など10項目を遺言した。
 
 1月23日 神奈川県大磯で死亡。

棺は京都駅から同志社大学・・銀閣寺前・・南禅寺横
 ・・・若王寺山の墓
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   山本覚馬もここに眠っている。

・明治24年(1891) 日本基督教団会津若松教会の設立。
  独立教会として独立宣言。
  新島襄の組合教会=同志社系の教会が創設された。
  会津若松での最初のプロテスタント教会であった。



★★ 新島八重の安中3回目の訪問
・明治24年(1910) 「故新島先生廿年紀年會」に出席。
山形からの帰りに安中に立ち寄った。


・大正8年(1919) 安中教会の設立
■安中教会設立・・・海老名弾正が初代牧師
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 新島八重は新島襄の死後、安中教会などで「新島襄の生き方
 や信仰を伝える役割」を果たした。

(★安中教会牧師:柏木義円発行の『上毛教界月報』)


★★ 新島八重の会津訪問
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・大正10年(1921)
※会津に77歳と記された八重の書が数点伝わっているそうである。
 山形米沢:内藤家→会津→安中を巡る旅だったらしい。
 「日日是好日 新島八重 七十七歳」
 
 中野竹子姉妹の絵「勇婦竹子女史 七十七 新島八重子」
 新島襄の教え子で会津若松教会牧師:兼子重光
 ※兼子重光は同志社で、会津藩主・松平容保の嫡男:容大の
 後見人を務めた。松平容大は同志社大学の出身である。

★★ 新島八重4回目の安中訪問
 新島八重は新島旧宅にも行った。
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 新島八重は「もしかすると最後の旅になるかもしれない。」
 との思いながらも、新島襄が創設した教会の人々とあったのだ。
★新島八重は、新島夫妻ゆかりの地:安中&会津若松を愛したのだ。


・昭和6年(1931)
 大龍寺のボランティアガイドさんの話
 「文化年間の過去帳によると、山本家は八重の曽祖父の父親の
  代から、ここを菩提寺としていました。」
 八重は、亡くなる前の年の昭和6年、これまで点在していた山本家
 の墓を一カ所にまとめ、墓標を建立しました。・・・
  墓標の表には彼女が書いたといわれる「山本家之墓」の文字が
あります。
  裏には「昭和六年九月合葬 山本権八女 京都住 新島八重子
  建之 八十七才」と刻まれています。」
(★ガイド+会津若松市にHpより編集)
とのことであった。

・昭和7年(1931) 新島八重が死亡。
墓は京都若王子の新島襄の墓の隣にある。
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★参考文献
@新島襄・・・
A新島襄・・・新島襄刊行会
  :佐藤三木岩元教育長(★元青木昇自性寺焼の同門) 
B「上州とキリスト教」清水要次著
C新島学園短期大学准教授:山下智子氏のHpなど
http://www.doshisha.ac.jp/yae/doshisha/column/column08.html



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箕輪初心◆群馬「第39回:安政遠足(とおあし)侍マラソン2013」
★安中藩祐筆:新島襄を可愛がった安中藩主:板倉勝明(かつあきら) 公。安政2年(1855)板倉勝明公は安中在住藩士の鍛錬のために中山 道:安中城〜碓氷峠熊野権現様までの約7里を競争をさせ、着順を記 録させた。万延元年(1860)には、新島襄が17歳の時、大老井伊直弼 公が暗殺され、板倉勝明公も亡くなった。その年、板倉勝明公の弟: 板倉勝殷(かつまさ)公の護衛役で、新島襄は安中に来た。参勤交代 は4月江戸発〜、3・4ヶ月、安中に滞在したらしい。もしかしたら、新 島襄も走ったかも... ...続きを見る
城・陶芸・ハイキング・ダイビング・スキー...
2013/05/13 07:01
箕輪初心★『新島襄&新島八重の上州』企画展in群馬
★NHKの大河ドラマ「八重の桜」の波に乗って、群馬県内では、 安中市を中心に「新島襄&新島八重の上州」に関する展示&説 明会が多くなってきた。結構、バス旅行の県外の客も多くなった。 @安中の新島襄の家、A安中の郡代官所、B有田屋=湯浅 治郎宅、C安中ふるさと館・・常設展・富原文庫:会津城下の 屏風絵「八重7歳頃」、D土屋文明記念文学館の企画展: 「新島襄と八重の上州」などが分かりやすいだろう。 ...続きを見る
城・陶芸・ハイキング・ダイビング・スキー...
2013/05/21 05:35

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コメント(2件)

内 容 ニックネーム/日時
最近、三国街道、旧新治村の山城を三つ攻略してきました。なかでも中城(赤岩温泉の近くにある新治運動公園の西山にあります。)はとても規模が大きく猿ヶ京温泉にある宮野城を凌ぐ大きな山城です。
富岡武蔵
2013/04/26 23:52
私の行っていない城です。凄そうですね。後で見ます。箱田城は行っています。
5月5日は、迷っています。返事が遅れてすみません。
富岡武蔵さんへ
2013/04/27 07:06

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